「漂う」(第十九話)

第十九話 

 あなたはオーストリアの宮廷でディナーを楽しんでいた。
 豪奢なシャンデリアは淡い光を細かく無数に放ち、だが主役は決して自分ではないと目立つことは避け、あなたを一番美しく輝かせることに専念しているようだった。
 宮廷音楽家が奏でるメロディーが食事のスパイスとなる。
 厚い絨毯はあなたをしっかりと支え、最高級の木材を使ったテーブルと椅子には金銀の宝石細工が施されている。
 あなたはお姫様だった。
 何重にも薄い絹が丁寧に織り込まれたドレスは着ているのは感じさせないほど軽く、だがその真紅の光沢は存在感を一際目立たせる。
 あなたは物語のヒロインだった。
 無数のダイヤを散りばめられた金のティアラは中世の大国の至宝。
 あなたのためだけに用意された。
 ひとつ、またひとつと料理が運ばれてくる。
 お皿に乗るそれらはどれも少量で、けれどもそこには小さな宇宙が広がっていた。それぞれのプレートに物語があるようで、色鮮やかな佇まいは五感を楽しませた。
 大きく長いテーブルに座るのはあなただけ。
 その向かいの席は空いていた。
 あなたは想う。
 彼はもう間もなくやってくると。
 薄く小さな足音が聞こえた気がした。
 あなたの鼓動と同じリズム。
 そして、重厚な扉が開かれた。

「漂う」(第十八話)

第十八話

 あなたは水の中にいた。
 あなたはそれが幻影だと知っていた。
 澄んだ水はひんやりと冷たい。だが肌には心地よいとすら感じられた。
 呼吸が苦しいこともなく、周囲を囲む魚たちは饗宴の演舞を執り行っているかのようだった。
 あなたは知っていた。
 将来のプリンセスもまたこの景色を見せられ、魅せられたことを。
 そして、プリンセスの瞳に映っているのがあなたではないことを。
 あなたは右手が疼くのを感じた。
 力に対して力で対抗するのは簡単だった。あなたが右手の力の解放すればこの美しい景色は露と消え、荒涼たる景色へと変わる。
 あなたは想う。
 敵の力の強大さを。
 力でもって力を合わせるのではない自分とは異なる戦い方を。
 この場を掌握することが勝利になるとあなたは考えることができなかった。紛れもない幻影、だが、消し去ることでプリンセスの心までも消し去り、幻滅を促しかねない。
 あなたはおよそすべてを知っていた。
 試練とは、乗り越えることができる者にのみ与えられるということを。
 「おもしろい……」
 あなたはそうつぶやいていた。
 自分でも聞こえるか聞こえないかの小さな声で。
 あなたは力を解放する。
 そして、その場は大きな光に包まれた。

「漂う」(第十七話)

第十七話

 あなたは深く感じていた。狂おしいほどに。
 それは本当に狂気と呼べるものだとあなたはあなた自身でそう認識していた。けれども抑えることができない。呼吸をするかのような自然な行為として。
 あなたは地味な服に身を包んでいた。おしとやかな大和撫子だった。
 閑静な住宅街は昼間と言えど人通りは少ない。
 だからこそ感じる。あなたにまっすぐに向けられた熱い視線を。
 あなたは歩みをゆっくりにする。
 殺した足音が段々と近づいてくるのをあなたは確かに感じた。そして感じた。あなたに触れる手を。
 逆光で相手の顔は見えない。
 あなたは体の力が抜けるのを自覚し、歩みを止めた。
 白昼。
 四方を住宅に囲まれた場で。
 それがあなたをより一層強い狂気へと導いた。
 ゆっくりと、段々と手はあなたの中へと押し進む。
 自然と手はスカートの中へ。
 あなたはすでに濡れていた。
 濡れているところはオアシスへと続く道。手はまさぐり、さらなる潤いを求めてきた。
 オアシスを見つけた手はすぐに露と消えた。
 だがあなたはそれでも狂気の恍惚というオアシスに至っていた。
 射し込む日差しに目を細め、あなたは調書を閉じた。
 香りの高いコーヒーを飲み、うっとりした心地を抑えながらあなたは午睡へと向かった。
 

「漂う」(第十六話)

第十六話

 あなたは深い呼吸に身を委ねていた。
 「吸ってお腹を膨らませて……」
 あなたは心地よい声に導かれ想うがままになる。
 「吐いてお腹を凹ませる……」
 あなたの意志よりも、何か先立つものがある。
 あなたは全身の力が呼吸とともに抜けていくのがわかる。
 自分がそうしているのか、そうなるように導かれているのか。意識はまどろむようでいて、研ぎ澄まされたものもある。
 あなたはインストラクターを見つめた。
 その全身を見る。
 結び束ねられた長い黒髪。
 照明に彩られた光る汗。
 透き通る瞳とバランスの取れた鼻。
 幸せの微笑みを生む口。
 細く女性らしい身体。
 全身を覆うオーラ。
 そのすべてが艶肌をさらに色めき立つものへ変える。
 あなたは不思議に想う。
 欲情してもおかしくないほど魅力的で惹かれているというのに自分の中に邪な考えがないことを。
 あなたは想う。
 今まで自分が本当の恋愛と呼べるものを経験していないのではないかと。
 あなたは深く深く呼吸を繰り返すたびに今までに感じたことのない想いをその心に燻らせていた。
 スタジオの照明が明るくなる。
 彼女との時間はいつだって儚く、光のように一瞬で終わる。

「漂う」(第十五話)

第十五話

 あなたは幼なじみの車のなかで落ち着いていられなかった。
 不慣れな格好で、不慣れな相手を前に話をしなければならない。その重責に押しつぶされそうになっていた。
 「今からそんな緊張してどうすんのさ? 言っても宴席なんだから気楽にしてりゃいいのに」
 幼なじみは超現実的楽観主義者さながらな態度でのんびりと車を運転していた。
 あなたは想う。
 幼なじみが自分であったならと。彼の一流の社交気質ならば造作もないことなのだろうと。ただ幼なじみは偶然あなたを車で運んでくれているだけだった。
 あなたはこの日のためだけに用意された上質のタキシードに身を包み、靴や鞄、小物に至るまでハイブランドのアイテムを取り揃えていた。
 あなたは想う。
 幼なじみと自分の格好のあまりのギャップを。
 幼なじみは近くのコンビニに行くのも考えてしまうようなみすぼらしいスエット姿で、足元はクロックスだった。
 あなたは紛れもなく緊張していた。
 人前で話すことは慣れていても、いわゆる重鎮が多く座する場での話となると若輩者であることを意識せざるを得なかった。
 あなたは想う。
 渋滞にでも巻き込まれて抜け出せなくならないかと。このまま幼なじみと永遠と続くドライブにでもならないかと。
 青山通りに差し掛かったところであなたは見た。
 長く長い車の列を。
 事故による渋滞。車はまったく流れていなかった。
 あなたは車を降り、遠く見えない渋滞の先頭に目を向ける。
 ビルに反射する光に遮られ、あなたはただ目を細めるだけだった。

「漂う」(第十四話)

第十四話

 あなたは電車に揺られていた。
 大人女子を意識した格好をするため青山で買い物をすると決めていた。
 電車から降り、すれ違う人に目を向けると一瞬脳裏をかすめるときめき。
 振り返って見るも、それはまったくの見知らぬ人。
 あなたは常に探していた。
 偶然どこかで会えるかもしれないと。
 休日の青山は平日と比べると少し雑多な印象をあなたは受ける。
 大通りを歩くあなたは洗練されていて、道行く人の目を奪う。
 積極的に声をかけてくる人にもあなたは目もくれず、あなただけに用意されたレッドカーペットのごときあなたの道を歩く。
 どのくらい歩いただろう。
 長い大通りの終わりにあなたは一人の姿を捉えた。
 洗練されたタキシードを身にまとう紳士。
 レッドカーペットが色鮮やかに映え、周囲の景色も舞踏会を催す中世の街並みに変化していた。
 あなたは純白のドレスに包まれ、ゴールドのティアラを頭に載せていた。
 一歩。また一歩と待ち構える彼に近づくたびにティアラの輝きが増すのがわかる。
 一歩。また一歩と歩みを進めるたびに景色がどんどん変化していく。
 世界はあなたを、あなたたちを祝福していた。
 ファンファーレが鳴り、絢爛豪華な装飾の旗が大きく宙を舞う。
 美しい旋律のメロディが場の雰囲気をより洗練されたものへと押し上げ、誰もが幸せのおすそわけを享受しているようだった。
 再び鳴るファンファーレ。
 音は何度も何度も反響する。
 そしてあなたはようやく気がついた。それがファンファーレではなく、大通りの渋滞によるクラクションであると。

「漂う」(第十三話)

第十三話

 あなたは独りだった。
 周囲には敵でも味方でもない人々が行き交い、今いる場の空気を創り上げていた。
 あなたはこの中に自分の敵がいるのを知っていた。
 およそすべてを知るあなたは敵の土俵で勝負するリスクもためらうことなく行動に出た。
 異界につながるであろうトンネルに入ると全方位の視界が開けた。
 真っ青な空間。
 その中にあなたは取り残された。
 透明なガラスのトンネルの周囲には大小様々な魚がときに単独で、ときに群れをなしあなたに視線を向けていた。
 あなたは敵が水属性であると知っていた。
 およそ水に縁のあるものなら状態を問わず操ることができる異能の持ち主。
 今あなたの行動は魚たちの目によりすべて敵に筒抜けになっていることをあなたは知っていた。
 敵はカモフラージュとばかりにそのトンネルに普通の人々を招いている。
 あなたは想う。
 ここで戦うには多くの犠牲が出てしまうことを。
 だがあなたは知っていた。
 敵が仕掛けてくるときこそ最大の好機であることを。
 トンネルを抜けた先にあなたは広いステージを見た。
 終わったばかりのステージに群がる人混みのなか、あなたは光り輝くオーラを見た。
 それは誉れ高きあなたが姫と呼ぶ将来の伴侶の姿。彼女は終わったステージの遥か先、遠く虚空を見つめていた。
 どっと押し寄せる群衆。
 次の瞬間には、もうあなたの目は高貴なプリンセスの姿を映し捉えることはなかった。