春の雪と夏の真珠(第三十七話)

第三十七話

 夏珠の家の近くにある個人経営らしい洋食屋に夕ご飯を食べに行った。
 夏珠との時間はいつだってあっという間に流れていく。午前中から会っていたのにもう外は暗い。こんな住宅立地でもイルミネーションは所々で輝いていた。
 上手く言葉にはできなかったけれど、お互いの気持ちは肌と肌を通して伝わった。
 でもこれでいいのだろうかとも思う。
 温かい空気に包まれて食欲をそそる匂いが漂う。こんな気持ちにあってもお腹は空くという現実を物悲しく思う。
 窓際に置いてあるハリネズミらしきオブジェが目に入った。
 「ハリネズミのジレンマ
 夏珠は俺の視線を辿ってそうつぶやいた。
 「ヤマアラシじゃなかったっけ?」
 「うん。元々はヤマアラシだよ。アニメで使われた造語なんじゃなかったっけ。でも意味はほとんど同じじゃないかな」
 愛し合う二匹は抱き合うもお互いの針のせいで痛い思いをする。寒さをしのごうと寄り添うこともできない。適度な距離感を見つけることでお互いの関係もスムーズにいくことを説いたものだと思うが、愛し合う二人が近づいて苦しむなんてあんまりだ。
 「今時でよく言われるのはカップルの話だよね。近づけば喧嘩するけど離れるとやっぱり寂しいとかって」
 「だからいい距離感を見つけなさいって? 俺と夏珠にもそんな距離感があるのかな……」
 つい口走ってしまった言葉に後悔した。
 俺たちに適度な距離感なんて存在しない。すべてを投げうってくっつくか離れるかしかない。
 「ドロドロ上等な悪い女であれば駆け落ちでもするのかな」
 ぼそっと夏珠は怖いことを言う。
 結ばれた二人は幸せかもしれない。でも残された者は。
 「自分たちしか見ないなんて図太い神経は私にはないや……。それって本当に相手を想ってるのかな。私には自分の幸せのことしか考えてない気がする」
 万人が幸せになる恋愛なんてないとは会社の同僚も言っていた。けれど誰もが自分が一番に幸せを願うことが間違っているのだろうか。
 邪魔に感じないくらい自然に流れる店内の音楽に包まれる。
 「ごめん。またしんみりしちゃったね」
 店主の計らいを感じるタイミングで場の雰囲気を和ますように見た目も美味しそうな料理が運ばれてきた。
 美味しい料理は人を幸せにするなんて言葉が聞こえてきそうだった。温かい料理に俺も夏珠も笑顔を取り戻していった。
 「しんみりついでに言っちゃうんだけどさ……」
 聞きたくないと思った。直感的に求めていないものが夏珠から提示される気がした。
 「年明けたら福岡に帰ろうかと思って」
 その意味を俺はすぐに理解した。正月の帰省ではなく、ちょっと実家に帰るとかでもない。それは半永久的に残りの人生を福岡で過ごそうとする決意のようなものだと。
 「どうして……」
 俺は取り乱すことだけは避けようと懸命に感情をコントロールした。
 夏珠はなるべくしんみりさせないつもりなのか明るい調子で続ける。
 「ほら、保育園のスタッフ総入れ替えしちゃうじゃん。だから時期的に早いんだけどフライングして抜けさせてもらおうと思ってね」
 夏珠の言ってることがわからなかった。
 「スタッフ総入れ替え?」
 「ん? なんで? 知らないの? 三月いっぱいで今いる先生たちは全員いなくなるよ。管理する組織が変わるから新しい保育士さんが来るの。パートの人とかは残る人もいるけれどメインでいる保育士さんはみんな変わる」
 初耳だった。
 もしかしたら妻にそんな話をされていたのかもしれない。頻繁にではないもののたまに妻の話をながら聞きしてちゃんと聞いてないときはある。よりによってそんな大事なことを聞き逃したのか。
 「それっていつから決まってたの?」
 「もう随分前だよ。おうちゃんが来る前からだから入る前に説明がされてるはずだよ。保育士が途中で変わるけど大丈夫ですかとか」
 夏珠と再会してからならば家で保育園の話題が出れば否が応でも耳が反応する。でも夏珠に再会する前となるとそうじゃないかもしれなかった。
 あの妻に限ってそうした話を俺にしないわけはないとも思った。
 「そっか……。妻の話にちゃんと耳を傾けてなかったのかも……」
 夏珠は苦い顔をする。
 「男の人ってどうしてそうなのかな。女の子の話をじっと聞いてられないのかな」
 「いや、そんなことはないんだけどさ。たまにね。たまに何かしながら聞いたりしてると意識があまり向かないときとかがさ」
 「私の話も聞いてないときあるの?」
 少し機嫌を損ねたときの声色だ。
 「いや、夏珠の話はいつだってちゃんと聞いてるよ」
 それは本心だった。夏珠の声はどんなにボリュームが小さくても聞き取れる自信があったし、実際一語一句漏らさず意識せずとも耳がしっかり夏珠の声を捉えていた。
 「なら奥さんの話もちゃんと聞かなくちゃ」
 そうは言われてもこればかりは説明が難しい。たぶん男が女の話を聞かないのは脳の仕組みに起因するものだと思う。それでも夏珠の話はすっと入ってくる。それを言ってしまうと、夏珠と妻では妻に向ける意識のほうが劣ると聞こえてしまいそうだが、決してそんなことはないと思う。
 余計なことを言うと話がこじれそうだと思い俺は黙って頷いた。
 話の矛先が変わってしまった。でも雰囲気はよくなっていた。
 考えてみれば俺も夏珠もお互いが好きであるがゆえにきっちりと別れるという選択をしたのに、なぜ俺は夏珠が福岡に行くと聞いてうろたえているのだろうか。夏珠だって辛いなか自分でしっかりと決めたというのに。
 「福岡でも保育士を続けるの?」
 「もちろん。私たぶん他の仕事してたらこの状況で精神やられてたと思う。子どもの顔が見れるから頑張れるの」
 俺からしたら保育士という仕事は他の仕事よりも圧倒的に精神力を使う仕事に思える。夏珠にはそれが癒やしにもなるというから驚きだ。
 「それじゃあ……」
 もう会えないのかという言葉を俺は飲み込んでしまった。
 「切ないよね。でも私たちはもう会わないほうがいいんだよ」
 お互いに納得してのことだ。でも本当にそれでいいのか未だにわからない。はっきりとそれがベストな選択だともベターな選択だとも自信をもてない。
 俺の幸せは……。
 俺の幸せは、夏珠が幸せであること。

春の雪と夏の真珠(第三十六話)

第三十六話

 日差しで明るい夏珠の部屋に男女の情を掻き立てるムードなんてものはなかった。それでも俺は夏珠を激しく抱いた。そうした行為がいかにも当たり前のことのように。お互いに何一つ躊躇することもなく、結ばれるべくして結ばれた二人への賜物として。そして実際にそう触れ合うことにはなんの不自然さもなかった。
 十四年という歳月を埋めるがごとく俺と夏珠は肌を重ね続けた。時に高校生の感覚に戻り、時に大人の感性でもってお互いを強く激しく感じた。
 言葉など些細なものだった。
 わずかな言葉だけで、余計なことなど言わずともお互いの十四年を理解した。何を考え、何を望み、どう進むべきかがお互いの体を行き来するようだった。
 夏珠の肌は当時より柔らかく、より女性らしい体だった。真珠を、それも最高級の宝石を扱うようにその繊細な体に触れ、口づけをし、優しく俺の想いをぶつけた。
 夏珠の体がそれに応えるたびに俺の気持ちも高まった。俺と夏珠はさらなる高みの境地へと進んでいった。
 「遥征くんは奥さんとおうちゃんを大切にしてあげて」
 日が早い。すでに傾きつつある西日が細く差し込む。
 隣に横たわる夏珠の熱が言葉とともに伝わる。
 その言葉には夏珠の想いすべてが集約されていた。
 「夏珠……」
 「不思議だよね。これだけ想い合ってるのに。何もかもが通じ合っていて、ずっと一緒にいることが当たり前だと思ってたのに……。心から好きだと想うがために私は遥征くんの隣にいてはいけないんだと思う。でも、それでそれをお互いに言わなくても感じちゃうのが切ないね……」
 具体的な言葉には何もしてない。夏珠は俺が好きで、俺も夏珠が好き。お互いの立場とかそんなのは一切抜きにしたまっさらな感情だけを示し合った。
 その結果は俺も夏珠も相手を想うがゆえに結ばれてはならないという選択だった。
 「夏珠、どうして俺が妻を選ぶ……、いや夏珠を想ってながらも妻との生活をとるって思うの?」
 「私が遥征くんだったらそうするから。私は遥征くんで、遥征くんは私。だから遥征くんが私を想ってくれてるのはよくわかるよ。奥さんもずっとそれを理解したうえで遥征くんと向き合ってくれてるんだもんね。遥征くんは奥さんも愛してる。私にとは違うベクトルの想いがそこにはある。もしかしたら奥さんは私たちのことを許してくれるかもしれない。奥さんの元を遥征くんが離れていくことを悲しまないかもしれない。でも私は悲しい。遥征くんが私の元に来てくれて嬉しいのに悲しい。だから遥征くんはそんな奥さんと子どもを捨てるなんてできない。それは私が悲しむから。遥征くんは私が悲しむって知ってるから」
 切なくて胸が苦しいという表現は今こうした気持ちを言うのだと思った。鋭い、とてつもなく鋭利な物で心臓を貫かれたかのような冷たい痛みが広がる。
 「私は遥征くんが私といるほうが幸せになるとかそんな自惚れたことは思ってないよ。奥さんと出会ってなければ遥征くんは私に対してまた違った感情を持ったかもしれない。奥さんと出会ってきちんと恋や愛に触れたからまたこうして私と巡り会えたんだと思うの」
 妻との出会いが夏珠への想いを強くさせた。
 妻との出会いが夏珠との再会を導いた。
 「そんな奥さんに対して遥征くんはこれからも愛をお返ししてあげないといけないの」
 夏珠はいつからこんなふうに考えていたのだろう。俺と妻と凰佑とをどんな気持ちで眺めていたのだろう。俺ならそんな夏珠の気持ちもわかる気がする。
 「遥征くんが私だったらそう思うでしょ?」
 心無しか声が細く小さくなった気がした。
 「夏珠……もういい……。もういいから……」
 俺はもう一度夏珠を抱き寄せ、キスをする。
 お互いの瞳からこぼれる涙が頬をつたって唇を濡らした。

春の雪と夏の真珠(第三十五話)

第三十五話

 A4版のアルバム。
 表紙には『春の雪、夏の真珠』とある。夏珠らしい爽やかな黄色とピンクを基調としたアルバムで、春と夏のイメージがよくはまっている。
 横並びにほとんどくっついているというくらい寄り添いながら二人でゆっくりとページをめくる。
 ページの一番上に写真が貼られ、その下にある大きな余白には夏珠の手書きコメントがかわいらしく散りばめられていた。
 「この頃はまだ知り合ってなかったんだね。たぶんお互い顔だけを認識してる程度だよ。あ、いる、みたいなね」
 それは中学二年生の頃に塾のクラスのみんなで撮った集合写真だ。
 タイトルは『始まり』。
 運命のいたずらなのか、俺は夏珠が一番前の列でしゃがんでいるすぐ真後ろに立っていた。
 俺と夏珠、それぞれに太い赤のマーカーで丸が囲ってある。
 「うん。でも俺はこの頃もう夏珠のことは気になってたよ。だから頑張って勉強して上のクラスに上がったんだもん」
 夏珠は笑う。
 「そうだね。そんなこと言ってた気がする」
 「記念すべき最初の写真。まだ知り合ってないけど、惹かれ合う運命の下にいる二人。この位置関係はやはり神の示しかな?」
 「ちょっと。声に出して読むな」
 夏珠の柔らかい体がドンと俺の体を押す。今現在のことなど微塵も感じさせない付き合ってた当時さながらのじゃれ合い方だと思った。
 ふわっと夏珠から甘く懐かしい香りがする。
 俺たちはゆっくりと時間を逆行し、今一度お互いの過去を見つめ直す旅に出た。
 二ページ目はカフェで勉強している様子を当時のカメラ付き携帯電話で上手いこと収めた写真。
 タイトルは『惹かれ合う二人』。
 「もう付き合ってた? まだだよね?」
 「まだだよ。でも私もこの頃は意識してたな。いつも一緒に勉強してたし、微妙な距離感だったね」
 「惹かれ合う二人?」
 「なに?」
 夏珠の声色が鋭くなる。
 「いえ。なんでもないです」
 駅前のカフェでお勉強。どんどん近づく二人の距離。もう事実恋人みたいな既成事実が成り立ちそう。でもちゃんと言葉にしたいな。
 夏珠のコメントの「事実恋人」という表現に目が止まったのを夏珠も気がついたらしい。
 「事実婚みたいな。ずっと典型的な友達以上恋人未満な関係だったからさ。もう付き合ってるってことでいいのかなって」
 その写真の少し後に駅の裏を撮った写真があった。写っているのは俺の後ろ姿と何もない駅の裏側だ。
 タイトルは、『告白』。
 でもコメントがひどい。
 最悪。ホントに遥征くんのバカ。あんな形で付き合うことになるなんて。どっちからでもいいけどちゃんとムードのある感じで言葉にしたかったのに。バカバカバカバカバカ。
 付き合うきっかけとなったエピソード後の写真だ。俺は撮られたことは気づいてなかった。
 でも夏珠のコメントも頷ける。俺自身もなんてムードもへったくれもない告白なんだと思ったし。
 形としては夏珠がぽろっと俺に対する気持ちを言ってしまい、俺も慌てて気持ちを伝えた。でもそれは夏珠の告白に乗っかってる感じにとられても仕方ない。
 「この時は悪かったと思ってるよ。本当に」
 「ま、今思うと私たちらしい結ばれ方かなとも思わなくはないけどね」
 夏珠は少し遠くを見つめるように想いを馳せていた。
 タイトルは、『春の雪』。
 これはシンプルそのもの。俺と夏珠の秘密の場所。様々なアングルからシャッターが切られている。
 タイマーをかけ地面に置いて撮った写真もうまく撮れている。寄り添う二人のバックには満開の桜が今にも風を感じて大きく動きそうだった。
 公園の写真は夏祭りが行われる俺の家の近くだ。
 タイトルは、『緑に包まれて』。
 夏祭り以外の平時は緑豊かな公園だ。意外と知られてないがちょっとした丘を登る小道があって頂上はカップルの隠れた逢瀬の場として使われていた。ちょうどいい高さの手すりにカメラをセットし、緑に包まれた二人が眩しい笑顔を向けている。
 「さすがにお祭りのときはここも人がいっぱいだったね」
 「だね。でも登る途中の辺りはあまり人がいなかったから休憩にはよかったでしょ」
 隣のページにはお祭りの写真が何もない公園とうまく対比するように貼られている。
 タイトルは、『夏の真珠』
 「私の誕生日にってね。何もできないけどって遥征くんかわいかったな」
 暗がりで夏珠を抱きしめた。
 鮮明にその光景が瞼の奥に広がる。
 「あれ? ちょっと赤くなってんじゃない?」
 耳元で響く夏珠の声に過剰に反応してしまっていた。
 「なってないよ。ちょっとこの部屋暑いんじゃない?」
 「そう? 私は適温だけど」
 夏珠はわざとらしく空調を確認するふりをしてけたけたと笑う。
 「この浴衣さ、実はまだ持っててね、今でも着れるんだよ」
 淡い白にグラデーションの色合いのある桜が散りばめられたその浴衣は夏珠に本当によく似合っていた。あのときは見惚れてしまった。
 今の夏珠が着たらまた違って艶のある、それこそ可愛さの中に妖艶な感じを見出すだろう。
 「今ちょっと現在の私が着たとこ想像したでしょ? 綺麗でしょ?」
 俺の考えることはなんでも知っている。
 そのことになにか感じるものがあって言葉を発するのを忘れた。
 「なんで何も言わないの?」
 再び声色が変化する。
 「いや、ごめん。夏珠は俺のことなんでもわかるなって改めて思っちゃってさ」
 「遥征くんだって私のことなんでも知ってんじゃん」
 今こうして俺と夏珠が創り上げている空気を壊せる者などいるだろうか。このまま一歩も外に出ないで外界との接触を一切遮断した生活をしていけたなら。あまりに心地よい雰囲気のせいで心がふわふわと流れていくのがわかる。
 楽になっちゃえばいい。
 そんな声が聞こえてくるようだった。それは天使の声か、悪魔の声か。
 「遥征くん?」
 「ごめん、またぼーっとした。なんかつい昨日のことのように思い出せる、いや、思い出すって感じじゃないな、ずっと覚えてるのかな」
 他愛もない写真ですら夏珠の手にかかれば一つのイベントごとのようになる。そして俺もその写真やコメントを見ればそのときのことをはっきりと振り返ることができた。
 「あ、ここは俺が一番好きなとこ」
 タイトルは、『海の楽園』。
 八景島にある遊園地と水族館が一体となっているアミューズメントパークだ。何枚も夏珠はそのときの時間を切り取っていた。それらの写真を見るだけで俺と夏珠は不思議な心地の時間旅行を楽しむことができた。
 ここでのデートは最高。でも私は遥征くんと一緒であればどこにいても楽園なんだと思う。
 俺も同じことを思っていたことを覚えている。
 その後もプラネタリウム、ウインドーショッピング、時系列から外れながらも、学校に忍び込んだ写真、お互いの高校生の制服、様々な二人の想い出が宝石のようにキラキラと大事にそこには保存されていた。
 中華街から始まる写真のページに至り、覚悟していたはずの心に動揺が走る。
 タイトルは、『ベタベタデート』
 「夏珠、これって……」
 これより前のものは、それは楽しい気分でアルバム作成に取り組めていただろうが、最後を飾るその写真らはあの事件の後でしか作ることはできない。
 よく見ると筆跡がわずかに違う気がした。夏珠の字の癖をよく知る俺だから気づけるレベルのものだが、これはおそらく当時の作品ではない。写真自体はもちろん当時のものだが、まとめたのはつい最近、大人になった夏珠の手によるものだとわかった。
 「うん。中身を見てないってのは嘘。アルバム見つけてから最後のページを追加したの」 
 限界だった。
 俺の中の何かが大きく強く爆発するような、激しい感情の高ぶりが訪れ俺は夏珠を抱き寄せていた。
 「ごめん。一人にして。あの事件のことにもちゃんと向き合わなきゃって思って。今日はちゃんと夏珠と話そうと思って。最後のページなしで終われれば本当に煌めく素敵な想い出でくくれるのかもしれない。でも俺たちには続きがある。再び出会った今、どうしても目を背けてはいけないんだってやっとわかったんだ」
 「うん……」
 夏珠は泣いているようだった。
 「夏珠も同じ気持ちでいてくれたから、最後のページをこうして作ってくれたんでしょ? 辛い思いをさせてごめん」
 夏珠の抱きしめる力が強くなる。俺も同じ力でそれに応える。
 「遥征くん……ごめん……。私はあのとき何もできなかった。ううん、今に至るまでずっと遥征くんを裏切ったことに負い目を感じて何もできなかった。きっと遥征くんなら私のことを信じてくれてるって信じてた。でも信じれば信じるほど怖くなって……」
 夏珠の気持ちは痛いほどよくわかった。
 抱き合っていると夏珠の胸の鼓動が聞こえてくるようで今まさに夏珠が感じているであろう不安が伝わってくる。
 「夏珠が謝ることじゃない。俺だって夏珠とまったく同じことを考えてた。夏珠が俺をおいていくなんてことは絶対にしないと信じてた。でもやっぱり信じれば信じるほど、会いたくても会うのが怖くなった……」
 午後の陽射しが部屋いっぱいに差し込んでいる。暗い気持ちで考える必要はないとの自然の演出にも後押しされ、俺は夏珠に語りかける。
 「あの時とった行動に後悔もたくさんある。大通りを通ってればとか、もっと早く帰ってればとか、もっとうまく立ち回って逃げることができなかったのかとか。でもそれ以上に、事件後になんですぐ夏珠を追いかけなかったのか、なんで夏珠を待ち続けなかったのか、そっちのほうが後悔してる」
 「私にもできることはいっぱいあったはずなのに……。お父さんに逆らうこともできなかった」
 夏珠のその言葉にやっぱり夏珠の父親が大きく関与していたことが確信に変わった。
 「夏珠のお父さんが事件をなかったことにしてくれたんだね?」
 「遥征くん、何も聞いてないの?」
 どうやら夏珠の父親は俺と夏珠を何が何でも引き離そうと手を尽くしていたようだ。無理はないと思う。年頃の娘を遅くまで連れ回して傷害事件に巻き込むなど普通に考えて親なら誰もがそんな男などお引き取り願いたいだろう。
 「俺自身しばらく罪の意識に苛まれてた。危うく殺しかけたんだ。あれで人生すべて棒に振ってたっておかしくない。それを夏珠のお父さんに助けてもらったわけだから、俺はお父さんを悪くは言えない。憎むのは己の無力だと思う」
 「違う。あの人は金持ちの典型で家の評判を気にしてるだけ。遥征くんのことなんてこれっぽちも考えてくれてない」
 「それでも証言を俺の不利になるようにはしなかった。夏珠だけ助けることだってできたはずだよ」
 俺は夏珠の目に溜まる大粒の涙に指で触れた。
 ゆっくりと夏珠の涙が手から腕にかけてつたってくる。
 「夏珠の気持ちはよくわかるよ。俺が夏珠の立場ならまったく同じことを考えると思う。でも夏珠も俺の立場での気持ちがわかるんじゃないかな」
 何も言わないが夏珠のその顔はイエスの顔だと俺にはわかる。
 お互いに責任という意味じゃ思うところもあるだろうけれども、どちらが悪いとか言ったところで何も解決しないのは俺も夏珠もわかっている。
 「夏珠、俺は夏珠のことが今でも好きだ」
 あまりに唐突だと自分でも思ったが、言わずにはいられなかった。
 「ずっとずっと夏珠のことを想っていた」
 かすかに隣近所の生活の音が聞こえてくるだけでほぼ無音に近い夏珠の部屋はそれでも不思議と緊張感というものはなくなっていた。
 ほんの数秒くらいだろうか。夏珠は間を置くと、
 「知ってる」
 と、涙ながらにすべてを吹き払う笑顔でそう答えた。

春の雪と夏の真珠(第三十四話)

第三十四話

 朝の目覚めは妙によかった。
 酔った勢いで夏珠に連絡しかけたが思いとどまる理性が残っていたのは幸いだった。素直な本音は言えたかもしれないが酔った状態じゃなんとも誠意に欠ける。
 俺の中でするべきことが固まっているのがわかる。
 夏珠は職員室で何かしているようでこちらに気が付かない。俺は夏珠を見つめてこっちに来てと念を送った。昔から遠くに夏珠を見つけたときにそうやって呼び止めたり、こちらに気づかせたりするのが成功していた。そのたびに不思議な絆で結ばれていることを二人で喜んだりしたのが懐かしい。
 俺の念に気づいたわけじゃないかもしれないが、結果夏珠は外に出てきて俺がいることに気づいてくれた。
 「あ、おはよう。ございます」
 他の先生や保護者が周りにいることを警戒した挨拶だ。
 「夏珠、時間を作ってほしい。少し話がしたいんだ」
 ストレートに要件だけを伝えた。
 夏珠は小さく頷くとメールするという仕草を残して足早に去っていった。
 端から見たら保育士と保護者という禁断の逢瀬の構図に捉えられてしまうリスクも顧みずよく言ったと思った。
 心臓が大きく鳴っているのは何に対する反応なのだろう。
 昼に夏珠からきたメールを見たときも心臓はわかりやすく反応していた。
 いきなりどうしたの? 何かあった? 遥征くんの都合に合わせるよというメールには夏珠を感じた。
 十一月の半ば、今度の日曜日に会う約束を取り決めた。
 前日の土曜日は妻が出かける。一日凰佑の面倒は俺が見ることになっている。これを交換条件に日曜日は俺が外出できると思ったからだ。
 「日曜日なんだけどさ、ちょっと友達と会ってきていいかな?」
 その夜すぐに妻に話した。
 「あら、珍しいね。誰と会うの?」
 「友達というか会社の同僚なんだけどさ、最近ちょくちょく飲み歩いてるやつ。けっこう息が合うのか休みの日にゆっくり昼間っから飲むのもどうかなって」
 夏珠と会うとはやはり言えない。
 嘘をつくことに罪悪感がないわけではない。けれども本当のことを言っても話がややこしくなるだけだ。
 俺はこんなに嘘をつくのが上手だっただろうか。妻は言わないだけで何か思うところもあるかもしれない。
 逢瀬。
 表紙をこちら側に向けて本棚に飾ってあるお気に入りの本の帯に書かれた文句が光って見える。
 ただの友達ではない相手。想いを向ける相手。それは立派な逢瀬といえる。
 夏珠と連絡を取ったり会ったりするのに毎回こんなにも胸が苦しい思いをしなければならないことが辛く感じられる。
 それでも俺は妻のことを愛していた。だからこそ夏珠のことを打ち明けられずにいる。
 「本当に奥さんを愛しているのなら真実を奥さんに告げることも選択肢の一つに考えときな」
 同僚の言葉が頭に鳴り響く。それも一つの愛なのだろうが、俺の考える愛とは違う。
 正解なんてない。そんな無駄な合理化に浸る自分に自己嫌悪を覚えるも、自己嫌悪するくらいならと堂々巡りな悪循環にはまりそうになる。
 「外出許可が出たんなら外を歩くより私の家に来る? そのほうが人目にもつかないしゆっくりできるんじゃない?」
 次の日の夜、夏珠は電話でそう言った。
 夏珠の家と聞いて正直少し躊躇した。家に行くというのはどういう意味をなすのだろうか。夏珠に深い意味なんてないのだろうが、少なからず男の俺は女性の家という場所には少なからず抵抗を覚えてしまう。
 独り身であれば喜んでお邪魔させてもらいたいと思うのだろうが。
 外で人目につくよりも難しい展開になるリスクを思う。
 「見せたいものもあるからさ」
 夏珠の頼みで断ったものがあったかと記憶を探るも、おそらく一度としてなかったと思う。
 日曜日に夏珠の家に行く約束をして電話を切る。
 スマホを耳から離し画面を見る。ホーム画面に切り替わりブラックアウトする。夏珠の声の余韻が耳にも目にも残るようで、外気に触れて体が冷えていたことも忘れていたことに気づいた。
 日曜日は朝から冬晴れのいい天気となった。
 俺の住む町の最寄り駅から四駅という距離に夏珠は住んでいたが、その駅で降りるのは初めてだった。
 改札を出ると左右に出口がある。夏珠からは右に出て正面の商店街を真っ直ぐ歩いてきてとのことだった。
 駅まで迎えに行くと夏珠は言ってくれたが、さずがに誰が見てるかわからないため出来る限り俺の方から歩いていくことにした。
 昔だったら日曜日というと商店街はどこも休みで静かなイメージがあった。今の時代はそうもいってられないのか賑わいをみせていた。年配の集まりやら家族連れやら部活に励む学生やらと様々な人で溢れて活気がある。
 あっという間に長い商店街が終わり、道路を挟んで左側に夏珠がちょこんと立っていた。
 「おはよ」
 口の動きを見るだけで夏珠の声が一音の狂いもなく正確に頭の中で再生された。
 そこから五分ほど歩いたところに夏珠の住むマンションはあった。
 オートロック完備の見た目新しい感じのマンションで、夏珠の部屋は四階にある。
 エレベーターに乗った数秒がものすごく長く感じられた。ずっと喋りながら来ていたからかふと訪れた沈黙が妙に色めいたものに感じられて思わぬ緊張が走る。
 夏珠の部屋は1LDKと一人暮らしには十分の広さだった。
 部屋に上がった瞬間に夏珠の匂いを感じ、過去に戻っていく。
 「あんまりあちこち見ないでよね。今お茶いれるから」
 俺は夏珠にお土産に買ってきたケーキを渡した。
 「あ、ここのケーキ地味に美味しんだよね。保育園の先生たちの間でもけっこう有名」
 「本当はもっと気の利いたものと思ったんだけど……」
 夏珠は特に返事を言葉にしなかったが、ちょっぴり覗かせる顔からは全然いいよという声が聞こえてきそうだった。
 夏珠はオシャレな花柄のティーカップに綺麗なピンク色のハーブティーを用意してくれた。
 その心地よい香りが夏珠の部屋をさらに華やいだものに変える。
 相変わらず物が少ないシンプルな部屋だった。香るものこそ女の子らしいものの、ぱっと見ではやはり女性の部屋とはすぐに判断しかねる。
 「さて、話とは何かな?」
 「うん。でもまずは夏珠から。見せたいものって?」
 いきなり過去の重たい話をするにはちょっと微妙な雰囲気だ。少しずつ話題を変えていければと思う。
 「ああ、私のはそんな大したことないよ。ずっとどこにしまったかわかんなくなってた大切なアルバムが見つかったからさ」
 「アルバム? 大切なのにどこにしまったのか忘れたの?」
 夏珠の目つきが変わる。何か地雷を踏んだのかと考えるのと同時にそのアルバムが俺との想い出の品なのだと気づいた。
 大切だけどずっと目に見えるところに置いておくのも考えものな品なのかもしれない。俺だって大事には思っても肌身離さず持っているわけにもいかずひっそりと実家に隠しているものは多い。
 「ごめん。昔の俺がいるのかな? 見たい」
 夏珠は意地悪そうな顔で俺を見る。
 「二人で見ようと思って、見つけてからまだ見ないでおいたんだけどな。遥征くんに見せるのやっぱりやめようかな」
 「ごめんごめん。見せてよ。改めて昔のことに向き合いたいと思って今日は来たんだ。だから……」
 場の空気が少し真剣な色を帯びた。
 「しょうがないな。どうしてもっていうなら見せてあげよう」
 夏珠は言外の意味を汲み取ってくれたようだった。

春の雪と夏の真珠(第三十三話)

第三十三話

 「今思うとなんでそこでしゅんと縮こまったまま何もしなかったのかって。しばらく、本当に長いこと何もできなかった。精神的にというのは言い訳だよね。すぐに行動すれば変わってたものもあったかもしれないのに」
 俺と同僚は、俺の希望で賑わう大衆居酒屋で飲んでいた。飲んでいたといってもここまで重たい話をしてることもあって全然お酒は進んでいない。
 いつもならオシャレな個室感のある場所に行くとこだが、話が話だけに逆に開放的だが隣近所の話なんて聞こえないくらいのどんちゃん騒ぎをしている居酒屋が好ましかった。静かで落ち着いたところでこんな話をしたりしたら今改めて精神的に病んでしまいそうな気がした。
 普段タバコとは無縁の生活をしてるためタバコの煙がかなり目にしみる。気のせいかとも思うが、心なしか喉がいがいがしてくる。
 「今更だし君に対して気を使う必要もないと思うからなんの考えもなしに言うけど、つくづくドラマでありそうな展開ばかりなんだね」
 「どう思う?」
 何がどう思うのか、自分でも何を聞いてるのかよくわからない質問だったがきっと何かしら答えは返ってくると思った。
 「事件自体は不運としか言えないね。そして彼女の家柄もまた君にはアンラッキーだったのかも。なんの証拠もないから真実まではわからないけど、十中八九すべて彼女の父親がもみ消したね」
 グラスに残ってたビールを一気に流し込んで同僚はそう言った。
 「うん。俺もあとあと冷静に考えてみてそう結論づけたよ。事件が明るみになれば夏珠の汚点になってそれはそのままあの家の汚点にもなるわけだから。悪く言うわけじゃないけど、体裁を気にしてあの父親が金に物を言わせたんだと思う」
 「ま、明らかに証言が食い違ってて不自然すぎる。でも、彼女と別れることにはなったけど罪に問われなかったのは儲けものと思っていんじゃないかい? 罪の意識に駆られることはないと思う。だって君は彼女を守ろうとしてやったことなわけだし。罪に問われて彼女との縁も切られたじゃあんまりだろう」
 俺は何も答えなかった。
 「彼女は別れてから君のことは探したって?」
 「大学からこっちに戻ってきてたらしくてさ、俺の実家のそばにも何度か行ってたって。俺のことを聞く手段が夏珠にはあったけど、いざ情報を得ても俺に会っていいものかと悩んだんだって」
 「ん? 父親の策かもしれないけど何も言わずに君との縁を切ったことを言ってる?」
 「そう。俺は夏珠が自分の意志で俺との縁を切るなんてことは絶対にしないって信じてたよ。夏珠も俺が信じてくれてるって信じてたみたいなんだけど、やっぱり最後の勇気が出なくてとか言ってたかな。俺が逆の立場でもそうなると思うし、まあ、気持ちはわからなくもない」
 つまみをビールで流し込んでどこか納得いかなそうな表情で同僚は大きく頷く。
 「なんだろうね。お互い本気で好きすぎて一歩引いちゃってる」
 「どういうこと?」
 「いやさ、好きなら好きでその人オンリーでがっついていいと思うんだよ。でもたまに君たちみたいなのいるでしょ。好きだからこそ別れるみたいな発想。自分の幸せよりも相手が幸せならそれでいい的な」
 そんな簡単にテンプレートにはめ込まれるのはやや心外だが世間からは表面的にそう見えるのは仕方ない。
 「いや、事はそう単純じゃないのはよく理解してるよ。でもシンプルに考えればそういうことでしょ」 
 おかわりした生ビールがいいタイミングで運ばれたきた。しばしの沈黙。お互いに思うところがあるのだろう、グラスをちびちびと飲みながら喋るともなく周囲を見渡している。
 「もう決めてんじゃないの?」
 なんでもお見通しか。
 「決めてる?」
 それでも俺は曖昧な返事をした。
 「はっきりとはしてなくても方向性というか、彼女との関係。少なくとも付き合うか付き合わないかの大きな二択なら付き合わない選択をするってのはもう頭の中にあるんじゃ?」
 言葉にしなければそれは効力を発揮しない。考えているだけじゃはっきりとは形にならない。そんな考えが俺に逃げる場を与えていた。
 今こうして同僚からの質問でぼやけた輪郭が形を成していく。
 「今までの話を聞いてる限りじゃ君も彼女もその選択がお互いに一番幸せに落ち着くと考えてそうに思えるからさ。違ったらごめん。どんな選択をするにしてももちろん俺は君の選択を尊重する。ここまで聞いたわけだし、行くとこまで付き合うからすべて教えてほしい」
 これが恋愛に関する話でなければこの同僚はここまで親身に付き合ってくれてはいなかったのだろうか。
 お互いのグラスがちょうど空になったところで俺たちは店を出た。
 「あんまり思いつめることでもないと思うけど。今のままで、言い方悪いけどダラダラとただ保護者と保育士の関係を続けることだってできる」
 温まった体に冷たい風が気持ちいい。
 「うん」
 「どうしてもなにかしらのけじめをつけたいって顔してるね」
 いつもに比べたら今日は飲んだ。いつもよりさらに表情も緩んであらゆることが顔に出やすくなってるのかもしれない。

春の雪と夏の真珠(第三十二話)

第三十二話

 目が覚めたとき自分がどこにいるのか、現実なのか夢なのかさえまったくわからなかった。時間をかけてやっと今自分が自分の部屋で寝ていることに気がついた。見慣れた景色のはずが妙に異質に映る。
 外は明るく、目に入る時計の針はまもなく三時になろうとしていた。
 状況がまったく理解できていない。ついさっきのことだと頭が訴えている光景を振り返る。
 夏珠と帰ってる途中に変な男たちに絡まれた。俺は金属バットで殴り、その男を……。
 体中に痛みが走る。俺もかなりぼこぼこに殴られていたことを思い出した。
 あの場所から逃げて走っていたはずだったが。
 意識が朦朧としてきて夏珠に手を引かれていたような。
 途中からの記憶はすっぽりと抜け落ちていた。俺は気を失ってしまったのかもしれない。あの後どうなったのだろうか。夏珠は無事なのか。
 起き上がろうとしてふらつき本棚に強く倒れ込んだ。足ががくがくして思うように動かない。
 「遥征、起きたの?」
 母親が物音を聞きつけてすっ飛んできた。
 「夏珠は……?」
 「夏珠ちゃんのお父さんがあんたをここまで運んでくれたんだよ。詳しいことは何も聞いてないんだけど、夏珠ちゃんのお父さんとにかくすごい剣幕で。『もう今後一切夏珠と関わらないでくれ』って。手切れ金ってやつなのかな、いらないって言ったんだけど強引にお金まで渡されてさ」
 「なんだよ、それ……。夏珠は?」
 「夏珠ちゃんはいなかったよ。本当にそれだけ。私も何がなんだかわかんない。ただあんたがぼろぼろで気を失ってたもんだから、あんまり夏珠ちゃんのお父さんの話に意識が向かなかった」
 母親と話をしていると、俺が目を覚ましたのを待っていたかのようなタイミングで警察が訪ねてきた。罪に問うとかそういうことではないらしいが状況の確認をしたいため、それぞれの言い分が食い違ってないかなどを調べなければならないらしい。
 ドラマでよく見るような口ぶりで私服の警官が俺を見据える。
 俺は素直に従い、そのまま警察署に連れて行かれた。
 テレビだと取調室で尋問されるイメージが強かったが、通された場所は普通の会議室などに使いそうな広い四角くテーブルを並べた部屋だった。
 だだっ広い部屋には俺の他に警察の人が三人いた。彼らは横並びに座り、それぞれが資料のようなものを持っていた。
 俺は彼らとは直角をなすような位置に座り、何か聞かれるのを待った。
 一つ一つ質問されると思っていたのとは違って、彼らから事件の概要が大まかに語られ、事実に相違はないかと聞かれただけだった。
 だが彼らの口から語られたのはどう考えても俺が覚えていることとは違っていた。
 「いや、違います。俺はバットで二人を殴って、一人は倒れて動かなくなったと思います」
 警察官が言うには、怪我をした男三人は自分たちでバットを振り回して脅したところ自分たちのミスでお互いを殴り合ってしまったと証言しているという。
 「でも君は意識を失っていたよね?」
 「それは事件の後にショックと疲れで倒れてだと。格闘してたときははっきりしてました」
 「一緒にいた女の子も君はただ彼女を守ろうとしてただけで手は出してないと言ってるんだよ」
 横の警察官がすぐ続いた。
 「すぐそばの家の人も目撃してて証言している。三人の男たちに絡まれて格闘まがいな感じにはなったけど何もしてないと。彼らが自滅しただけだと」
 ものすごく眉間にシワを寄せて目を細めてしまった。
 確かにあのとき正気だったかと聞かれれば夏珠を守ることに必死でよくわかんなくなってはいた。実際記憶も曖昧な部分が多い。けれども金属バットで殴った感触はなんとなく手にも頭の中にも残っている。それは間違いないと思う。それに自滅ってなんだよと思う。あの状況でそんなことが現実に起こるとは思えないし、そんな証言をいい大人がそろって信じているのも俺は納得がいかなかった。
 そもそもあんなチャラチャラした素行の悪そうな連中があのような仕打ちを受けて俺を悪く言わないなんてとても考えられなかった。近隣住民の証言だって妙だ。あの夜は周りに電気が灯ってる家はなかったと確認している。辺りは絶対に真っ暗だった。
 「我々としてもね、被害者は君たちだと思っている。状況からしても、証言からしても三人の男たちに非があるのは明らかだ。彼らは前科もあって何度も厄介事を起こしてるんだよ。自滅っていうのは確かに少々引っかかる点もあるにはあるんだけど、彼らがそれでいいって言ってるわけだしね。それに君に傷害の疑いをかけたところでこの場合そこまで罪が問われるとも思えない」
 起きた出来事が明らかに改ざんされている気がした。けれども俺には何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。
 夏珠の声が聞きたい。
 夏珠が無事なのか知りたい。
 俺は携帯を取り出し夏珠に電話をかけた。けれども通話口から聞こえてきたのは、現在使われておりませんとの機械的な言い回しをする文字通り機械音だった。
 寒さと状況のわからなさとに身震いが激しい。日が沈むのにもうそんなに時間はなく街の灯りがちらほらと目につく。
 何度かけたところで結果は同じ、何度画面を見直したところで夏珠という表示もやはり同じ。
 夏珠に何かあったのだろうか。携帯を止める必要性なんて俺にはまったく頭に浮かばなかった。最悪の事態が一瞬よぎったが、それなら警察から何かしら話があるだろう。それでも便りがないのは良い便りなんて悠長なことを言ってられるほど心は穏やかではなかった。
 そのときようやく気がついた。同時に辺りはもう夜と呼べる暗さになっていた。日が沈むぎりぎりのタイミングで外にいたのだろう。携帯の画面が夜に見るとき特有の強いバックライトの光を出していた。
 俺が夏珠とデートをしたのは土曜日だった。帰りが遅くなることを考慮して次の日も休みである土曜日に二人で決めたんだ。
 画面に表示されているのは月曜日の文字。土曜日に事件は起きて俺はまる一日以上眠ってしまっていたということになる。
 「あ、俺だけど。それは後で話す。それより俺って一日以上目を覚まさなかったわけ?」
 慌てて家に電話をかけて確認すると、土曜日の夜に夏珠の父親によって運び込まれ、そのまま日曜日は目を覚まさず今日に至ったということだった。
 非常に嫌な予感がした。
 夜に一人取り残される子どものような、本能的に何かまずいと思った。
 俺は走って夏珠の家を目指した。大通りから細い道を入り、静けさと暗さからつい起きたばかりの事件がフラッシュバックしてくるが、俺は止まらずに走り続けた。
 夏珠の豪邸はそこにあった。電気も付いている。
 チャイムを鳴らし中に入れてもらおうとお願いするもいい返事は返ってこなかった。
 「鷲尾様一家は引越しをなされてもうこの家には住んでおりません。今現在は我々家政婦が、鷲尾様の親戚が引き継いでこの家に住むまでの間責任もってお掃除等をしています」
 ロボットのような口調で決められた台詞しか答えないかのような無機質な声だった。俺は何も言えないでいると、チャイムの向こうの相手もしびれを切らして俺との会話は無駄と判断したのか一方的に切られてしまった。
 引越し。
 たった一日で引越しなんてできるのか。
 どうして夏珠は俺に何も連絡をしてくれなかったのか。
 全身の力が抜けて俺はそのままその場にへたり込んでしまった。
 すると門が開いて家政婦らしき年配の女性が顔をのぞかせた。
 「ご主人様から伝言を受けています。あなたは朝田遥征さんですね? もう二度と夏珠お嬢様と関わりをもつことをやめてほしいと」
 ご主人様? 夏珠の父親のことか。
 ぶれぶれの頭をなんとか働かせる。
 「夏珠はどこに?」
 「それにはお答えできません」
 ダメだと思った。たぶんこちらの望む答えはまず返ってこない。
 「お引き取り願います」
 冷たい声でそう言われて、俺の心臓はつんと冷たい痛みを覚えた。

春の雪と夏の真珠(第三十一話)

第三十一話

 季節は流れ、本格的な冬の訪れも近い十一月となり街はイルミネーションで鮮やかに彩られ始めていた。
 そんななか俺は未だに夏珠に対して明確な返事もしないままでいた。俺自身がダメな男という点はまさしくその通りだが、夏珠の方でも俺にちゃんとした返事をさせる雰囲気を作らないようにしていると思えることがあった。
 俺も夏珠も行き着く答えがなんとなくわかっているのかもしれない。それならいっそ今のままでいられたらいいとまで考えているのかもしれない。
 はっきりと答えを出せば変わらないままではいられない。子どもなら昨日喧嘩して今日は仲良し、でもまた明日喧嘩してまた次の日は何もなかったふうに話ができる。でも俺たちはそんなわけにはいかない。それがきっと大人のルールで、年を重ねるごとに不器用になるのは人間の本質なのかもしれない。
 こんなことを考えるなんて俺も恋愛ウィキペディアを脳にインストールしたあの同僚にだいぶ毒されてるのかもとため息が出た。
 「あらあら、ため息は幸せが逃げるよ。これ基本ね」
 噂をすれば、いや頭の中で思っただけなのに歩く恋愛生き字引は俺の目の前に姿を現した。
 「袋小路には変わりないが状況はまた少し変わったって顔をしてるね」
 人のオーラでも見えてるのかと思うほど毎度毎度と鮮やかに俺の繊細な部分を当ててくることにもあまり驚かなくなってきていた。
 「そうなんだよね……。やっぱりこんなところでは話せるようなことじゃなくてさ」
 「俺はいつだって話くらい聞くさ」
 振り返ることなく右手を上げ行ってしまった。今時そんな別れの挨拶があるのか。トレンディードラマかと俺は再びため息を漏らした。
 「じゃあ、話すよ。これで俺と彼女の物語も全部になる。今から話すことが俺と彼女を別れさせた根っこにある問題」
 十一月。
 それが俺と夏珠が引き裂かれた月。
 夏珠と再会してもずっとこの事件について言及すること、思い出すことを避けていたんだと思う。無意識に記憶の奥底に押し込めていた。
 だが十一月を迎えて街にイルミネーションが灯るように、俺の心のざわつきも大きくなっていった。
 この事件を蒸し返すのは俺も夏珠も精神的にリスクがある。それでも改めてこの事件と向き合ったうえでこれからのことを考えなければいけないんだと思う。
 俺は夏珠とこの事件について振り返る前に今一度記憶を整理しておくべきだと思った。実際はそう思ったというのは言い訳で、結局なんでもいいから他人の客観的な意見が聞きたかっただけだろう。
 俺は再度会社の同僚を飲みの席に連れ回し話を聞いてもらうことにした。

 桜木町はすっかりクリスマスに向けて綺麗に化粧を始めていた。夜が近づき暗くなればなるほどその化粧は映え、街並みは美しく輝くようだった。
 「ベタなデートをしよう」
 夏珠にそう言われて俺がプランニングしたのが、桜木町を中心に一日回ることだった。
 スタートはお昼の中華街。
 例年より少し冬の寒気の流れが早く到達したとかなんとか天気予報士が難しいことを言っていたが、十一月にしてはだいぶ寒い気がした。
 この時期はまだここまで真冬の格好をすることはないと例年の記憶が告げていた。お昼の太陽を全身で浴びても体が温まる気配はいっこうになく、手袋、マフラーなどの小物アイテムも大活躍だった。
 夏珠は完全に真冬モードだ。
 白のニット帽に同じく白のモコモコの手袋。膝上の白のワンピースの上にはネイビーの丈の短いダッフルコートを合わせている。マフラーは柔らかい雰囲気の白に赤のラインがワンポイントに入っている。薄手の黒いストッキングが美脚に見せて全体を大人の印象にしている。靴は明るいブラウン調のちょっぴり厚底のもの。
 トータルコーディネートは大人の雰囲気の中にも可愛さは忘れずにみたいな感じだろうか。俺はその格好に改めて可愛いと思ってしまった。
 寒いのなら可愛さアピールなんてしないでズボンでも履けばいいのにと思うも、よく見せたい一心でオシャレしてくれたんだと思うともう出会い頭にぎゅっと抱きしめたくなる衝動に駆られた。
 「なに? なんか付いてる?」
 長いこと見すぎたみたいだ。夏珠に不審がられた。
 「ううん、ごめん。なんか可愛いなとか思っちゃった……」
 言いながらすごく恥ずかしいことに気づいた。夏珠もいきなりそんなこと言われて嬉しいようだが照れのほうが先行しているみたいだった。
 「行こっ」
 夏珠にぐいっと腕を持っていかれた。そんな日常にとにかく俺は幸せを感じていた。
 休日の中華街は人で溢れていた。俺たちははぐれないようにどちらからともなく自然と手をつないだ。手袋をしたままでもいいのに夏珠は俺のことをしっかり掴んでいたいからとわざわざ片方だけ手袋を外していた。
 ディナーは贅沢しようと決めていた。だから昼はいっぱい食べ歩きすることになった。結果使ったお金は決して安上がりではなく一軒のお店でランチをしたほうが安くすんだけれども、あれこれ回って食べるものはどれも美味しく感じられた。
 中華街でお腹はぼちぼちと膨れていた。運動がてらゆっくりと桜木町まで歩き、映画を見た。
 映画はトム・クルーズ主演の近未来アクションで、ちょっと先の未来が見えて事前に犯罪を防止できるシステムが構築された世界の物語だ。映画では主人公が罠にはめられて犯人扱いされるわけだが、このシステムが完璧なら本当に犯罪が防げてクリーンな社会ができるねなんて感想を述べあった。
 映画の後は遊園地だ。ジェットコースターはかなり寒かった。園内をぐるっと回りゲームセンターでぬいぐるみを取ったり、プリクラを取ったりしてどんどん時間が過ぎていった。
 日が沈むのは早かった。すでに外は暗くなり始め、徐々にイルミネーションも目立ってきていた。それを合図に俺と夏珠は観覧車に乗った。八人くらい乗れそうな大きな観覧車に二人だけで乗るのは贅沢な気がした。こんなに広いのに俺も夏珠もぴったりと寄り添って座っていて、座席はすかすかでおかしかった。
 頂上が近づくと桜木町、横浜の夜景が一望できる。ランドマークタワークイーンズスクエア、みなとみらい。クリスマス仕様の街はとても綺麗でロマンティックな雰囲気は十分だった。
 高校生カップルがすることなんて決まっている。観覧車が頂上に達したその瞬間、俺と夏珠はキスをした。何度もキスはしているのに緊張感を伴いドキドキした。降りるまでの間しばしお互い照れ隠しが大変だった。でもその間ずっと手だけは握り合っていた。
 俺も夏珠もそんな雰囲気にもうお腹いっぱいで、全然空腹を感じることができていなかったためもう少し歩くことにした。ランドマークタワーの展望台に上って見た夜景は、観覧車から見た景色とはまた違って見えた。ここにも家族や友達と何回か来たことはあったはずなのに、夏珠と見ているからか見える景色もいつも見るものと随分違って見えた。
 夜景とガラスにほんのり映る夏珠のコラボは見惚れるほどで、当時からカメラ機能の充実したスマホがあったなら俺は間違いなくその時間を永遠のものと切り抜いたことだろうと思う。
 ディナーはだいぶ背伸びをして赤レンガ倉庫のオシャレなところを選んだ。各テーブルの上には小さな火を灯したろうそくがグラスに入って置かれていて、程よい照明の暗さが大人な感じだった。
 テーブル席、ソファ席のほかにベッドという席もあったが、さすがにそこは刺激が強すぎた。店員さんは勧めてくれたが窓際のソファ席にした。
 年齢確認なんてのは暗黙の了解といったところか、俺は背伸びも背伸びでジントニックを頼んだ。夏珠はノンアルコールカクテルだ。
 お酒の免疫はあまりなくすぐに酔っ払った。気分がふわふわしてただただ楽しく感じられた。
 「遥征くん、大丈夫? そんなカッコつけてお酒なんて飲まなくてもいいんだからね」
 「うん、大丈夫。今すごい幸せ。ずっとこのままだったらって」
 俺は本当にいつまでも夏珠と一緒にいることを願っていたと思う。
 「もうすぐ受験だね。大学で勉強したいこととか決まった?」
 「まだ……。夏珠は保育の道に行くんだよね。やりたいことが明確なのはうらやましい」
 「うーん、私もまだよくわかんないよ。でも子どもが好きなのは間違いないからさ、子どもについて勉強したりしたいなって思うの」
 「すごいよ。俺は何が好きかとかもよくわかんないし」
 「大学で勉強しながらゆっくり見つけていくのでもいいんじゃないかと思うけどな。ま、まず最初に何を勉強したらいいのかってのは問題になってくるけどね」
 「だよね。将来か……サラリーマンでもいいんだけどさ、でも何かなんでもいんだけど小さなお店を持ってみたいな」
 初めて夏珠の前で小さいとはいえ夢を語った気がした。小っ恥ずかしくて夏珠にすら言ってなかったと思う。
 「え? なにそれ、初耳だよ。今までそんなこと一度も言ってなかったのに」
 夏珠は思った通りの反応をしてくれた。
 「うん。なんか恥ずかしくてさ。ちっぽけな夢すぎてかっこ悪いじゃんか。しかも漠然としすぎてるし」
 お酒で顔が熱いのか恥ずかしさで熱いのかよくわからなかった。
 「いいじゃんか。お店。うん、いいよ。やろうよ。私も手伝う」
 こうして将来を語り合って人生設計をしていくのは文化祭の準備をしているときみたいでわくわくな気持ちになった。
 準備してるときってなんでこんなに楽しいのだろう。文化祭当日も楽しいには楽しいが、準備をみんなで頑張っているときのほうがなんでか一段と楽しく感じる。
 夏珠とだったらお祭り本番が来ても当然楽しいんだろうな。心からそう思う。いつもより心の中が感傷的なのはやはりお酒のせいかもしれない。
 聞き慣れない洋楽が妙に心地よい。場の雰囲気にも慣れてきた。
 夏珠は終始笑顔だ。リラックスして食事や会話を楽しんでくれているように見えた。
 「そろそろ行こうか?」
 時間も時間なので会計を済ませて外に出た。
 「あれ? なんだか寒くないね」
 不思議と俺も同じ感想だった。電光表示に今の気温が見えて二人して驚いた。
 「えー、七度。昼間よりぐっと冷え込んでいるよ」
 俺は口にこそ出さなかったが、きっと俺も夏珠も心から温まったんだよと思った。
 「私たち心からラブラブで熱々だからかな?」
 表現の程度の差こそあれ夏珠も俺と似たような発想をしていたかと思うと自然と頬が緩む。
 「なに? バカっぽいとか思ったの?」
 「違う違う。俺も似たようなこと思ってたから」
 俺たちは世間のバカップルも引くぐらい盛り上がってたと思う。
 「行こ。見せたいものがある。有名だからもしかしたら知ってるかもしれないけど」
 俺は夏珠の手を取った。手が温かい人間は心が冷たいなんてことが言われたりするが、夏珠のこの温かい手は心から温かいものが流れてくるからこそだと思う。
 赤レンガ倉庫からほんのちょっぴり遠回りで駅を目指した。
 「ねえ、こっちから行くと何かあるの?」
 その口ぶりからして夏珠はここを知らないようだった。
 「うん。綺麗なものが見える」
 「景色?」
 「うん、もうすぐだから」
 木の橋は夜のせいで妙に無機質に見えて寒々しい。今この辺りで温かいのは俺と夏珠だけじゃないかと思ってしまう。
 右手にはクイーンズスクエアランドマークタワーが光っている。その手前では時計の役割も担っている観覧車が緑色の電飾に彩られ一秒一秒を刻んでいた。
 「ほら、見て」
 緑の光に包まれた観覧車が水面に反射してまったく同じ形のものを映していた。水に浮かんだ逆さ富士ならぬ逆さ観覧車がちょうど波風を立てる邪魔もなく完璧な状態で俺たちの目を奪った。
 「すごい……。これって有名なの? 見たことないし知らなかった」
 「そっか。初めてならより感動もあるね。デートの最後を締めるにはいいと思ってさ」
 寒さも忘れてしばらくの間ずっとぴったりと寄り添いながらその光景を眺めていた。
 「本……に綺……」
 微かな声は周りの音にかき消された。
 「夏珠?」
 「うん? 見惚れちゃうね」
 幸せの絶頂にいるということは、もうあとは下がるしかないということ。
 不意に不安な感情がよぎったのは少しずつ体が冷えてきたことによるためだと信じたかった。
 「ごめん。なんかしんみりしちゃったね。帰ろうか」
 手をつなぎぴったりと体をくっつけたまま歩く。駅まではすぐだが、このまま、ずっとこのままこうやって歩いていたいと思った。
 電車はそんなに混雑してなく座って帰れた。夏珠は疲れたのか座るとすぐに眠りに落ち、頭を俺の肩に預けるかたちで可愛い寝息をたてていた。
 夏珠の最寄り駅までは電車を乗り換える必要があったが、少し歩くけど俺の家の最寄り駅から夏珠の家まで送ることにした。少しでも一緒にいたいと思う気持ちもあるし、夜道一人で帰らせるのも忍びない。
 「遥征くん帰るの遅くなっちゃうよ」
 「そんなの気にしなくていいよ。ぎりぎりまで一緒にいたいし」
 駅の周辺は夜でも明るく人もまだまだ歩いている。それでも駅から離れていくとだんだんと暗く、道行く人の数もほとんどなくなっていった。
 大通りを通っていけば安全なのは確かだったが、二人で歩いているし大丈夫だろうと脇道を入り電灯がまばらな狭く暗い道を俺たちは歩いた。
 観覧車を見ているときに感じていた温もりはその暗さと寒さによってすっかりなくなっていた。歩くたびに踏み出す一歩がはっきりとした音となって聞こえてくる。
 夏珠はさらに俺への密着を強めた。怖いのだろう。
 そのときになって大通りを行けばよかったと思った。今からでも大通りに抜けようかと曲がったところで俺と夏珠はチャラチャラした三人の大人に絡まれた。
 「なんだよ。いらついてんときにいちゃいちゃしやがって」
 理不尽な怒りを買ってしまったらしく行く手を塞がれた。
 酔っ払ってるのか一人かなり足取りがおぼつかないでいる。
 夏珠を守ろうと前に出た瞬間に顔面に強い痛みが走った。あまりに不意すぎて殴られたことがわからなかった。俺は大きく後ろに転がり、目がちかちかした。
 夏珠は二人の男に押さえられて大きな声を出したらどうなるかわかんないぞと安い悪者キャラが言うような文句で脅かされていた。
 俺は夏珠が人質みたいな格好となり思うように動けなかった。それをいいことに男は俺を殴る蹴ると暴行を繰り返した。
 楽しいデートが一転して最悪になってしまった。なにもかもが自分のせいだと思うと自分自身に腹がたった。
 住宅街だというのに休日だからか電気が灯っている家が少ない。騒ぎ立てているわけでもなかったため周辺住民で気がつく人はいなかった。
 「もうこの子だけ連れて行こうぜ」
 二人の男が夏珠をむりやり連れて行こうとした。
 そこで俺の中の何かが弾けた。脳内で変なものが分泌してるのか今まで殴られてた痛みなんか吹っ飛んでいた。
 俺は近くの家の玄関に立てかけてあった金属バットを取り、目の前の男の頭に思い切り振り込んだ。
 鈍い音と夏珠の悲鳴が聞こえた気がしたが、俺は構わずそのまま残りの男たちにも殴りかかった。一人はすぐに仲間を置いて逃げてしまった。もう一人は怒って何か言っていたようだが俺の耳には入らなかった。そいつは倒れて動かない男を心配しながら俺に向かってきたので、俺はもう一度バットを振り抜いた。男の悲鳴が今度ははっきり聞こえた。
 「遥征くん」
 夏珠に掴まれてようやく我に返った。目の前には男二人がうずくまっていて、一人はぴくりとも動かなかった。
 「大丈夫。遥征くんは悪くないよ」
 自分がした事の重大さが理解できた。
 倒れている男は生きているのだろうか。もし死んでいたら。
 俺は夏珠の手を掴んで走った。今すぐその場から逃げたかった。夏珠を守りたいという気持ちよりも恐らく自分自身がただ怖いという感情に負けていたんだと思う。
 どこまでも真っ暗闇な気がした。走っても走っても見えてくるのは見慣れない景色。方向感覚もままならなず、足元すらおぼつかないくらいふらふらだった。
 途中から夏珠のほうが前に出ていたような気がする。俺のほうが夏珠に支えられ引っ張られていたような。
 疲れと痛みと恐怖と……。
 頭がめちゃくちゃで何も考えることができない。
 強い光が俺の目を覆った。真っ白で何も見えなくなり、何もわからなくなった。
 手には夏珠の優しい柔らかい手の感触があるだけで、後のことはもう何も理解できなかった。