春の雪と夏の真珠(第一話)

 第一話

 例年より少し遅れて桜が満開となった。冬の訪れが遅かったぶん春も後ろにずれ込む格好となったようだ。
 スタートや出会いの季節を後押しするように満開の桜が咲き誇り、誰もが新生活は明るいとの夢を見て春の陽気をぼんやり楽しんでいるように思える。
 明るい色を身にまとう人々が駅前を多く行き交い、街はカラフルに色づいていた。今年も春がやってきたんだと五感で感じることができる。
 この季節になると必ず思い出すことがあるなんてそんなドラマチックなエピソードなどはない。けれども思い出すのとは違う、常に頭の片隅にある何かが不意に蘇る、そんな体験を与えるのが桜だった。
 そして、大きな桜の木の下で一人の女性と出会った。
 いや、一人の女性と、再会した。

 

 「凰佑、早く靴下履いて」
 朝はいつもギリギリでドタバタだ。
 俺自身は毎日六時には起き上がり、シャワーを浴びたり朝食を食べたり余裕を持った支度に余念がない。
 それなのに三歳になる一人息子の凰佑はというと、やはりそうはいかない。まだ幼い子どもなわけで急ぐという感覚もわからないのだろう。七時にとりあえず起こし朝ごはんを食べさせる。いいか悪いかわからないが毎朝アニメが七時にやっているため目覚ましがわりにテレビをつける。
 眠い目をこすりながらも子どもとは不思議なもので一度起きるとすっきり行動する。でもあくまでマイペースの範囲を出ないためこちらの要求に素直に応えることなどほとんどない。
 アニメが終わり、次に教育番組らしきものが始まった。
 凰佑はこの番組が好きだ。
 ケーブルテレビの番組のため世間的にはあまり認知されてないと思うが、子どもが食いつきそうな内容を多く取り入れていて凰佑もまんまとその術中にはまっている。
 だが、この番組は内容が少しシュールだ。見た目こそ子ども向けに作られていて、かわいいキャラクターやかわいらしいお姉さんたちが歌や踊りや小芝居を繰り広げるのだが、ヒーロー物をあしらった寸劇のコーナーは大人じゃなければわからないような小ネタを挟んでくる。密かに凰佑を差し置いて親である俺の楽しみだったりする。
 実際にこれ以外の教育テレビをまじまじと観たことがないため断言はできないが、子どもが内容そっちのけの見た目で楽しんでいるからといっても、有名な教育テレビなどであれば子どもでもなんとか理解できるような内容であると思う。だが、この番組はそこが違う。大人が見ても笑える、というより大人じゃないとわからない笑いをちょいちょい混ぜてくる。
 俺が笑うと凰佑もつられて一緒に笑う。けれど絶対に理解してないだろう。
 今日もそんな寸劇に親子共々夢中になってしまった結果、凰佑がなんの身支度もしていないいつもの状況に陥った。
 保育園に預けに行くのは夫婦交代制を取り入れている。今日の当番は父親である俺だった。預けに行く担当のほうが家を出るのが少し早くなるはずが、今日も全員一緒だ。毎日みんなで準備はするが決まって慌てて家を出ていくことになる。朝から子どもにイライラとその場ではムカつくことも多いのだが、そんな日常もそこまで悪くないなと変わらぬ日々を過ごしていた。
 三月から四月にかけては保育園の出入りも多くなるという。小学生に上がって出ていく子、逆に新しく入ってくる子。親の異動人事も重なり子どもの動きも盛んになるらしい。
 うちの子も四月から保育園が変わった。今までは認証保育園という東京都による独自のシステムに基づく保育園施設に預けていた。でもここは補助金が出るだけで保育園料は私立に比べれば安いという程度でなかなか馬鹿にならない。願わくはもっと安く保育園料を抑えたいと考える我々夫婦はかねてから認可保育園にずっと申請を送っていた。
 誰でも入れるわけではなく、共働き、親と同居していないこと、就労時間などなど様々な項目が審査され、そのポイントが高い人から入っていく。
 なので基準を満たしてもなお順番待ちとなる。このプロセスを失敗すると待機児童という共働き夫婦には一番あってはならない事態にもなる。
 けれども幸いにして認証保育園から認可保育園にうまくスイッチできたため、今こうして夫婦共働きのまま生活を送ることができている。
 妻が連れて行くときは電動自転車で行く。でも俺のときは徒歩だ。自転車に乗れないわけではないが、ピンク一色のそれに乗るのはどうにも気が引ける。そのためちょっとでもグズられると一向に保育園に着かない。実際はスムーズに着くほうが珍しい。案の定、今日もやはり、凰佑は真っ直ぐに歩かないでいた。
 「凰佑、お願いだから早く歩いて」
 言葉はもう理解できる。お互いの意思疎通も問題ないくらいに成長してきている。それでも保育園までの道のりに凰佑の関心を引くものは多い。あっちこっちとふらふら歩き、これ何だの、なんでだの、延々と質問を投げかけてくる。
 いっそ抱っこしてしまえばいいのだが、もうかなりの重さだ。これから仕事に行くというのに疲れるわけにもいかず、できれば抱っこなどしたくない。
 「言うこと聞けないならおもちゃ全部捨てるよ」
 伝家の宝刀を抜く。息子はおもちゃの存在がなにより大切らしい。おもちゃを捨てると言えば、嫌だ、ダメと反抗してくる。ならパパの言うこと聞け。この流れが毎日のルーティンワークになりつつある。
 保育園は高台にあって急な坂道をいくつも登る。電動自転車でなければとても不可能なこの場所を妻は以前普通の自転車で通っていた。移動を考えれば行きはきつくても預けた後に駅に行くのが圧倒的に自転車のほうが早いとのことで頑張っていた。
 俺は貧血気味なのか突然めまいが起こることが頻繁にあったため自転車に乗ることは極力避けている。決まって歩いて移動するのだが、やはり保育園までのこの坂道を凰佑と一緒に歩くのは体力的にはまだいいが精神的にかなり骨が折れる。
 冬の寒さが長く続いたが四月に入ってようやく一気に暖かくなってきた。段階を踏まずして春になったため桜は慌てて咲くかたちとなったようだ。
 保育園までの道のりの唯一いいところはこの桜並木道だ。季節に追い付けと懸命に花を開こうと頑張るその姿はどこか健気な印象だった。そして春の暖かな日差しを受けて輝く桜のトンネルは朝一番には激励に似た効果を得る。
 保育園に凰佑を預けて仕事に向かおうとしたときに一本の大きな桜の木が目に入った。
 保育園の校舎のすぐ脇にただひっそりと佇むその姿はほのかに寂しげではあるものの、満開になればその存在感を惜しみなく示すことだろう。
 そのときなにかデジャヴめいたものが頭をよぎった気がした。前にもこんな大きな桜の木を見たような。
 桜は毎年見る春の風物詩だ、自分の経験と外から得た情報がごちゃごちゃになっているだけの可能性のほうが高い。
 そして、桜に「いってきます」と告げ仕事に赴いた。

 

 「凰佑の担任の先生に会った?」
 四月から保育園が変わりもう何度も送り迎えをしているのだが、いつもタイミングが合わないのか未だに担任の先生とは面識がない。
 「いや、まだ会えてない。いつもちょっとおばあちゃんの人だよ」
 「日頃の行いかね。すごく可愛らしい先生なのに」
 そんなことを聞いたらぜひとも会いたくなる。とはいえ保育園の先生に色目など使えるはずもないし、会ってもやもやするくらいなら会わないままのがいいかもしれない。
 「声かけたくなっちゃうかもしれないから、会わないほうがいいよ」
 「馬鹿。相手にされるわけないでしょ」
 俺たち夫婦はこの手の会話が多い。あの人かっこいいとか、あの人すごくかわいいとかお互いに言い合う癖がある。そうやって共にすぐ目移りするわけだけどそのくらいがちょうど良いのだと思う。なんだかんだと二人とも浮気らしい浮気など一度もしたことはなく、周りからはかなり円満な夫婦に見えているだろう。
 「凰佑、先生の名前なんていうの?」
 「なつみせんせいー」
 なつみ。懐かしい名前だなと思う。昔付き合った女の子と同じ名前だ。
 脳の記憶処理能力が男と異なるためだが、女は非情なことに過去に付き合った男の名前すら覚えていない人が六割もいるらしい。
 思い出は上書き保存なんてオシャレな言い方をしようともちょっと切なくなる話だ。
 それに対して男は別フォルダで保存していくというのは有名な話だ。昔付き合った女の子の思い出もしっかり脳内に保存されている。この点だけを考えると男のが女々しい感じもする。
 あくまで一般的な処理の仕方の話であって、別フォルダに保存しているといってもどこにしまったのかわからなくなることはある。それは処理能力の問題だ。そのため元カノの一人や二人の名前が思い出せないこともあるにはあるが、なつみ、その名前だけはたぶん一生忘れることができないと思う。忘れることができないのに、積極的に思い出そうともしない。記憶を誤魔化している自覚はあるのに、俺は逃げていた。
 そしてそれは今更どうこうできるものではないと自分勝手に解釈する。思い出として大切にとっておくという綺麗事で。今は目の前の妻と子どもが数々の思い出を紡いでくれるのだと。
 
 四月の第二週にようやく桜は満開となった。
 保育園に向かう並木道にも桜を見ようと朝から散歩する老夫婦など地元の人々の姿が見受けられる。
 高台にある保育園からは駅が見下ろせる。ついこの前まで厚手のコートを着込んでいたはずなのに駅に吸い込まれて行く人々を覆うものは薄手のスプリングコートばかりだ。中にはカーディガンやセーターだけの格好の人までいる。ただそれでも共通して見えてくるのは春のイメージ。冬の寒さに対抗するかのような暖色から一転して、爽やかなカラーが駅前というキャンバスに描かれていた。
 桜の咲き具合に凰佑も変にテンションをあげていたが、今日はわりとすんなり保育園に到着した。
 いつものように凰佑を預けて校舎を出たところで目に入ったのは、一本の桜、ではなくその下に立つ一人の女性。
 彼女は雲ひとつない澄んだ青空に輝く太陽に目を細めながら大きな桜の木を見上げていた。満開の桜の薄ピンクの下で、同じく薄ピンクのジャージのような汚れてもいい服を着ていた。背中近くまである長い黒髪が光に反射して艶めいて見える。
 その横顔には見覚えがあった。なのにまた無理やり記憶を誤魔化そうと脳が勝手に働きかける。
 彼女はなにか物憂げに桜を見つめていた。俺は無意識にその姿に引き寄せられるかの如く魅せられていた。
 凝視していたこともあって彼女はすぐに俺の視線に気がついた。完全に体をこちらに向けて振り返ったとき、彼女と桜の木だけを残してその他一切が世界から消えた。
 一際輝きを増す桜の木を背景に、神の後光をまとうように立つ彼女の姿。
 それは俺の中の聖母マリアのイメージとも一致した。
 自分だけが時間の止まった世界に佇んでいた。時が止まったその世界はそれでもなぜか嫌な感じがしなかった。
 彼女が微笑んで時間が動き出す。
 「遥征くん」
 出会いの季節。春に彼女に出会ったのは決して偶然ではなかったのかもしれない。