春の雪と夏の真珠(第六話)

第六話

 昨日に続いて今日も凰佑を送っていくのは妻だ。駅までの道のり、どうにもぼんやりとしてしまうなか、昨夜に夏珠から来たメールを見ていなかったことに気がついた。

 メールの内容は当たり障りのないシンプルなもので、会えて嬉しかったこと、またゆっくり話をしようということが書かれていた。すぐにまた保育園で顔を合わせるわけで、いつまでも返信しないのも変だと思い、同じような内容を打って返すことにした。

 朝の駅は人で溢れている。知っている人とすれ違ってもわからないことのほうが多いはずだが、ついすれ違う人間に気を配ってしまう。つい夏珠を探してしまっていた。会いたいのか会いたくないのかはっきりしない。そんなもやもやする気持ちを抱えたまま混雑率が異常な通勤ラッシュに俺は飛び込んだ。

 いつもと異なる日常となったからか、妙に時間が過ぎるのが早く感じる。あっという間に迎えた昼休み、スマホでぼんやりとニュースを眺めていると、三組に一組が離婚しているという記事に目が止まった。離婚の原因の第一位は性格の不一致らしい。

 思わず笑ってしまい同僚に指摘された。

 「なに携帯見てニヤニヤしてんの?」

 「いや、馬鹿だなと思ってさ。離婚の原因が性格の不一致なんだってよ。結婚すんなって話じゃない? 結婚や出産で性格が変わるなんてのはもちろんあるだろうけどさ、それも含めて理解するなり見極めるなりして結婚するんじゃないのかな。みんな安易に結婚しすぎだ」

 かく言う俺も偉そうに言えるほど考えて結婚したのかと聞かれると言葉に詰まりそうだが、少なくとも性格の不一致で離婚することはまずないと思う。

 「お互いに釣った魚に餌はやらないんだろう。結婚がゴールみたいなとこあるから。その後のモチベーションが続かない」

 この同僚は確かまだ結婚はしていない。彼も結婚願望がないわけではないが、本気でずっと一緒にいたいと思える人とは巡り合っていないそうだ。現在彼女はいるという。そうなると今の彼女に対してその発言はどうなんだと思うが、口には出さなかった。

 「ちなみに二位は?」

 「ん? 何が?」

 「離婚の理由」

 「あ、えっとね、二位は夫の不貞行為だって。でもこれのほうが納得かも」

 結婚は一応永遠の愛を誓うことであるわけでその契約期間内に他の女性に気が向くのはやはり良くないだろう。

 「なんかいい仕組みないのかね」

 同僚は真剣に悩んでいるようだった。食後のタバコを吸いながら渋い顔をしている。

 「なにが?」

 「縛られすぎじゃん? 結婚してます、恋人います、だから他の人を好きにはなりません。それっておかしくない? そうやってのっけからリミッターを取り付けちゃってたらさ、運命の人を取り逃がすでしょ」

 「悪い、どういうこと?」

 この同僚、常日頃から独自の恋愛観を語ることで有名だったことを思い出した。なにせ頭が良く、しゃべりも上手いせいで聞いてるほうはなるほどなと納得させられてしまうことが多いという。だけど今のは少しよくわからない。

 「例えば、俺は彼女がいます。でもその子が運命の人かはまだわかりません。あ、運命の人かどうかの判断をどこでするかは今は置いておく。で、彼女と付き合っていて、他にいい子と出会ったとします。絶対的に好きで、直感的にも運命を感じる相手ね。その新たに出会った子が運命の人かもしれないのに、俺は今恋人がいるから他の人は好きにはならないよ。これって自分の気持ちに嘘をついてるし、そのせいで運命の人を取り逃がしてる可能性がある。逆もあるよ。運命の人と思える相手を見つけたけど、その人は恋人持ちか既婚者だった。だからその人のことを好きになってはいけないと諦める。どちらも馬鹿だ。世間的に見たらそれは当たり前のように思えるかもしれないけどさ、それは今の日本がたまたま一人の人を愛しなさい的な社会にあるだけで本当のところ何が正しいかなんて誰にもわからない」

 「結婚してても他の人を好きになっていいってこと?」

 「それは自由じゃんか。いいか悪いかではなくて、結婚してるからこの気持ちはいわゆる好きではないんだと決め込むなってこと」

 わかるようなわからないようなが正直な感想だった。

 「でもそれだと男女関係がめちゃくちゃになるんじゃ?」

 「もうすでにめちゃくちゃでしょ。毎日ばんばんと離婚してんだよ。しかも今さら性格の不一致とかってもう十分異常だと思うけど」

 「好きだからこそふと見つけてしまった相手の嫌な部分が許せなくなってしまうのかもよ」

 俺は別にこの同僚の意見に賛成とも反対とも立場をとっているわけではないが、一般論として思うところを言ってしまった。

 「いや、結局自分が許せる部分にしか目を向けてないからそんなんなんでしょ? 絶対に無理な部分を愛せとは言わない。そんなのは苦行だし。でも付き合う段階でこれだけ好きな人でも自分が絶対にしてほしくないこともする可能性があるって考えないのかな」

 「いやいや、そんなこと考えないでしょ、普通。好きになればなるほど余計に美化しちゃうと思うけど」

 「今の奥さんは? 美化しちゃってる?」

 考えたこともなかった。でも美化はしていないと思った。俺はもともと性格や価値観は違うからこそ面白いと考える人間だ。付き合う相手には自分にないものを求める傾向が強かった。それは妻も同様で、その点では俺と妻は価値観が一致している。けれど根っこにある性格はかなり違うし、そのへんが絶妙な心地よさを与えるものだとも思っていた。 妻が突拍子もないことをしても俺はたぶんそれを受け入れるだろう。

 「美化はしてないかな。俺も妻も性格や価値観の違いなんて気にしない。むしろ同じじゃつまらないくらいに思っている」

 「へー、それそれ。誰もが価値観は同じじゃないと駄目って言うじゃんか。だからすぐ破綻するんだよ。同じ価値観の人間なんているわけないのに。根本的なところがおかしいんだから救いようがない」

 確かにその点に関しては賛成かもしれない。決して存在しないだろう同じ価値観の人間を追うことで人間関係がこうもあっさりと脆く儚いものになっている。

 「脱線した。だから、俺が言いたいのは、もっと自分の気持ちに正直になって恋愛に勤しめってこと。恋する気持ちとオシャレをする気持ちはいくつになっても忘れちゃいけないと思う。どちらも自分を磨き輝いた状態にしてくれる」

 脱線も何も、そもそものテーマは世の離婚問題であってこの同僚の恋愛観についてではない。

 同僚は満足といった表情で足取り軽やかにその場を後にした。その後ろ姿には確かにある種のオーラが見える気がした。恋にもオシャレにも気をかけるその神経と集中力はそのまま仕事にも反映されている。実際にその同僚の仕事ぶりは同期を圧倒していた。

 その夜、妻とも同じテーマで会話をした。

 「離婚原因の一位が性格の不一致なんだって」

 妻は案の定のこと声をあげて笑った。

 「結婚すんなって話だよね」

 俺と同じ感想を持ったようだ。というよりも誰だってそう思うのではないかと思ってしまう。きっと当事者たちはそのときが来るまではまず性格の不一致で別れるなんて思ってもいないのだろう。

 「三組に一組が離婚なんて立派な社会問題じゃない?」

 俺の問いかけに妻は真剣に自分の考えを述べる。

 「結婚の敷居を上げたらいんじゃないかな。別れにくくするとか。でもそうすると今度は子どもが生まれなくなるのか。難しいね。ん、離婚が増えてるなら片親の子どもが増えてるのかな? あ、子どもがいないで離婚してる場合もあるのか。子どもの数が減るのを覚悟で真実の愛の結婚か、子どもはできるが今と変わらずどんどん離婚か。はたまた結婚しなくても子どもが生まれて育つ仕組みを作るか」

 「え? 最後のはまずくない? 親の責任が軽くなるからそれこそ親のいない子どもが増えてしまうんじゃない?」

 「ま、例えばだから。離婚だけならそんなに悪いことでもないじゃんよ。子どもがいた場合に問題なわけでしょ」

 その通りだ。子どもがいないのなら別れていいということでもないが、所詮は結婚なんて紙の上の契約でしかない。それは恋人の段階で別れることと気持ちの面でもそこまで変わらないのかもしれない。会社の同僚の顔が浮かんだ。子どもがいる場合でも真実の愛を見つけたならば気持ちの赴くままに走るのだろうか。

 「二位はなんなの?」

 この流れは当然だった。

 「夫の不貞行為だって。これは納得かな」

 言っていて顔が暑くなった。平静を保とうと必死になっている自分が笑えてきた。俺はやましいことなど何もしていないというのに。

 「ま、はるくんは大丈夫か。そこまで肉食じゃないもんね」

 さらっと妻は言ってのけた。信頼されているということか、男としての魅力に欠けると思われているのか。素直に喜んでいいのかわからず苦笑いしかできなかった。

春の雪と夏の真珠(第五話)

第五話

 時折吹く強く冷たい風に煽られながら俺たちは立ちっぱなしのまま昔話に花を咲かせてしまっていた。人がほとんど通らない暗い道とはいえ保育園は目と鼻の先にあり、他の保育士や保護者がどこで見ているかわからない。保育士と保護者が道すがら偶然会ったように見えるかもしれないが、話している内容をもし聞かれたならばあらぬ誤解を招いて変な噂が飛び交っても不思議ではない。

 「ごめん。こんなとこで長々と話すことじゃないよね」

 そう言うものの夏珠は純粋に再会を喜んでいるようだった。笑顔が絶えることはなく、明るい。それに反して、俺は正直未だに戸惑いを隠せないでいた。俺には夏珠がどうしてこんなに普通にしていられるのか理解できなかった。この十四年間を俺と夏珠はまったく異なる想いで過ごしてきたのだろうか。

 「立場上こんなふうに仲良く話してたらまずいよね。でも話したいことたくさんあって。時間とれる?」

 夏珠は何を望んでいるのだろう。俺と同じように夏珠ももう別の誰かと結婚して子どもを生み、暖かく幸せな人生を歩んでいるのかもしれない。そうならば俺と再会してする話はひとつのけじめだろうか。夏珠は俺との再会を奇蹟だと言った。そんな出会いに感謝をし、過去に起きたことをすべて精算するつもりなのかもしれない。それでも夏珠が元気に振る舞うなかにはどこか少し無理をしている部分もあるんじゃないかとも思ってしまう。

 俺自身もずっと夏珠と話をしたかった。話をすることを望んでいたはずなのに、いざ夏珠を前にすると萎縮してしまっているようだった。自分の器の小ささに打ちひしがれた。

 「ねえ、聞いてる?」

 暑いのか寒いのかよくわからなかった。汗ばむようでいて肌寒く鳥肌が立つ。自分が何を考えようとしているのかもわからなくなっていた。

 「ごめん。ちょっと思考が追いつかなくて。それくらい俺にとって夏珠との再会はインパクトのあるものだったから」

 「私だってそうだよ。だからこそ話がしたいの。駄目?」

 俺がよく知る夏珠だった。少し歳をとったが今なお変わらない夏珠に懐かしさを覚えた。それと同時に俺の胸の中では落ち着かない何かが騒ぎ立てていた。いつだって俺はこんな夏珠に振り回され、けれどもそれが全然嫌ではなく、ずっと続く当たり前のものだと思っていたはずだった。

 家に帰ると凰佑が満面の笑みで出迎えてくれた。扉ひとつで違う世界に来たんじゃないのかと思うくらい家庭は温かく、その温度差にどっと疲れがにじみ出た。

 妻は凰佑をうっとおしくあしらいながら夕食の支度をしていた。部屋にはシチューのような空腹を刺激する美味しそうな匂いが広がっている。

 「おかえり。飲んできたんだよね? 忘れてて普通に食事の用意しちゃった。まだ食べれる?」

 飲みの席ではほとんど食事らしい食事をしなかった。そのためお腹は空いていた。

 「もらうよ」

 俺はそう妻に言い、自室に着替えに行った。

 部屋は妙に静けさに満たされていて落ち着かなかった。静けさに身を委ねてしまうと、何かわからないがその何かに自分が負けてしまう気がした。

 すぐに着替えて凰佑と遊ぼうとしたそのとき、机に置いたスマホが震えた。登録していない番号からのショートメールで、間違いなく夏珠からだと思った。夏珠と会ってしまったあの場をひとまずお開きにするには番号を交換するしかなかった。決して連絡先を教えることが嫌だったわけではないが、教えてすぐメールが来るということがここまで自身の心を揺さぶるものだともっと慎重に考えるべきだった。俺はメールを確認することなく部屋を後にした。

 心拍数が異常をきたしている。浮気をしている人間を尊敬する。俺には平常心を保つべく神経を集中させるだけで疲れてしまう。絶対にすぐバレるだろうと思う。

 「パパ、みて」

 凰佑が妻に買ってもらったミニカーを誇らしげに見せつけてきた。凰佑を見て夏珠は何を思うのだろう。気づけば頭の中が夏珠で埋め尽くされている状態に寒気がした。

 出来上がったシチューを食べ、ものすごくほっとした。今ある幸せで十分だと思った。それ以上など望んでいない。

 それ以上。

 夏珠とはそれ以上があるのか。

 結局どうしていても夏珠に思考が結びついてしまう。

 「今日一緒に飲んでたのって、あっくんだっけ?」

 妻の何気ない質問が疑いをもつもののように聞こえてしまった。暑くはないはずなのに俺は妙に汗をかいていた。

 「うん、そうそう。かなり久しぶりだったから話もはずんで楽しかったよ」

 「また家にも遊びに来てもらいなよ。凰佑がまだ歩けない時に来た以来だよね」

 流れる月日の早さを感じる。妻が言う話がつい先日のように思える。

 「そうだね。またみんなでご飯でも食べようか」

 凰佑は俺が食べているのもお構いなしにあれこれと話しかけてくる。そのたびにパパからもママからも注意される姿は哀れだが可愛らしかった。

春の雪と夏の真珠(第四話)

第四話

 俺たちが一番初めに出会ったとき、それはまだ中学生だった。高校受験に向けて塾などに通う人が増えるのは中学も三年になってからだが、俺はそこそこ勉強は真面目にやっているほうで二年の終わりには塾に通い出していた。

 夏珠とはその塾で初めて出会った。でも最初は一方的に俺の視界に夏珠が入っていただけだ。同じ塾の、俺よりランクがひとつ上のクラスにいる優等生だった夏珠に俺は一目惚れをした。

 中学生ながらそれまでにも恋人を作るという恋愛経験はあった。けれどそのどれとも違うときめきのようなものが俺の心の内にあった。
 勉強が嫌いではなかったことに感謝して俺は猛勉強した。かなり不順な勉強理由だが結果的に成績もクラスも上がり、そのご褒美に夏珠と同じ教室で勉強することができるようになった。
 彼女は俺とは違う中学校に通っていた。同じ町に住んでいてもぎりぎり学区が異なるのはよくあることだった。その塾に彼女と同じ中学校の生徒は少なく、会話するメンバーが固定されていてなかなか話す機会はなかった。
 それでもできるだけ行動を合わせるようにした。偶然を装いよく顔を会わせるように動いた。我ながらやることが小さいとは思ったが中学生なんてそんなものだろう。
 次第に顔だけ知っている仲から、いつからか少ないながら言葉を交わす仲になっていた。
 春休みに入り、春期講習が始まった。そのころには自然に会話もできるようになった。もっと彼女と仲良くなりたかった俺は、高校に合格したら買ってもらえるはずだった携帯電話をあれこれ理由を並べ一年早く前倒しで買ってもらうことに成功し、彼女と番号を交換した。
 毎日のようにメールのやりとりをし、塾の帰りに二人でお茶をするようにもなった。

 「ねえ、志望校ってどこなの?」

 「俺は家からも近いし港南第一高校に行くつもり」

 「そうなんだ。でもあの高校ちょっと古くて汚くない? 私は綺麗な高校がいいからさ、市立北にしようと思うの。出来たばかりですごく綺麗なんだよ」
 俺が行こうとしていた高校は確かに古くて汚いで有名だった。でも電車やバスに乗ってまでして通学することなんて考えられなかった俺は、歩いて行けて学力もそこそこな高校に目星をつけていた。
 夏珠が行こうとしていた高校は学力こそ俺のところと同じくらいだが、新しく校舎を建て直したばかりでとにかくその最新設備が売りだった。
 夏珠がそこに行くなら俺も志望校を変えようかなとも思ったが、決めたことを曲げる人間と思われたくなかったし、別々の高校に通っているくらいの距離感のがいいかもしれないと、まだ付き合ってもいないのにそんなことを考えていた。
 中学生くらいの頃はお互いにちゃんと言葉にしないことには関係が前に進まなかったんだと思う。お互いを名前で呼ぶほどの仲になり、四月に入ると周りから見ても付き合っているように見えるくらい俺たちはいつも一緒にいたが、まだ恋人ではなかった。それこそ友達以上恋人未満なんていう曖昧微妙な関係にあったのだと思う。
 先に告白したのは夏珠だ。
 その年も冬が長引き四月に入ってもまだ桜はあまり咲いていなかった。厚手のコートこそいらないものの、それなりに着込んでないと寒さが残る季節だったのを覚えている。
 塾の帰り、夏珠は用事があると急いでいた。けれど先に出口へ向かったはずの夏珠はまだそこにいた。急に雨が降り出したため足止めをさせられていた。天気予報では雨が降るかもと言ってた気がするが彼女は傘を持っていなかった。俺は持っていた折りたたみ傘を彼女に差し出した。

 「俺は大丈夫。教室にもう一本折りたたみを置いてあるから」

 もちろんかっこつけるための嘘で傘なんてその一本以外に持っていない。彼女が困ってる姿を見るのが嫌だった。

 後日塾で話してるとき、俺の友達のせい(おかげ)で、俺たちの物語は大きく動き出した。

 「この前すんごいずぶ濡れで歩いてんのな、よく風邪ひかないな」

 教室内のすぐ近くに夏珠はいた。その場は明るいムードに包まれてはいたが、そのとき夏珠と目が合った。

 夏珠の目はどういうことか説明しなさいよと言わんばかりの少し怒ったふうに見えた。

 「さっきのどういうことなの? ずぶ濡れって何? 傘持ってるって言ってたじゃん」

 塾が終わり駅の裏手の人通りがほとんどないところで俺は夏珠に追い込まれていた。人の流れがほとんどなくとも駅の真裏とあって声がたくさん飛び交って静かではない。それが沈黙の気まずさをいくらか和らいでくれてはいたが、素直に俺は謝った。

 「ごめん。でも夏珠が困ってるのが嫌だったんだ。急いでたみたいだし二人で一つの傘に入るのも動きが遅くなると思って」

 「それで一人ずぶ濡れで帰ったわけ? どうして一人でかっこつけるの? 私だって遥征くんが辛い思いするの見たくない」

 夏珠はいつになく本気で怒っているようだった。感情で声が大きくなる癖があるタイプだが、リミットを越えると逆に声がすごく小さくなるのが夏珠の特徴であることをそのとき初めて知った。
 小鳥が優しくさえずるかのようなささやき声でいて、とてもよく通る怒気が込もった声に俺は本気でやばいと思った。

 「遥征くんは好きな人が自分のためとはいえ辛い思いをするの我慢できる?」

 怒りながらもどこか照れてるしぐさを見せたために俺はその違和感になんとか気づくことができた。だがいろんな感情が湧き上がっていたせいで冷静に考えることができなかった。

 「今のって……」

 「もっとちゃんと言いたかったのに」

 やっぱり告白なんだと思った。俺もずっと夏珠のことは好きだった。でも友達として仲良くなり過ぎたことが結果的にそれ以上距離を縮める妨げになっていると感じていた。便乗するようだけれども、これはもう俺も正直に気持ちを伝えるべきだと思った。

 「夏珠、俺も夏珠のことが好き。友達としてじゃない。ずっと好きだった。ちゃんと言えなくてごめん。でも本当に好きです」

 ひどい噛み噛みの告白だった。それでも両想いであるなら晴れてハッピーエンドで抱き合うなどの王道展開を期待していた俺はその後の夏珠の言動と行動に驚いた。

 「なら一人でかっこつけるな」

 言葉と同時に強烈な握りこぶしが俺の右肩に飛んできた。あまりの理想と現実のギャップに思考がすぐには追いつかなかった。

 「一人で頑張って苦しむなんて許さないから」

 殴られて一人で痛みに苦しむ今のこの状況はどうなんだよと言いたかったが、そんなちょっぴり破天荒な夏珠もまた好きだった。

 駅から小さな子どもの「バーカ」という甲高い声が聞こえてきた。

 俺は夏珠を「バーカ」と全力で抱きしめた。

 「ちょっと、痛いよ」

 「一人で苦しむなって言ったじゃんか。夏珠も痛い思いを共有」

 そんなあまりロマンティックではないやり取りを経て、俺と夏珠は正式な恋人に関係を昇格させた。

春の雪と夏の真珠(第三話)

第三話

 「保育園に預けた子どもの担任が元カノだったなんて設定どう思う?」
 大学時代から仲良くしている友達と久々に二人で飲むことになりお酒の力を借りて口走ってしまった。
 「何それ? 小説かなんか?」
 「うん、そうそう。ネットサーフィンしててたまたまブログにあがってた小説が目に止まったんだ」
 言っててドキドキしてしまった。友達から見て俺に違和感はないだろうか。酔った頭をフル回転させて平常心を保つ。
 「気まずいでしょ。どういう別れ方をしたかにもよるけど」
 「その話だと確か悲劇が起きてお互いの想い叶わず引き裂かれてしまったような感じだったかな。で、十四年ぶりにいきなり再会」
 「てことはお互いずっと想い合ってるってこと?」
 意外にも友達は食いつきがいい。あまり具体的に言い過ぎるとその小説を探して読んでみるなんて言いかねない。うまい具合にぼやかしていかなければ。
 「どうかな。全部をちゃんと読んだわけじゃないから。でも主人公の男は結婚しちゃってるみたい」
 「いや、そりゃそうだろ。保育園に子ども預けてんでしょ? 俺が聞きたいのは結婚しててもその彼女のことを忘れられずに想ってしまっているかどうかだよ」
 酔いも加わり顔が一気に火照ってしまった。真っ赤な顔をしてるんじゃないだろうか。安易に考えもなく話してたせいであっさりボロが出てしまった。幸いにも友達は俺のミスに気づく様子もなくこの複雑な恋愛模様について熟考しているようだ。
 「誰かが幸せなら裏で必ず誰かが不幸。不幸とまではいかなくてもたぶん涙してるんだよな」
 友達の感傷的な一言に思考が揺らぐようだった。俺は幸せそうに見えただろうか。それを見て彼女はどう思ったのだろうか。逆に幸せそうな彼女を俺が見たらどう思うのだろうか。素直に祝福できるだろうか。
 俺が妻ではなく彼女を選択したなら、妻は泣くのだろうか。幸福と不幸が表裏一体ということの意味を初めてちゃんと考えた気がした。
 「あれ? 今かっこいいこと言った気がするんだけどなんでなんもリアクションしないわけ? すげえ恥ずかしいじゃん」
 友達が本気で恥ずかしそうに笑い、照れを隠そうと手元にあったジョッキを一気に飲み干した。俺たちはすぐおかわりを注文した。
 友達と別れて家までの道のりを歩く。ただ歩くという動作にだけ妙に意識が向かった。仕事を早く切り上げて飲み始めていたのでまだ九時過ぎとそこまで遅い時間ではなかった。駅はターミナルとあって多くの人が足早に動いている。これだけの人数の人間がみな恋をし、なにか思い煩うものを多かれ少なかれ抱えている。そう思うと、自分はそんなに特別ではないのかもしれない。
 真っ直ぐ家に帰るつもりのはずが気づけば保育園に向かっていた。遠回りだが桜並木道を通って夜桜を眺めながら行くことにし、小さなファミリーレストランの脇道を入った。ここから保育園までの道のりは街灯がほとんどなくかなり真っ暗だ。それなりに人通りが多いのだから改善したらいいのにと通るたびに思う。
 ゆっくり坂道を登り、頂上に着くと完成したばかりの賃貸マンションが見えてきた。保育園はこの敷地内のマンションの一階二階にある。
 マンションが近づいてなお仄暗い道の左を行くと保育園がある。俺はそこを右に折れ、長い直線を歩いた。左手にはマンションがあるもののこの通りもほぼ真っ暗といっていいほどで、人の姿もまったくないため肝試しには格好の場所だった。
 強い風が冷たく、春でも夜はまだ少し肌寒く感じた。
 よく見るとこの通りにある木々も桜だった。せっかく暖かくなり花を開いたというのに突然の冷たい風に晒されて寒そうに揺れていた。
 暗いというのもあるが、やはり意識がぼけっとしているためか前から近づいてくる人影に気がつかなかった。俺がその存在に気がつくと向こうが足を止めた。それに合わせるかのように俺も自然と足を止めてしまった。そしてそれまで真っ暗だったはずなのに、実際なお辺りに街灯などはないのに、そこにいる俺たち二人にだけスポットライトが当たったかのように姿をはっきり捉えることができた。
 「夏珠……」
 とっさにかろうじて声帯を震わせて絞り出したその声は彼女に届いただろうか。お互いに動きがないまま俺が名前を呼んだそのとき、一際強い突風が吹き抜けた。風に舞う桜の花は暗闇で白さが引き立ち、まるで本物の雪にも見紛うほど綺麗だった。
 「春の雪」
 声に出してしまった。今度はしっかりと声帯を震わせることができたと思う。夏珠と目が合い、高校時代の記憶が蘇る。
 「桜の花が舞い散るのって綺麗だよね。私すごい好き。だからかも」
 「だからかも? なにが?」
 「だから遥征くんのことが好きなんだと思う」
 「ん? どういうこと?」
 「舞い散る桜の花って雪みたい。春の雪じゃん。はるゆきでしょ」
 「俺の名前は遥か遠くまで突き進んで征くって意味のはるゆきだから。そんな雅でオシャレな感じじゃないだろ」
 この当時には意識的に目に焼き付けていた春の雪もかなり長いこと見ていなかったように思う。いや、実際は見ている。見ていてもそれを春の雪と認識できていなかっただけだ。俺は自分の記憶を都合よく封印してしまっていた。
 「あ……」
 言葉が続かない。そしていざ話そうとすると、またしても思うように声帯が震えない。音を響かせるのを拒むかのようにかすれた声しか出てこない。
 「遥征くん」
 逆に向こうから響いてくる音を、その声をしっかりと俺の耳は捉えた。忘れることができなかった声。十四年経って少しトーンが落ち着いたようにも聞こえるが、俺はそのよく通る声を、聞くとなぜか心地よく安心する声を知っていた。その声を再び聞くときのために脳の処理領域を開けておいたかのようにすっと彼女の声が頭の奥底に馴染んでいくのがわかる。
 「本当に遥征くんなんだね。今でもちょっと信じられない」
 「でも……」
 「名簿見て動揺が隠せなかった。朝田遥征。朝夜の朝を使った朝田さんなんてあまりいないからさ。提出してもらってる親御さんの顔写真を見ればすぐわかるのにね。それができなかった。本人じゃなかったらとわかるのが怖かった。ううん、本人だとわかるのも怖かったかな」
 夏珠は少しうつむきながら控え目なヴォリュームで話す。それでも一語一語聞き漏らすことなく夏珠の言葉は自然に俺の耳に入ってきていた。彼女も相当に緊張しているのがわかる。かすかに緊張で声が震えるのは昔と変わらないようだ。それでも彼女は話し続けていたのに、俺はまともな言葉を返すことができなかった。
 「昨日の朝、初めて保育園で会ったときは正直どうしていいかわからなかった。急いですぐ行っちゃたよね。でも私あのときあれ以上は無理だったと思うから助かった」
 「ごめん。急いでたのは本当だけど俺もどうしていいかわからなくて。逃げてしまった」
 ようやく文章を口にすることができたと思ったその言葉に当時の記憶がひとつずつ紡がれていく。
 逃げてしまった。

 俺は逃げたんだ。
 「逃げたなんて言わないで。大丈夫だから」
 夏珠のその言葉は一体どのことに対して向けられているのかすぐに判断するのは難しかった。

春の雪と夏の真珠(第二話)

第二話

 その女性のことを俺は本当によく知っていた。だから正確に言えばそれは再会ということになる。

 十四年。

 それだけの月日が流れてなお鮮明に覚えていたし、当時から十四年後の姿を見ても本人であるとすぐに分かった。
 幸か不幸かすぐに仕事に行かなければならなかった。俺はただ素っ気なく急いでいるとしか言えずにその場を後にした。
 だが急いでなかったとしても、俺の口から何か気の利いた言葉が出てくるとは思えなかった。ゆっくり、きちんと頭の中を整理してから話したほうが良かったのだと考えることにした。
 彼女は俺の名前を口にした。その場を立ち去ってすぐのときは自分のことを覚えていてくれたのかと胸がそわそわと落ち着かなくもなったが、いくらか冷静になってから考えてみると、彼女は保育園の先生であって園児の親の顔写真やプロフィールを見てる可能性があることに気づいた。前々から俺の存在には気がついていたかもしれない。それでも、たとえ覚えてなかったとしても、それをきっかけに思い出してくれたという事実には変わりない。
 なにをそんなポジティブに事を考えているのだろうと思う。真っ直ぐ歩けていない自分を認識するのに随分と時間がかかった。
 面と向き合って話すべきだろうか。

 今の俺と彼女の関係。それは園児の親と保育士だ。旧知の仲だとしてもあまりベタベタと馴れ馴れしく話していいものかとも思ってしまう。
 なんら悪いことをしているわけではない。なのにもうすでに妻に対してどこか後ろめたいような気さえしてくる。
 向こうは俺のことをどう思っているのだろうか。知りたいと思う一方で知るのが怖いとも思う。それくらいの出来事が俺たちには起きた。十四年間決して忘れることのできなかった想い。思い出さないよう避けていた想い。今を生きているようでいて実はずっと止まっていた時間が動く。そんな気がした。
 
 「なにかあった?」
 妻の一言にどきりとした。
 「なんで?」
 「なんとなく。なんか感じが違う気がしたから」
 女の感というやつなのだろうか。今朝のことは正直かなり動揺し引きずっていた。それでも表情には出さず平常心を保っていたつもりだったのだが、妻はあっさりと見抜きかけている。鋭いにも程がある。
 「なんだろう。特に面白いこともつまらないこともない変わらぬ一日だったけど。あ、でも凰佑の担任の先生らしき人は見たよ。挨拶したわけじゃないけど、見慣れない人だったからたぶんそうかなって」
 不自然かとも思ったが保育園で起きたことを正直に言ってみた。もちろん肝心なことを隠してはいたが。
 「あ、なつみ先生ね。かわいかったでしょ?」
 答えに困った。すごくリアルな返答をしてしまいそうでうまい言葉が見つからなかった。
 「うん、ずば抜けた美人って感じじゃないけど雰囲気がかわいいというかそんな感じ?」
 いつもの俺ならきっとそう言うだろう。なんとか言葉を探し出して言ってみたが、どこかぎこちなくなってしまった感があった。幸い妻は特に気にすることもなく、「でしょ」と一言残してキッチンへ向かった。どうやらこの場における正解を導き出したようだ。
 鼓動が高鳴っているのを感じた。重要な仕事のプレゼンでもこんなにドキドキしないぞと自分の今の状況の理解に苦しんだ。まだなにもないのに。ほとんど一方的に見ただけに過ぎないのに。説明のつかない気持ちが胸の奥底にぐるぐると渦巻いているのがわかった。
 案の定、ベッドに入ってもまったく寝付けなかった。頭が冴えているわけではない。どちらかといえばまどろんでいた。それでもそのまどろみの中に浮かぶのは、大きな桜の木の下で微笑む彼女。桜の花びらが舞う光景は春なのに雪を思わせた。
 「桜の花が舞い散るのって綺麗だよね。私すごい好き。だからかも……」
 満開の桜が作る並木道は俺たち二人の秘密の場所だった。二十メートルほどとはいえこれほど見事な桜を堪能できる場所はそうそうないだろう。わかりにくいところにあるため花見に来る人はほとんどいないという穴場で、毎年桜の季節はこの道を並んで歩いた。ひらひらと、春の優しい風に吹かれてゆっくりと落ちる花を見ながら夏珠はそう言った。
 「だからかも? なにが?」
 俺は淡いピンクの空間に身を置く彼女を愛おしく感じていた。
 「パパー」
 凰佑の寝言で現実に戻された。いたずらをしたのが見つかったときのようなスリル感を覚える。
 すべては過去。やり直すことができないのはわかっている。できるのは失われた過去の時間を現在にて修復することだ。けれどそれは今の自分がしてよいことなのだろうか。そもそも修復などできるのか。俺たちはお互いにお互いの時間が流れている。もしあの時あの場所で彼女と再会してなければ二度と会わなかった可能性だってある。
 俺は運命論を少し信じてしまう質なんだとこのとき思った。再び出会ったことにはなにかしらの意味がある。そう考えてしまう。自分だけではどうにもわからなかった。彼女の気持ちを聞けたらと思う。凰佑の担任である以上これからも最低限の付き合いは続けていかなければならないのだから。
 最低限の……。
 それだけでいいのだろうか。結局考えが堂々巡りしてしまう。
 「うーん」
 思わず声に出てしまった。慌てて寝返りをうち寝てるふりをしたが、妻を起こしてしまったらしい。
 「どうしたの? 眠れないの?」
 「ごめん、起こしちゃったね。ちょっと変な夢を見てたみたいで目が覚めちゃった。ごめん、おやすみ」
 なぜか妻の目を真っ直ぐ見据えることができなかった。暗い部屋をいいことに寝ぼけて視線が定まらないふりをして誤魔化してしまった。
 
 今朝の送迎当番は妻だった。仕事の都合上どうにも今日は凰佑を送っていくことができない。次の俺の番は明後日だ。昨日のことが頭をよぎる。やはりきちんと会話をするべきだった。これでは気まずくて今日明日と俺が保育園に来てないと思われてしまう。自意識過剰だろうか。案外彼女の方はなんとも思ってないかもしれない。
 今日は天気は良いがとにかく風が強かった。春の嵐だと天気予報のキャスターも言っていた。
 家を出て向かい風のなか駅に向かう道を歩いていても、風に細める目の先にふと彼女がいるのではないかと気持ちが落ち着かない。実際に俺は街を歩く人混みのなか一人ひとりと彼女を探していた。
 それは初めて恋に落ちた中学生みたいだった。いい年して何を考えているのだろう。客観的に自分を眺めることがまだかろうじてできていることにいくらかの安堵はあった。けれども、保育園で顔を合わせるのだし、このままでは精神衛生上あまり良くないなと思う。
 電車からの景色が自然と目に入った。綺麗に咲く桜が鉄橋に遮られながらも断続的に見える。淡い昔の光景と、つい昨日の光景がダブルに俺を襲ってきた。
 朝のラッシュに揉まれながらも頭は彼女のことだけを考えていた。汗ばんだ初老のサラリーマンたちに周りをピッタリと囲まれていても不思議と嫌な感じを覚えない。いつもなら露骨に嫌な顔をしていたと思うのに、それだけ感覚が麻痺しているのだろうか。
 いつになくぼーっとしてしまう。次第に電車の外の風景すら目に入ってこなくなっていた。
 夏の真珠と書いてなつみ。美しい真珠を冠する彼女はその名の通り黙っていればおしとやかな柔らかい丸い印象を持つ。元気いっぱいの願いを込めて夏を当てた通りのようでもあったが、その芯からあふれる慈悲の優しさは春のイメージでもあった。
 事実、彼女は四季で春をなにより愛した。桜の下で見る彼女は優しい光に包まれ、淡いピンクと調和した自然なコントラストを描いていた。
 「春珠のが私っぽいのかな?」
 桜の季節には定番の質問だった。子どもが好きな彼女は道行く子どもすべてに反応を示すほどで、どちらが子どもなのかわからないくらい無邪気な顔をした。同時に、慈悲の愛とでも呼べそうな嘘偽りのない慈しみの愛情をたっぷり注ぐ。その姿だけを見るならば春珠もいいかもしれない。それでも普段の夏珠はやはり夏珠だろう。見た目こそおとなしそうに見えるが、「なつみ」という語感のイメージにある活発さは彼女によく当てはまっていた。
 「いや、やっぱり夏珠だよ。活き活きとして元気な感じ。桜の季節だけはしっとりおとなしくなるから春珠かも」
 「なにそれ。普段は落ち着きないってこと?」
 このやりとりもお決まりとなっていた。
 新宿で乗客の総入れ替えが起きた。そこでまたようやく現実に戻ってくることができた。今の乗り入れのように頭の中を総入れ替えすることができたとしたら、どうなっていただろう。今の俺は、「もし」とか「たら、れば」が多い。
 彼女に桜のイメージが強いのは事実だが、桜の季節になると必ず思い出すなんてセンチメンタルなものではない。自分の中ではうまく消化できていたつもりだった。

 それは罪の意識だ。心のどこかで会いたいと願う一方でもう二度と会うことはないだろう、会ってはいけないのだろうという思いを持っていた。俺はどこか諦めに似た感情を持っていたんだと思う。
 深層に押し込んだはずのありとあらゆる記憶と、当時の感情が堰を切ってしまったようだ。大人になったと思っていた自分はまったくそんなことはなく、十四年経ってなお当時の感情をどう扱っていいのかわからなかった。
 そんな俺の頭の中とは正反対に乗客の入れ替えを終えた電車は再び目的地を目指して力強く走り始めていた。

春の雪と夏の真珠(第一話)

 第一話

 例年より少し遅れて桜が満開となった。冬の訪れが遅かったぶん春も後ろにずれ込む格好となったようだ。
 スタートや出会いの季節を後押しするように満開の桜が咲き誇り、誰もが新生活は明るいとの夢を見て春の陽気をぼんやり楽しんでいるように思える。
 明るい色を身にまとう人々が駅前を多く行き交い、街はカラフルに色づいていた。今年も春がやってきたんだと五感で感じることができる。
 この季節になると必ず思い出すことがあるなんてそんなドラマチックなエピソードなどはない。けれども思い出すのとは違う、常に頭の片隅にある何かが不意に蘇る、そんな体験を与えるのが桜だった。
 そして、大きな桜の木の下で一人の女性と出会った。
 いや、一人の女性と、再会した。

 

 「凰佑、早く靴下履いて」
 朝はいつもギリギリでドタバタだ。
 俺自身は毎日六時には起き上がり、シャワーを浴びたり朝食を食べたり余裕を持った支度に余念がない。
 それなのに三歳になる一人息子の凰佑はというと、やはりそうはいかない。まだ幼い子どもなわけで急ぐという感覚もわからないのだろう。七時にとりあえず起こし朝ごはんを食べさせる。いいか悪いかわからないが毎朝アニメが七時にやっているため目覚ましがわりにテレビをつける。
 眠い目をこすりながらも子どもとは不思議なもので一度起きるとすっきり行動する。でもあくまでマイペースの範囲を出ないためこちらの要求に素直に応えることなどほとんどない。
 アニメが終わり、次に教育番組らしきものが始まった。
 凰佑はこの番組が好きだ。
 ケーブルテレビの番組のため世間的にはあまり認知されてないと思うが、子どもが食いつきそうな内容を多く取り入れていて凰佑もまんまとその術中にはまっている。
 だが、この番組は内容が少しシュールだ。見た目こそ子ども向けに作られていて、かわいいキャラクターやかわいらしいお姉さんたちが歌や踊りや小芝居を繰り広げるのだが、ヒーロー物をあしらった寸劇のコーナーは大人じゃなければわからないような小ネタを挟んでくる。密かに凰佑を差し置いて親である俺の楽しみだったりする。
 実際にこれ以外の教育テレビをまじまじと観たことがないため断言はできないが、子どもが内容そっちのけの見た目で楽しんでいるからといっても、有名な教育テレビなどであれば子どもでもなんとか理解できるような内容であると思う。だが、この番組はそこが違う。大人が見ても笑える、というより大人じゃないとわからない笑いをちょいちょい混ぜてくる。
 俺が笑うと凰佑もつられて一緒に笑う。けれど絶対に理解してないだろう。
 今日もそんな寸劇に親子共々夢中になってしまった結果、凰佑がなんの身支度もしていないいつもの状況に陥った。
 保育園に預けに行くのは夫婦交代制を取り入れている。今日の当番は父親である俺だった。預けに行く担当のほうが家を出るのが少し早くなるはずが、今日も全員一緒だ。毎日みんなで準備はするが決まって慌てて家を出ていくことになる。朝から子どもにイライラとその場ではムカつくことも多いのだが、そんな日常もそこまで悪くないなと変わらぬ日々を過ごしていた。
 三月から四月にかけては保育園の出入りも多くなるという。小学生に上がって出ていく子、逆に新しく入ってくる子。親の異動人事も重なり子どもの動きも盛んになるらしい。
 うちの子も四月から保育園が変わった。今までは認証保育園という東京都による独自のシステムに基づく保育園施設に預けていた。でもここは補助金が出るだけで保育園料は私立に比べれば安いという程度でなかなか馬鹿にならない。願わくはもっと安く保育園料を抑えたいと考える我々夫婦はかねてから認可保育園にずっと申請を送っていた。
 誰でも入れるわけではなく、共働き、親と同居していないこと、就労時間などなど様々な項目が審査され、そのポイントが高い人から入っていく。
 なので基準を満たしてもなお順番待ちとなる。このプロセスを失敗すると待機児童という共働き夫婦には一番あってはならない事態にもなる。
 けれども幸いにして認証保育園から認可保育園にうまくスイッチできたため、今こうして夫婦共働きのまま生活を送ることができている。
 妻が連れて行くときは電動自転車で行く。でも俺のときは徒歩だ。自転車に乗れないわけではないが、ピンク一色のそれに乗るのはどうにも気が引ける。そのためちょっとでもグズられると一向に保育園に着かない。実際はスムーズに着くほうが珍しい。案の定、今日もやはり、凰佑は真っ直ぐに歩かないでいた。
 「凰佑、お願いだから早く歩いて」
 言葉はもう理解できる。お互いの意思疎通も問題ないくらいに成長してきている。それでも保育園までの道のりに凰佑の関心を引くものは多い。あっちこっちとふらふら歩き、これ何だの、なんでだの、延々と質問を投げかけてくる。
 いっそ抱っこしてしまえばいいのだが、もうかなりの重さだ。これから仕事に行くというのに疲れるわけにもいかず、できれば抱っこなどしたくない。
 「言うこと聞けないならおもちゃ全部捨てるよ」
 伝家の宝刀を抜く。息子はおもちゃの存在がなにより大切らしい。おもちゃを捨てると言えば、嫌だ、ダメと反抗してくる。ならパパの言うこと聞け。この流れが毎日のルーティンワークになりつつある。
 保育園は高台にあって急な坂道をいくつも登る。電動自転車でなければとても不可能なこの場所を妻は以前普通の自転車で通っていた。移動を考えれば行きはきつくても預けた後に駅に行くのが圧倒的に自転車のほうが早いとのことで頑張っていた。
 俺は貧血気味なのか突然めまいが起こることが頻繁にあったため自転車に乗ることは極力避けている。決まって歩いて移動するのだが、やはり保育園までのこの坂道を凰佑と一緒に歩くのは体力的にはまだいいが精神的にかなり骨が折れる。
 冬の寒さが長く続いたが四月に入ってようやく一気に暖かくなってきた。段階を踏まずして春になったため桜は慌てて咲くかたちとなったようだ。
 保育園までの道のりの唯一いいところはこの桜並木道だ。季節に追い付けと懸命に花を開こうと頑張るその姿はどこか健気な印象だった。そして春の暖かな日差しを受けて輝く桜のトンネルは朝一番には激励に似た効果を得る。
 保育園に凰佑を預けて仕事に向かおうとしたときに一本の大きな桜の木が目に入った。
 保育園の校舎のすぐ脇にただひっそりと佇むその姿はほのかに寂しげではあるものの、満開になればその存在感を惜しみなく示すことだろう。
 そのときなにかデジャヴめいたものが頭をよぎった気がした。前にもこんな大きな桜の木を見たような。
 桜は毎年見る春の風物詩だ、自分の経験と外から得た情報がごちゃごちゃになっているだけの可能性のほうが高い。
 そして、桜に「いってきます」と告げ仕事に赴いた。

 

 「凰佑の担任の先生に会った?」
 四月から保育園が変わりもう何度も送り迎えをしているのだが、いつもタイミングが合わないのか未だに担任の先生とは面識がない。
 「いや、まだ会えてない。いつもちょっとおばあちゃんの人だよ」
 「日頃の行いかね。すごく可愛らしい先生なのに」
 そんなことを聞いたらぜひとも会いたくなる。とはいえ保育園の先生に色目など使えるはずもないし、会ってもやもやするくらいなら会わないままのがいいかもしれない。
 「声かけたくなっちゃうかもしれないから、会わないほうがいいよ」
 「馬鹿。相手にされるわけないでしょ」
 俺たち夫婦はこの手の会話が多い。あの人かっこいいとか、あの人すごくかわいいとかお互いに言い合う癖がある。そうやって共にすぐ目移りするわけだけどそのくらいがちょうど良いのだと思う。なんだかんだと二人とも浮気らしい浮気など一度もしたことはなく、周りからはかなり円満な夫婦に見えているだろう。
 「凰佑、先生の名前なんていうの?」
 「なつみせんせいー」
 なつみ。懐かしい名前だなと思う。昔付き合った女の子と同じ名前だ。
 脳の記憶処理能力が男と異なるためだが、女は非情なことに過去に付き合った男の名前すら覚えていない人が六割もいるらしい。
 思い出は上書き保存なんてオシャレな言い方をしようともちょっと切なくなる話だ。
 それに対して男は別フォルダで保存していくというのは有名な話だ。昔付き合った女の子の思い出もしっかり脳内に保存されている。この点だけを考えると男のが女々しい感じもする。
 あくまで一般的な処理の仕方の話であって、別フォルダに保存しているといってもどこにしまったのかわからなくなることはある。それは処理能力の問題だ。そのため元カノの一人や二人の名前が思い出せないこともあるにはあるが、なつみ、その名前だけはたぶん一生忘れることができないと思う。忘れることができないのに、積極的に思い出そうともしない。記憶を誤魔化している自覚はあるのに、俺は逃げていた。
 そしてそれは今更どうこうできるものではないと自分勝手に解釈する。思い出として大切にとっておくという綺麗事で。今は目の前の妻と子どもが数々の思い出を紡いでくれるのだと。
 
 四月の第二週にようやく桜は満開となった。
 保育園に向かう並木道にも桜を見ようと朝から散歩する老夫婦など地元の人々の姿が見受けられる。
 高台にある保育園からは駅が見下ろせる。ついこの前まで厚手のコートを着込んでいたはずなのに駅に吸い込まれて行く人々を覆うものは薄手のスプリングコートばかりだ。中にはカーディガンやセーターだけの格好の人までいる。ただそれでも共通して見えてくるのは春のイメージ。冬の寒さに対抗するかのような暖色から一転して、爽やかなカラーが駅前というキャンバスに描かれていた。
 桜の咲き具合に凰佑も変にテンションをあげていたが、今日はわりとすんなり保育園に到着した。
 いつものように凰佑を預けて校舎を出たところで目に入ったのは、一本の桜、ではなくその下に立つ一人の女性。
 彼女は雲ひとつない澄んだ青空に輝く太陽に目を細めながら大きな桜の木を見上げていた。満開の桜の薄ピンクの下で、同じく薄ピンクのジャージのような汚れてもいい服を着ていた。背中近くまである長い黒髪が光に反射して艶めいて見える。
 その横顔には見覚えがあった。なのにまた無理やり記憶を誤魔化そうと脳が勝手に働きかける。
 彼女はなにか物憂げに桜を見つめていた。俺は無意識にその姿に引き寄せられるかの如く魅せられていた。
 凝視していたこともあって彼女はすぐに俺の視線に気がついた。完全に体をこちらに向けて振り返ったとき、彼女と桜の木だけを残してその他一切が世界から消えた。
 一際輝きを増す桜の木を背景に、神の後光をまとうように立つ彼女の姿。
 それは俺の中の聖母マリアのイメージとも一致した。
 自分だけが時間の止まった世界に佇んでいた。時が止まったその世界はそれでもなぜか嫌な感じがしなかった。
 彼女が微笑んで時間が動き出す。
 「遥征くん」
 出会いの季節。春に彼女に出会ったのは決して偶然ではなかったのかもしれない。

物語を届けたい一心です。

みなさま、こんにちは。

おうすけといいます。

 

小説やアニメなど物語があるものがとにかく好きで、かねてから自分でも小説を執筆してみたいと思っていました。

それでも結局のところ、先延ばし先延ばしの繰り返し。

なにかと都合の良い言い訳をして小説を書くことができない状況を合理化してきました。

何度も立ち止まって自問します。

「本当に小説を書きたいの?」と。

答えはいつだって「書きたい」でした。

それならば、書けばいい。

こんな単純なことなのにできない自分がいました。

 

変わるきっかけは、最近の流行りである自分を変えるを謳い文句にした自己啓発書でした。どの本を読んでも書いてあることは同じ。

「行動せよ」というものでした。

ハードルを上げるから難しい。

ならば、うんとハードルを下げればいい。

結局、他人の目を気にしているから、完璧を目指してしまうから、無駄に迷っていつまでも前に進めことができない。

恥をかいて、失敗をしないと成長はない。

そう思い、ようやく小さな小さな一歩を踏み出しました。

 

思うままに、書きたいものを書く。

 

記念すべき最初の一歩に書くのは、ベタな恋愛小説です。

読んでくださる方々が少しでも楽しんでもらえたなら幸いです。