閑話休題

ブルートゥースのキーボードが壊れてしまった……。


新しいものが届くまで壊れたスマホの画面を四苦八苦しながら打ち込まなければならない。

画面にヒビが入っているからなのか打ち込むためにフリックするとカーソルがその度にバンバンとあちこちに飛ぶ。


ここまでの文を打つまでにもかなりの時間を要している。


ある程度の量を書こうと思ったらこれはかなり厳しい。


それでも何か言葉にしたい想いがもやもやとしているためにそんなつまらない自身の近況を書くに至った。


今後も稚拙ながら物語を書いていきたいと思う。

じっくり作り込んだものではなくて、思いのままに指が勝手に動くままに物語を綴るのも面白いかと考えている。

論理の破綻した矛盾だらけの展開になるリスクを覚悟で、プロットなしのぶっつけ本番の物語にチャレンジしてみよう。


書きたい話はたくさんある。

頭を使わない、思うままに書く、そんな試みを試して……

「試みを試して」とは変な日本語だろうか。


徒然なるままに

物思いに耽ってみようかと思います。




春の雪と夏の真珠(第四十三話)

第四十三話

 入学式に合わせて桜が咲くようにするため、学校に植えられた桜は様々な品種が混ぜ合わされていると聞いたことがある。
 それでも自然の摂理にいつでも完璧に抗えるわけではないだろう。
 そう考えるとこうして息子の中学の入学式にて満開の桜に迎えられることは十分に奇蹟と思っていいのかもしれない。
 ずっと悪ガキまっしぐらだと思われた凰佑がまさか勉学に目覚めて私立の中学を受験したいと言ったことは今でも信じられない。
 だが現に狙っていた学校の制服を着ている息子とともに春のそよ風が吹く校門を並んで通ると、ようやくそれは実感を帯びてくる。
 何がきっかけなのかはわからない。妻も未だに首を傾げているくらいだ。
 最低限の勉強しかしないで学校生活を送っていたある日のことだった。凰佑が小学五年生のときいきなり私立の、しかもそれなりに名のある有名校を受験したいと言い出した。
 超有名校でなくとも、私立となれば低学年の頃から準備を重ねて懸命に勉強してきた者だけが通れる狭き門だと認識していたため、五年生になって慌てて勉強したところでまず不可能だろうと思っていた。ただ本人の意志は固くやる気はあるようだったし、自分から積極的に願い申し出るようなことは珍しくもあったため俺も妻も応援することに決めた。
 それからの凰佑の頑張りは圧巻だった。親の我々が特に口出しすることもなく懸命に毎日机に向かっていた。むしろ少し遊んだらと促したくらいだ。
 そして見事に凰佑は結果を出した。
 「凰佑、そろそろなんでこの学校を志望したのか教えてよ」
 式が行われる付属のホールに向かう途中、ふと尋ねてみる。
 「ちゃんと勉強したくなっただけだよ」
 勉強なんて本人がその気ならばこの学校でなくてもできる。あの頑張りが単に勉強に興味が湧きましたなわけはないのは明らかだった。
 「それだけ? それであんなに頑張れる?」
 「んー、ま、ちょっと約束があって」
 初めて聞く言葉だ。
 約束。
 やはり何か明確な意思の下で動いていたのだ。相当に大事な約束なのだろうと思う。
 「そっか。よかったな入学できて。改めておめでとう」
 素直に喜ばないのはご愛嬌か。思春期の男の子は難しい。自分の中学のときを思えばそれはよくわかる。ただ常に時代は移ろうもので、当時の自分がしてほしかったことを思い出してそれを凰佑にしたところでうまくはいかない。
 今日どうしても仕事を抜けることができなかった妻は不在だ。息子の晴れ舞台のスタートには立ち会いたい想いだったろうが、こればかりは仕方ない。代わりに俺がこの場に居合わせることになったのはどんな巡り合わせなのか。
 有名私立中学とあって入学式は大学さながらの厳粛な雰囲気のなか、数々の来賓の有り難い御言葉が続く。その後、主席で試験を通ったなんていう古い風習ではなくランダムで選ばれたらしい新入生三人によるスピーチが行われた。中学生にしてこれほど上質なスピーチができることに驚くが、ランダムで選ばれたとあればここにいる誰もが同等のレベルのスピーチができることを意味している。
 凰佑もあそこまで立派に立ち振る舞ってあれほどの文面を用意できるのかと思うと、我が息子を誇りに思う一方で息子のことをあまりわかっていないんだなとも思う。
 入学式の後には生徒のためのオリエンテーションがあるとのことで、俺は終わるまで外で時間を潰すことにした。
 まっすぐ校門に向かおうと思って歩いていると、校舎の間に立ち並ぶ木々のなか一際大きい桜の木が目に入った。
 校舎と校舎をつなぐ渡り廊下が突き当りに見える。そこに突き当たるまでに小さな桜並木道が広がり、渡り廊下の手前にもっとも大きな桜の木が満開の花を絢爛に咲かせていた。
 デジャヴめいたものがよぎると同時に、凰佑が先ほど言った「約束」という言葉が頭の中ではっきりと反芻される。
 両方とも夏珠につながるものだと瞬時に悟った。
 桜に限ったことではなく些細なことで夏珠を連想するのは変わらない。
 だがやはり桜が一番イメージを強く喚起する。
 保育園の卒園から六年が経つ。一度として連絡を交わすことはなくとも、夏珠は俺の中にしっかりといる。
 「幸せになろうね。約束」
 二人だけの秘密の桜並木道で交わした約束がフラッシュバックする。
 吹き抜ける風に舞う花びらはもちろん春の雪のようだった。
 大きな桜の木の下でつい見惚れていると、近くの教室からラジオの音が聞こえてきた。
 「ラジオネーム『春と夏を結ぶ人』さん、私の春はこの曲にあり。甘くも切ない想いが込み上げてきます」
 と、同時に聞こえてくる聞き覚えのある春の名曲のイントロ。
 「みなさんも様々な想いの花を心に咲かせてみませんか。ケツメイシ、『さくら』」
 
 さくら舞い散る中に忘れた記憶と 君の声が戻ってくる
 吹き止まない春の風 あの頃のままで
 君が風に舞う髪かき分けた時の 淡い香り戻ってくる
 二人約束した あの頃のままで

 哀愁漂う綺麗な旋律のイントロだけで鳥肌が立ち涙が出そうになった。これほど自分に、今の気持ちにぴたりと当てはまる曲も他にないだろう。
 「遥征くん」
 君の声が戻ってくる。
 はっきりと夏珠のあの澄んだ心地よい声が聞こえる。
 淡い香り戻ってくる。
 声に遅れてほのかな懐かしい夏珠の甘く優しい香りを感じる。
 
 そっと僕の肩に 舞い落ちたひとひらの花びら
 手に取り 目をつむれば君がそばにいる

 そして……。

 目を開けてなおそこには夏珠がいた。五感を刺激する桜が見せる幻ではなく、本物の実体がそこにはあった。

春の雪と夏の真珠(第四十二話)

第四十二話

 寒さは冬を感じさせているものの一度の雪も降らずに季節は流れていく。急に四月並みの気温になったりすると、もう春の訪れかと人も草木も勘違いしてしまう。
 三月に入ると、また冬に戻ったりしつつも徐々に気温が高くなっていくのは毎朝肌に感じる空気でわかる。
 ニュースでは早くも桜の報道もあり、三月末には満開が予想されるとのことだった。
 一週間、また一週間と過ぎ、確実に春が来ている。それは夏を冠する夏珠の気持ちが近づくことで季節も移ろうかのようだった。
 そして保育園の現スタッフ最終日、夏珠は朝方にこちらに到着してそのまま日帰りすることだけを前日に俺に伝えてきた。
 俺もその日だけは明るいうちに保育園に顔を出すことを約束した。
 当日は初夏かと思わせるほど煌めく太陽の元、子どもたちは半袖一枚で駆けずり回るに十分な暖かさだった。
 桜は見事に満開となり、夏珠の本当の最後を讃えているように俺は感じた。
 仕事を今日だけは早々と切り上げ、保育園に向かう。妻も同じく早めに仕事を終えて向かうことになっている。
 月末業務で忙しいはずなのに今日という日のために頑張ったことが報われて誰も文句など言わず送り出してくれた。きっとさぞかし大事な用事でもあるのだと部下や同僚たちから思われているに違いない。
 照りつける太陽はずっと浴びていると軽く汗ばむほどだが、そこにすら夏珠を感じて心地よく思う。
 日が傾いてもまだまだ夜までは長い。明るいうちに俺は約束通り保育園に着くことができた。
 どの親御さんらも今日ばかりは夕方や夜を待たずして夫婦共々と保育園に今までの感謝を伝えに足を運んでいるようで、俺が行った時にもすでに多くの親御さんらが集って談笑に興じていた。
 「パーパー」
 凰佑が俺のことを発見し走り寄ってくる。
 そのすぐそばには夏珠の姿もあった。
 凰佑が走ってくるまでの時間はほんの数秒だった。それでもその数秒はコマ送りのようにゆっくり、俺と夏珠二人の視線を交えるには十分すぎる長さで、様々な映像を目の前に映し出させた。
 どすっと凰佑に抱きつかれて現実に戻るも、そこには温かい空気が流れていた。
 少し遅れて妻が来るまでの間、俺と夏珠は他の先生も交えながら凰佑の成長を語り合った。さすがに二人っきりになるのは難しかったが、もうその必要もないことは自然に感じ合っているようだった。
 妻が到着して夏珠と話をしている。凰佑は先生らそっちのけでお友達と遊びに夢中になっている。
 俺は保育園に植えられた一本の大きな桜の木の下に行き、その儚くも美しい姿に想いを馳せていた。
 思えばこの桜の木の下で夏珠に再会した。別れを告げるのもこの桜の木の下が相応しいと思う。
 木に寄りかかって保育園を見る。
 そこから見える景色は愛に溢れて見えた。
 妻と夏珠と凰佑と、三人が同時に俺の存在を捉えたのを感じた。みんなそろって満開の桜の下に集まる。
 風が吹くとその花びらは雪のように舞う。
 凰佑が夏珠の手を取り俺のそばに近づき、もう片方の手を俺とつなぐ。
 「写真、記念に撮ろう」
 妻がスマホを構えた。
 満開の桜の木をバックに俺と夏珠の間に凰佑が、三人が寄り添って手をつないで立つ。
 春の雪という演出のなか、シャッターは切られた。
 微笑む三人。
 その姿は誰の目にも幸せの絶頂にいる最高の家族のように映ることだろう。

春の雪と夏の真珠(第四十一話)

第四十一話

 夏珠が福岡に帰ってしまってからも生活には何一つ変化はなかった。
 担任が急にいなくなったことに対しても凰佑はまだあまりピンときていない部分も多く、ひょっこりまたすぐ現れるくらいに思っているのかもしれない。
 生活は今まで通りだ。
 ただ俺はふと保育園で夏珠を探してしまうことがある。あれだけきっちりと別れてなおそのイメージがしっかり残っている。残留思念のようなものを感覚的に追っているのか、夏珠との想い出や特にゆかりのあると思われるところに意識が勝手に向くことがある。
 今もそうだ。
 後ろから何か音がしたと振り返るが何もない。そこは地下倉庫へと続く道で、かつて夏珠とその倉庫で話をしたのがついこの間のように蘇る。
 今はまだ夏珠という存在が俺の中を占める割合が多い。時が経とうともその割合は変わらないのかもしれない。それでも段々と意識の上に現れる頻度は減っていくのだと思う。けれどそれは忘れるのとは違う。
 夏珠に再会する以前から俺の頭の中、心の中には常に夏珠がいた。ただあまりに潜在的な部分にあるためにそれこそほぼ無意識だった。
 別れて日が浅いため今はまだまだ意識の上で夏珠と結びつくことが多い。それでも日を重ねるごとにまた少しずつ意識の底の方に夏珠は沈んでいく。そう思うと寂しく感じるが、きっとそれは結晶化のようなものなんだと思う。
 俺と夏珠の恋は十四年という歳月をかけてようやく結晶化した。だんだんと意識に上ることは減っても、その輝きは永遠に残る。そして外界からの情報に反射して光ることで俺はいつだって夏珠を感じることができる。
 「結晶化ねえ。綺麗にまとめたね。実る恋だけがすべてじゃないと」
 「負け犬の遠吠えに聞こえるかもしれないけど、実る実らないじゃないと思うんだ。ただただこの形が俺と彼女の恋だったんだと」
 「決して悲劇ではない。とある二人の幸せの在り方か……いや切ないよ」
 同僚は自分のことのように胸を押さえて身悶えている。俺も最初はあんなふうに胸が締め付けられる想いにずっと苛まれていた。
 「でも本当に良い恋というのは結果に関わらず君みたいにいい顔をすることができるものなのかもしれないね」
 なんだかんだと同僚はやはり上手いこと締めてくれた。
 土曜日。
 雪が降るなんて予報があった気がしたが、外はこれでもかと言わんばかりの冬晴れ。
 陽射しに当たれば寒さもぐんと和らぐほどだ。
 妻と凰佑を連れて買い物に行く途中、家の近くの私立保育園の子どもたちが先生に連れられ散歩していた。
 土曜日に預けられる子どもの数は少ないようで四人の子どもを若い女性の保育士さんが引率している。
 凰佑は自分のことは棚に上げて、「あかちゃんだ」と叫ぶ。
 「おうちゃんと同い年くらいだよ」
 妻にツッコまれてもなんのそのだ。
 「保育士さんは大変だよねー。自分の子どもでもこんなに大変なのにさ」
 妻の言いたいことはよくわかる。事実保育士のなかでもそうしたストレスに耐えかねて辞めていく人が多いのだと夏珠も言っていた。
 「でも夏珠先生は逆に癒やされるんだって」
 いきなり妻から夏珠の名前が出て驚いた。
 「最後の日ちょっとだけ話してさ。これからも保育士を続けるっていうから好きなんですねなんて言ったら癒やしなのでって」
 「すごいね。天職とはこういうのを言うのかな」
 どこまでも広がるこの青い空は夏珠の元までつながっている。
 夏珠も同じ空を見上げているだろうか。
 「おうちゃん、今日はパパとお出かけできてよかったね」
 「おうちゃんはねー、パパとママがだいすきなんだよ」
 家族に向けた愛はこのようにしてちゃんと返ってくる。
 俺自身ですら家族に対する意識が変わったことを自覚している。元々そこまで家族を顧みないなんて状態ではなく、家族とも向き合っていたつもりだった。でも今は今までよりも強く深く家族との時間を大事にしている。
 それは妻にも当然のように伝わるらしく、
 「なんか最近変わったよね。妙に私たちに優しい気がする。これは何か後ろめたいことでもあるのかな?」
 冗談混じりとはいえ妻のその言葉にはドキリとさせられる。
 俺はただ苦笑いでその場をやり過ごすことしかできないでいる。いつかはちゃんと言うべきだとは思っていても、本当のことはまだ言えない。
 「後ろめたいことがあったら俺は家族とこんなふうに向き合えないと思うよ」
 「それもそうだね。嘘とか付くの下手だもんねえ」
 「パーパー、みてー」
 凰佑が上手い具合に夫婦の会話をかき消す。
 妻から見た俺は嘘を付くのが下手だそうだ。ところどころで嘘を重ねてきてしまってはいたが、根っこにある気持ちに嘘はないからだろうか、結果それは小さな嘘でも妻には真実味を帯びたのかもしれない。
 なんて、妻を見くびっていいものかと思う。本当は全部知っているかもしれないのだから。
 妻の器の大きさを考えると、知ってて今のこうした対応も可能な気がする。結局のところ俺はそんな器量の計り知れない妻に救われているのだと思う。夏珠も言っていたが、妻と出会い、恋愛というものを改めて感じることができたために今こうして俺は生きている。
 妻と出会っていなければ今なお夏珠のことで苦しんでいたかもしれないし、夏珠と再会していてももっと全然違う悪い方向に事が運んだかもしれない。
 「パーパー、みてー」
 「うん。なんだい?」
 「きいろぶーぶー」
 鮮やかに磨き上がった黄色のボディを持つ車が信号待ちの列の先頭で一際目立っていた。
 「凰佑はぶーぶーが大好きだな」
 何が幸せかは人それぞれ違う。俺が何をしようとも夏珠が幸せと言わなければそれは夏珠の幸せではない。
 俺たちはお互いに最善の道を歩むことができているのかもしれない。普段はほんのりうっとおしくも感じる凰佑の声にそんなことを思った。

春の雪と夏の真珠(第四十話)

第四十話

 年末は慌ただしい。毎年どんなに構えていてもすぐバタバタしてしまう。今年も案の定のこと、俺も妻も仕事に追われあっという間に仕事納めを迎え、何も片付いてない家のことに取りかかればまたたく間に年が明けてしまった。双方の両親との付き合いなどをしたりすれば三が日もほんの束の間だ。
 暮れ、年明け、正月という風習をまったくといっていいほどゆっくり楽しむことなく休みは終わり、新年の仕事が始まってしまった。
 十二月のほとんどは保育園の送り迎えを妻が行かざるを得ないくらい俺に時間の余裕はなく、残り時間も僅かな夏珠に会うことはほとんどなかった。
 ただ夏珠から一度だけ連絡があった。
 元旦に明けましておめでとうとメールが入った。
 返事の文面に最近会えなくてごめんと最初は打ち込んでいた。でも今の二人の関係とこれからのことを考えると変に感情を露わにするべきではないと思い直し、正月の挨拶のほかは残りの仕事を頑張れと軽い激励の言葉を残すに留めた。
 そして、保育園が再開して三日目。夏珠の最終日が訪れた。
 冬晴れの気持ちの良い朝、俺はこの日もいつもより早く出勤しなければならず保育園に顔を出せずにいた。
 早い時間のためにあまり混雑してない電車のせいで、普段感じる通勤のストレスがない。そのことが却って俺にあれこれ考えさせた。
 流れる景色のなかに夏珠を想う。
 夏珠の目から見えている世界を見るのが好きだった。
 いつも見ているはずの景色も夏珠と一緒に、夏珠を通して改めて見るとまったく違ったものに見えた。
 毎日こうして電車に揺られながら見える景色も変わるのだろうか。
 妻にも同僚にもどこか吹っ切れた顔をしている的なことを言われたものだが、こうしてみるとどこまでも夏珠のことを考えていることがわかる。
 潜在的な意識の奥底にはいつだって夏珠がいて、世界のありとあらゆる些細な事象に関してですら、それがふと夏珠と結びついてしまう。
 午前から雑務を猛烈な勢いでもって片付けていった。できれば早く仕事を切り上げて夏珠の最後をと思うが、運命のいたずらはやはり起こる。
 同じチームのメンバーのミスが分かり、急遽修正しなければならなくなったのだ。それも夕方に近い時間帯のこと、いよいよ帰るのは絶望的になってしまった。
 「朝田さん、すみません。今日急いでそうでしたよね、俺頑張るんで先に上がってください」
 力なくそう言われるとそんな後輩を残して一人おいそれと帰ることなどできない。ましてや信用してないわけではないがまた同じようなミスをされても困る。
 「一人のミスはチーム全体のミスでもあるからさ。俺のことは気にしないでいいからいい仕事しようか」
 終わってみれば時刻は九時を回っていた。
 保育園に着いたのは十時を大きく過ぎてからだった。誰もいない保育園の前を通り大きくため息をつく。
 いつもなら七時くらいに帰ることが多い夏珠がいるはずもないのに俺は自然と足を保育園に向けてしまっていた。
 マンションの灯りが届かない通りは薄暗いを通り越して真っ暗に近い。
 白い息が一際目立ち、寒さが増すようだった。
 冷えた手を温めようとポケットに手を入れ直したとき、携帯が震えていることに気がついた。
 画面を見るまでもなく夏珠だと思った。
 「遅い」
 通話口の向こうから聞こえてくる温かみのある声。それだけで辺りの寒さが和らぐようだった。
 「夏珠……ごめん……」
 そこで気づいた。暗がりの向こうに見える白い息と光る携帯端末の画面に。
 「夏珠?」
 黒のダウンジャケットを羽織っているせいで闇に紛れてその姿をなかなか捉えることができなかった。
 「夏珠……どうして……」
 「最後なのに来てくれないんだもん。でも絶対に来てくれるって思ってたからさ」
 通話口からと、正面から空気を振動して伝わる声の両方がいっぺんに聞こえてくる。
 そこに夏珠はいた。
 「なんて、嘘嘘。今日送別会してもらってたの。で、お開きになって最後にもう一度保育園を見ておこうって思ってね。でもなんとなく遥征くんがいる気もしてさ」
 夏珠は偶然この時間にここにいたみたいなことを言っているが、体は芯から冷え切っているのか震えているのがわかる。送別会は嘘ではないだろうがきっと長い時間ここで待っていたのだろう。
 「遅くなってごめん」
 「ううん。ちゃんと来てくれたもん」
 俺は夏珠を抱きしめた。腕の中にいる夏珠はひどく冷たくて凍っているんじゃないかと思うほどだった。
 保育園のそばで夏珠と抱き合うのはリスクが高いなんてことはまったく考えなかった。
 もう今この瞬間に関して言えば誰に見られてもいいとさえ思った。ただ今ここで夏珠にしっかり別れを言わなければこれまでのこともすべて無駄になり、一生後悔するとまで感じた。
 「夏珠、本当にごめん。そして今まで本当にありがとう。俺はこの先も夏珠を忘れることはない。今までのように夏珠を想い、夏珠を感じて生きていくと思う。世間が聞いたらなんて最低な男だと思われるかもしれない。でも俺は夏珠を心に感じながら妻と子どもを一生愛していく。俺も頑張るから、夏珠も元気で頑張って……」
 こらえていたものが一気に溢れてきた。最後のほうは声がうわずりなんとも情けない感じになってしまった。
 それでも夏珠は慈しみの笑みと温もりで俺を優しく包み込んでくれた。さっきまであんなに冷たい体をしていたはずなのに今はもう俺のほうが暖められている。
 「うん。私も頑張る。私の心にもいつだって遥征くんがいるから」
 「幸せにしてあげられなくてごめん」
 「私は幸せだよ。私は遥征くんを愛して、遥征くんも私を愛してくれた。遥征くんは今でも私が愛した遥征くんのままでいてくれてる。そしてこれからも。それで十分だよ」
 それからもしばらくの間そこで抱き合っていた。寒さという概念が消え去ったかのように俺は何も感じなかった。本来寒いはずなのに、その場にただずっと留まっていた。
 「あと一回。三月の終わり。それが本当のラスト。みんないるし形式的なお別れしかできないかもしれないね。でも涙はそこにとっておく」
 「俺はそこでは泣けないな。だから今ちょっぴり泣いていい? ってもう泣いてるかな」
 ぼろぼろと取り乱した号泣なんてことにはならないが、積もり積もった感情が爆発するのを抑えることはできなかった。自然の流れに身を任せ目に涙が溜まっては溢れる。
 十四年。長かったと思う。
 「十四年……。長かったね。ハッピーエンドかな、やっと落ち着いたね」
 また新しい一歩を踏み出して行く。
 そうして運命がまた二人を導くことがあるのかもしれない。
 俺たちはそう言い合ってその場を締める。
 高校生当時のいつまでも別れを惜しんでいた頃とは違う。二人とも強く大人になっていた。
 同時に背中を向け、振り返ることなく暗闇の道を歩いていく。
 曲がり際に来た道を見てもそこにはただ暗闇が残るだけだった。

春の雪と夏の真珠(第三十九話)

第三十九話

 すっきりとした朝だった。
 意識ははっきりとしている。長い夢でも見ていたのかもしれない。夢を見ることで人間は記憶の整理をするなどというが、ごちゃごちゃになっていたメモリーが解放され軽くなっている気がする。
 妙に頭は冴え渡り、処理速度は格段に上がっているようでいい仕事ができそうだとも思えた。
 「凰佑、おはよ」
 珍しく我が子はしゃきっとした顔で起きている。ご飯を食べながら朝のテレビにも食いついていた。
 気分も悪くない今日なら息子の粗相も軽くやり過ごせそうな感じもしたが、そこはさすがの天邪鬼ぶりをいかんなく発揮してくれた。凰佑はいつにも増して聞き分けがよく素直に歩き、保育園での準備もあっさり終えた。
 事務室にいる夏珠と目が合う。
 おはようの意味の笑顔をお互いにやり取りして、俺は会社に向かった。
 「あれ、一皮剥けたみたいな顔しちゃって」
 恋の神通力を惜しみなく使う同僚はなんでも知っている。
 「いいか悪いかはわかんないだけどさ、お互いのすべてをぶつけることができたと思う」
 「そっか。その顔に行き着くまでにはかなりの苦労もしたんだろうね。でもいい顔してると思う。胸はって言い回れるような内容のことではないだろうけど俺は君のしたことを称えるよ」
 この同僚にはお世話になった。アドバイスが直接効いたかは疑問だが彼との対話であれこれと考えさせられたのは確かだ。
 「ありがとう。これからもちょくちょく飲みには行こう」
 「そうだね。今度は俺の方から酒の肴となる話題を提供できるように頑張るよ」
 恋の引き出しの多さはすでによく理解している。改めて話題を仕込んでくる必要などなさそうにも思ったが、彼なりの挨拶だろう。
 クリスマス、大晦日と一気に慌ただしくなってすぐ年が明けるんだろうなとオフィスの窓の外を吹きすさぶ冷たいであろう風、飛んでいく葉っぱにそう感じた。
 それから数週間が過ぎ、いよいよ年末かと世間もどこか慌ただしい雰囲気が漂っていた頃、家に帰ると妻もその波に乗るように慌てた様子で駆け寄ってきた。
 「どうしたの?」
 帰宅を歓迎しているのとは違う何か重大なことを言うときの顔だ。
 「夏珠先生、年明けでもう辞めちゃうんだって」
 「え?」
 夏珠が辞める事実は俺以外の保護者にはまだ公表していなかったのだろう。年も暮れかかったこの時期とは急すぎやしないか。俺の驚きはそうした意外性であって夏珠が辞めることに対してではなかったが、つい安易に驚きを表してしまった。
 「ねー。びっくりだよね。もう少し早く言ってくれればいいのに」
 妻は俺が素直にもたらされたニュースに驚いていると思ってくれているようだった。
 「詳しいことはちゃんと聞いてないんだけどね、でも保育士さんが変わる最後の日は顔を出すって」
 妻のその発言にやはり保育士が変わることは俺が聞き逃していた可能性が濃くなった。
 「ごめん、保育士が変わるっていうのさ、俺ちゃんと聞いてなかったみたいで最近親御さんらが話してるのを断片的に聞いて知ったんだけど……」
 「は? 保育園に入る前に話したよ。一年で先生が変わるのは少し可哀想だよねって」
 「言われてみたらそんな気もするんだけどさ、ごめんなさい。たぶんうわの空だったかも」
 妻はまったくという表情をするも怒ってはいなかった。
 「ま、それはいいとして、夏珠先生だよ。担任だしさ、何かあげようって話になってるの。親子でメッセージカードみたいのを手作りしようかってのが有力」
 「うん。いいんじゃないかな。俺らも何かするんだよね?」
 「そりゃそうでしょ。凰佑なんてひとりじゃまだ無理なんだから。うちらがベース作って凰佑にも色を塗らせたりする感じなんじゃない?」
 どこか夏珠がいなくなることが嘘のような期待もあったが、間違いなく現実として話が進んでいることが分かった。納得していたはずの心がわずかに揺らぐ心地だった。
 夏珠へのプレゼントは各々の親子による手作りメッセージカードということに決まった。
 凰佑の写真を中心に添えて周りにメッセージを書く。凰佑にも自由に書かせてやると、前衛的な画家のような筆使いの絵が現れた。
 凰佑は複数の色鉛筆を駆使して懸命に描いていた。凰佑なりに夏珠がいなくなるということを理解しているのかもしれない。
 話を聞く限りでは凰佑は誰よりも夏珠に懐いているようだった。どんなに機嫌が悪くとも夏珠であれば笑顔になる。他のどの先生を無視しようとも夏珠だけは絶対に無視しない。
 少々露骨すぎる態度は子どもだから許されるのかと親ながら思ってしまうほどだった。次の日から夏珠の姿が毎日見えなければ凰佑も寂しく感じてしまうかもしれない。

春の雪と夏の真珠(第三十八話)

第三十八話

 皮肉だと思う。
 夏珠はきっと妻と子どもを捨てて自分の元に来るような俺を好きにはならない。妻と子どもを愛する俺が好きなんだと思う。
 なら、俺は妻と子どもを愛することで夏珠を幸せにするしかない。
 「でもね。今いる子たちの最後は見届けたいの。勝手なわがままなんだけどさ。だから三月三十一日だけ戻ってくるつもり」
 夏珠らしいと思った。そのまま年度末まで待つことのがいろいろと楽だとも思うのにそうせず一度福岡に帰る。そして一日だけ戻る。
 口には出さないがおそらく俺とのこともあるのだと思う。長く近くにいれば気持ちも揺らいだり変わったりすることは誰にだってある。一度決めたことを貫くには思い切った行動を要する。
 「もう決めてんだね。夏珠らしいや」
 「うん」
 気持ちを切り替えて食べることに集中した。辛気臭くては料理もまずくなると思い、くだらない話で料理を楽しんだ。
 外はもう真っ暗だった。この辺りはあまり街灯もなく、頼りとなるのは周辺住居の灯りのみだった。
 変に過去に囚われているわけではないものの、俺は遠回りでもいいから明るい大通りを行こうと提案した。けれどそれが駅までの最短ルートだよと夏珠に笑われた。
 はあーっと大きく夏珠が息を吐く。
 真っ白な息が暗闇にとても綺麗だ。
 「冬になるとついやりたくなるよね」
 「いつも一人でそんなことしてるの?」
 グーで思い切り殴られた。
 「一人でそんなことするか。遥征くんがいるからだよ」
 冬に頬を赤らめている夏珠は昔と変わらず可愛らしい。
 夏珠が福岡に帰るまではまだ少し時間がある。それでもこうして並んで歩くことが最後になるかのようにも思える。昔のように寄り添って歩いたり話したりするのがこれで最後だと感じている。
 残りの時間は当たり障りのない保育士と保護者の関係のまま過ごすのだと。言葉にしなくとも成り立つ暗黙の了解。最後まで以心伝心のような分かりあった関係を心苦しく思う。
 「遥征くん、まだ夢を追いかけてるの?」
 唐突に夏珠はそう俺に問いかけた。
 「小さくてもいいからお店みたいなものを持ちたいってやつのこと?」
 「うん」
 「そうだね。お店になるか会社になるかわからないけど、独立していきたいとは常々思ってるよ」
 「私もね……保育士の他にもう一つやってみたいことがあってね」
 夏珠からそんな話を聞くのは初めてだった。
 「学校の先生もやりたいんだ。教員免許は持ってるからさ、採用がかかればチャレンジしたいとも思ってるの」
 流れが多かった大通りの車が急に途絶えて静まりかえった。
 出る言葉すべてが響き渡りそうで思わず俺は何も言えなかった。
 そこで急に夏珠は笑い出した。
 「急に辺りが静かになって焦ったんでしょ?」
 夏珠はなんでも知っている。
 結局そのまま、夏珠が教師をやりたいという話はそれ以上の広がりを見せなかった。
 駅まで続く商店街が見えた。休日のこの時間でも電気は煌々として人の行き交いも多そうだった。
 あの商店街に入ったら夢が覚める。そんな気分だった。
 少しずつ近づく現実を受け入れるべく一歩一歩と歩みを進める。
 不意に夏珠に手を引かれた。
 突然のことだったため小さな夏珠の力にも抗うことができず、商店街の手前の小道に俺は引っ張られた。
 どうしたのと俺が聞くより早く夏珠はごめんと俺を抱きしめた。
 本当に最後の最後まで俺と夏珠は同じことを考えていたのだろう。
 「ごめん……。決めたのに。ちゃんと自分で決めたのに……」
 夏珠は声を押し殺して俺の胸で泣いていた。
 想い合う二人が結ばれない結末もまた運命なのだろうか。
 こんなにも夏珠のことを愛しているのに。それでも俺は妻をも愛しているなんて都合のいいことを思っているのかと自分でもわからなくなる。
 トラックの大きなクラクションが響いてはっとする。
 「夏珠……やっぱり……」
 その続きは夏珠の唇によって塞がれた。
 「遥征くん、大好きだよ……でもこれで終わり」
 今までの記憶が一気に頭の中を巡るようだった。
 どうして俺は夏珠だけを待ち続けることができなかったのか。
 どうして……。
 「遥征くん、奥さんを愛したからまたこうして私とも巡り会えたんだよ。これ以上もうあれこれ望んじゃダメだよ」
 涙ながらにそう言う夏珠は儚げで今にも消え入りそうで、一人にしたらこの寒さにも耐えきれないようにすら思えた。
 「私は大丈夫だから。ありがとう」
 一言も発しない俺の心の声をすべて理解して会話が成り立つ。
 それまでの雰囲気を一蹴する商店街の賑わいは俺にも夏珠にもかえって有り難かった。駅までの最後の直線を俺たち二人は笑って歩くことができたのだから。
 駅の改札は二人の世界を分かつ最後の分水嶺のようで、軽々しく越えることは躊躇われた。
 「夏珠、家まで送っていこうか?」
 俺は精一杯の無理をして冗談を言った。
 「バカ。それじゃお互い永遠に帰れないよ」
 泣き尽くしてすべての感情を露わにした後の夏珠の決意は固いということを伺わせるほどすっきりしたいい顔をしていた。
 女々しいのは俺の方だ。
 胸が冷たく凍る感覚をなんとか堪えながら今日一日、そして今までのことを感謝する。
 ピッと改札を通る際の音が容赦なく、虚しく響く。
 改札を抜けて左手にすぐ上らなければいけない階段があり、少しでも長く最後の別れの余韻に浸る猶予もない。
 本当に最後だ。
 夏珠に左手を上げて手を振る。夏珠も同じように手を振る。そして同時に俺たち二人は進むべき道を行った。
 電車はひどく空いていた。すかすかの自分の心の中を忠実に再現して浮き彫りにしたようで落ち着かない。
 長いようで短い一日。その程度のことしか考えることができなかった。座らずに力なくドアにもたれかかると、外のイルミネーションが妙に綺麗に映った。その光景はしばらく忘れられそうにないなと自嘲気味につい頬が緩んでしまった。
 「おかえり。あれ、全然酔ってないみたいだけど」
 妻がそう思ったとしてもそれは当然だ。一滴の酒も飲まずして酔えるはずはない。
 「昼から飲んでたからね。早くに切り替えて女の子みたくラーメンやらカフェやらで過ごしたおかげかな」
 苦しいいい訳だと思った。
 「女の子は締めのラーメンとかそんなオヤジ臭いことしない」
 俺は力なく笑った。
 「なんか大きな仕事一つやり切ったみたいな顔してんね。そんな熱く語り合ってきたの?」
 妻の慧眼もたいしたものだ。もしかしたら本当はすべてをお見通しなのかもしれない。
 妻とのこれまでの関係を考えると、いつかちゃんと話さなければならない気がした。そしてきっとわかってくれるようにも思えた。それでも今は気力も体力も限界だった。
 「ははは。ちょっと疲れちゃった。遊んでて言うことじゃないよね、ごめん」
 「いいよ。いつも頑張ってんじゃんか。もう今日はそのまま寝ちゃいな
よ。一日お休みってそゆことでいいと思うよ」
 妻の優しさは胸にくるものがあったが、それがなにを意味するのか思考回路はもう十分に機能していない。
 俺はそのままベッドに倒れ込み、すぐ意識がまどろむのを感じた。
 ものの数分落ちていただけのように思われた。それでも窓の外は光に満ちている。都会といえど鳥の囀りもちゃんと聞こえてくる。しっかりと時間は流れ、もう朝を迎えていた。