「オシャレ貧乏」(第三話)

第三話

 トラブルが起きて会社を辞めるまではあっという間だった。
 梅雨入りが宣言されたというのにほとんど雨が降らない空梅雨の六月。全然雨が降らないという印象のなか、その日に限っては本降りの雨となった。
 朝、出勤するときから陰鬱とした嫌な感じは否めなかった。特別悪い予感がしていたということでもないが、気分は乗っていなかった。仕事が嫌だとか、人間関係にストレスを感じるとか、悩むことはなかったため、前日のスロットの負けが影響しているのだと思った。二千円ほどで当たりを引き、調子に乗って打っていたところ、気がつくとあっさり呑まれそのまま大きく負け越していた。止めどきがわからなかった。負けていてもその演出が楽しかったというのもあった。結局ただでさえその日暮らしのかつかつな生活をしてるというのに、三万円もの大金が消えた。
 ギャンブルが好き過ぎて止められないなんてことはない。元々そんなにやったりしない。たまたま友人が大勝ちしたのを耳にして意外と簡単に稼げるのではないかと暗示がかかってしまっていたのだろう。
 銀座も当然ながら雨が降っていた。そこにも朝から暗い世界が広がっていた。朝の銀座は優雅な装いのセレブは少なく、有楽町を中心とした会社員たちでごった返していた。すれ違う人の傘から滴る雨に濡れたり、水たまりを勢いよく踏み込んでしまったり、ささやかな不幸が積み重なっていった。会社に着くと、不幸のゲージがマックスに溜まったボーナスとでも言わんばかりの不幸が舞い降りた。
 席に着くやいなや鳴り響いた電話は、注文した物が届いてないとの連絡だった。
 僕は注文を電話で対応し、そのデータを飛ばす役割を担う。よくあるのは、データに基づいて物を用意してなかったという僕の次の役割の人間のミスや、配達する係の人間が積み忘れたというもの。注文を聞き漏らすことだけは絶対にない仕組みをこの会社は作っていた。注文の電話はすべて録音され、その場で復唱し、注文を確認した後、再度二回に渡って録音テープから注文を確認する。その際にもし曖昧な部分があればすぐ確認の電話を入れる。さらに加えて、取引先へすぐに注文内容を明記したメールが送られることになっている。
 僕が対応したのはある居酒屋の注文で、土曜日に生ビールの樽を注文したはずとのことだった。配達は毎日されていて、注文した翌日に配達される。僕は土曜日のその居酒屋からの注文を確認すると、いくつかのリキュール類が頼まれてあるだけで生ビールの注文はなかった。その旨を丁寧に伝えたのだが、絶対に注文していると言う。聞くと、土曜日の段階で残りの樽は少なく、注文してないはずはないと。おかげで日曜日の営業でビールが提供できない時間帯があった、どうしてくれるんだと。僕からしてみれば居酒屋が樽一つになるまで発注をかけないその姿勢が駄目なんじゃないかと思ったが、そんな火に油を注ぐような発言はできない。
 土曜日の電話の記録を確認する。今かけてきている電話の主と同じ声で注文が聞こえる。やはりそこには生ビールの注文はない。僕は自分たちの会社が注文を間違えないようにしている仕組みを伝え、こちらに落ち度がないことを告げた。だが、相手が取った行動は信じられないものだった。
 「あんたが注文を聞きそびれて発注し忘れたのに気がついて電話の記録を消したんじゃないのか」
 僕にはそんな音声編集技術はない。どうしても居酒屋の店員は自分が注文してないということを認めなかった。
 「もういいから責任者を出せ」
 かなり長いこと話した挙句に上の者に引き継げと言われた。僕は仕方なしに一番近い信頼のある上司にお願いした。だがどうやら最高責任者につなげとのことらしく上司はすぐに一番上につないだ。
 朝から不穏な空気が会社に流れた。じとっとした雨の香りが立ち込める社内の誰もが厄介なことになったなという顔をしていた。
 結局、居酒屋側の怒りは収まらなかった。最初に対応した人間、つまりは僕の対応があまりに最悪だと言いがかりをつけてきたそうだ。僕を解雇しなきゃ契約は切るし、他の店舗にも契約を切るように根回しすると脅迫めいたことまで言ってきたらしい。らしい、というのは、僕が直接そう聞いたわけではなく、信頼ある上司がこっそりとそう教えてくれたからだ。その上司はこちら側に過失は絶対にないわけだし、全面的に闘ってもよいのではと上の人間らに取り合ってくれたようだが、その労力は無駄であっさり僕という人間を切り捨てたのだった。幸か不幸か僕は会社の中では下っ端であったし、そんな下っ端を一人切ったところで補充はいくらでもきくと判断したのだろう。
 驚くべきことにその知らせが僕に届くまで一日しか要さなかった。いや、むしろその日にもうそれとなく話は伝わってきていた。次の日に届いたのは僕個人の都合で辞めるという形にしてくれという、どこまでも無機質で冷たい事務的なものだった。
 僕は六月いっぱいで辞めることになった。こうもあっさりと切られるといっそ清々しいとさえ思ったほどだ。理不尽な辞令には逆らう気も起きなかった。
 七月に関しては月末に給料が払われるため八月を過ごすお金に問題はなかったが、八月末にお金はもう支払われない。そして退職金は九月末になるとのことだった。しかも勤続三年で自分の都合でということと、冤罪に近いとは言え会社に迷惑をかけたということで、額は十六万ほどだという。
 挙句の果て、書類に不備があったからそれを直さないと支給されないとかなんとか。
 今現在、僕はまだ無職だ。来月からは失業保険が給付されるようだが、その金額もたかがしれている。七月からというもの、社会に対する軽い鬱状態みたいな症状が出てしまい、やる気がほとんど起きなかった。そんななかでもできることはないかとしていたのが街の散策だ。何をするともなく街を歩くことは昔から好きだった。
 僕はひたすら歩いた。歩けば何か見つかるかもしれないとも思ったからだ。僕は会社を辞めてからも度々と銀座を訪れた。僕はなんだかんだと洗練されたこの銀座が好きだった。改めて人生をやり直すために何がやりたいのかと問われてもすぐに答えは出ない。前にいた会社にだって入りたくて入ったわけではなかったし、結局僕は人生の負け組街道を行く運命にあるのかもしれない。これこそが負け犬を決定づける思考だと自覚していた。だからそれに抗う方法としてわずかな希望をかけて僕は歩いていたのだろうと思う。
 銀座、六本木、表参道、青山、渋谷、代官山、恵比寿、自由が丘、など、僕は無意識に選んだ街を見てふと気がついた。
 僕はオシャレが好きだ。好きだった。学生の頃は親のすねをかじってファッションにはかなりこだわっていた。良いものを着ようというよりは自分のセンスを磨く練習をしていた。
 社会人となってからは生活だけで精一杯で、まったくオシャレと縁がなくなってしまった。今思えばそれも自分の意志力の弱さが招いたものだと思う。オシャレは決してお金持ちだけの特権ではないのだから。
 会社からの帰り道、銀座のアルマーニに入っていく中国人らしき三人組の男たちを見た。見た目にはお世辞にもオシャレとは言えない格好だし、風貌も冴えない。けれども彼らはなんの躊躇もなくアルマーニで買い物をして出てきた。
 ファッションの基準とはなんだろうか。似合う似合わないを優先しがちだが、それよりも自分がそれを本当に着たいか着たくないかという視点もある。自分には似合わないと思って手に取ることができない服は多い。ハイブランドになると似合う似合わない以前に、そのレベルに自分が見合わないと尻込みをしてしまう。
 そのとき僕はなんとなく思った。オシャレを徹底的にしてみたらどうだろうかと。お金がないからとか言い訳しないで、ないならないなりに捻出してみようと。自分が本当に着てみたいと思う格好をしてみようと。
 僕はまずアルマーニのスーツを買うと決めた。
 かねてから欲しいと思っていたのにお金を理由に諦めていた。今までの僕であればこの格好で店舗に入ることをためらっていただろうが、僕は意を決して洗練の極みであるその空間に足を踏み入れた。

「オシャレ貧乏」(第二話)

第二話

 日本人は見た目で人を判断する。
 ビジネスシーンでは過剰なまでにスーツを着て、髪の毛の色はぼぼ絶対と言ってもいいくらい黒でなければならない。オフィスカジュアルなんてものもあるが、それは狹い空間でだけ許された習慣であり、一般化はできない。世界に目を向けても基本的な常識は似たようなものかもしれないが、日本人の意識は明らかに過剰だとも思えた。
 あの蛍光ピンクの二人組のことを思う。恐らく収入というステータスで測られたとき、間違いなくあの二人はハイクラスの人間になる。銀座の多くの店舗がその対象とする顧客だ。でもあのドアマンは見た目で彼らが相応しい人間であるとは判断できていなかった。日本人の誰が見ても極端な格好をしているわけだから仕方ないかもしれないのだが。
 ドアマンは再び定位置に戻ると表情を引き締めた。無愛想とも笑顔とも寄り付かない中性的な表情をキープしていた。
 僕はなおも蛍光ピンクを目で追いかけていた。有楽町駅方面に歩いて行く二人組は、もう視界が届く限界あたりまで先にいた。それでも鮮やかに銀座という街に輝いて見えた。それは蛍光カラーだけに頼るものでなく、彼らが内面に持つ輝かしいステータスの反映だと僕は思い、見えなくなるまでずっと同じ方向に目を向けていた。
 空は晴れ渡るが、目に焼き付いたピンクが空にまでうっすらと反映して見える。僕も第一印象では蛍光ピンクの彼らが銀座に不相応に見えた。それなのに今は彼らが輝いて見える。人間の認識のなんと単純なことかと、自分の見たいものなど見えていないのだと思い知らされる。
 僕は腕時計を確認する。今日のこの格好には少し不釣り合いなのかもしれない銀色のロレックスの時計。それは両親が就職祝いにとプレゼントしてくれた僕が持つ唯一ともいえる高級品。
 指定された時間まではあと二十分程度だった。少しくらい早めに着いてもいいだろうと、僕はゆっくりと目的地に向かって歩き出した。
 銀座は有楽町駅を背にして左から一丁目、二丁目と通りが真っ直ぐに走っている。慣れると住所を見てすぐにあの辺りかとおおよその見当をつけることができる。それがわかるくらいには僕も銀座に出入りしていた。ブルガリがあるのは二丁目なので、僕の通う会社は通りを横に四つ数えたところにある。正確に言うなら、今はもう僕の会社ではない。僕はつい先日、三年勤めたその会社を解雇された。
 通り慣れた道は目を閉じていても歩ける気がした。そのくらい銀座という街は実にシンプルな街だ。確かに高級ブランド店やメニューのない時価の飲食店など多く目に付いた。それでも庶民的な外食チェーンのお店や、リーズナブルな食事を昼夜問わず楽しめるお店も数多くある。
 カレーの匂いが地下のお店から漏れてくる。何度か利用したことがあるスープカレーが美味しいお店だ。
 そこから程なくして僕は目的地にたどり着いた。
 会社に着くとすぐ、元上司が僕に気が付き声をかけてくれた。
 「おう、辻村。わざわざ悪いな」
 僕が今日ここに来たのは辞めるために必要な書類に不備があり、それを修正するためだ。ただ不備は僕のせいではなかった。わざわざ僕の方から来ないといけないのかと疑問もあったが、退職金の支給にも関係すると元上司から説明され、こうして出向くことになった。
 書類上は、僕が自分の都合で辞めたことになっている。これはアングラな大人の事情だろう。本来は会社の一方的な都合で辞めさせられた。辞めることには違いないと何も考えずに処理をしたことが間違いだと気がついたのは、ふと退職金の相場なるものを調べたときだった。
 どうやら一般的には会社の都合で退職する場合は退職金もやや割増になるらしい。たかだか三年勤務の退職金など知れてるわけで、それすらも出し惜しみする会社には正直辞めて正解だったのかもとまで思った。
 そうは言っても、少ないながら今の僕には退職金はどうしても必要だった。つまらないいさかいでそれをみすみす手放すことはできない。
 「この書類にも記入してほしいんだ。本当にすまない」
 元上司は、心の底から申し訳ないという顔をしていた。訳を知っていながら部下を救うことができなかったこと、さらには部下よりも自分の上司の肩を持つことになったことに対して思うところがあるのだろう。この元上司だけはかなり信頼できたし、最後までその気持ちが変わらずにいられることだけは良かったと思う。

「オシャレ貧乏」(第一話)

第一話

 銀座の敷居はかなり下がったと僕より少し上の世代は言う。
 敷居が高かったと言われた当時、ただ街を歩くことすら見栄えを気にしてしまうというほどだったらしい。庶民的な、いわゆるカジュアルな服装で銀座の街を歩くことは普通の感覚をしていたらとてもできないことだったそうだ。
 あまり想像できない。
 通りのガラスに映る自分を見る。オンとオフの中間、よほどフォーマルな場でなければ対応できそうなくらいの服装。そんなふうに自分の格好を分析した。
 「街から出ていけ」
 この格好は昔であればそう門前払いを受けたのだろうか。
 ようやく残暑の熱も日本列島の地から冷めていったようで、朝晩はひんやりと冷たい空気も感じることができる季節になってきた。陽射しが強い昼間はそれでもまだ汗ばむときもあるが、吹き抜ける風にはしっかりと秋が乗ってきていた。
 平日の昼間だというのに銀座の街を歩く人は多い。外国人観光客の姿も目立っている。蛍光のどぎついピンクのウェットスーツのようなものを着て、小学生が背負いそうな安っぽいリュックを背にした二人組はおそらく中国人だ。どういうわけか彼らは日本人の美意識やファッションセンスとは相容れない感覚を持っているようで、銀座でなくともそれはちょっとという格好をして平気で街を闊歩している。
 あの姿を見ると、自分の格好は至って常識の範囲内に留まるものだと安心する。
 街の開発が進み、外国人の認知度が上がってきたことが日本人に対しても街の敷居を下げる結果になったのかもしれない。それでも通りに連なるテナントは超が付くほどのハイブランドばかりだ。このあたりが恐らく庶民と隔絶した敷居の高さを想起させるところなのだと思う。
 それは僕にとっても同じ。日常の世界と非日常の世界を店舗の重厚なガラスの扉が分け隔てている。
 どのお店にも格式高いスーツを着たドアマンが目を光らせて来店するお客様を迎え入れている。来るものは拒まずの精神は持ち合わせてくれているようだが、お店のレベルに見合わない人はお断りしますと暗に宣言されている気がする。入るにはかなりの勇気を要する。
 たぶん僕だけではなく、日本人の普通の感覚であれば、ラフな格好でこの手のハイブランド店に入ることは気が引ける。そんな難攻不落な砦を守る門番の睨みをものともせず先ほど見かけた蛍光ピンク二人組がブルガリに攻め入った。
 僕は思わずその勇姿に見惚れてしまった。呆れるというよりも尊敬に近い。お店の前を通過し、通りを挟んで来た方向に戻る。さも待ち合わせをしているかのようにスマホを見ながら立ち止まりブルガリに目を向けていた。時間にして三十分くらい僕はそのまま立ち尽くしていたことになる。すると、蛍光ピンクの二人組が出てきた。砦の領主と固い契りを交わしたかのように、門番の態度は明らかに変化していた。丁重な日本特有のおもてなし力を発揮して彼らを外に導き、その帰途を精一杯の感謝の気持ちでお見送りした。
 僕は確かに見た。蛍光ピンクが攻め入ったときに門番がした一瞬の警戒心全開の表情を。だが、今は和やかそのもの。見送られた蛍光ピンクの二人組の手には、戦利品か友好の証か、大きな紙袋が二つ携えられていた。そこには真っ白なアルファベットによるロゴがシンプルに漆黒の中に刻まれていた。

「雪の瞳に燃える炎」(第十一話)

第十一話

 環境の変化とは人の体に対して大きな負担を強いる。ただでさえ異国の地にて生活している身とあり、気付かないうちにストレスは大きくなっている。それに加えて、この旅はあまりに多くの「初体験」を光央にもたらした。その疲れが出たのか、マリオやファビオと街に繰り出すつもりだったが、体が重く体調が優れないのを理由に静養を取らざるを得なかった。
 雪からはその後なんの連絡もなかった。
 脱力感が重く光央の体につきまとう。記憶を辿ればすぐに雪の肌の温もりや感触が生々しく蘇った。光央は独りでいると雪のことばかり考えてしまう自分に気がついた。連絡をいれるべきなのか。雪とのベッドの上では迷うことなどなかったのに、今取るべき行動が光央にはまったくわからなかった。
 雪という女性が光央の恋人になる存在だとは思えなかった。それは未だミステリアスという部分の他に、根本的な何かがお互いに欠けているような感じを光央は払拭できないでいた。光央に残された滞在時間内で雪のことをもっと知る自信はなかった。光央がスペインを離れた後まで雪が連絡を取り合うとはとても考えられなかった。
 マリオの家は広い。
 この家に一人で住むということを光央はまったく想像できなかった。そこには寂しさだけが常に付きまとう。こういう時に限って爆竹の音はほとんど聞こえてこなかった。ひたすらに空気の震えない無音の空間がどこまでも広がっていた。
 無性に人肌が恋しくなる。光央が恋しく思う人肌など雪しかない。雪の肌の温もりしか知らない。若さゆえの性的衝動に駆られてしまった光央は、自分自身のコントロールがうまくできなくなっていた。鏡に映る自分は今こんな顔をしてるのかとじっとその顔を見つめる。光央はどこか大人の階段を登ったつもりでいた。けれども訪れた現実は、雪という女性に虜になったひとりの男が前と何も変わらず鏡にその姿を映し出しているというだけだった。
 無為に過ごす一日にも関わらず時間の流れは早い。光陰矢のごとしと諭されているかのようで、光央は自嘲気味に笑ってしまった。鏡に映るその顔はシニカルな笑みで、共に過ごす時間が多いマリオの癖をいつのまにか受け継いでしまっていた。
 それでも若さゆえか一日休んだだけで光央は体力的には問題のないコンディションになった。ただ胸がもやもやする感覚は残ったままだった。それは容易に恋煩いだと理解できた。
 昼過ぎにファビオの車で街の中心に行くと、これまでで一番多くの人で溢れかえっていた。向かった先は市庁舎広場で、近づけば近づくほど身動きの取れない人混みを行かねばならなくなった。
 「そろそろだ」
 マリオはファビオと共にシニカルな笑みを浮かべていた。まったく同じことが連日のように行われているのだろうか。そんな疑問が生じるのと同時に、それは再び突然のゲリラ豪雨のように激しい爆音を辺りにもたらした。
 同じ光景を一度見ていたのに、光央は戦火の只中に放り出されたような鬼気迫る爆発音にすくみあがった。白い煙はまたたく間に視界を塞ぎ、隣にいるマリオですらその姿が一瞬霞んで見えた。
 爆竹ショーが終わると人混みは様々な方向に流れていく。
 「街の人形をゆっくり見て回ろう」
 ファビオの低い声が衝撃波を直に受けたばかりの耳に優しく届けられた。
 街には「ファヤ」と呼ばれる張子人形がびっしりと置かれている。何度となく街を歩くのだからと、再び見るものと思って光央は意識をあまり「ファヤ」に向けていなかったが、いざ張子人形を見ようと思ってみるとそればかりが目に飛び込んでくることに気づいた。小さいものでも子どもの身長くらいの大きさはあり、立派な芸術作品としてカラフルでポップな色を誇示している。それぞれがその年の何らかの出来事を風刺しているらしく、作者のたっぷりの皮肉が込められているのだろう。
 大きいものは三階建て、四階建ての建物と同じくらい巨大なもので、やはりそれが紙でできているとはとても信じられない出来栄えだった。
 こうした大小様々な張子人形は街のあちこちに計六百ほど飾られているとのことだった。そしてこれらすべてが今夜一斉に燃やされるらしい。
 歩いていると、民族衣装を着た小学生くらいの女の子の集団が手に花束を持ち列になって行進しているところに出くわした。その一人一人の愛らしい姿に光央は釘付けになった。手に持つデジカメを構え何枚も何枚もその時間と空間を切り取っていく。日本人が珍しいのかカメラを向ける光央を行進する女の子の誰もが見ていた。
 しばらくの間、女の子のパレードを眺めた。そのまま彼女らが向かう先へと光央たちも向かった。以前に見たときは木の枠組みだけでスカスカだったマリア像の胴体が完成されていた。少女たちが持つ小さな花束一つ一つがマリア像の体、スカート、マントを鮮やかに仕立てていた。その盛大な演出はみなの力が一つになることを象徴しているようで、見ている誰もが拍手でその完成の様子を讃えていた。
 一度家に戻ってシエスタをし、軽く夕食を食べてから光央らは再び街に戻ってきた。深夜零時になるというのに街には昼間以上に人がいる。祭り最大の見どころがこの後に控えているという。誰もが今か今かと爆竹や奇声やダンスといったそれぞれの表現方法で内なる興奮を露わにしていた。
 場の雰囲気でもってまもなく事が始まるだろうことが伝わってくる。光央たちは四階建ての建物と建物の間に大きくそびえ立つ人形の前に陣取り、これから始まる光景を待ち望んでいた。
 「燃やすっていうけど火事になったりしたことないの?」
 初めて見る人間にしたら光央の質問は至極当然なはずだ。答えを聞くまでもなくマリオのシニカルな笑みが物語ってはいたが、
 「ほら。消防車がそこだけでも三台ある。すべての人形に対して消防車がスタンバイしてるから問題ない」
 横にいたファビオは得意満面でそう言う。
 そういう問題じゃないだろと突っ込みたくなる光央であったが、消防車が放水を始めたためついそちらに目が行ってしまった。放水は人形のすぐ両サイドにある建物に対してで、建物の側面全体に水をかけていた。見るとそれは普通のアパートメントのようで、各階の窓から人の姿が見て取れる。火が燃え移りにくくするために水をかけているのだろうが、中に住んでる人はどんな気持ちなのかと、光央はあまりに常識を外れた展開に驚きを隠せないでいた。
 そして、それは始まった。街から一斉に歓声が起こる。パチパチと拍手かと思うそれは、紙でできた人形を火が燃やす際に放たれる音。人垣で下の方は見えなかったが、火の粉が風に舞い上がる。しばらくすると光央たちのすぐ正面の温度が明らかに高いことに気がついた。見れば巨大な人形は、電気を落として暗くなった街で真っ赤に燃え上がっていた。火が徐々に力を増していき、その姿を炎へと変えた。白い煙、黒い煙、真紅の炎、そして、燃えるのを喜ぶ妖精の如くおびただしい数の火の粉が舞い散る。街の至るところでこれと同じことが起きている。キャンプファイヤーを目の前にしているときと似たような熱さを感じるが、規模も燃え上がる物の前提も大きく異なる。
 度々に放水があり建物を守る。そのすべてが圧倒的な光景で、常軌を逸した祭りのフィナーレに相応しく絢爛だった。
 炎をじっと見つめていると、光央の内にも燃え上がる何かがあるのを感じた。「光央」、「光央」と声が脳に直に響く気がした。光央は雪を思う。雪はこのフィナーレをどこかで見ている。好きだけど嫌いなこの祭りの最後を。雪の瞳に燃える炎はどのような意味を持ち、どのように見えているのだろうか。燃え上がるのは炎だけではない。光央の心の中にくすぶっていたものも今や大きく燃え上がっていた。
 「マリオ、ごめん」
 光央は走った。夜の街並みは昼に見た景色とは違っていて、人混みも手伝って方向感覚はないに等しかった。それでも感じるままに光央は走った。携帯電話で雪にかける。
 「会いたい。今から家に行く」
 電話に出た雪にそう一方的に言葉を投げ電話を切った。そして無我夢中に燃え盛る炎の中を走り抜けた。
 「光央」
 炎が届かないほど街の外れに出ると、暗闇の先、炎の輝きを持つ熱い声が響いた。燃え上がる想いが収まらないまま、真っ直ぐに雪を捉え、勢いそのまま光央は思い切り雪を抱きしめた。
 言葉など何もいらなかった。
 お互いにお互いを焼き尽くすほどの激しさで求めあった。体を重ねるたびに炎の勢いは増し、決して消えることなどないかのように思われた。
 光央はこの想いがまさしく恋であると信じて疑わなかった。それでも異国、お祭り、燃え盛る炎、行きずり、アバンチュール、そういった言葉が光央の頭にパチパチと燃え広がっていく。そして、何度となく雪とひとつになってさえ、雪の瞳に燃える炎が何かを知ることは叶わなかった。
 激しく燃え上がる恋だからこそその刹那に、燃え尽き儚くも消えてしまう。ただ一言、もう一歩踏み込むだけで雪との関係が変わるはずなのに。光央はそうしなかった。切なさという新たな炎に胸を焦がしながら。
 「ありがとう」
 どこまでも沁み入る透き通った声で、雪は涙とともにその一言をこの世界に送り出した。
 入り口の扉の脇に置かれた写真を今度はしっかりと光央はその目に刻み込んだ。光央本人であるはずはないが、子ども時代の光央によく似ていると光央自身がそう思う男の子の隣で、雪は天使に魅入られた宝石なような笑顔を浮かべていた。美しい天使の梯子が雪とその少年のもとに射されているのが印象的な一枚だった。
 バレンシアの朝日はオレンジの街に相応しい温かみを持っていた。光央はその朝日を背に、雪に最後のキスをした。そのとき光央の頬にも朝日に反射する一粒の宝石が輝いていた。
 祭りで燃やされた人形の残骸が見える。これをもってバレンシアに春の訪れがもたらされるという。光央のもとへ一足先に届いた春は勢い余って燃え尽きてしまったようだ。光央は通りの店のガラスに映る自分のシニカルな顔を見て微笑んだ。
 
 朝帰りしてマリオはそれはとても怪訝な顔をしていた。いつものシニカルな笑みは一向に出てこなかった。
 「心配したんだ。電話にも出ないし、迷って困ってるんじゃないかと」
 優しいマリオは怒ることはせず、けれども心配をかけたことを責めるようにねちねちと言葉を続けた。部屋にはファビオが大きな体をソファに埋めて眠っていた。
 納得のいく説明をするのは難しかったが、すべて本当のことを言うことも光央にはできなかった。バレンシアの地にて燃え上がった炎の物語はそっと自分の心の中に留めておきたかった。
 空港にて、マリオは最後まで急にいなくなったことを冗談めかしてだがくどくどと言っていた。それがマリオの優しさでもあると光央は理解していた。心配してくれているが、踏み込んでまでは何があったかは聞かない。マリオと熱い抱擁を交わし、光央はバレンシアを、スペインを去る。
 搭乗直前、光央は携帯を取り出し、雪の名前を表示させる。春にしては強い陽射しが画面を白く見にくくしていた。そして、光央は雪の名前を削除した。
 燃え盛る炎のあと、春の訪れとともに、雪は美しく消え去った。

「雪の瞳に燃える炎」(第十話)

第十話

 カーテンを閉め切っていても午後の陽射しで部屋は明るい。目が慣れてしまった今となっては暗さなど微塵も感じない。
 隙間なく爆発する爆竹のよう、怒涛の流れのまま、光央は雪の隣で体を横たえていた。天から降り注ぐ雪のように白より真っ白な肌には服を脱ぐまで気が付かなかった。薄暗がりのなかでも雪の体は光を帯びて浮かび上がっていた。
 光央はようやくゆっくりと息を吸って吐くことができた。
 「ごめんね」
 雪のその言葉にはどのような意味が込められているのか。光央は何も聞かなかった。雪もまたそのときようやくひと呼吸できたようで、わずかな呼吸の音が無音の部屋の空気をかすかに震わせていた。雪はその沈黙で何を考えているのか。光央はようやく追いついてきた思考を整理すべく、「初体験」を実体の伴った形にしようと思いを馳せる。
 広場に続く小道にて雪を抱きしめてすぐ光央たちは移動した。無言のまま、喧騒のなか何も聞こえない二人だけの空間を作った。そのなかで寄り添って手を取り合いひたすら走った。
 光央は雪の部屋になだれ込んだ。薄暗い部屋、今なお涙が頬を伝う雪を光央は抱いた。光央はただ本能の赴くままに動いた。自分の欲を満たしたいという下心は皮肉にもその瞬間にはどこかに吹き飛んでいた。光央と雪は今このときこうなることが決まっていた。お互いにそう考えているんだと光央は思った。
 抱き合いキスをした。改めて雪の細身だが肉感のある温かく柔らかい体の感触に脳がうずく。雪のくちびるはうずいた脳をさらに痺れさせ真っ白にさせた。そのくちびるに光央のくちびるが触れただけで全身の力が抜けていった。光央は体の芯からすべてを雪に持っていかれた。
 真っ白になった頭で光央は必死に雪の呼吸を感じた。その呼吸に合わせるように光央はくちびるで雪の全身を二人だけの空間の中に切り取り、浮かび上がらせた。柔らかく温かい雪の体が反応するのがわかる。裸の女性をヴィーナスに例える男性の気持ちがわかる気がした。完璧なまでの美しい裸体に散りばめられた甘い果実を、光央は繊細なものを扱うように丁寧に触れ、味わった。
 雪という女性の体の一つひとつがこの航海の地図となった。光央は進むべき進路を迷わなかった。雪とひとつになる。その瞬間、自分の身体がどこにあるのかわからないほど脱力し、情けない声が出そうになった。どんどんと、だがゆっくりと奥まで帆を進めていく。うっすらと歪む雪の表情は光央という帆船の推進力を調整した。薄く目を開き雪は「光央」とその名を呼ぶ。目の前にいる光央がその瞳に映っているのに、より遠くの誰かを見つめているように悦の視線が遠くを漂う。だが光央に考えを巡らせる余裕はなかった。雪が溶けるのと同時に光央も全身が完全に溶けていくのを感じた。
 雪と体を重ねたことを思い出すだけで光央の体は言葉にしつくせない想いにとらわれる。冷静に落ち着いた今頃になってようやく、初めて事を交えた緊張感が溢れてくる。どうしてこのようなことになったのか光央は本当にわからなかった。思えば出会った瞬間から頭の片隅にはそう願っていた自分がいたはずだった。それでも美の女神の恩恵を与るこれほどの女性と自分がひとつになるなんて、生まれたままの姿でベッドを共にしている今でもそれが現実だと信じることは難しかった。
 「ごめんね」
 再び雪はそう漏らした。
 シーツの中で光央はただ黙って雪の小さな手をそっと握った。
 二時間ほど二人はベッドの中で寄り添っていた。外は西日が朱く街を染め始めていくころだった。雪がふわりとした寝息を立てている間、光央はただ規則正しく脈打つ雪の体の温もりを感じ入っていた。
 関係を持ったというのに今なおお互いのことはほとんど知らない。光央から見た雪という女性はミステリアスなまま。
 雪を起こさないまま光央は部屋を出ようとした。音を立てないように扉を閉めかけたそのわずかな瞬間に入り口の脇に置かれた写真が目に入った。角度が悪くはっきりと見えたわけではなかったが、光央にはそこに写るのが雪と幼き頃の自分のように見えた。閉められた扉は鍵なくしてもう外から開けることはできない。光央は今見たものがなんだったのか、単なる気のせいだったのか、なおも残る胸の高鳴りが邪魔してうまく考えることができなかった。
 明日も快晴を予想させる見事な茜色の夕日に染まった街並みは中世に迷い込んだかのよう。身分の違う叶わぬ恋をする悲劇の主人公を思いながら、まどろむ意識のなかマリオの家を目指した。

「雪の瞳に燃える炎」(第九話)

第九話

 雪は祭りの詳細を語った。
 遠くを見つめるその目には何が映っているのだろうか。懐かしむようでいて、悲しみの色合いが含まれているようにも光央は感じた。雪の言葉によって震える空気はいつだって色を帯びる。語られる言葉と帯びた色が合わなければ、それは嘘という可能性が高くなる。けれども雪の語る言葉はどれも、目にも耳にも無垢な境地を届けていた。
 「雪さんは祭りが好き? それとも嫌い?」
 フランチェスカのような例もあるので、ふとそんなことを聞いてしまった。
 温かくも冷たい表情。中性的とは違う、雪の本質を表す顔。
 「好きだけど嫌いかな」
 そっと震える空気は複雑な色合いを帯びて霞のように静かにゆっくりと消えていった。
 沈黙もまた心地よい。この緊張感のなかでそう光央は思った。
 多くを語らないミステリアスな女性。そのイメージを壊すことは、雪との関係をも壊すことになる気がした。雪のことが知りたいと思う一方で知りたくないとも強く感じた。
 光央は自分の気持ちを持て余していた。これを「恋」と呼んでもいいものか。行きずりのアバンチュールを求めるような煩悩は意識の底に少なからずあった。ただ、雪をものにしたいなんておこがましく恐れ多いとすら思ってしまう。それでも、せめて雪のものになりたいという願望が頭をよぎる。雪にならどんな目に合わされてもいいかもしれない。
 光央は冷静だった。第三者の目で客観的に自分を見れていると自覚しているのに、そのとんでもない思考を打ち消すことができなかった。
 「泡沫であれ夢うつつに溺れているときは幸せなんだから」
 ふと雪が口にしたその言葉は、光央の頭を巡っていた形にならないもやもやとしたものに命を吹き込む魔法の言葉だった。もちろん雪は光央が考えていることとは違う視点で発言をしていたのだろうが、二人が運命的な結びつきの元にあると光央に感じさせるにはもう十分すぎる演出の多さだった。
 時計に目をやると同時、雪はいきなり立ち上がる。
 「行こう」
 雪はオーナーに何か言葉をかけるとお金も払わず飛び出して行った。光央は訳がわからないまま笑顔のオーナーに向かって頭を下げ店を出て雪の後を追った。
 歩くスピードが速い。けれど雪が歩くと周囲の時間が止まっているかのようにゆっくりと流れていった。どんどん道行く人を追い抜き、街の中心へと戻って行く。雪は光央が付いてきていることを確認しないまま突き進んだ。
 光央が二日目に街を散策したときに見た市庁舎が見えてきた。辺りには妙に人が集まっていて、このままでは雪を見失いそうだと光央は危惧した。幸い、雪も同じことを思ったのか、光央がいることを初めて確認したうえで迂回して細い道を入り奥へと進む。
 「見るものじゃないから、ここでいい」
 光央にはどういう意味なのかよくわからなかった。雪と横並びに立った前には市庁舎広場に向かって道をびっしりと埋める人の列ができていた。何が始まるのかわからないが、周囲の人々の今か今かと待ちわびる緊張感は伝わってくる。
 バンと爆竹が大きく鳴り響いた。それに続けと連続して爆竹が響く。いつもの地元民が投げ放つものとは何か違うと光央が直感的に思うのとほぼ同時に、信じられないくらいの凄まじい爆音が響き始めた。どれだけの爆竹が一斉に放たれたのか、その規模はどうなっているのか。鼓膜を直に刺激する爆発に体までもがびりびりする。真っ白な煙が立ち込める視界はほぼ何も見えない。その圧倒的スケールの演出に心が揺さぶられた。
 その爆音のさなか、「光央」と呼ぶ声を聞いた気がした。隣を見ると、雪のその絶対的な力を宿した目から透明な宝石の輝きが滴り落ちていた。そして再び、「光央」と、すぐ隣にいる光央を呼ぶようでいて決して手が届かない遠くの誰かを求めるような、そんな声を光央は感じた。
 先ほど雪が言った「見るものじゃないから」という言葉を思い出す。きっと雪は今まさに何かを感じている。その瞳に映るものに心を満たされている。
 音が止んでなお耳には轟音が張り付いたままの感覚が残る。光央は雪の手を握っていた。そしてそのまま引き寄せ強く抱きしめた。白い煙に包まれたバレンシアの街には光央と雪のほか誰もいない。二人だけの時間がそこに確かに刻まれていた。

「雪の瞳に燃える炎」(第八話)

第八話

 「今じゃ昼間は巡回したり治安維持にも力を入れてるから安全だけど夜は未だに犯罪の温床となってるとかってニュースでも見るし、そういった話も聞く」
 小汚いゴミ箱や浮浪者のいた痕跡を残した袋小路が至るところに見受けられる。昼間とはいえ、密集した建物の造りのために日があまり射さずに薄暗い。長居することはおろか、軽い気持ちで覗き込むことすらもためらわれた。
 「ごめん、ちょっと怖いよね。今行くとこはまったく安全だから心配しないで」
 このとき光央は疑心暗鬼に陥っていた。冷静に考えてみればあまりに万事うまく行き過ぎていると。光央のような男が声をかけて、街行く誰もが振り返るほどの世紀の美女がこうも簡単に釣れるのだろうか。逆に釣られたのは光央のほうなのではないか。空気が固くなる。街の熱気が冷めて涼しくなっている。額に薄くかいていた汗が急激に冷やされ、今度は暑いはずなのに冷や汗が滴り落ちそうだった。
 街を見るふりをして雪の数歩後ろを歩く。雪の身長は光央よりほんの少し小さい程度で、女性にしたら大きい。全身のシルエットはかなり細身だが出るとこは出る性的魅力も申し分ない。誰もが声をかけたくなるし、もし逆に声をかけられれば舞い上がり我を忘れる。そんな魔性とも言える美しさを雪は持っていた。
 年齢は光央よりも三つか四つくらい上だろうか。情報があまりに少なく今さら冷静に分析するには限度があった。
 「どしたの?」
 振り返り光央の目を真っ直ぐに見据える雪の目は、何もかも見透かしているかのような黒い輝きを放っている。
 「いや……」
 雪の目は有無を言わせない力を秘めていた。それが光央の被害妄想なのかどうか、あれこれ思いを巡らす思考能力もすべて奪い去る。今まで考えていたことがその目で見つめられることで露と消え、頭の中が真っ白になった。
 「ユキ」
 すぐそばで高いソプラノの声が響き、光央の緊張が一気に高まった。手足が震えていることに気づいたのはそのときだ。
 スレンダーというよりは華奢な若い女性が雪に抱きついた。その足元には小さな女の子がいた。
 「サラ、久しぶり」
 雪は熱い抱擁を交わし、そのまま足元の女の子にも話しかけていたが、あまりに自然なスペイン語だったこともあって光央は細かい内容までは聞き逃していた。
 地元の訛りが強く出た言葉なのか、ルイスやファビオが話すスペイン語とサラと呼ばれる女性のスペイン語は異なり、しっかりと耳を傾けていても光央にはほとんど理解が及ばなかった。
 求められるがままに光央はサラと握手をし、すぐ彼女たちは近くの家に入っていった。
 「今から行くカフェのオーナーの奥さんとその子ども。元々彼女と友達だったんだけど、その旦那さんがカフェをオープンさせたの」
 乱気流に呑まれて乱高下した心地は今なお残っていたが、一筋の光に向かってすがってもいいのかもしれないと光央はかすかな安堵を覚えた。それは幼子を持つ母親と知り合いという雪を見て、悪の片棒を担ぐなどとはとても思えないと感じたからで、またそうあってほしいという光央の願いでもあった。
 行き着いた先のカフェは悪とは真逆を行く純白の空間だった。徹底的に白を使った内装は外から射し込む光だけで十分に眩しく、清廉潔白を象徴しているかのようだった。しかしそれはわずか一滴の黒でも染まりゆく脆さもまたはらんでいる気がした。
 店内にお客は二組いた。小さなお店のため、光央と雪で三組となるともう席はそこそこ埋まっている印象を与えていた。オーナーらしき男性は雪に気づくと、笑みをこぼしてカウンターの中から歓迎の気持ちを表した。
 飲み物だけを注文すると、料理は自動的に運ばれてきた。出てくる料理はどれも綺麗な見た目を意識したもので、食べるのがもったいないと思わせるものが多かった。光央はつい食べ方を気にして、雪の所作を盗み見ながら場に相応しい態度を心がけた。
 「そんな固くならなくて平気だって。楽にして。気持ちはわかるけどね」
 雪は意地悪な笑みを浮かべて料理を口に運ぶ。その口元に思わず釘付けになってしまい慌てて視線をそらす。
 「もうお祭りは見て回ったの?」
 中性的な色合いの話題はあまり脳を使わずに済むので助かる。
 「見たっていうほどちゃんとはまだ。友達らはこれから盛り上がってくるからって言ってて一緒には見て回ってないです」
 「うん。ま、最終日だけでも十分だからね。日本では火祭りなんて呼ばれてるの知ってる?」
 「はい。何かが燃え上がるとは聞いたけど詳しくは聞いてないし調べてもないからさっぱりですけど。今のとこ爆竹ばかり印象に残って……」
 光央は意識をお腹の辺りに集中させていた。そうしていないと、ふとまた雪の魅力に取り込まれて我を忘れてしまいそうだった。
 「爆竹も演出の一つとして大事だけど、知らないなら当日知るほうがいい?」
 「いえ、見ようと思えばネットで見れたわけだし。たまたま見なかったってだけでネタバレみたいの全然気にならないから、言っちゃって構わないです」
 店内の音楽が曲と曲の合間で鳴り止み、ほんの一瞬すべてが無に帰った。