春の雪と夏の真珠(第二十四話)

第二十四話

 夏珠の話にのめり込む自分がいた。時間、空間、身の回りのすべてがたゆんで見える。夏珠はそんな俺を見て一度間を取った。
 「ごめん。続けて」
 再び二人の世界にのめり込んでいく。
 「遥征くんの実家には毎年行ってたんだけね。けれど一度として家を訪ねることはできなかった。遥征くんの両親にどんな顔をして会えばいいかわからなかった。私が勝手に悪い方向に考えているだけで、遥征くんの両親は私に対して何も感じてないかもしれない。その可能性のが高いのはよくわかっていても、私にはあと一歩の勇気がなかった。
 一度だけ遥征くんのお母さんが団地の入り口でおしゃべりしているところを見かけたの。いけないとは思っても私は壁一枚挟んだすぐ後ろでその話を立ち聞きしてしまった。そこでわかったのは遥征くんがもう家を出て一人自立して頑張っているということ。
 家に行っても会えないのかと残念に思うのと同時に、どこかほっとした気持ちもあった。会いたいのに会う心の準備がまったくできてないことに気づいたのはそのとき。
 勇気を出してお母さんに会えば遥征くんの居場所はわかる。でもそれができないために私には手がかりがなかった。街ではいつだってどこにいたって遥征くんが偶然すれ違うんじゃないかと目を凝らした。
 大学生活は徐々に慣れて楽しく感じるようにもなっていった。でもなかなか恋に踏み出すことはできなかった。
 大学に通い出してから一年の間で三人の男の子から言い寄られたんだ。意外とモテるでしょ。でも私はまったく心が揺らぐことすらなかった。ただ謝ることしかできなかった。周りの女の子たちは早く新しい恋をしたほうがいいとみな口をそろえるけど、自分でもどうしたらいいのかわからなかった。
 その後また声をかけてきた別のとある男の子は優しく、自然に打ち解けることができる人だった。この人とならうまく付き合えるかもしれないと思ってたら告白された。
 『ずっと好きな人が私の心の中にはいます。その人のことを想い続けている状態でもよければお付き合いさせてください』
 最低な返事をしちゃった。
 でも彼はそれでもいいと言った。彼にとっては正直付き合えれば誰でもよかったのかもしれない。案の定、付き合ってすぐ態度は変わり、私はすぐに別れを決めることになってしまった。
 無理に恋なんてしたらまた人間不信になりそうだと思った。私は勉強とバイトに集中しようと決めてカフェでバイトを始めた。
 御茶ノ水にあるオシャレなカフェは初めて行ったときにすぐ好きになってそこで働きたいと思った。オープンしたばかりでスタッフを募集してたからすぐさま応募して、採用してもらうことができた。
 コーヒーの香りに包まれながら、その開放的な空間に身を置いて働くのは嫌なことも忘れられる気がして心地よかった。
 働き始めて知ったことだけど、『リヴェデーレ』というイタリア語で『再会』を意味する店名も大好きだったなあ」
 「え?」
 俺は声を上げていた。
 よほど集中して話を聞いていたのだろう。雨が止んで薄く雲間から光が差し込んでいることにそのときやっと気がついた。
 「ん?」
 夏珠は俺がいきなり大きな声を出したことに驚き、同じく雨がいつの間にか止んでいたことに今気づいたらしく、辺りを二度見した。
 「どうしたの? てか雨、いつ止んだの? 全然気が付かなかった」
 俺も夏珠も、そろいもそろって二人だけの世界に入り込んでいたようだ。
 周囲は雨の音すら聞こえない静けさで微かなスズメの声が届くばかりだった。現実に戻ってみるとむわっとした湿気が肌にべたっと張り付くようだった。
 「おかしいな。さっきまでは梅雨とは思えないくらいしっとりと心地よい空気だったんだけど」
 「ほんと。今それ私も思ったよ」
 静かに微笑み見つめ合う。
 静寂。
 沈黙ではなく意図した静寂が辺りを包む。
 「あ、ごめん。お店の名前、『リヴェデーレ』って俺がさっき話したお気に入りのカフェ、そこだよ」
 夏珠は一瞬なんのことを言っているのかわからないといった顔をした。
 「夏珠、あのカフェで働いてたの? 俺がよく行くって言ったとこだよ」
 「本当に……?」
 「信じられないや。多い時は週四くらいで行くときもあったくらいなのに。まったく気が付かないなんて。いや、気が付かないなんてありえないか。たぶんずっとニアミスしてて直接会ったりはしてないんだろうね」
 「うん。私絶対に気が付くと思うもん」
 きっと何かほんのちょっとのことなんだろうと思う。ほんの少し何か選択を違うものに変えていれば、もっと早い段階で再会できていたのかもしれない。
 「俺さ、よく思うことがあるんだ。会社に行くときに駅の改札を出ると上りエスカレータが横並びで三つあるんだけど、何も考えてないといつも一番右側に乗るんだよ。でもさ、これを意識して真ん中とか左側を選択するとその先に起こる未来も変わるんじゃないかって。だからさ、ルーティンワークみたいな習慣も大事だけどあえて変えてみる勇気みたいなものも大事なんじゃないかって。どうでもいい小さな選択一つで違った人生を演出することができるかもしれないって思うとさ、可能性に満ちた感じがしてなんか良くない?」
 「前向きな考え方だね。でもわかる気がする。今日この服でいいやってあまり考えずに決めるんじゃなくて、結局同じ服を選ぶことになっても意識して考えたほうがいいよね」
 「ん? うん。そうだね。それはそれで大事かもだけど。それは俺が言いたいこととはちょっと違うかな……」
 雲の切れ目が大きくできて日差しがちょうど東屋を照らした。
 その太陽の熱のせいで夏珠が顔を赤くしているわけじゃないことは明らかだったが、俺はそこには触れないでこみ上げる笑いをこらえていた。
 昔から夏珠は伝えたいことを微妙に取り違えて解釈する癖があった。
 今なおずっと握っていた手と反対側の手で夏珠は拳を作った。
 「ちょっ、待って……」
 座っている状態の太ももあたりに拳が振り落とされた。ズンという音とともに鈍い痛みが走る。俺は何も悪いことはしてないようなと思いかけて思考を止める。夏珠はそんなオレの思考も読み取る恐れがあるからだ。
 少し上の方から目を細めて夏珠は俺のほうに鋭い視線を投げかける。
 「あの……、ごめんなさい」
 「よろしい」
 ふふっと打って変わって無邪気な天使の微笑みが眩しかった。

春の雪と夏の真珠(第二十三話)

第二十三話

 雨に包まれた空間が肌寒いわけではない。緊張とも違う。それでも俺の体は震えていた。
 俺の話が終わると夏珠はそっと俺の手を取り、握ってくれた。過去にいつだって俺が不安や悲しみにくれているときそうしてくれたように。
 「ごめんね。ずっと苦しい想いをさせてたんだね。あのときから、一番そばにいてあげなきゃいけないときから私は遥征くんの隣にはいなかった。本当にごめん」
 夏珠の手に力がこもる。その暖かく柔らかい手に俺は何度と癒やされてきたんだった。
 雨はさらに勢いを増し、東屋の中心に居ても濡れてしまうほどだった。
 雨の匂いに混じってすぐ隣にいる夏珠の匂いが時間を忘れさせる。今この瞬間だけは時間が止まってくれればいいのにと願う。
 「私の番だよね。遥征くんの話を聞いて私が何か言う前に私自身の話をするべきなんだよね」
 夏珠は俺の手を取りながら時間を逆行していく。
 「私はずっと震えが止まらなかった。あの事件があってからずっと。
 事件当日、遥征くんがずっと抱きしめていてくれた。その間だけは唯一落ち着くことができたのに。
 事件の後すぐに私の両親は引越しの手続きを済ませた。私があの町にいたという痕跡をあらゆる手を尽くして消していた。それは後になって遥征くんが追ってこられなくするためかのように。
 私はそれをただ見ていることしかできなかった。頭ではダメだとわかっていても事件のショックからなのか体が言うことを聞いてくれなかった。
 部屋に引きこもっていても外からの眩い光は認識できた。こんなにも私の心は暗く深く沈んでいるのに秋の空はどこまでも広く晴れ渡っていて、太陽はすべてを明るく照らしてくれるような光を放っていたのを覚えてる」
 夏珠が語り始めた言葉を一語も聞き漏らさないようにつないだ手からも全身で夏珠を感じた。
 「それでも私の心の闇を照らすことは叶わなかった。そこまで闇が深いのか、私が照らされること自体を拒否しているのか自分でもわからなかった。
 会いたい。
 遥征くんに会いたい。
 引越しはすぐだった。事件から三日という早さで。当日私は家を飛び出して遥征くんのところに行こうとした。けれど外の世界にはみな同じ顔をしたモンスターがたくさんいた。後に心療内科を受診してわかったことだけど、私は軽度の対人恐怖症になってしまってたの。道行く人が怖くて呆然とした。それ以上動くことができなかった。
 両親は私のことを心配する一方で遥征くんと引き離す好機とも思ったようなの。抵抗する力を失った私をあっさりと連れて福岡へ飛んだ。
 高校にはまったく通うことができなかった。父も母も世間体ばかりを気にしていて私のことを本気で考えてくれているようには見えなかった。周りの景色はあまりに異質に見えたし、毎日外を眺めるだけで吐き気がした。
 高校三年になり周りは受験だなんだで忙しそうに動いていたんだと思う。私は学校に通っても教室に足を運ぶことはできず、心療内科の先生に紹介されたカウンセラーの人と一緒に保健室で最低限の出席日数をかせいだ。
 受験なんてとても考えが及ぶはずもなく、あっさり高校生活最後の一年を何もしないで終えた。
 高校こそ卒業したものの私の人生はもう終わっていた。本当に何もやる気が起きなかった。朝になれば目が覚めて食事を取る。部屋で遥征くんのことだけを想い、夜になれば眠る。
 『生きる』という行為の定義はなんだろうって思った。私は生きていないんじゃないかって。どんなに晴れ渡った空を見ても気分は晴れ渡るどころか暗く沈んでいく。
 誰も助けてくれない孤独を味わった」
 夏珠には辛い過去だろう。こんなにも暗い声の夏珠を前にしたことがあっただろうか。
 「夏珠? 大丈夫?」
 「うん。ごめんね」
 夏珠が握る手の力が心無しか強まった気がした。
 「カウンセラーの人はそれでも毎日私の元を訪ねてくれた。でも私はほとんど心を開かなかった。かろうじて敵ではないと認識することができた程度で、恐怖の対象には変わりなかった。
 変化が生じたのは、カウンセラーの人が自分の四歳になる娘を連れてきたとき。
 『結菜っていうの。私の娘』
 結菜ちゃんは人懐っこかった。子どもは感性が鋭いから私みたいなどん底の淵ですさんでいる人間を無意識に忌み嫌うものだと思っていたのに会った瞬間から私に飛びついてきた。
 不思議と結菜ちゃんを敵やらモンスターやらと認識することはなかった。
 『子ども好きでしょ?』
 そう言われて私は子どもが好きなことを思い出した。
 『今度保育園に行ってみない?』
 私はなるべく外の世界の住人を見ないようにしながら保育園に行った。そこにはたくさんの子どもがいた。彼ら彼女らは世界が美しく楽しさで溢れていると信じてやまない無垢な心で遊んでた。
 『おねえちゃん、遊ぼ』
 そう言われて胸が高まるのを感じた。周りを囲まれ、子どもたちと様々な遊びをした。お人形遊び、レゴブロック、線路をつなげて電車を走らせ、縄跳び、ボール遊び、鬼ごっこ、じゃんけん。
 疲れたりすることはなかった。一緒に遊べば遊ぶほど元気が湧いてくる。そんな感じだった。
 『おねえちゃん、好きな人いるの?』
 五歳児ともなればもう簡単なガールズトークはお手の物だった。
 『うん。いるよ。大好きな人が。今は遠く離れたところにいるんだけどね。また会えるように頑張ってるんだ』
 そんなことを言ったと思う。実際はそのときまだなんにも頑張ってなどいなかったのに。でもそれが決意表明になった。私は私のできること、やるべきことをやろう。こんな姿じゃ遥征くんに嫌われる。しっかり地に足付けてまた遥征くんに会うんだ。私は猛勉強をした。専門学校でもよかったけど、いろんなことを知りたいと思った。昼間は保育園で子どもたちと遊び、夕方から夜にかけて勉強と対人恐怖症を直すリハビリメニューをこなした。
 一年浪人して頑張った結果、対人恐怖症も緩和して大学に通うことができた。東京の大学はあまりに人が多くてちょっとハードルが高かったけど、辛い時は遥征くんに会いたい想いで頭をいっぱいにすることで乗り切れた。
 上京して一番最初に向かったのは遥征くんの実家だった。久々に中学高校を過ごした町を歩いて心が踊る一方で、思い出したくないことまで頭をかすめてしまった。でも私は過去の記憶に押しつぶされない程度には強くなっていた。
 駅から遥征くんの家に向かう途中、駅前の商業施設、大きな市立病院、夏祭りが行われた公園、二人だけの秘密の桜スポット、一つ一つ丁寧に私たちの聖地を巡礼して想い出を再構築した。
 早る気持ちを抑えきれずに上京とともに出向いてしまったのは失敗だった。あと一週間もすれば桜は開花して想い出通りの姿になるだろう。そしたら遥征くんもここに来るかもしれない。そう思ったから。
 その年から現在に至るまで私は毎年二人だけの秘密の桜スポットに桜を見に行った」
 夏珠は毎年あの場所に桜を見に行っていたという。俺はどうかといえば、ここ何年かは行ってなかった。夏珠と別れてから十年近くは毎年無意識に訪れていたのに。
 夏珠も俺と別れて苦しんでいたことを知り、そして今なお俺のことを想ってくれているような気さえして感情がぐるぐる変化していく。自分が今この瞬間に抱いている感情がなんなのかわからない。嬉しい、悲しい、楽しい、ムカつく、そんな基本的な感情すらわからなかった。
 夏珠とはすぐに会える距離にいた。なんなら同じ日のわずかに異なる時間に同じ場所で同じ景色を眺めていたのかもしれない。
 雨に濡れた空気はしっとりしていた。
 梅雨の始まりとは思えない空気の質感が辺りを包んでいる。
 十四年経ちようやく俺と夏珠はまた同じ景色を一緒に見ている。桜ではないが、夏珠が好きな雨の景色を。

春の雪と夏の真珠(第二十二話)

 第二十二話

 急に強い雨が降ってきた。ちょうど住宅街の一角にある小さな公園に差し掛かり休憩にぴったりの東屋が目に入った。中心に木で丸く椅子が設えられていて、俺と夏珠は雨に濡れないようにできるだけ東屋の中心の椅子にぴったり寄り添うように座った。
 強い雨に打たれて垂れる木々の緑は晴れに見るそれよりも濃く、雨と草木の香りに満たされた空間は心地よかった。
 「雨かなり強まっちゃったね。どこまで話したっけ?」
 「今の奥さんと出会ったところ」
 夏珠は「今の奥さん」と言った。特に意識してのことではないとは思うが、俺にはどこか伏線めいた表現に感じた。
 言葉を発さなければ広がるのは雨の音だけ。またしても二人だけの世界が演出され沈黙が妙に艶っぽくなる。逢瀬なんて甘美な響きのものではないと思っていたのに次第に雰囲気は変わる。俺も夏珠も自身に内在する時間軸にブレが生じているかのように現在、過去、未来と定まらない時空間に揺らいでいた。
 不思議な距離感に身を置いていた。物理的にも精神的にも。端から見たら恋人か夫婦か、そのように見られてもおかしくない。それでもなんらそこに違和感はなく、ずっとそうだったかのように俺と夏珠はそこに寄り添って座っていた。
 
 広告代理店の仕事は要領よくこなせば定時に帰ることが可能なほどに落ち着いてきていたが、単純な仕事量はいくらでもあった。そのため生き甲斐を仕事に見出していた俺はいつだって進んで残業をして仕事に精を出していた。人より仕事ができないとか、逆に人より先に出世したいとか、そのどちらでもなくただ打ち込める何かが欲しかった。
 彼女と話すようになってからはほぼ毎日残業を共にした。彼女は時に俺の仕事を手伝い、俺も彼女の仕事を手伝ったりした。急を要する仕事をしていたわけではないが、かと言ってだらだらと仕事をしていたわけでもない。お互いに真摯に仕事と向き合っていた。
 「真っ直ぐ家に帰ったりしないのですか?」
 さほど親しくない女性に対してはデリカシーのない質問だと思った。けれど彼女は気にする様子もなく、予定もないしと帰ろうとしなかった。
 毎日残業を共にしてても会話は一言二言とあまりお互いのことを話したりはしなかった。それでもお互いに意識し始めているのはバレバレだった。
 「なんか朝田くん見てるとこっちまで仕事したくなるんだよね。昼間は眠くてやる気でないからさ、夜静かに仕事こなすのもいいもんだなって。ね、キリがいいとこでご飯でも行こうよ」
 あるとき急にそう誘われた。同僚との付き合いなどは煩わしくていつも即答で断っていた。でも彼女の誘いには自然と応じてしまった。
 話してみると、やはり価値観や物の見方などが自分とは大きく違うことがわかった。ただ俺はそこに魅力を感じた。そして彼女の方も価値観が違う相手のほうが楽しめる質らしかった。話していくうちにわかったことは、空気の読めない独特の発言がとにかく多いこと。俺はそれが心から面白いと思った。
 「今日ね、他の部署に出してた書類を取りに行ったの。そこの部署での決裁をもらわないといけなくて昨日出してあったんだけどさ、夕方取りに行ったらまだ決裁の判子をもらってませんって。正直カチンときて言っちゃったよね、『ってか今日一日何をしてたわけ?』って。そしたらだんまりよ」
 「さっき見た? 柿屋専務の子どもすごい騒いでたね。でも専務落ち着きなく動き回っても嫌な顔一つせずニコニコしてて。あんな完璧なパパいるのかな、なんか嘘っぽいよね? いや、ほんとなら別にいんだけどさ」
 一度だけ仕事の後に俺と彼女の他にもう三人を連れ添ったときがあった。その中に一人太った女性がいたのだが、ご飯を食べているときに偶然その太った女性の妹とその子ども、つまりは姪が居合わせた。
 姪は人懐っこく俺たちのテーブルに何度も来ては食べたり飲んだりを繰り返し母親に食べ過ぎと注意されていた。それを見て彼女が良かれと思って言ったことが強烈だった。
 「あらあら、よく食べるね。でもあんまり食べると豚さんになっちゃうよ。子豚さんかな? 子豚さんかな?」
 言ってる本人は目の前に太ったその子の叔母がいることはもはや頭にはない。というか、その人が太っていることなどまったく気がついてないとでもいうような感じだった。つまりは、まったく悪気はないのだ。周りはすぐその気まずい雰囲気を察知して姪を遠ざけ話題を変えたが、言った本人は何事もなかったかのように変えられた話題についてくる。
 そんなエピソードが俺にはツボだった。次第に彼女と話すことが楽しみになってきていた。気づけば休みの日に会うことも増え、プライベートを共にする時間も増えていった。 
 それでもこの頃はまだ夏珠の影を探していた。彼女の中にある夏珠と似ているところを見つけたり異なるところを感じたり、言葉にしないながらもすでに恋人のような関係になっていたにも関わらず俺は相変わらずの状態だった。
 彼女は聡い。一度言われたことがあった。
 「未だに忘れられない人でもいるの? 私の中にその人を見てる気がするんだよね」
 正直驚いた。
 俺は何も言えず彼女との関係も終わったと覚悟した。
 「一途なんだね。そいうところ好きだな。ねえ、私のことは好き?」
 それからは一気に時間が流れていった。夏珠のことを忘れたりすることは結局一瞬たりともなかったけれど、彼女といるとそんな自分でも救われた気がした。彼女にも夏珠にも悪い気はしてた。でも彼女は強かった。そん俺を支えてくれた。そんな強さに俺は甘えた。そうやって気がつくとその彼女と結婚としていた。
 そして、季節は巡った。桜の季節に、桜の木の下で、夏珠に再開した。
 運命だと思った。夏珠とのことをちゃんと向き合うことなしに俺は前に進んではいけないんだと確信した。絶対に曖昧にしちゃいけないんだって思った。
 降りしきる雨のせいで時間の感覚がまったくない。どれだけ時間が経ったのだろう。あとどれくらい二人の時間が残されているのだろう。
 「俺はわからないんだ。あんなことがあったけど、夏珠を長いこと放っておいたけど、それでもずっと夏珠のことを想ってた。結婚して子どもまでできて、それなのに夏珠はずっと俺の心の中にいて。俺は夫としては最低なんだと思うけど、こんな俺を妻は必要としてくれて。でも俺は、それでも俺は夏珠をずっと心に留めたままでいる」

春の雪と夏の真珠(第二十一話)

第二十一話

 ほんのしばらくの間、いや、かなり長い間だったのか。俺は無意識の狭間で動けなくなっていた。精神的にきてしまっていたようだ。
 意識をしっかり持ったときにはすでに夏珠の姿は俺の前から消えていた。今までの事が夢だったかのように、夏珠という存在は綺麗に消え失せた。
 同時に、今まさに自分の身に起きていることが夢であってほしいとも願った。これは夢で、目が覚めればそこにはいつものように夏珠がいて、優しく微笑んでくれる。
 朦朧とする頭を動かして状況の理解に努めた。
 夏珠は福岡に家族で引っ越すことが決まり、すでにそちらに移ってしまった後だという。夏珠の携帯の連絡先は変更されていて、高校生の俺個人の力では夏珠の情報を引き出すことは難しかった。
 夏珠が自分の意志で俺との別れを望んでいるとは思えなかった。自惚れでもなんでもなく、俺たちはそういう関係なんだと確信めいた想いがあった。親同士で引き合わせることがないように何か仕込んでいると疑心暗鬼になった。それからというもの夏珠以外に対しては完全に人間不信に陥ってしまった。
 夏珠の学校、夏珠の友達、住んでた家の周り、あらゆる手がかりを当たってみるも、周到としかいえないほどに口止めされてるのかのように誰もが口を開くことをしなかった。
 結果として高校三年になっても俺は何も手につかなかった。親とは毎日のように衝突を繰り返し、無為に高校最後の一年を過ごした。ただ夏珠への想いだけは心にしっかり灯ったままで。
 今思えばどうせ何もしてないのだし、あの時ただひたすらにバイトでもすればよかったなと思う。そうすれば早い段階で福岡に行くお金はできただろう。もちろん福岡に行ったところで探すのは難しいだろうが、無駄に過ごすくらいならそのほうがよっぽどいい。
 俺はとにかく馬鹿だった。こんな俺を見て夏珠がどう思うのかすら考えが及ばなかった。結局自分のことだけしか見えてなかった。
 よくあるドラマじゃこの場面で人生を変える出会いがあって立ち直るのが王道展開だが、俺はただ時間をかけて自分自身で落ち着きを取り戻していった。
 高校を卒業して半年。ダメだと思った。もし急に夏珠に会えたとして俺はどんな顔をして会えばいいのかって思った。今の自分にできることをしようと思ったのはその時だった。
 がむしゃらに勉強した。どこでもいいから入れる大学で一番いいところを目指してとにかく勉強に明け暮れた。やりたいことがあったわけじゃないけど自立した人間になるにはいろんなことを知る必要があると感じた。
 大学に入ってからも勉強は続けた。かろうじて入れたのはそれなりに名のある大学だったし、無駄にしたくなかったから努力はした。おかげで全然大学の友達はできなかった。与えられた時間はすべて勉強とバイトに費やした。
 御茶ノ水にあるすごくいい雰囲気のカフェを偶然見つけたのは大学に入ってすぐの頃のことだった。家からも大学からも特別近いわけじゃないのに集中してがっつり勉強したいって思うときは決まってそこに行って勉強した。開放感にあふれた造りで、一人ひとりに与えられるスペースが広々としている。それに反してプライベートな空間がしっかりと演出されていて、適度な照明の灯りやコーヒーの香り、気にならない程度のBGMと店内の騒がしさが心地よかった。
 勉強が一番のルーティンワークになりつつあったためにバイトは居酒屋から家庭教師にすぐ切り替えた。最初は時間効率の悪い仕事だと思ったけど、力が付いてくると個人契約になって直接俺に対して高い報酬が払われることが増えてきた。
 たぶん大手の企業に勤める新卒の倍くらい給料もらってたと思う。そして俺はそのお金で春休みを使って福岡に行った。なんの手がかりもなく行く初めての町はどうしていいかわからず途方に暮れたのを覚えてる。
 東京と比べて空気が美味しいのはすぐにわかった。福岡も中心地は東京と変わらない喧騒が広がってはいたが、東京ほど雑多な感じはなく嫌いじゃなかった。
 「準備はいいんかね?」
 「みんなそうしちょるけんね」
 「ちょ、なにしとー」
 年配の人、俺と同じくらいの人、小さな子ども、それぞれから独特のイントネーションの方言が聞こえてくる。同じ日本人。見た目は誰も彼も都会の様相とそこまで違いはなく、決して田舎臭いとは思わない。それでも会話を聞いていると、標準語が聞こえてくる頻度は圧倒的に少なかった。
 どこに向かっていいのかもわからない。俺はタクシーに乗り、主要な名所を巡った。けれども観光に来たわけではないし、地元民よりも外からの人間で溢れた場所に夏珠がいるとは思えなかった。かといって住宅街を無作為に歩いたところでどうにかなるわけでもない。
 北九州は小倉。
 なぜそこに行き着いたのかは自分でもわからない。駅は近未来を思わせる造りで近大都市のように豪華な印象だったものの、少し駅から離れると田舎をイメージしたときに思うそのまんまの風景が広がり、東京とのギャップに見入ってしまった。
 タクシーで街を移動していると、特攻服を着た男たちが派手な演出のもと騒々しく歩いていた。距離を置くように普通の学生服を着た男女の集団も見える。きっと高校の卒業式なのだろうと思う。そういえば成人式の式典で毎年大暴れでテレビに特集されているのはこの辺りの地域だったかと思い出した。今もなお時代錯誤なあんな格好をして歩く人間がいることに驚くも、これもある種の伝統だと思うと、良くも悪くも伝えゆくべき文化なのかもしれないなと思う。
 結局、福岡でできることは皆無だった。正直本当に夏珠を探す気があるのかも自信がなくなっていた。いざ会ってもどんな顔をしていいかわからない。
 天神にて夏珠の幸せを願った。自分はどうなってもいいから、夏珠の人生が幸せであってほしいとそう願い、俺はそのまま東京に戻ってきた。
 大学に通うなかでその頃には俺にも新しい彼女がいた。文化祭を通じて付き合うという大学生の典型を体現していた。でも彼女ができてもずっと夏珠を見ていたんだと思う。直接彼女と夏珠を比べるようなことは絶対にしてないとは思うけど、彼女のほうは俺がどこかうわの空なのに気がついていたようだった。春休みに黙って福岡に行ったことをきっかけに関係がぎくしゃくしてわずか四ヶ月くらいで別れることになった。
 今思うとなんであんな簡単に彼女を作ってしまったのかと思う。でもたぶん誰でもよかったんだ。夏珠の代わりになれる存在なんかいない。それでも一人よりかはマシだと考えていた。結局のところ後に残ったのはひどい虚無感しかなかった。自分が本当に心を動かされるような人間と出会うまでは恋愛なんかしないようにしようと決めた。
 けれどもそんな誓い虚しく、多感の時期の男なんてそんなものだろうけど欲望にのまれて複数の女性と交際をすることになった。言葉は悪いがすべてにおいて本気になれる恋なんてものはなく、惰性の遊びとしか俺には映っていなかった。当然どれ一つとして長く続くものはなく、いつだって虚しさを強めていく結果になるだけだった。
 その後は大学を卒業するまで恋愛をすることはなかった。遊びと言えど人付き合いが疲れる煩わしいものに感じられた。何度か合コンに誘われたりもしたけどいつも断っていた。
 大学四年のときにどうしてもって友達に誘われてギリギリまで行くことにしていた合コンがあった。
 「四対四で数が合わなくて困ってる。お金は全部負担するから、いるだけでいいから」
 メンツを聞くと実に冴えない男ばかりで、その中でだったら何も話さなくても俺は目立ってしまうんじゃないかと自惚れでもなく本気で思った。けれどもそこまで頼まれては、しかも条件も自分にとってそんなに悪いものではないし、ちょうどその日の予定も空いていた。
 当日、俺は欠席した。思わせぶりなのは良くないと思ったからだ。仮定の話だが、もし参加して俺に気を持った女の子がいたりしたら悪い気がしたから。正直に数合わせなんだと言ってしまい興を削いでしまいそうだったから。
 後日談だが、当日相手の女の子たちにも欠員が出たとのことで結果三対三で無事合コンは行われ、くっついたペアもあったとのことだ。
 大学を出てからは一応それなりに大手の広告代理店に就職した。塾や家庭教師の業界に名前がそこそこ知れ渡っていて、かなりのお誘いをもらってはいたけれどやりたいことはそれじゃなかった。俺は今なお達成はしてないけど、広告という媒体を使って夏珠にだけわかるメッセージのようなものを送りたいと思っていた。
 広告代理店での仕事はかなり激しかった。毎日のように残業で下積みの時代は長かった。俺が思ってたのとはだいぶ違っていて、自分で広告を作るなんてのは土俵違いでほぼ不可能なことは早々と理解した。それでもあがいてあがいていつか職権乱用をしてでもやり遂げてやろうと毎日を頑張って生きていた。奇しくもそんな中で出会ったのが、今の妻だ。
 「いつも遅くまでご苦労様」
 一つ年上の彼女は役職こそ俺と変わらないまでも先輩には違いないため最初は距離があった。同じ部署でも密な関わりがあるわけでもなかったし、話し込む仲ではなかった。
 三年経ちなおも俺は仕事の鬼と化して打ち込んでいたとき、そんな俺の姿が目に止まったと後になって妻は言っていた。
 「そんなにムキになってやることもないと思うけど?」
 一人残業を遅くまでしていたとき背後から声をかけられた。
 「お疲れ様です。特に予定もないので、できるうちにやっておこうと思ってやってるだけです」
 その答えには納得してない様子だった。
 「なんか悩んでるの?」
 当たらずも遠からずだが微妙に俺のことを誤解しているようで、その不意をついた一言に俺は笑ってしまった。
 「何? そこ笑うとこ? ほんとに心配で気になって声かけたのに」
 照れくさそうに少し怒る姿は思ってた印象とは違った。
 彼女を見て素直に綺麗だと思った。肩にかからないくらいに切りそろえられた髪がいわゆるできる女を演出していた。彼女については、その物言いに凄みがあり、あまり怒らせないほうがいいんだろうという印象をかねてから持っていた。思ったことを何でも言ってしまう性格で、本人には至って悪気はないのだけれど周りが見えてなかったり空気が読めなかったりですごい発言を飛ばしていることを多々目にしていた。
 だからそんな彼女の思いがけない姿にはややギャップめいたものを感じてお互いのことを少しずつ知っていくうちに俺は身にまとっていたバリアを彼女に対してだけは自然と解いていってしまっていた。

春の雪と夏の真珠(第二十話)

第二十話

 付き合っていた頃、雨の日の散歩のとき夏珠は雨についてあれこれ説明してくれた。特別感心するほどのうんちくがあったわけではなく、ただただ見える世界を丁寧に描写して、一面的に見ていた俺にいろいろ気づかせてくれた。
 慣れてくると、雨の日の散歩に限って会話はあまりしなくなった。もともと静かに歩いてその世界に没頭するのを楽しむという話だったし、不思議と何も話さないでいると取り巻く世界には二人しかいないような気がした。まるで研ぎ澄まされた五感が互いに通じ合っているようだった。
 その証拠に、俺たちの雨の散歩に決まったコースはなかった。目的地を決めずに歩く。その間お互いに一言も話すことがなくとも自然と歩く方向、曲がる方向、休憩するタイミング、そのすべてが呼吸を合わせたようにうまくいっていた。
 「ここのカフェで休憩しようって思ってたのわかった?」
 「うん。二つ目の角を曲がる辺りで思いついたでしょ?」
 そんな神がかったやり取りをよくしていた。
 月日が流れ、再び二人で会う日に雨が降るというのもどこか運命的なもののように俺は感じていた。
 駅から随分と歩いたところ、外観からして見事な高級マンションの敷地に俺が入っていくと夏珠は驚いたように声を上げた。
 「え? マンションだよ?」
 夏珠のリアクションは最初に俺がここへ連れてきてもらったときとまったく同じものだった。けれどそれも無理はないと思う。西洋の教会をモチーフに造られたようなそのマンションは白とピンクの大理石が光沢を持ち、ところどころにある彫刻は威厳を放ち、敷地内の庭につながる通路にはステンドグラスが色鮮やかに光っていた。
 住人以外は立ち入り禁止と言われても驚くことはないくらい周囲の建物とは違う次元に存在していた。
 「どこいくの? 近道とか? こんなとこ通って大丈夫なの?」
 俺もまったく同じことを最初に思ったわけだが、夏珠のその素直なリアクションはかわいく、からかいたくなった。
 「わかんない。ちょっと迷ったかな? オシャレだったからちょっくら拝みたくなって来ちゃったけどダメかなやっぱ」
 「え? ホントに? 絶対ダメだって。住んでる人のパスとか必要なんじゃない」
 敷地に入るだけで毎回パスを見せなきゃいけないマンションなんてどんなだと俺は心の中で夏珠のうろたえっぷりに微笑んだ。
 「なんてね。ほら、あそこ」
 俺は種明かしをした。マンションの敷地内の一角、ひっそりこじんまりとしたお店がなぜか不自然にそこに収まっている。
 「知る人ぞ知る、超が付くほどの隠れ家の名店」
 次の瞬間、夏珠は言葉を発するより先に全力のグーパンチを俺の腕に放った。無言のままさらに拳を振りかざすために俺は全力で謝った。
 「待って待って。ごめんごめんごめん。驚かせたくてつい」
 「嘘。私のリアクション見ておかしくなって笑ってたんでしょ」
 相変わらず鋭いなと思う一方で、昔と変わらない怒ったときの反応には怒られながらも懐かしさを感じて頬が緩む。
 「何? なんでニヤついての? やっぱ馬鹿にしてたんだ」
 「ごめん、違うって。夏珠なんだなって」
 「なにそれ、意味わかんないし」
 「ほら、美味しいもの食べよ。すごくオシャレでいいとこでしょ?」
 夏珠はまだご機嫌斜めで何か言いたそうだったが、俺は夏珠の手を取ってお店の中に入った。
 店に入るまで自分がしたことになんの違和感も感じていなかった。当時付き合ってたときのように機嫌を直すために手を取って歩き出すということを俺は当然のようにしてしまっていた。
 だが夏珠も店内の様子に見入っていてそのことに気がついていないようだった。もしかしたら夏珠にとっても当然のことと当時の感覚になっていたのかもしれない。
 店内は温かみのあるウッド調のテーブルとイスに、ヨーロッパをモチーフにした内装が施されていた。看板メニューはガレットだ。すでに食事を楽しんでいる人たちはナイフとフォークを用いて優雅に、まるで貴族のような雰囲気をまとって食べていた。
 俺は何事もなかったかのようにそっと手を離し案内されたテーブルに夏珠をエスコートした。
 「ガレットのお店なんだね。すごいオシャレ」
 こういうリアクションはやはり女の子なんだなと思う。好きだと思うことに対してはいつだって素直に喜んだりしてくれる。
 俺たちは毎月変わるというお店のオススメを注文した。
 最初に来たのはズワイガニを使ったクリーム系のソースがかかったガレットで、食欲をそそる香りが一気にテーブルに立ち込めた。反射的にお腹が鳴り、聞こえたんじゃないかとひやひやしたが夏珠は目の前にあるガレットによだれを垂らさんとばかりに夢中になっている。
 二人でシェアしてほんの一瞬でぺろりと平らげ、そのお互いの食べっぷりに目と目が合ったとき大きな声で笑ってしまった。
 「お腹空いてたんだね」
 俺が聞くと夏珠は、
 「遥征くんだって」
 と、照れくさそうに口を尖らせた。
 次に運ばれてきたのは、デザートのガレットだ。
 オレンジとバニラアイスに濃厚なチョコのソースが綺麗にかけられている。さらにこの上にブランデーを垂らして火を付けるという。
 テーブルの上のガレットが赤と青の炎を交えながら燃え上がる。オレンジとお酒の香りがこれまた食欲をそそり、夏珠は今にも飛びつきそうに見えた。
 味わい楽しむことも忘れてはいないが、お腹が空いていたのと美味しさのあまり手を休めず食べていたのとであっという間に食事は終わってしまった。
 まだ何一つ中身のある話をしていないと思うも、何をどう切り出していいのかまったくわからないでいた。世間話をするために今日この機会を得たわけじゃないことくらいわかってる。それでも俺は話題を慎重に選びながら話すことを止められずにいた。
 自分のことでいっぱいいっぱいだったが、夏珠もどこか俺と同じ気持ちでいるような気がした。夏珠から振ってくる話題も当たり障りのないものばかりだったからだ。お互いに会話を弾ませてはいても中身がすかすかな気がしてならなかった。
 次第に雰囲気が重たくなってくるのがわかった。そしてついには沈黙が訪れた。
 かつてであれば夏珠とは沈黙すら心地よく感じられる関係だったと思う。
 「夏珠、場所を変えようか」
 「うん、そうだね。少し歩こ」
 カフェで話をするには少し空気が違うことを考慮して俺たちはお店を後にした。
 「いいお店だね。すごい美味しかったし、また一人でも来ちゃいそ」
 お店を出たりすると決まってちょっと先まで小走りで進み感想を漏らす。これも昔から変わらない。
 夏珠は自分の行動に少しバツが悪そうな顔をした。恥ずかしそうに俺を見る。
 「また一緒に来ようよ」
 そして俺たちはいつもの日本の見慣れた風景の街並みに戻っていった。
 時計を見ると二時前だった。
 妻と凰佑が帰ってくるのがおそらく五時過ぎ。
 移動時間も考えるともうあまり時間も残されていなかった。
 降っていた雨は止み、ときおり雲間から光が差し込んできていて、梅雨独特の蒸し蒸しとしたじとじと感が肌につきまとう。
 雨が止んだのは切り替えのサイン。
 俺はそう感じた。
 隣を歩く夏珠もそうした変化を感じているのがわかる。俺は自然に切り出すことができた。
 「あの保育園にはいつから?」
 「もうまる四年経つのかな」
 「東京にはいつから?」
 恐る恐る聞いてはいたがもう変な緊張感もなくなってきていた。おそらく夏珠も同じ感覚なのか力みがなくなったような気がする。
 「大学で東京に出てきた。それからはずっと東京」
 「え? そうだったんだ……」
 聞けば住んでいたところも俺が大学時代に住んでいたところとけっこう近いことがわかった。
 「どんな大学生活だった? いや、その前に聞いておかなきゃいけないことがあるね。福岡での生活はどうだったの?」
 夏珠は高校二年のとき、福岡に引っ越した。
 「遥征くんの話を先に聞かせてよ。あの後のこと。全部聞きたい。どんな高校生をして、どんな大学生をして、どんな社会人をしたか。どんな人を好きになって、どんな人を嫌いになったか。どんなことを考えて生きてきたか、どんな景色を見てきたか。全部」
 かすかに夏珠の声が震えた気がした。

春の雪と夏の真珠(第十九話)

第十九話

 五月最後の週の日曜日はあいにくの雨だった。例年よりやや早い梅雨入りとなったようで、この先もしばらく予報に雨マークが並んでいた。
 晴れていれば少し散歩でもと思ったが、この雨では歩くのも億劫だと思った。午前はカフェで時間を潰し、ランチを食べ、再びカフェに落ち着こうと簡単な計画を考えた。
 さすがに最寄り駅付近は誰かに出くわす恐れもあったため、雨でも決行するという遠足の場所も考慮したうえで駅を選んだ。ずいぶん早く到着してしまい先にカフェに入ることにしたのだが、カウンターしか空いてなかった。
 一瞬考えたが、夏珠が来るまでに空く可能性もある。カウンター席からは駅を一望できるため、俺からも夏珠からも発見しやすいと思いとりあえずカウンターに座った。
 二階から見下ろす駅には多くの人間が行き交い、色も大きさも違う様々な傘が街を彩っていた。
 たまに無性に雨が恋しくなるときがある。この先ずっと雨と思うと鬱蒼とする部分もあるが、今日に関して言えば久々の雨だ。雨の匂い、雨によってもたらされる雰囲気、雨は見慣れた街並みをも変化させる力を持つ気がする。
 安い透明なビニール傘で雨をしのぎ客引きをするカラオケ屋の店員。青い傘と赤い傘を仲良く並べてバスを待っている母子。ひときわ目立つ黄色の傘を持つ高級そうな洋服に身を包んだ女性は駅の中に勢いよく吸い込まれていく。都心の派手な装飾に負けじと各々の傘たちが存在感を露わに優雅に踊っている。
 黒い折りたたみ傘は自転車を走らせる女子校生によるもの。ピンクの花柄の傘は同じくピンクのレインコートを着た小さな女の子とともに舞う。
 雨の有無に関わらず、こうして街を見下ろすことができるカフェの窓際でぼんやりと眺めるのは面白い。行き交う人の数だけ物語があると思うとなぜかうっとりしてしまう。
 駅が見えてもこれだけ人がいたら夏珠を見つけるのは難しいかもしれないと思ったのはまさしく杞憂だった。
 駅から出てきた一人の女性に目が吸い込まれていった。特別に珍しい格好をしているわけでもない。それなのに目が引き寄せられたその女性こそ夏珠だった。
 白のヒマワリ柄のワンピースに淡い白のロングカーディガンを羽織り、ほんのりピンク色をした傘を差して夏珠はこちらに向かっていた。
 待ち合わせのときはいつだってそうだ。どんなにお互いが遠くにいようとも、夏珠がいると信じて向けた視線の先には必ず夏珠がいて、向こうもこちらの目を真っ直ぐに見つめている。
 駅を出て傘の中から覗く夏珠と目が合った。手を振るでも何か口パクするでもなく、ただゆっくりと微笑む。どれだけ雑多な場所であっても、俺は夏珠以外は視界に入らなかった。
 「おはよ。相変わらず待ち合わせの時間よりずっと早く来てるんだね。そゆとこ変わらないんだ」
 夏珠からみたら俺はかなり几帳面な性格なのかもしれない。でもそれは夏珠自身との比較であって俺自身は特別几帳面でも神経質でもないと思っている。待ち合わせ時間のことにしても、夏珠のときに限ってのことで誰か別の人と待ち合わせをするときはぎりぎりに着くくらいにしてる。
 「おはよ。よく俺がカウンターにいるのすぐわかったね」
 「うん。そのカフェにいることはメールで知ってたし、いつもながらいるかなって目を向けると必ず遥征くんはそこにいるんだもん」
 十四年経って変わったものってなんだろうか。
 時代や街並み、俺たちを取り囲む周囲の環境は大きく変わった。そして俺たちの姿形も変わった。でもそこには変わらないものも確かにあるって思う。
 俺と夏珠は、時間がどんなに二人を長く遠ざけようとも絶対に変わらない何かを共に持ち合わせている。そんな気がした。
 「この辺りにはよく来るの?」
 辺りは駅の喧騒もすっかり届かないくらい閑静な住宅街だ。しとしとと降る雨の微かな音すら耳に感じるくらい静かだった。
 「いや、全然来ないよ。あの駅はターミナルだから駅付近はよく利用するけどここまでは来ない。昔、営業先の人にこの先にある隠れ家的なお店を教えてもらってさ。でも自分で行ったことはないからあんまり道覚えてないかも」
 カフェでまったりを決め込んでいた俺に対して夏珠はいきなりこの雨の中でも少し外を歩きたいと言い出した。もともとランチもどこと決めていたわけではなかったし、せっかくだから歩きがてら俺が知る唯一他人にお薦めできるお店に行こうということになった。
 大通りから狹い路地を入った。雨が降っていることもあってほとんど人の気配がなかった。
 「こんなふうに一緒に歩くのなんて久しぶりすぎるね」
 十四年だもんな。俺は言葉に出さずに頷いた。
 雨を恋しく思うときがある理由を思い出した。雨の中を散歩することを夏珠は好んでいたんだった。
 あれはいつ頃のことだっただろうか。
 「雨が降ってきたよ」
 夏珠は嬉しそうに俺の実家の窓から雨が落ちていくのを見ていた。
 「雨っていいよね」
 雨のいいところなんてこれっぽちも思いつかない。ただ、唯一雨に感謝することがある。それは結果として雨が俺と夏珠を恋人に昇格するチャンスを引き寄せてくれたことだ。そう考えると、雨が降ることは俺たちにとって特別なことなのかもしれない。でも日常的にみると雨はただ煩わしいものでしかなかった。
 「雨? 何がいいの?」
 「見える世界が変わるでしょ。雨が降ることで音、匂い、景色、雰囲気、いろんなことが変わるの。すごくない? 毎日降るわけじゃないからさ、たまに降る雨ってなんかすごくありがたいものに思えるの。雨を全身で感じて楽しんでみなよ。いいもんだよ。ね、じゃあ、散歩行こ」
 そう言う前からもう夏珠の手は俺の手を引っ張っていた。
 夏珠と一緒に歩いた雨の街並みは確かにいつもとまったく違って見えた。道路を走る車の音が雨の水とコラボしエッジが効いた感じに聞こえる。アスファルトが濡れることで立ち上る匂いも嫌な感じはしなかった。どんより暗いようでいて、一粒一粒落ちてくる雨が昼間から灯る街灯にきらめいていた。火照った体はひんやりした空気にすっと冷やされた。そのどれもが新鮮に感じられた。
 「そりゃあさ、超土砂降りとかだったらこんな気持ちにもなれないかもしれないけど、しとしと降る雨はなんとなく贈り物のような気がするの。だから私、梅雨もそんなに嫌いじゃないよ」
 贈り物。夏珠はそう言った。それ以来だったかと思う。雨が降るたびに俺は夏珠と散歩をした。夏珠の都合がつかなかったときは一人でも歩くようになり、晴れの日がしばらく続いたりすると雨が恋しいとさえ思うようになっていた。
 さすがに梅雨はうんざりもしたが、雨の恩恵を感じる程度には雨が好きになったのは夏珠のおかげだろう。
 以前通ったときは晴れていた。やはり見える景色はどこか異なる。
 「今でも雨の日には散歩したりするの?」
 独り言かと思うようなくぐもった小さな声を出してしまった。
 「うん。雨はやっぱり好きなんだ」
 夏珠は俺の声をしっかりと捉えてくれていた。

春の雪と夏の真珠(第十八話)

第十八話

 これから梅雨を迎える。昼の暑さとは打って変わって夜はまだひんやりすることもしばしばだった。ビール一杯ではほろ酔いすら感じないが、肌に受ける風は冷たく心地よかった。
 恋愛を糧に生きるモンスターとの対談はほぼ言葉の一方通行で幕を閉じた。
 情報が足りないとの指摘はまさにその通りで、俺はやんわりでも夏珠に対して抱いている感情を極力出さずに説明をした。事実確認としてはそのように客観的なほうが好ましいと思ったからだ。けれども、そこに本質がないことをあっさり見抜かれた。
 「まだ話せないなら無理に話さなくてもいい。かなり繊細な問題のようだからね。今日のところは早いがここまでにしよう」
 時間にしたら二時間としっかりしたものだが、その間に飲んだものはお互いにビール一杯のみ。俺が口を開いたのは状況説明のみで、あとはほぼワンマンライブをひたすら見ていた。
 俺が語ったのは夏珠とのごくありふれた思い出。決して平凡という域を出ないもの。その程度の思い出だけで再会を悩むほど俺は弱くないとの見立てをされたわけだが、それは買いかぶりすぎで俺は弱い。こと恋愛に関しては特に弱いと思う。
 今の妻と結婚して落ち着くまではそれ相応に恋愛をし、失恋もした。一人を好むようでいて恋人ができると急に寂しがり屋になる。かと言ってそれを態度に示すのはかっこ悪いと考え、距離感が中途半端になりうまくいかなくなる。ほとんどがそのパターンだった。
 誰かと付き合うといつも同じことの繰り返しだった。付き合った人はすべて全力で好きだった。別れてもなお思い出は大事に保存されている。どうやら俺は別れた相手全員に少なからず未練があるのだと思う。喧嘩して別れても、嫌いになって別れても、相手を好きだった事実がなくなるわけじゃない。俺は楽しい思い出だけを切り取って残していた。
 そうした思い出を並べたとき、確かに指摘された通り夏珠との思い出は特別大事に保存されていたんだとわかる。ありふれた思い出だけでも十分に心を揺さぶられてしまう。でも、もっと深い闇があるのは事実だろう。俺はそれを記憶の奥底に厳重に鍵をかけてしまった。
 無理に思い出すことは避けていた事実。
 夏珠と再会しなければ二度と開けることがなかったはずの記憶の引き出し。それを開けようとしている。そしてそれは開かねばならないものだとも理解している。
 緑の葉を静かに揺らす桜の木を見上げながらぼんやりと思う。今思い巡らせていたことを相談にのってくれた同僚には話していないなと。仮にも恋愛相談なわけで、もっと自分をさらけ出さなければ相手もアドバイスなどできないだろう。そして自分自身でも気づいている問題の本質を伝えることなく俺は漠然とアドバイスを求めた。
 冷たい風が強さを増す。「お前のしてることは相談相手に対して失礼なことなんだ」と怒られている気分だった。
 同僚の器量に甘えるかたちとなり飲み屋を後にしたわけだが、それでも浅い理解ながら十分に気付かされたことも多い。気付かされたというよりは気付かないふりをしていた事実をしっかりと認めさせられたというべきか。
 「あら、おかえり。意外と早かったんだね。終電で帰ってくるとばかり思ってたのに」
 家に帰れば妻がいる。それが今の俺には当たり前の日常だ。
 「うん。仕事の話だし、いまいち盛り上がりに欠けてね」
 部屋の奥から凰佑が出てくる。
 「パパー」
 寝るのが遅い凰佑は夜も元気だ。早く寝ろと言ってもなかなか言うことを聞いてくれない。
 抱きついてくる凰佑に心がほっとする。
 「みてー。わしおせんせい」
 女の子の形をした真っ白な絵に凰佑が色を塗ったようだ。無秩序にひっちゃかめっちゃかにぐりぐり塗りたくっているそれをご満悦の表情で目の前に出してきた。
 「おおー。よく描けてるね。凰佑はほんとに夏珠先生が好きなんだな」
 凰佑を寝かしつけに来た妻が意外そうな顔をしていた。気になったが凰佑を寝かすほうが先だと俺はお風呂に向かい妻と凰佑におやすみと言って別れた。
 熱いシャワーが身に染み入る。しっかりしなければと思う。
 寝室では妻が保育園の連絡帳にコメントを書いていた。
 「そういえばさ、さっきよく凰佑がわしおせんせいって言ったのが夏珠先生だってわかったね」
 ようやく鎮まり静まった心が一気に爆発するかのように膨れ上がった。暑さと寒さが同時に襲いかかってきて心拍脈拍すべてが上昇していくのがわかる。
 何か言わないと不自然だと思った。だがあまりの不意打ちに言葉が出てこない。
 「え。いや、ちゃんと聞いてなかった。凰佑が名前を出す先生は夏珠先生だろうと脳が勝手に置き換えてたから。わしお? 苗字だよね?」
 「保育園には一応写真と名前が書いてはあるんだけどね、隅っこのほうだしみんなちゃんと見てないからさ、私も知らなかった。鷲尾ってかっこいいよね」
 「鳥の鷲? だよね? たぶん」
 「そうそう。鷲の尻尾。鷲尾夏珠ってなんか宝塚のスターみたい」
 妻は字の並びの美しさを褒め称え笑っていたが俺は心から笑うことはできなかった。
 妻は俺に対して本当に何も感じていないのだろうか。とはいえ「俺ってなんか変じゃない?」などと自分から聞くことは疑ってくださいと言っているようなものでできるわけがない。
 聡い妻が何も気がついていないとは思えなくてうっすらと体が震えていた。このままベッドに入るのは無理だと思い、
 「カップラーメンってあったかな? あまり食べなかったから小腹が」
 妻は見る限りじゃ一切の変化もない様子で、キッチンにあるから勝手に食べてと俺を送り出した。