「オシャレ貧乏」(第七話)

第七話

 年が明けた。もっと困窮しているかと思ったが、意外と普通に生活できていた。そして今の生活にもだいぶ慣れてきた。相変わらずかつかつの生活であるとの認識には間違いないが充実していた。楽しいとも感じていた。
 エアコン代の節約のため暖房はつけていない。冷たい部屋というのは見た目にもわかる気がする。暖色の物を置いてもどこか冷たい色を帯びて映る。毛布に包まって丸くなる。世間に見せられない格好悪いスタイルだと思う。オンとオフにあまりに差があるとも思ったが、今はまずオンの外見を徹底的に磨いていくことを目標にした。それが落ち着いてきたら人が見ていない内面の部分もこだわって磨いていきたいと思う。
 僕は仕事が休みの日も外に出るようにした。引きこもるより外に出たほうが何かとインスピレーションもある。
 外食はしないで、弁当を女子のように持ち歩いた。街を歩いて、どのようなスタイルがあるのか眺めて過ごす。ただそれを努力とは思わなかった。好きでやっていたし、結果それが糧になることは後々気がついたことだった。
 代官山はやはり街自体がいちいちオシャレな印象だった。街を歩いているだけでもクリエイティブな空気に触れることができる感じがしていい刺激になる。平日とあって人はあまり多くなく、気兼ねなくゆっくりと眺めていられるのはよかった。特に用もなかったが蔦屋に入った。普通の本屋に比べるとすぐ目に付くあたりに、普段なら興味がいかないような本が多く置かれていて、それが却って興味を湧き立てた。
 平積みにされた本を目で追っていると、カラフルでいかにも上質なスーツに身を包んだ黒人たちがポーズを決めている写真が表紙に使われている写真集に目が止まった。
 コンゴ共和国のとある人々に焦点を当てた写真集で、使われている写真にはすべてオシャレに着飾った黒人男性たちが写っていた。彼らは「サプール」と呼ばれる人々で、「お洒落な優雅な紳士たち」という意味のフランス語からきていると帯に記されていた。着ている服はどれもハイブランドのもので、さぞかし富裕層の集まりなんだろうと思っていると、まったくそんなことはなく、むしろかなり生活水準の低い暮らしをしていることがわかった。物価がまったく違うためにイメージはつきにくいが、ひと月の給料はおよそ三万円という貧困層が多い国らしい。そして写真に写る彼らもその貧困層に位置し、毎日バケツに水を汲みに行くような生活を強いられているという。
 強く頭を殴られたかのような衝撃だった。
 その本に出逢っただけでも僕は今日ここに来た価値があったと思えた。この本は僕には必要な本であると思いすぐに購入した。そして銀座に行き、バイト先である商業施設に行った。
 僕は休日でもここに来ることが多い。それは休憩室の存在が大きい。出勤していなくとも入館証があれば来ていても誰も文句は言わないし、いちいち周りはそんなことに気づきもしない。そのため僕は空調が整い、飲み物も用意された休憩室で過ごすことが多くなっていた。
 平日はどこも暇なのか休憩室のスタッフ人口もいくらか多い。隣近所のお店のスタッフさんの顔もちらほら見えるが、僕はあまり、というかほとんど周りの店舗との付き合いがなかったため、一人でのんびりと過ごすことができた。
 さきほど買った写真集をさっそく眺める。
 カラフルな装いのスタイルはどれも僕が思うところの、いやおそらく誰でもが思うところのオシャレを体現していた。被写体の中心人物だけでなく、サプールではない周りの人々もとても幸せそうな笑顔で写されている。貧困に喘ぐ暮らしの中でも希望があると言わんばかりに周囲を明るく元気にする。そんな構図が伝わってきた。
 人生を楽しもう。
 毎日の生活のすべてを祝福しよう。
 そうした姿勢、己の信念を貫いているようで、見ていて胸が熱くなった。誰もがサプールを中心に楽しい雰囲気を醸し出していた。そこには笑顔しかなかった。
 オシャレやブランド物はリッチな人だけのものではない。お金持ちではなくとも、一生懸命に素敵な服を買い、心からオシャレを楽しむ。その生き方はまさに僕が今実践しているものそのものだ。ただ、彼らに比べたら僕なんてあまりに恵まれている。
 日本という国に生まれた時点で僕は彼らから見たら富裕層と変わらない。僕は確かに彼らと同じように給料のほとんどを良い服に使い、オシャレを楽しんではいる。でもそこには、自分に見合わない服をあえて着て、形から入ることで自らを鼓舞し、あわよくば引き寄せのようにうまいことそれに相応しい地位やステータスが付いてくるかもしれないとの欲望渦巻く思いも抱いていた。
 僕は恥ずかしくなった。つまらない野心をいつまでも引きずっていることが情けなくも思った。彼らサプールがオシャレをする理由、それはただオシャレへの強いあこがれやこだわりだけではない。武器を捨て、エレガントな装いをしようというもので、平和を願う生き方を表している。
 僕はいてもたってもいられなくなり、休憩室をあとにした。自分が働くお店になぜか向かっていた。お店にはオーナーと店長が同時に僕に気がついて迎えてくれた。

「オシャレ貧乏」(第六話)

第六話

 僕はファッションセンスがいいと言われることが多かった。特に意識して何かをしていたわけではなかったが、自分できちんと納得できるものを選んでいた。高校生の頃や大学生の頃は当然のようにお金がなかった。それでもそうした状況のなかで良いものを発掘していたんだと思う。
 当時はお金がないことを理由にしていたが、大人になった今であればお金がないは言い訳にすぎない。要は使い方なのだとようやく学んだ。
 社会人になり現実的な生活を強いられるようになったためお金の使い方がよくわからなくなってしまっていたが、僕のお金の使い道は間違いなくファッションだと今は確信している。そう思うと、銀座という街で会社勤めをして無意識にモードの刺激を受け続け、解雇されたことによって意識的に改めて銀座の街を見ることができたのは良かったのかもしれない。
 コートをハンガーにかけて今一度うっとりしてしまう。このコートも一目惚れをした一品だ。
 コートはバーバリーで買おうとあらかじめ決められていたかのような一切の迷いがなかった。銀座のバーバリーに行き、やはりその上質な店内の空間に、そこにいるだけで洗練されていく心地を味わった。
 丁寧に一品一品を眺めていくと直感が働いた。これだと思えるものに出逢った。ブライトスティールブルーという色のトレンチコートで、ダブルブレストのボタンで開閉するタイプのものだ。ずっしりとした深みのあるダークブルーに僕は心を鷲掴みにされた。触り心地も当然良く、ウールカシミアがボディラインに絶妙に沿うとなぜだか確信できる一級品だった。
 まだ見ていないコートもあったにもかかわらず手に取り試着させてもらいすぐに購入を決めた。値段は見ていなかった。そのためレジにて価格を告げられたときは正直驚いた。それでも買うと決めた心が揺らぐことはなかった。現金で、その場で二十八万を支払った。おそらくこれほどの価格の商品を現金で買う人は少ないのではなかろうか。でも僕はカードで買うことは避けたかった。現金で払ったことで本当に購入したと思えたし、カードでは身の丈以上の支払いが時に可能となってしまう。形から入るために背伸びして上質なものを選んではいても生活ができなくなってしまっては本末転倒もいいとこだ。
 僕は運命的な出逢いを信じてものを買っている。自分の目を信じて買ったコートをすぐに質の違いがわかる人に褒められるのは正直かなり嬉しかった。この店で働くようになってからというもの、お客様のスタイルなどを意識的に見ることでより自分の審美眼にも磨きがかかっていくのがなんとなくわかる。上質なものを着るようになってからは、生き方も不思議と上品に、洗練されたものにしようと身にまとう雰囲気すら無意識に変化させているようにさえ思えた。

「オシャレ貧乏」(第五話)

第五話

 仕事は朝九時から夕方六時までの週四日間からスタートした。時給だがオーナーの羽振りがよく、売上に応じてちょくちょくと手当を付けてくれた。このペースならばここだけで十五万ほどの収入になりそうだった。けれども会社勤めをしていた頃と比べると同水準でも福祉手当に欠く分これだけでは少し生活は苦しい。
 ざっと生活費を計算してわかったのは、一ヶ月で十五万くらいは最低残しておく必要があるということ。必要な生活費すら知らずに生きてきたとは我ながら呆れた。今までは外食ばかりでお金に対する意識が低かったこともあり毎日がかつかつだった。だがこれからはもっとかつかつになろうと決めていた。給料のほとんどをオシャレに充てると決めたからだ。
 家賃七万はすぐには動かしようがない。まずは光熱費を五千円で押さえ込んだ。本当に必要な状況以外に部屋の電気は点けない。テレビなども見る必要性がないことに気が付き処分した。水道は基本中の基本だが、出しっ放しは注意し、風呂は最低限のシャワーで済ませた。ガスに関しては自炊をするために頻繁に使わざるを得なかったが、時間があるときにまとめて作って冷凍をするという荒業で抑える努力を重ねた。食費はもっとも難しいのかと思っていたが、やってみると案外簡単だった。飲み物は水やお茶に限定した。バイト先のテナントがある大型施設の休憩室に常備されている給水器から出る水やお茶を水筒に入れさせてもらった。米だけはなぜか親が事あるごとに送ってきてくれたことがかなり幸運だったといえる。度々とオーナーがご馳走してくれるのも家計にはかなりプラスになった。結果、食費も一ヶ月だいたい五千円でやりくりできた。携帯代は七千円。ここは落とし込める部分ではあったが、情報収集のツールがスマホしかなかったため妥協した。
 バイトをもう一つ夜に行い、三万円から五万円ほどを稼ぎ、月の収入を二十万にした。これで自由に使える金額が十万になる。ここに失業手当が十万ほどで、直近の三ヶ月は二十万のオシャレができることになる。
 そして、僕はスーツ一着とコートを、そして、靴を二足を買った。
 年末に近づくにつれ当然のことながら寒さは厳しくなってきた。高級スーツに見合うコートを持っていないことに気づくのが遅すぎて随分と寒い思いをした。
 買ったばかりのコートは体だけでなく、自分を高みにつれていってくれるようで心までも温かくしてくれた。
 「辻村くん、おはよう。お、相変わらず身だしなみがいいね。そのコートは新調したのかな?」
 店長が一瞬で気がついた。オーナーと並び彼の物を見る目もかなりのものであるということは一緒に働いてすぐにわかった。
 「はい。良いものにしようと思って。これまた背伸びではあるんですけど、目下テーマは、なりたい自分になる、なので」
 上質なコートに包まれているとはいえ寒いものは寒い。凍てつく寒さに悲鳴を上げていた体は施設内の行き届いた空調の暖かみにゆっくりとじんわりとほぐれていく。
 オーナーも店長も僕のストイックなまでの上質思考たるものを変な目で見ることは決してなかった。むしろ好感を抱いてくれているとさえ思えた。頻繁に大人の嗜みをご教授してくれたし、数々のアドバイスは参考になるものばかりだった。
 「いいね。なりたい自分になる。ファッションは似合う似合わないという観点ももちろん大事だけど、やはり本人が好きなように誰に文句言われるわけでもなく自由に表現して然るべきだと僕は思うよ」
 そう言う店長のコーディネートはいつも本当に洗練されている。一言で言い表すならば、シンプル。スーツも着れば、オフィスカジュアルなスタイルもする。まったくのカジュアルなスタイルもあるが、基本全身を黒で統一しているため、どのスタイルでも上品なシルエットとなる。いつも黒の服だが、見る人が見ればそれがこだわり抜いたセンスを光らせたアイテムによるスタイルだとわかるだろう。まったくオシャレのセンスがない人でも店長は格好が良く見えるはずだと思えた。
 今日も黒のタートルネックの上にスーツジャケットを重ね、大人の魅力を存分に引き立てていた。
 「オーナーも同じようなことを言ってました」
 「僕よりも自由度が高くて、より柔軟なスタイルを持ってるからね。あの着こなしはいろいろと参考にしたらいい」
 「いえ、僕なんてまだまだ全然無理ですよ。大人の魅力ゼロですから」
 店長は笑う。
 「服に着られてるなんてよく言うけどさ、気持ちよく着てあげていれば気づいたときには違和感なんてなくなってるものだよ」
 僕が形から入っていることをわかっての発言だろうか。それでも彼らから言われることには嫌な印象はまったく感じない。
 「あ、ごめんごめん。でも辻村くんはセンスいいよ。今は単純に経験値が足りてないから、すっと服が本来持つ力を押さえ込めてないというか、うまくコントロールできてないイメージかな」
 「経験値ですか?」
 いまいちピンとこなかった。
 「何事にも経験値は必要だからね。もちろんそんなの差しおいて最初からすっとはまってしまう天才肌の人間がいるのも事実だけど。ゲームで置き換えてみようか。モンスターを倒して貯めたお金で一番高い防具を買ったんだけど、レベルが足りてなくてそれを装備すると却ってステータスが落ちるみたいなことあると思うんだ。あと、ゲームなんかではレベルに応じていきなりスキルや魔法が使えるようになるけど、現実的にはこつこつ経験値を増やしてある程度の練習は必要でしょ? だから辻村くんも段々とスタイルがかちっとはまってくるようになる。良いものを良いと判断できる目は持ってるんだから」
 「なるほど。わかったような気がします。でも宝の持ち腐れみたいなことにはならないんでしょうか?」
 これに対して店長は優しく微笑みかける。
 「君は努力してるからね。しかも自然に楽しんで努力してる。ただ高いお金を出して良いものを着て満足してるのとは違う」
 素直に喜んでいいんだと思うが、これで調子に乗ってはいけないと自分を戒めた。
 店長の声が少し小さくなったのは店内にお客様が何人かいたからだった。参考になる話に夢中で仕事に集中できていなかった。
 店長と同年代くらいだろうか。当たり障りのないビジネススタイルの男性と、僕より少し上くらいのややこの店とはカラーが違う格好の男性がいた。
 どんなお客様でも、お客様ではなくても一人ひとりのファッションにすごく注目するようになっていた。

「オシャレ貧乏」(第四話)

第四話

 アルマーニのスーツをその場で買うことを決めた。
 細かな丈の調整などがあったため、引き渡しは後日となった。そして今日そのスーツを取りに再び銀座のアルマーニに足を運ぶことになっている。
 気持ちがいいくらいに晴れ渡り、秋めいてきたとはいえ夏の名残がしっかりとある。
 何かを特別意識したわけではないが、前回来たときよりもややフォーマルでシンプルな格好にした。その辺りはやはりまだ日本人としての変な意識に囚われているようだった。
 僕が選んだのは、アルマーニの「黒ラベル」にライン分けされる種類のもので、縦にストライプが刻み込まれた茶系のフランネルスーツだ。一般的に「黒ラベル」はお金持ちが着る印象が強い。かなりかしこまった場でしか着ることができないようなイメージもある。そんな中、僕が選んだものはその淡い色使いや、ストライプ、全体のシルエットデザインなど、遊び心が見て取れるもので、普段からこれくらいのスーツを着こなせるようになれたらとの願いを込めて購入した。価格は二十三万ほどで、一ヶ月分の給料をごっそり費やしたことになる。
 家に帰りすぐに新しいスーツに袖を通す。フランネル素材という柔らかく暖かい毛織物は、保温性が高いことが特徴とされる。それでいて着心地は軽い。秋冬物なので今の季節ではまだ少し早い気もするが、この先々で大活躍してくれるだろう。
 これはなりたい自分への先行投資だった。かなり背伸びをして買ったものだが、形から入ることもモチベーションを上げるには有効だと思う。実際、これを期に常に成長していく自分を思い描き生きていこうと決心できた。
 僕は改めてモード関係の仕事に興味があることを知った。ファッション業界に関しては就活中も視野に入れていた。ただどこも厳しい現実を突きつけられ、ファッションに興味ある自分を言い訳のように封印してしまっていた。
 当時駄目だったファッション業界に今の自分が入り込む隙などないことはわかっている。けれど、駄目と決めつけていては何も行動できない。アルバイトからでもいいから関わってみようと僕はアパレル系の店舗の応募を探してみた。
 場所にこだわるつもりもなかったのだが、銀座に三月末にできたばかりの新しい商業施設があり、そこに出店しているセレクトショップで働けることがあっさり決まった。
 メンズの物を中心に取り揃えているお店で、ハイブランドまではいかずともそれに決して引けをとらない大人のこだわりをテーマにしていた。審美眼が試される大人の嗜みを売りにした感じで、二十坪ほどの店内を包む雰囲気はワンランク上を意識した洗練されたものだった。
 僕はそこで販売員として週四で働くことになった。常にいるのは僕のほか、店長かオーナーさんで、たまにもう一人バイトの女の子に顔を合わせるというわずか四人で店を回していた。店長もオーナーもちょいワルおやじを絵に描いたようなダンディズムの持ち主で、スーツの着崩し方が絶妙だ。服装にこれといった指定はなかったが、僕もそれにならって早速とアルマーニのスーツを来て働いた。
 業務自体は難しくなかった。在庫の出し入れや整頓、お客様の対応とレジ打ち。お店のコンセプトを理解し、お客様のニーズに応える。
 面接をしてくれたのはオーナーのほうで、だいぶ慣れてきた頃になぜ僕のことを採用してくれたのか聞いたことがあった。
 「ぶっちゃければ誰でも良かったんだ。それでも一応さ、店の品格ってのもあるだろ。そんなときアルマーニのスーツを着てた辻村くんは俺の心を掴むには十分だった」
 「着られてる感があるとは思うんですけど……」
 「でも着ようとする意志みたいのが感じられた。ただの背伸びとは違う、意図のある背伸びだと俺は思った。だから他にも何人か面接はしたけど辻村くんに決めたってわけ」
 オーナーは笑うが、その笑顔にも威厳があり、オーラがある。かなりの審美眼の持ち主であろうこの男に選ばれたのならば自信を持ってもいいのだと思えた。
 「応募かけてもなかなか引っかからなかったからさ、給料を少し高めに設定したらかかるかかる。でも良い奴ってのは来ないもんでね。でも妥協しなくて正解だった」
 そこまで言われると買いかぶり過ぎではないかとかなり面映ゆい。けれどもいい刺激にはなった。そのイメージに沿う人間にあろうと努力する強い気持ちがしっかりと自分の内側にあるのがわかった。

「オシャレ貧乏」(第三話)

第三話

 トラブルが起きて会社を辞めるまではあっという間だった。
 梅雨入りが宣言されたというのにほとんど雨が降らない空梅雨の六月。全然雨が降らないという印象のなか、その日に限っては本降りの雨となった。
 朝、出勤するときから陰鬱とした嫌な感じは否めなかった。特別悪い予感がしていたということでもないが、気分は乗っていなかった。仕事が嫌だとか、人間関係にストレスを感じるとか、悩むことはなかったため、前日のスロットの負けが影響しているのだと思った。二千円ほどで当たりを引き、調子に乗って打っていたところ、気がつくとあっさり呑まれそのまま大きく負け越していた。止めどきがわからなかった。負けていてもその演出が楽しかったというのもあった。結局ただでさえその日暮らしのかつかつな生活をしてるというのに、三万円もの大金が消えた。
 ギャンブルが好き過ぎて止められないなんてことはない。元々そんなにやったりしない。たまたま友人が大勝ちしたのを耳にして意外と簡単に稼げるのではないかと暗示がかかってしまっていたのだろう。
 銀座も当然ながら雨が降っていた。そこにも朝から暗い世界が広がっていた。朝の銀座は優雅な装いのセレブは少なく、有楽町を中心とした会社員たちでごった返していた。すれ違う人の傘から滴る雨に濡れたり、水たまりを勢いよく踏み込んでしまったり、ささやかな不幸が積み重なっていった。会社に着くと、不幸のゲージがマックスに溜まったボーナスとでも言わんばかりの不幸が舞い降りた。
 席に着くやいなや鳴り響いた電話は、注文した物が届いてないとの連絡だった。
 僕は注文を電話で対応し、そのデータを飛ばす役割を担う。よくあるのは、データに基づいて物を用意してなかったという僕の次の役割の人間のミスや、配達する係の人間が積み忘れたというもの。注文を聞き漏らすことだけは絶対にない仕組みをこの会社は作っていた。注文の電話はすべて録音され、その場で復唱し、注文を確認した後、再度二回に渡って録音テープから注文を確認する。その際にもし曖昧な部分があればすぐ確認の電話を入れる。さらに加えて、取引先へすぐに注文内容を明記したメールが送られることになっている。
 僕が対応したのはある居酒屋の注文で、土曜日に生ビールの樽を注文したはずとのことだった。配達は毎日されていて、注文した翌日に配達される。僕は土曜日のその居酒屋からの注文を確認すると、いくつかのリキュール類が頼まれてあるだけで生ビールの注文はなかった。その旨を丁寧に伝えたのだが、絶対に注文していると言う。聞くと、土曜日の段階で残りの樽は少なく、注文してないはずはないと。おかげで日曜日の営業でビールが提供できない時間帯があった、どうしてくれるんだと。僕からしてみれば居酒屋が樽一つになるまで発注をかけないその姿勢が駄目なんじゃないかと思ったが、そんな火に油を注ぐような発言はできない。
 土曜日の電話の記録を確認する。今かけてきている電話の主と同じ声で注文が聞こえる。やはりそこには生ビールの注文はない。僕は自分たちの会社が注文を間違えないようにしている仕組みを伝え、こちらに落ち度がないことを告げた。だが、相手が取った行動は信じられないものだった。
 「あんたが注文を聞きそびれて発注し忘れたのに気がついて電話の記録を消したんじゃないのか」
 僕にはそんな音声編集技術はない。どうしても居酒屋の店員は自分が注文してないということを認めなかった。
 「もういいから責任者を出せ」
 かなり長いこと話した挙句に上の者に引き継げと言われた。僕は仕方なしに一番近い信頼のある上司にお願いした。だがどうやら最高責任者につなげとのことらしく上司はすぐに一番上につないだ。
 朝から不穏な空気が会社に流れた。じとっとした雨の香りが立ち込める社内の誰もが厄介なことになったなという顔をしていた。
 結局、居酒屋側の怒りは収まらなかった。最初に対応した人間、つまりは僕の対応があまりに最悪だと言いがかりをつけてきたそうだ。僕を解雇しなきゃ契約は切るし、他の店舗にも契約を切るように根回しすると脅迫めいたことまで言ってきたらしい。らしい、というのは、僕が直接そう聞いたわけではなく、信頼ある上司がこっそりとそう教えてくれたからだ。その上司はこちら側に過失は絶対にないわけだし、全面的に闘ってもよいのではと上の人間らに取り合ってくれたようだが、その労力は無駄であっさり僕という人間を切り捨てたのだった。幸か不幸か僕は会社の中では下っ端であったし、そんな下っ端を一人切ったところで補充はいくらでもきくと判断したのだろう。
 驚くべきことにその知らせが僕に届くまで一日しか要さなかった。いや、むしろその日にもうそれとなく話は伝わってきていた。次の日に届いたのは僕個人の都合で辞めるという形にしてくれという、どこまでも無機質で冷たい事務的なものだった。
 僕は六月いっぱいで辞めることになった。こうもあっさりと切られるといっそ清々しいとさえ思ったほどだ。理不尽な辞令には逆らう気も起きなかった。
 七月に関しては月末に給料が払われるため八月を過ごすお金に問題はなかったが、八月末にお金はもう支払われない。そして退職金は九月末になるとのことだった。しかも勤続三年で自分の都合でということと、冤罪に近いとは言え会社に迷惑をかけたということで、額は十六万ほどだという。
 挙句の果て、書類に不備があったからそれを直さないと支給されないとかなんとか。
 今現在、僕はまだ無職だ。来月からは失業保険が給付されるようだが、その金額もたかがしれている。七月からというもの、社会に対する軽い鬱状態みたいな症状が出てしまい、やる気がほとんど起きなかった。そんななかでもできることはないかとしていたのが街の散策だ。何をするともなく街を歩くことは昔から好きだった。
 僕はひたすら歩いた。歩けば何か見つかるかもしれないとも思ったからだ。僕は会社を辞めてからも度々と銀座を訪れた。僕はなんだかんだと洗練されたこの銀座が好きだった。改めて人生をやり直すために何がやりたいのかと問われてもすぐに答えは出ない。前にいた会社にだって入りたくて入ったわけではなかったし、結局僕は人生の負け組街道を行く運命にあるのかもしれない。これこそが負け犬を決定づける思考だと自覚していた。だからそれに抗う方法としてわずかな希望をかけて僕は歩いていたのだろうと思う。
 銀座、六本木、表参道、青山、渋谷、代官山、恵比寿、自由が丘、など、僕は無意識に選んだ街を見てふと気がついた。
 僕はオシャレが好きだ。好きだった。学生の頃は親のすねをかじってファッションにはかなりこだわっていた。良いものを着ようというよりは自分のセンスを磨く練習をしていた。
 社会人となってからは生活だけで精一杯で、まったくオシャレと縁がなくなってしまった。今思えばそれも自分の意志力の弱さが招いたものだと思う。オシャレは決してお金持ちだけの特権ではないのだから。
 会社からの帰り道、銀座のアルマーニに入っていく中国人らしき三人組の男たちを見た。見た目にはお世辞にもオシャレとは言えない格好だし、風貌も冴えない。けれども彼らはなんの躊躇もなくアルマーニで買い物をして出てきた。
 ファッションの基準とはなんだろうか。似合う似合わないを優先しがちだが、それよりも自分がそれを本当に着たいか着たくないかという視点もある。自分には似合わないと思って手に取ることができない服は多い。ハイブランドになると似合う似合わない以前に、そのレベルに自分が見合わないと尻込みをしてしまう。
 そのとき僕はなんとなく思った。オシャレを徹底的にしてみたらどうだろうかと。お金がないからとか言い訳しないで、ないならないなりに捻出してみようと。自分が本当に着てみたいと思う格好をしてみようと。
 僕はまずアルマーニのスーツを買うと決めた。
 かねてから欲しいと思っていたのにお金を理由に諦めていた。今までの僕であればこの格好で店舗に入ることをためらっていただろうが、僕は意を決して洗練の極みであるその空間に足を踏み入れた。

「オシャレ貧乏」(第二話)

第二話

 日本人は見た目で人を判断する。
 ビジネスシーンでは過剰なまでにスーツを着て、髪の毛の色はぼぼ絶対と言ってもいいくらい黒でなければならない。オフィスカジュアルなんてものもあるが、それは狹い空間でだけ許された習慣であり、一般化はできない。世界に目を向けても基本的な常識は似たようなものかもしれないが、日本人の意識は明らかに過剰だとも思えた。
 あの蛍光ピンクの二人組のことを思う。恐らく収入というステータスで測られたとき、間違いなくあの二人はハイクラスの人間になる。銀座の多くの店舗がその対象とする顧客だ。でもあのドアマンは見た目で彼らが相応しい人間であるとは判断できていなかった。日本人の誰が見ても極端な格好をしているわけだから仕方ないかもしれないのだが。
 ドアマンは再び定位置に戻ると表情を引き締めた。無愛想とも笑顔とも寄り付かない中性的な表情をキープしていた。
 僕はなおも蛍光ピンクを目で追いかけていた。有楽町駅方面に歩いて行く二人組は、もう視界が届く限界あたりまで先にいた。それでも鮮やかに銀座という街に輝いて見えた。それは蛍光カラーだけに頼るものでなく、彼らが内面に持つ輝かしいステータスの反映だと僕は思い、見えなくなるまでずっと同じ方向に目を向けていた。
 空は晴れ渡るが、目に焼き付いたピンクが空にまでうっすらと反映して見える。僕も第一印象では蛍光ピンクの彼らが銀座に不相応に見えた。それなのに今は彼らが輝いて見える。人間の認識のなんと単純なことかと、自分の見たいものなど見えていないのだと思い知らされる。
 僕は腕時計を確認する。今日のこの格好には少し不釣り合いなのかもしれない銀色のロレックスの時計。それは両親が就職祝いにとプレゼントしてくれた僕が持つ唯一ともいえる高級品。
 指定された時間まではあと二十分程度だった。少しくらい早めに着いてもいいだろうと、僕はゆっくりと目的地に向かって歩き出した。
 銀座は有楽町駅を背にして左から一丁目、二丁目と通りが真っ直ぐに走っている。慣れると住所を見てすぐにあの辺りかとおおよその見当をつけることができる。それがわかるくらいには僕も銀座に出入りしていた。ブルガリがあるのは二丁目なので、僕の通う会社は通りを横に四つ数えたところにある。正確に言うなら、今はもう僕の会社ではない。僕はつい先日、三年勤めたその会社を解雇された。
 通り慣れた道は目を閉じていても歩ける気がした。そのくらい銀座という街は実にシンプルな街だ。確かに高級ブランド店やメニューのない時価の飲食店など多く目に付いた。それでも庶民的な外食チェーンのお店や、リーズナブルな食事を昼夜問わず楽しめるお店も数多くある。
 カレーの匂いが地下のお店から漏れてくる。何度か利用したことがあるスープカレーが美味しいお店だ。
 そこから程なくして僕は目的地にたどり着いた。
 会社に着くとすぐ、元上司が僕に気が付き声をかけてくれた。
 「おう、辻村。わざわざ悪いな」
 僕が今日ここに来たのは辞めるために必要な書類に不備があり、それを修正するためだ。ただ不備は僕のせいではなかった。わざわざ僕の方から来ないといけないのかと疑問もあったが、退職金の支給にも関係すると元上司から説明され、こうして出向くことになった。
 書類上は、僕が自分の都合で辞めたことになっている。これはアングラな大人の事情だろう。本来は会社の一方的な都合で辞めさせられた。辞めることには違いないと何も考えずに処理をしたことが間違いだと気がついたのは、ふと退職金の相場なるものを調べたときだった。
 どうやら一般的には会社の都合で退職する場合は退職金もやや割増になるらしい。たかだか三年勤務の退職金など知れてるわけで、それすらも出し惜しみする会社には正直辞めて正解だったのかもとまで思った。
 そうは言っても、少ないながら今の僕には退職金はどうしても必要だった。つまらないいさかいでそれをみすみす手放すことはできない。
 「この書類にも記入してほしいんだ。本当にすまない」
 元上司は、心の底から申し訳ないという顔をしていた。訳を知っていながら部下を救うことができなかったこと、さらには部下よりも自分の上司の肩を持つことになったことに対して思うところがあるのだろう。この元上司だけはかなり信頼できたし、最後までその気持ちが変わらずにいられることだけは良かったと思う。

「オシャレ貧乏」(第一話)

第一話

 銀座の敷居はかなり下がったと僕より少し上の世代は言う。
 敷居が高かったと言われた当時、ただ街を歩くことすら見栄えを気にしてしまうというほどだったらしい。庶民的な、いわゆるカジュアルな服装で銀座の街を歩くことは普通の感覚をしていたらとてもできないことだったそうだ。
 あまり想像できない。
 通りのガラスに映る自分を見る。オンとオフの中間、よほどフォーマルな場でなければ対応できそうなくらいの服装。そんなふうに自分の格好を分析した。
 「街から出ていけ」
 この格好は昔であればそう門前払いを受けたのだろうか。
 ようやく残暑の熱も日本列島の地から冷めていったようで、朝晩はひんやりと冷たい空気も感じることができる季節になってきた。陽射しが強い昼間はそれでもまだ汗ばむときもあるが、吹き抜ける風にはしっかりと秋が乗ってきていた。
 平日の昼間だというのに銀座の街を歩く人は多い。外国人観光客の姿も目立っている。蛍光のどぎついピンクのウェットスーツのようなものを着て、小学生が背負いそうな安っぽいリュックを背にした二人組はおそらく中国人だ。どういうわけか彼らは日本人の美意識やファッションセンスとは相容れない感覚を持っているようで、銀座でなくともそれはちょっとという格好をして平気で街を闊歩している。
 あの姿を見ると、自分の格好は至って常識の範囲内に留まるものだと安心する。
 街の開発が進み、外国人の認知度が上がってきたことが日本人に対しても街の敷居を下げる結果になったのかもしれない。それでも通りに連なるテナントは超が付くほどのハイブランドばかりだ。このあたりが恐らく庶民と隔絶した敷居の高さを想起させるところなのだと思う。
 それは僕にとっても同じ。日常の世界と非日常の世界を店舗の重厚なガラスの扉が分け隔てている。
 どのお店にも格式高いスーツを着たドアマンが目を光らせて来店するお客様を迎え入れている。来るものは拒まずの精神は持ち合わせてくれているようだが、お店のレベルに見合わない人はお断りしますと暗に宣言されている気がする。入るにはかなりの勇気を要する。
 たぶん僕だけではなく、日本人の普通の感覚であれば、ラフな格好でこの手のハイブランド店に入ることは気が引ける。そんな難攻不落な砦を守る門番の睨みをものともせず先ほど見かけた蛍光ピンク二人組がブルガリに攻め入った。
 僕は思わずその勇姿に見惚れてしまった。呆れるというよりも尊敬に近い。お店の前を通過し、通りを挟んで来た方向に戻る。さも待ち合わせをしているかのようにスマホを見ながら立ち止まりブルガリに目を向けていた。時間にして三十分くらい僕はそのまま立ち尽くしていたことになる。すると、蛍光ピンクの二人組が出てきた。砦の領主と固い契りを交わしたかのように、門番の態度は明らかに変化していた。丁重な日本特有のおもてなし力を発揮して彼らを外に導き、その帰途を精一杯の感謝の気持ちでお見送りした。
 僕は確かに見た。蛍光ピンクが攻め入ったときに門番がした一瞬の警戒心全開の表情を。だが、今は和やかそのもの。見送られた蛍光ピンクの二人組の手には、戦利品か友好の証か、大きな紙袋が二つ携えられていた。そこには真っ白なアルファベットによるロゴがシンプルに漆黒の中に刻まれていた。