「雪の瞳に燃える炎」(第七話)

第七話

 気温がかなり上昇していた。街は初夏の陽気で人々はかなり薄手の格好をしている。実際の収穫時期を光央は知らなかったが、バレンシアオレンジがなんとも似合う気候だと思った。
 雑多に賑わう駅の前でも、彼女を見逃すことはなかった。先に着いて待っていると、彼女が近づいてくる方角がなぜだかわかった。目を向けると黒のスラックスに真っ白なブラウスを着た彼女がゆっくりとこちらに向かってきていた。道行く誰もが目を奪われ、思わず二度見してしまっていた。
 流れる時間が遅い。すぐにでも抱き寄せたい衝動に駆られるほどなのに彼女はそのゆっくりとした歩調を決して変えることをしない。実際に彼女が遅いのではなく、彼女の生み出す時間の中に光央が入り込んでしまっていた。
 「ちょっと歩くけど落ち着けるカフェがあるからそこでランチしようか」
 挨拶など交わすまでもなく、光央と彼女は通じ合っているのだという幻想に囚われそうになる。まるで長いこと付き合っている二人のよう。今さら多くを語る必要など感じさせずに、彼女は歩き出す。
 光央に拒否権などない。彼女は絶対だ。体が勝手に彼女を追いかける。そして隣に立つだけで光央はエネルギーをどんどんと消費していくのがわかる。
 「スペインにはお祭り見に? もうすぐ帰るのかな?」
 辺りは爆竹がガンガン鳴り響いていた。彼女は驚く様子もなく歩き続ける。爆竹の他にもファンファーレやら合奏やらが通りを盛り上げていた。次第に祭りが本格化してきていることが感じ取れた。周囲はかなりの喧騒に包まれている。それでも彼女の声は一音も漏らすことなく光央の頭の中で奏でられていた。
 「一週間だけです」
 彼女の静けさに反して光央は大きく声を張っていた。
 「そっか」
 光央はなんとなく空気が一瞬寂しげな色を帯びた気がした。
 「スペインはもう長いんですよね? あまりに流暢なスペイン語だったからネイティブかと思ったくらい」
 「全然。接客用語だけ叩き込んでるの。あなたのが上手だと思う」
 「いや、俺はスペイン語は喋れないから……」
 彼女は目を細めいかにも怪訝な顔という顔をした。だがその表情すらも魅力的で、ありとあらゆる彼女を知りたいと思った。
 「友達みんなスペイン人なのに?」
 「彼らとはイタリアで知り合ったんです。だから俺はイタリア語で会話してます。昨日いた二人はイタリア語が喋れて、一人はスペイン語しかできないけどなんとなくそれでも言ってることはわかるから」
 光央の足元で爆竹が連続して爆発した。声こそかろうじて上げなかったが、みっともないくらい大きく仰け反ってしまった。
 「大丈夫?」
 そう言いながらも彼女は笑っていた。
 「この爆竹なんなんです? 全然慣れない。夜はうるさくて眠れないし……」
 彼女はなおも笑う。感情表現をこんなふうにする人なんだと少し近づけた気がした。
 「あ、そういえば名前まだだね? 聞いていい?」
 「あ、小畑光央です」
 心無しか彼女の目が開かれたのを光央は見逃さなかった。
 「へー、中央で光るの光央?」
 名前に対してそんな返しをされたのは初めてだった。
 「そうです。その光央」
 「光央か。いい名前だね」
 彼女は一人何かに納得するようにうんうんとご機嫌に頷いていた。
 「あ、ごめん。わたしはユキ」
 「ユキ?」
 「うん。雪が降るの雪」
 その名前からくる連想がそうさせたのか、彼女の周囲に光が集まり、雪の結晶のような煌めきが広がった。
 本当に綺麗だと思って見ていたのは、放水していたホースが爆竹にコントロールを失って辺りに水を撒き散らしたことによって生まれたちょっとした奇蹟だった。
 「雪さん」
 「うん」
 彼女にぴったりだと思った。熱くたぎる思いを胸に秘めているようでいて、どこか達観している。それは美しく結晶化された姿。熱さの対極ではなく、熱さの延長線上にこそ雪を冠する彼女はいる。
 「どうして俺の誘いを受けてくれたんです? 自分でも後々になってなんであんなナンパみたいなこといきなり言っちゃたんだろうって……」
 「うん? あまりにストレートな誘いだったからかな」
 光央はそれ以上を聞くことができなかった。
 常に主導権は雪にあった。大人の余裕が漂うこともそうだが、その目、その声を前にして態度を大きくとるなどということは光央にはできなかった。
 随分と街の奥まで来た。人の流れが途絶え、辺りはひっそりと静かで、同じ祭りまっただ中のバレンシアとは明らかに異なっていた。
 「スラム街なんて言ったら言い過ぎだけど、少し前まではそう呼ばれるに相応しいくらいの場所だったの」
 今は開発も進み至るところが舗装され綺麗になりつつあるも、当時の名残と思しき面も所々に目に付いた。

「雪の瞳に燃える炎」(第六話)

第六話

 光央は店内の奥にあるトイレに立った。扉を一枚隔てているはずなのにその向こう側には彼女がいるとはっきり感じた。声が聞こえるとか、香りがするとかではなく、存在感が確かにそこにあった。
 光央はどうしてここまで鼓動が高まっているのかわからなかった。初対面の店員さんに対して何を緊張することがあるのか。何を恐れることがあるのか。震える手で静かに扉を開けた。そして、やはりそばにいた彼女はすぐ光央に気がついた。
 「君、日本人かな?」
 その声に光央は心をぎゅっと掴まれた。暴力的にではなく、包み込むように。彼女の声の響きに心が覆われる。耳から入ってくるようでいて、直接脳に優しく響き渡るその声に光央は心地良いめまいを覚えた。
 外見の美しさは声までも美しくする。それくらい彼女の声は透きとおっていた。彼女から放たれる言葉によって震える空気が色めくようだった。その声に反応して鮮やかになる周囲の空気は、彼女の香りとも結びつく。場の空気は完全に彼女のものだった。
 彼女は光央が答えられずにいたために日本人じゃないと思ったのか、
 「あれ? 違うのかな?」
 と、独り言のように紡ぐ言葉すら一つの音楽の調べを成していた。
 「あ、あの、すみません、日本人です」
 ようやくなんとか力を振り絞って光央は声を出した。
 「あ、やっぱり。韓国人や中国人とはどこか少し違うよね。なんとなく日本人は見てわかる。でもこんなところに来る日本人は珍しい。ガイドブックとかにも一切載せてないから地元の人しか知らないの。いい友達を持ったね」
 一言一言が価値ある宝石みたいだと光央は思った。彼女が話せば話すほど辺りの空気がきらめく。
 「ここで働いてるんですか?」
 言ってから変な質問だと光央は気がついた。
 「遊んでるように見える?」
 彼女は笑った。営業用のスマイルとは違う純粋な笑顔。見ているだけで体が溶けそうになる感覚は光央にとって初めてだった。
 「うそうそ、冗談。こっちに住んでるから。ここはバイトでね。日本人と話すのもすごく久しぶり。街へ出れば見かけたりはするけど話したりはしないからさ」
 異国にいると感情の高ぶりが激しくなる。異国にいると思い切った行動ができたりする。
 「あの、明日とか……えっと……会えたりできませんか」
 考える前に口が動いていた。
 「お友達はいいの?」
 「明日はみんな仕事で、一人で時間を潰さないといけなくて……」
 「そっか。ん、いいよ。私も明日は暇だし」
 ポケットからメモ用紙とペンを取り出し彼女は何かを書きつける。
 「これ、私の番号。いつでも連絡くれていいから。こっちの携帯端末は持ってるでしょ?」
 そう言うと、彼女は小さく手を振り、先にホールに戻って行った。
 あっけなくナンパじみた行為が成功し、光央は今更にして全身の震えがピークに達した。その後マリオたちと話した内容、テーブルに並ぶ繊細な工夫が凝らされた料理など、漠然としか光央の記憶には残っていなかった。
 会計を済ませ席を立つと、彼女は奥のほうからさりげないウインクをした。光央はわずかに頭を下げ、わずかに口角を上げて笑顔を返す。
 「光央、あの彼女ウインクしなかった? もしかして声かけた?」
 フランチェスカが目敏く気づいた。あれだけフランチェスカが近くにいるだけで胸にときめきを覚えていたのに、その恋心とも思えた感情は漆黒の髪を持つ日本人女性によって完璧に上書きされた。
 「ちょっとね」
 光央は必死のシニカルな笑みでその場を後にした。
 スマートフォンならばなんでもできるが、光央が持つイタリアで購入した旧世代の携帯電話ではその国の文字しか打ち込むことができない。彼女にメッセージを送るにもどうしたものかと光央は考えた。ローマ字で日本語を打つか、イタリア語を打つか、マリオに尋ねてスペイン語で打つか。光央には電話をかけるという選択肢はなかった。同じスペインにいながらも国際電話扱いになる電話代を気にしていたのではなく、単に上手く話せる自信がなかった。せっかくの約束が台無しになりそうで怖かった。
 光央はスペイン語で打つことにした。それもマリオの助けを借りずに。正確にはマリオの部屋にあるネットの力を借りている時点でマリオの手は借りていることにはなるが、彼女とのことを聞かれるリスクはない。
 調べ物があるという理由で光央は一人パソコンを使わせてもらう。マリオはシエスタだと言って昼寝をしていたが、外は徐々に夕焼けで染まりゆく時間だった。このまま朝まで起きないんじゃないかと一緒に暮らしていたときも何度となく思った。マリオは休みだといつも夕方近くに寝て夜に起きる。
 マリオは例外としても、黙っていることがないスペイン人とずっと時間を共にしていたせいで独りの時間が妙に静かに感じる。時折、遠くのほうで爆竹が聞こえてはくるものの、久々に与えられた完全に独りの時間を懐かしんだ。
 マウスをクリックする音すら綺麗に鳴る。
 日本のニュースが目に付くとネットサーフィンをしそうになる。光央はすぐにネットを切り、携帯端末のメッセージ画面を開いた。
 明日昼から会おう、そう簡潔にメッセージを送る。彼女からは瞬時に、オッケー、とだけ返事がきた。続けて、正午にバレンシアの駅で、とすぐに送られてきた。
 遠足の前日の子どもはこんな気持ちだったかなと思う。胸がドキドキと、遠くの爆竹に負けないくらい音を立てていた。高揚した想いのまま鮮やかな夕日にたそがれていると、シエスタの雰囲気に呑まれたのか疲れがどっと出た。そしてゆっくりと光央はまどろんでいった。
 「光央」
 聞き慣れた声、好きだった声、フランチェスカが光央を眠りから呼び起こした。外はすっかり暗くなっている。
 一度別れたフランチェスカもいつの間にか再び合流していた。
 「ご飯ができたよ」
 リビングに行くとマリオが作ったと思われる料理がテーブルにところ狭しと並んでいた。
 「せっかく光央を招いておいて明日も一日独りぼっちにしちゃうからさ。そのお詫びとして腕を振るったよ」
 美味しいパエリアと奇跡的な美しさのカフェ、さらにはあの彼女との出会いをもたらしてくれたマリオたちには光央に詫びることなどこれっぽっちもない。むしろ光央がただひたすらに感謝したいくらいだった。けれどもシニカルな笑みを浮かべるマリオの優しさを素直にいただくことにした。それでも光央はどこか抜け駆けのようで彼女に会うことに若干の後ろめたさを感じてもいた。

「雪の瞳に燃える炎」(第五話)

第五話

 海からの風は冷たいものの、決して寒いとまで感じないのはバレンシアの恵みたる太陽のおかげだと光央は思う。
 ここでは爆竹の音はほとんど聞こえない。聞こえてくるのは波の音、空を舞う鳥の声、そして、光央たちの笑い声。砂浜に足を取られながら歩くのが苦にならない。歩くという行為が楽しいとさえ感じられた。
 途中大きな岩山が行く手を塞いだ。どうしてそこにその岩山だけが残されてしまったのかと大自然の神秘を思わせる。岩山は砂浜にしっかり乗り上げているが、海に面している部分もかなりを占める。海岸線に沿ってさらに歩こうとするならば浜から完全に陸地まで迂回しなければならなかった。
 「ここなんだ。秘密の隠れ家カフェ」
 マリオは今までで一番なほどにシニカルな笑み作る。
 迂回しようと岩山を回り込んでいるのかと思う途中、岩山が人を飲み込んだ。不自然にではなく、あくまでも自然に岩山が口を開けている部分があった。マリオを食べてしまった大きな口を光央は恐る恐る覗いた。そこには海賊船の牢屋を思わせる扉があり、マリオはその前で手招きしていた。
 「どうなってるのここ? この岩山そのものが人工的に造られたものなの?」
 光央は感じた疑問をぶつけずにはいられなかった。
 「岩山は正真正銘の天然だよ。天然で生み出された岩山の内部のスペースに造られた奇蹟のカフェ」
 店内は極力自然の岩をそのままに利用した造りのカフェで、狹いところや広いところが入り混じり、空が見えたり隠れたり、お店というにはあまりに秩序のない造りだった。だが、奥まで進むと一気に視界が開け、幻想的な空間が出現した。
 両サイドには分厚い岩山がそびえ、その岩山の両端を上から覆うかたちで、限りなく透明に近い、薄く色が散りばめられたステンドグラスのようなものが乗っかっていた。太陽を透過し、かつ、反射することで角度によって様々な色合いを見せる。正面には太陽によって輝いた大きな海原が望め、暗礁の上に席を設え、打ち寄せる波を感じることができる。文字通り海の上にあるカフェだ。
 光央にはどういう仕組みによるものなのかわからなかったが、足元の海は黄緑色に光輝き、ファンタジーの世界を演出していた。波の音という自然の音楽と、邪魔しない程度に流れるヒーリング系のメロディがその場をさらなる癒やしの、外の世界とは切り離した空間を作り上げていた。
 「どう?」
 マリオだけじゃなく、フランチェスカやファビオまで光央にシニカルな笑みを向けていた。
 光央は言葉を発することができなかった。どんな言葉も陳腐に聞こえてしまいそうで、ただ無言でいることこそがこのカフェに対する最高の賛辞に思えた。
 席に着くと光央は強烈な既視感を覚えた。ここで誰かに出会う。そんな光景が記憶の片隅から、屈折する光によって届けられた。
 海に大きく面したところにあるテーブルを整えている女性スタッフの姿を光央は捉えた。光の反射で逆行となる。けれどもその輪郭がぼんやり浮かび上がるだけで、光央にはそれが直感的にイメージした彼女だと思った。
 彼女がほんのわずか動いたことでその姿が光の中にはっきりと現れる。
 彼女は特別だった。
 目立っていたとかではなく、彼女を認識した途端に彼女しかいなくなってしまったという感覚に近い。彼女しか見えない。
 スペイン人の多くは黒髪だが、彼女のそれは黒よりも黒い、漆黒。背中まである長い漆黒の髪は光を飲み込む黒ではなく、光と共存し、より輝かしい艶を持つ。
 黄緑の光を放つ海の上に立つ姿は幻想的で、そのステージは彼女のために用意されたかのように絶妙な具合で調和していた。
 光央は視線を完全に奪われていた。
 その視線に気づいた彼女と目が合った瞬間、光央は自分を保つことが難しくなった。圧倒的な力を誇示するような強い目。その目で見られた者は決して抗えない、抗いたくない、征服されたいとまで感じる絶対服従の目。
 彼女がこちらに近づいてきているはずなのに光央は自分のほうが彼女に惹き寄せられていくような感覚に襲われた。
 「注文はお決まりです?」
 流暢なスペイン語が彼女の美しく整った小ぶりの口から届けられる。
 各々が注文をするなかでまったく自分という存在を見失っていた光央は、ただ何もわからないままなんとかマリオと同じものを注文した。
 「綺麗な人だね。日本人なんじゃない?」
 フランチェスカはうっとりとした目で彼女を追っていた。
 「光央?」
 隣にいるマリオの声が妙に遠く聞こえた。
 「あ、うん、日本人かも」
 「光央、あまりに綺麗だからって見惚れてたか?」
 ファビオに茶化されたそれらの会話が彼女の耳に届いていないかと心配になる。こちらに背を向けて厨房に注文を飛ばしている彼女の、ちょこんと左右についた小悪魔的な耳は彼女のテリトリー内の会話ならすべて捉えてしまいそうな気がした。

「雪の瞳に燃える炎」(第四話)

第四話

 光央は熱しやすい。けれども冷めやすくはない。今でもあわよくばフランチェスカとの関係をと考えてしまっている。それは大学生にもなって未だに異性と付き合ったことがないというコンプレックスが焦らせるものだとも思う。誰でもいいとは言わないまでも、ある程度かわいいと思う子ならばよく知らずとも好きになる。正確には、好きになろうとしてしまう。
 本当の恋愛なんてわからない。
 世間体を気にしただけのステータスとしての彼女なんていらないと思う一方で、やはり童貞を公言できるほどの度量を光央は持ち合わせていなかった。
 「光央」
 そう呼ばれて声の方に振り返ると、大男のファビオが立っていた。そういえば玄関のチャイムが鳴っていた。
 「昨日仕事が落ち着いたら会いに来ようと思ってたんだけど遅くなって来れなかったんだ、すまない」
 大男のファビオは見た目とは裏腹に紳士で優しい。
 二メートルはある長身でゴツゴツした骨格は相変わらず健在だった。体に比べて顔は小さく、大柄なのにシャープな印象を与えている。動きが遅いといった固定観念が通用しなそうな感じだ。
 「じゃあ、街へ繰り出そう」
 光央とマリオはファビオが運転する車で街の中心へ向かった。
 街は昨日よりも賑わいを見せていた。観光客のほか、地元住民も多く出歩いているようだ。車が通れるところが少なくなっていて、遠くに車を止め、中心地までは歩いて行かなければならなかった。
 街の中心に行くと、子どもを抱えた大きなマリア像が設置されていた。ただ奇妙なのは、マリア像の首から下の体はすかすかで、木でできた骨組みの三角形の上に顔と手があるだけだった。
 「お祭りが始まってるのになんであんな中途半端なの?」
 「あれはこれからやるパレードに参加する人たちが一人ずつ花束を持ってきてあそこに捧げるんだ。パレードが終わる頃には完成するから、気長に待ってて」
 街には民族衣装のような独特の服を来た人たちが子どもから大人まで歩いていた。
 「あの服を来た人たちが街を歩いて花束を届ける」
 マリオは慣れているのかなんら珍しいとも思わない口調だった。
 「俺たちも子どもころはあんなふうな格好をして歩かされたよ」
 ファビオは少し照れくさそうに低い声を上から出す。
 色は青、赤、緑、黄色と様々で、腰から下が大きく広がったフレアスカートのドレスは細かな金銀の刺繍が織り込まれ、中世貴族の装いを喚起する。髪飾り、ストール、優雅に着飾った小学生から中学生くらいの女の子が特に多く目に付いた。男の子はというと、執事のような黒ベストで女の子と比べると味気ない。華があるのは決まって女の子なのかもしれない。
 光央がついつい見惚れているところにフランチェスカはやってきた。
 「光央」
 耳に心地よく流れ込んでくるその響きを間違えるわけはなかった。爆竹が鳴ろうが、お祭りの喧騒の只中にいようが、光央はその声を正確に拾った。
 くしゃっと顔をほころばせて笑うフランチェスカに光央は改めてときめいていた。
 「フランチェスカ
 抱き合うと香る甘いフランチェスカの匂い。柔らかく温かい彼女の体温が全身に伝わる。ずっとそのままでいたいと思うころには体は離れている。光央の想いなど露知らず。当然だがフランチェスカは友達として光央との再会を喜んでいるようだった。
 フランチェスカと合流すると光央らはすぐファビオの車に戻り移動を開始した。
 「あれ? もう見ないの?」
 「また四日目、五日目ともっと盛り上がってるときに見に来よう。今日は美味しいパエリアとカフェでまったり」
 マリオは得意のシニカルな笑みでみなを引き連れていく。
 「ふぅー。もうホントあの祭りには息が詰まる」
 街の中心からは離れ、まもなく目的地に着くよとファビオが言うのに応えるようにフランチェスカはたまっていたであろう思いを吐露した。
 「地元の人はみんな愛するものなんじゃないの?」
 光央は街が盛り上がるのを見て素直にそう思っていた。
 「全然。私は嫌い。毎年毎年朝から晩までバンバンバンバン、バンバンバンバンとうるさいったらない。夜なんて眠れやしない。誰もがお祭りの間に仕事を休めると思うなって感じ」
 フランチェスカの家はさっきのマリア像のすぐ近くだそう。連日観光客に加えてさらに盛り上がる地元民の大喧騒にはうんざりしているという。
 光央は自分が同じ状況ならあっさり五日間でノイローゼになる自信があった。フランチェスカの気苦労も十分に理解できた。
 車が止まり外に出ると、潮の香りが強く感じられた。建物で見えなかっただけで、すぐに視界いっぱいに海が広がる。陽射しがあるとはいえ海風は強く、春の格好では少し肌寒い。さすがに海で泳いでいる人の姿は見られなかったが、誰も泳いでいない海はただただどこまでも広く雄大で、太陽に反射してどんな宝石でも叶わない輝きを放っていた。
 そんな海を望める最高のロケーションにログハウスのような丸太で造られたお店があった。そしてマリオはそこに入っていく。
 「メニューはパエリアしかないよ」
 店内は大きめのテーブルがランダムに並び、真っ白なテーブルクロスがすべてにかかっていた。港を思わせる内装で、白を基調とした清潔感のある空間だ。壁にかかる絵はどれも海をモチーフにしたものが多く、汽笛の音やカモメの鳴き声が聞こえてきそうな感じがした。店内には食欲をそそるいい匂いが絶妙に立ち込めている。
 程なくして運ばれてきたのは、大柄な男の人が両手いっぱいに広げて持つパエリア独特の平たく薄い鍋だ。完成した品をお披露目するパフォーマンスで、出来立てなのか鉄板の熱の音が聞こえてくる。その音色に合わせて小麦色にこんがり炒められた具材が余熱で踊るようにぐつぐつと自己主張している。等間隔に円を一周カットレモンが置かれていて、その場を引き締め統率しているようにも見えた。
 一人分のお皿に盛りつけされたものを見ると、海の幸が惜しみなく使われていた。添えられたレモンで味を変えながら飽きることなく、お腹がいっぱいになるのも忘れて食べ続けることができた。
 日本人に限ったことではないのかもしれないが、料理は本場で食べると美味しく感じると思う人は多い。特に日本人はそれが顕著で、旅の先々で、「やっぱ本場は違うね」とよくわかりもせずに舌鼓を打つふりをする。光央にもその気持ちは理解できるが、今食べたパエリアは本場がどうこうでなく、美味いの一言以外に適切な表現が見つからない。今まで、生涯で食べてきた料理で一番美味しかったんじゃないかと思うくらい、満腹でもまだ食べたいとなる一品だった。
 美味しいものを食べると人は幸せになる。テーブルを囲む誰もが自然と饒舌になり、改めて久々の再会の喜びを分かち合った。
 ゆっくりとパエリアを食した後、光央たちはそのお店からさらに海岸線を歩いた。手に残るほのかなレモンの香りが満腹の幸福感をいつまでも感じさせてくれた。

「雪の瞳に燃える炎」(第三話)

第三話

 晴れ男の光央は旅行先でひどい雨に見舞われるということがほとんどなかった。長く滞在していて雨の予報に出くわしても大事なイベントごとでは必ず晴れる。
 今日から五日間、バレンシアの町はお祭りとなる。スペイン三大祭りの一つであるその「火祭り」を見るために光央はイタリアから飛んできた。天気予報に雨のマークは見られず、空にはやはり雲ひとつ見つけることはできない。
 光央はマリオの車に乗ってバレンシアの駅まで来ていた。もう少しゆっくり寝ていたかったのだが、一人でお留守番はさすがに暇を持て余すし、バレンシアに来たばかりで移動手段がわからないため、マリオと同じ時間に出て町の中心まで連れてきてもらった。これからマリオの終業時間を待つことになる。
 「今日からお祭りとは言ってもまだそんなに町は盛り上がらない。ゆっくり観光でもして時間を潰してて」
 マリオの話では「ファヤ」という紙でできた人形が街の至るところに造られているという。そのため、日本では「火祭り」と呼ばれるその祭りの正式名称は、「ファヤ」の複数形で「ファヤス」という。
 光央はそもそも「火祭り」なるものすら知らなかった。検索して、スペインに三大祭りとくくられる大きなお祭りがあり、その一つがこの「火祭り」だと初めて知ったくらいだ。詳細はわからないが街中で何かが燃え上がるらしい。
 「ファヤ」は大小様々だが、小さいものでも人間と同じくらいの大きさはあり、大きいものになると家と同じくらいの巨大さだった。
 普段の人の流れがどの程度なのかわからないので今この辺りに人が多いのか少ないのか光央には判断できなかったが、光央から見た印象では観光客らしき人は多い気がした。
 紙でできたモニュメントみたいなニュアンスを聞いていたため、薄っぺらい簡単な工作くらいに考えていた光央にとって、街を歩くとすぐに目に付いた「ファヤ」という人形のスケールには思わず息を飲むこととなった。
 何の予備知識もなくそれらの人形を見たのならば、それらが紙でできているなどと誰が思うだろうか。ディズニーランドのようなテーマパークで目にしそうなメルヘンチックで精巧な造りのオブジェクトが街のあちこちに置かれている。
 光央は地図を持っていなかったが、時間はあるし最悪迷ったところで会話はできそうだったためひたすら歩いた。おそらく後日マリオとゆっくり「ファヤ」は見て回ることになると思い、極力見ないようにして街の観光に徹することにした。
 市庁舎、教会、広場、イタリアの街並みと似ているようでどこか微妙に違う感じが新鮮だった。歩いているだけでもロールプレイングゲームの主人公になった気分を味わえる。新しい街にて新しいクエストに出会う可能性に胸を踊らせた。
 五歳くらいだろうか、光央の近くにいた小さな女の子がひょいと何かを地面に投げ捨てた。光央からほんの数メートルといった距離に放たれたものに目が行く。次の瞬間、それは大きな音ともに爆発した。
 女の子がきゃっきゃとはしゃいでいる横で光央は心臓が止まるかと思うほどびっくりしていた。別に誰も光央のことなど見ていないだろうが、光央は平静を装い何事もなかったかのように振る舞ってみせる。
 それから先、何度と似たような光景を見ることになり、そして見なくともどこからか爆発音は耳に届いた。どうやら爆竹らしく、多くの人が無作為に投げて楽しんでいた。しばらく歩いてわかったことだが、投げているのは地元のバレンシア人だ。観光客らしき人たちはみな光央と同じように爆竹が鳴るたびに悲鳴をあげている。おそらくその爆竹も祭りの余興の一つなのだろうと光央は理解した。
 光央は広場にあるカフェのテラスで休憩をしつつ街を眺めていた。昼を過ぎた頃から爆竹が鳴る頻度が上がってきたように思う。なんとも無秩序に放たれる爆竹の音は、それぞれが個々のもので一切のハーモニーなど生むことはない。時折、連続的に爆竹がつながるのは偶然にすぎない。それでもその音をきっかけに段々と人々のテンションが上がっていくのはわかる。街の温度が上がっていくのは単純に太陽が強く輝く時間だからというだけではないのかもしれない。
 強い陽射しが眩しくも心地よい。現実から意識が遠のきそうになると爆竹の激しい音にすぐ現実へと戻される。
 けれども不思議なもので、慣れてくると爆竹の音ですら一つの音楽のようにも感じることができた。そんな詩人めいた発想に浸り油断して歩いていると、すぐそばでバンと破裂した。光央は無様にも大きく体を仰け反らせて驚き、恥ずかしい思いをした。そして光央は夜中や早朝にも爆竹が激しく鳴ることを知る。
 マリオの家は街の中心から車で二十分ほど走ったところにある。昨日の時点では静かだったはずと光央は記憶している。だが真夜中にもわりと近くで爆竹が鳴り響き、全然寝付けないでいると目覚ましとばかりにまだ日も昇りきってない頃から爆竹のアラームが豪快に鳴り響いた。
 「マリオ、この爆竹は五日間ずっとこんな感じなの?」
 「段々と、もっともっとエスカレートしてくるよ。これらの個人が投げてるのとは別にショーのような感覚で爆竹が轟くイベントもある」
 「でも夜中や朝方にもやられると眠れないでしょ」
 「ん? そのへんの時間はあんまり聞こえないけど。この辺りなら夜は静かでまったく睡眠に支障は出ない。フランチェスカは街の中心に住んでるからしんどいみたいだけどね」
 光央は驚愕した。マリオにはあの音が聞こえてないという。慣れがそうさせるのか、バレンシア人が特有の進化を遂げたのか。
 「あ、フランチェスカ、彼女もバレンシアなんだっけ?」
 フランチェスカもモデナで知りあったスペイン人の一人で、丸顔、タレ目、アヒル口ナチュラルパーマのかかったセミロングの黒髪を持つ女の子だ。その容姿は光央の心を一瞬で射止めるほどキュートで、光央の好みの女性のタイプそのままだった。声フェチでもある光央にとってフランチェスカの声、また、喋り方、イントネーションなども余計に彼女の可愛さを増幅させ、ほぼ恋に落ちていたと言ってもいいくらいだった。
 「今日は彼女にも会えると思う。彼氏がちょうど出張らしくて暇してるみたい」
 モデナにいた当時、光央は異国にいる妙な高揚感も手伝ってかフランチェスカに真剣にアプローチを試みようかと考えていた。けれどもすぐに彼氏がいることがわかり、告白する前に振られるといった悲劇に見舞われ、軽く一週間ほど本気で落ち込んだ。
 彼氏の存在はもう周知のことなのに改めてマリオの口から出た彼氏という単語にはやはり少しチクリと刺さるものがあった。

「雪の瞳に燃える炎」(第二話)

第二話

 三月のバレンシアは日本と比べるとほんの少し温かい。緯度的にはそこまで変わらないし、気候も似たようなものだが、熱いスペイン人が温度を上げているのか、この日も昼間にコートは必要ないくらいの陽気だった。
 白塗りの、高さはないがやたらと大きい建物に到着し、マリオはそこが自分の家ですぐ隣の建物にルイスとファビオも住んでいることを知らせた。
 日本人の感覚からすると、エントランス、階段、廊下とホテルのような造りで妙にお洒落に見える。違うだろうが、壁も床も大理石だと言われたら信じてしまいそうなくらい綺麗に整った印象を与えていた。
 まず光央が驚いたのはマリオの家の広さだった。日本人のワンルームの話から派生したやり取りでマリオがある程度の広さの家に住んでいることは知っていた。けれどもそれは想像以上の広さだった。一人暮らしなのに部屋は三つあり、それらとは別にリビングが光央のワンルームと同じくらいの広さで質の良さそうなソファやテーブル、大型モニターのテレビと優雅にゆったりと置かれていた。
 「え? マリオ一人で住んでるんだよね? 広すぎない?」
 「この辺じゃこれは狹い部類に入るよ。ルイスの家はもっと広い」
 世界は広い。意味はそういうことではなくとも光央の頭にはそんな言葉が浮かんだ。
 子どもの頃に広い一軒家に住む友達の家でかくれんぼをしたことを思い出した。これだけの広さがあれば十分に楽しめる。
 たいした旅でもなく疲れなどなかったが夜まではマリオとひたすら近況報告を兼ねた世間話に花を咲かせた。いつまでも明るい窓の外に改めて今自分が遠い異国の地にいることを感じた。
 夜になってルイスの家に行くと、まず迎えてくれたのは可愛らしい小さな女の人だった。ルイスの彼女であるらしく、ほんのり小麦色の肌にボリュームのある真っ黒の長い髪、身長は日本人でも小さいほうになるサイズで、小動物のような印象の美人だ。遅れて出てきたルイスは、アイロンのいきとどいたぱりっとした白シャツを見事に着こなす貴公子そのもの、非常に画になる美男美女が大歓迎を表していた。
 マリオの情報通り家はとてつもなく広かった。食事の支度ができるまでルイスが家の中を案内してくれていたのだが、マンションの一室なのに部屋の中で二階建て構造になっていた。単純にマリオの家の倍近くあることになる。上の階のベランダはバーベキューができるレベルの広さで、夏はよくそこで食事を楽しむらしい。
 食事はちょっとしたレストランを思わせる見た目も美しい料理の数々が並んでいた。サラダはミニトマトと同じ大きさのオリーブが彩りよく散りばめられ、パンは焼きたてなのかふんわりと湯気が薄くくすぶっているのがわかる。ハムとチーズはイタリアでもよく目にしたものだが、そこには様々な種類のハムとチーズがところ狭しと並んでいた。他にはスペイン人が得意とする、玉子焼きの中にじゃがいもが入っている家庭料理で、これはマリオがモデナで暮らしてるときにもよく作っていた。
 メインとなるのはパスタとお肉。大きめな真四角の真っ白なプレートの中央に、小ぶりながらその存在感を存分に発揮した薄いお肉が何枚も重なっていた。赤黒いソースが美しい幾何学模様のようにかけられ、ぱっと見ではミルフィーユかと思うくらい完成された一皿だった。
 「普段からこれほどのクオリティの料理を?」
 光央は食べるのがもったいないと感じるアートのような料理にじっと見入っていた。
 「彼女は料理がとても上手い。それでも普段はもっとカジュアルだよ。今日は光央が来るから特に腕を振るったんだ」
 ルイスの自然なウインクは映画俳優がスクリーン上でやるしぐさのようだ。その隣では彼女が照れくさそうに謙遜の態度を示していた。
 白のスパークリングワインをルイスたちがアフリカ旅行で買ったというステンドグラス調のピルスナーグラスに注ぎ、準備が整った。心地よいボリュームのクラシックが流れるアットホームな高級感という矛盾めいた空間の演出に光央はすでに酔いしれていた。
 その夜は、光央を除く全員が次の日に仕事にもかかわらず遅くまで優雅な宴会をアットホームに繰り広げた。ほろ酔い気分でベランダに立って感じる風は冷たく、夜空の星も日本で見るものとは違って見えた。

「雪の瞳に燃える炎」(第一話)

第一話

 「初めて」というのは何事にも緊張を伴う。
 スペインの空港がイタリアで見たそれと似ているようでいて違って見えるのは異なる国民性を反映したことによるものだろうか。海外にだいぶ慣れたつもりでいても、初めての地にはそわそわしてしまう。
 光央は空港のロビーで待ち構えているはずのマリオの姿を探した。出口を出ると、そこには芸能人の出待ちをしているかのように人々がお目当ての人間を探している。マリオと光央がお互いの姿を捉えたのはほぼ同時だった。共に目が合い、「あっ」と声を上げた。
 光央が厚手のコートを着ているのに対して、マリオはシャツにカーディガンという春の格好をしていた。情熱の国スペインはやはり暑いのだろうかと光央は安易な考えを巡らせる。
 マリオとは半年ぶりの再会となる。スペイン人はヨーロッパ人のなかでは小柄な部類に入るんじゃないかと光央は思う。それは光央が知るスペイン人の友人がほとんどあまり大きくないからだ。マリオに関しては日本人と比較しても体格に差はないくらいで、日本人の平均身長よりやや低い光央ともほぼ同じ目線の高さだ。
 だからこそお互い発見がスムーズにいったのかもしれない。マリオはシニカルな笑みで光央を迎える。軽いハグはあるものの、周囲のスペイン人たちがしているような暑苦しさは見られない。
 「久しぶり」
 周りは挨拶だけで映画一本見終わるんじゃないかというほど長く抱き合ったり、キスをしたり、話し込んだりと忙しい。そんな中、光央とマリオは余計な言葉をその場で交わすことはせずスマートにその場を後に車に向かう。
 「情熱の国」なんて形容される通りスペイン人はみな本当に熱い。陽気で明るくよく喋る。仲間を大切にし、喜怒哀楽がはっきりとしていて、特に「好き」という感情を惜しみなく表現する。身振り手振りも多く、じっとしていられない。日本で有名な、大陸の温度を上げると噂されるほどの熱い某テニスプレーヤーのような人が国民の大半を占めると思えばわかりやすいだろう。
 そんな国民性を持つスペイン人にあってもマリオは物静かであまり喋らない。感情表現も穏やかで、怒った姿はとても想像できない。仲間を大切にする優しい面に特化した紳士で、いつでもシニカルな笑みを浮かべている。
 「そんな格好してたら暑いんじゃない?」
 光央はスペインに入る前はイアリアにいた。今回の旅は大学の春休みを利用した二月と三月の二ヶ月間で、スペインに一週間滞在したらまたイタリアに帰ることになっている。
 三月も中旬となるがイタリアは寒かった。先週までは雪も残っていて、イタリア出国時も今のこの格好で寒さをしのいでいた。隣国にわずか二時間ほど横にスライドしたくらいのフライトで、午前から午後に変わっただけで気温がそこまで大きく変化するとは思えなかったが、空港を出るとまるで沖縄にでも来た心地がした。海が近いのかほのかに潮の香りを乗せた温かくも冷たくもない風が優しく光央を歓迎する。
 「あれ? 本当だ、全然寒くない」
 マリオは、何を当たり前のことをとでも言いたそうな顔で空港前に止めてある車に乗る。
 「聞いて、イタリアは寒かったんだ」
 「どこから来たんだっけ?」
 「モデナ」
 マリオはちょっと考えるような顔をしてみせたが、すぐに得意のシニカルな笑みに戻る。
 「ま、モデナに比べたらバレンシアの緯度は下だね。でもこの辺は昼夜の気温差が激しいから、寒がりなら夜はそれくらいの防寒はしてていいかも」
 光央はさっきまでの緊張が嘘のように、マリオの横にいると一気にリラックスすることができた。
 空は青く、海の色そのまま。
 「海が青いから空が青いんだっけ、空が青いから海が青いのかな?」
 「どちらでもない」
 シニカルな笑顔を継続中のマリオがわかりやく解説する。
 「太陽光が散らばるからだよ。大気も水も青い光を強く散らばせるから青く見える」
 光央とマリオはイタリア語で会話をしている。理由は光央がスペイン語を話せないから。元々イタリアの語学学校で出会った二人であるため、共通語はイタリア語だった。
 理科の先生のごとく解説するマリオの言葉にイタリア語にはない単語が混じってるように聞こえたのは、少し専門的なことを話題にしているため正確なイタリア語の語彙がわからなかったためだろう。それでも光央はスペイン語を話されてもなんとなく理解することができた。それくらいスペイン語とイタリア語は似ていた。逆に光央がイタリア語を使っても、スペイン人はやはりなんとなく光央のことを理解してくれた。それは前に会ったスペイン語しか話せないマリオの友達が証明していた。
 初めてマリオと出会ったのは夏休み。光央はイタリアのモデナという町にいた。光央はモデナをフィールドワークの対象としていたため、夏休みの間を利用してモデナを訪れていた。その際に世界にネットワークを張ろうと思い語学学校に通ったのだが、マリオはそのときルームシェアをしたパートナーだった。
 初めて接するスペイン人だったマリオが思い描いていたスペイン人像とかなり違っていたこともあり、陽気で情熱的といったイメージは日本人が勝手に付けた偏見みたいなものと光央は思っていた。
 後にスペインからマリオに会いに来た友達らを目にして、光央は真実を思い知った。物静かなマリオとは打って変わって、友達らのなんと喋ること喋ること。朝から飲み食いを始め、昼、夕、夜、夜中、宴会のように騒いでいる。ルイスという典型的なスペイン人である友達は見た目も軽いが声も軽い。話しているとケタケタという音が聞こえてきそうなくらい軽快に巻き舌の言葉をものすごい速度で紡いでいた。でも不思議なことにその圧倒的な速度でマシンガンのごとくスペイン語を喋られても、光央はルイスの言うことは理解できた。もう一人のファビオは、小柄が多かった友達のなか唯一の例外で二メートル近くある長身の男だ。どちらかといえば物静かなマリオに似ているようだが、仲間内ではやはり喋る。長身から繰り出される特有の低い声のせいかファビオのスペイン語はルイスのそれと比べて聞き取りにくく理解できないことも多かった。それでも光央はマリオの友達らと、イタリア語とスペイン語で見事に意思の疎通に成功していた。
 「マリオ、元気そうだね。ルイスやファビオも元気?」
 「みんな変わりなくやってるよ。今夜はルイスの家で食事をすることになってる。ファビオはあいにくと仕事で来れないけど明日には会えると思う」
 「それは楽しみだ」