春の雪と夏の真珠(第六話)

第六話

 昨日に続いて今日も凰佑を送っていくのは妻だ。駅までの道のり、どうにもぼんやりとしてしまうなか、昨夜に夏珠から来たメールを見ていなかったことに気がついた。

 メールの内容は当たり障りのないシンプルなもので、会えて嬉しかったこと、またゆっくり話をしようということが書かれていた。すぐにまた保育園で顔を合わせるわけで、いつまでも返信しないのも変だと思い、同じような内容を打って返すことにした。

 朝の駅は人で溢れている。知っている人とすれ違ってもわからないことのほうが多いはずだが、ついすれ違う人間に気を配ってしまう。つい夏珠を探してしまっていた。会いたいのか会いたくないのかはっきりしない。そんなもやもやする気持ちを抱えたまま混雑率が異常な通勤ラッシュに俺は飛び込んだ。

 いつもと異なる日常となったからか、妙に時間が過ぎるのが早く感じる。あっという間に迎えた昼休み、スマホでぼんやりとニュースを眺めていると、三組に一組が離婚しているという記事に目が止まった。離婚の原因の第一位は性格の不一致らしい。

 思わず笑ってしまい同僚に指摘された。

 「なに携帯見てニヤニヤしてんの?」

 「いや、馬鹿だなと思ってさ。離婚の原因が性格の不一致なんだってよ。結婚すんなって話じゃない? 結婚や出産で性格が変わるなんてのはもちろんあるだろうけどさ、それも含めて理解するなり見極めるなりして結婚するんじゃないのかな。みんな安易に結婚しすぎだ」

 かく言う俺も偉そうに言えるほど考えて結婚したのかと聞かれると言葉に詰まりそうだが、少なくとも性格の不一致で離婚することはまずないと思う。

 「お互いに釣った魚に餌はやらないんだろう。結婚がゴールみたいなとこあるから。その後のモチベーションが続かない」

 この同僚は確かまだ結婚はしていない。彼も結婚願望がないわけではないが、本気でずっと一緒にいたいと思える人とは巡り合っていないそうだ。現在彼女はいるという。そうなると今の彼女に対してその発言はどうなんだと思うが、口には出さなかった。

 「ちなみに二位は?」

 「ん? 何が?」

 「離婚の理由」

 「あ、えっとね、二位は夫の不貞行為だって。でもこれのほうが納得かも」

 結婚は一応永遠の愛を誓うことであるわけでその契約期間内に他の女性に気が向くのはやはり良くないだろう。

 「なんかいい仕組みないのかね」

 同僚は真剣に悩んでいるようだった。食後のタバコを吸いながら渋い顔をしている。

 「なにが?」

 「縛られすぎじゃん? 結婚してます、恋人います、だから他の人を好きにはなりません。それっておかしくない? そうやってのっけからリミッターを取り付けちゃってたらさ、運命の人を取り逃がすでしょ」

 「悪い、どういうこと?」

 この同僚、常日頃から独自の恋愛観を語ることで有名だったことを思い出した。なにせ頭が良く、しゃべりも上手いせいで聞いてるほうはなるほどなと納得させられてしまうことが多いという。だけど今のは少しよくわからない。

 「例えば、俺は彼女がいます。でもその子が運命の人かはまだわかりません。あ、運命の人かどうかの判断をどこでするかは今は置いておく。で、彼女と付き合っていて、他にいい子と出会ったとします。絶対的に好きで、直感的にも運命を感じる相手ね。その新たに出会った子が運命の人かもしれないのに、俺は今恋人がいるから他の人は好きにはならないよ。これって自分の気持ちに嘘をついてるし、そのせいで運命の人を取り逃がしてる可能性がある。逆もあるよ。運命の人と思える相手を見つけたけど、その人は恋人持ちか既婚者だった。だからその人のことを好きになってはいけないと諦める。どちらも馬鹿だ。世間的に見たらそれは当たり前のように思えるかもしれないけどさ、それは今の日本がたまたま一人の人を愛しなさい的な社会にあるだけで本当のところ何が正しいかなんて誰にもわからない」

 「結婚してても他の人を好きになっていいってこと?」

 「それは自由じゃんか。いいか悪いかではなくて、結婚してるからこの気持ちはいわゆる好きではないんだと決め込むなってこと」

 わかるようなわからないようなが正直な感想だった。

 「でもそれだと男女関係がめちゃくちゃになるんじゃ?」

 「もうすでにめちゃくちゃでしょ。毎日ばんばんと離婚してんだよ。しかも今さら性格の不一致とかってもう十分異常だと思うけど」

 「好きだからこそふと見つけてしまった相手の嫌な部分が許せなくなってしまうのかもよ」

 俺は別にこの同僚の意見に賛成とも反対とも立場をとっているわけではないが、一般論として思うところを言ってしまった。

 「いや、結局自分が許せる部分にしか目を向けてないからそんなんなんでしょ? 絶対に無理な部分を愛せとは言わない。そんなのは苦行だし。でも付き合う段階でこれだけ好きな人でも自分が絶対にしてほしくないこともする可能性があるって考えないのかな」

 「いやいや、そんなこと考えないでしょ、普通。好きになればなるほど余計に美化しちゃうと思うけど」

 「今の奥さんは? 美化しちゃってる?」

 考えたこともなかった。でも美化はしていないと思った。俺はもともと性格や価値観は違うからこそ面白いと考える人間だ。付き合う相手には自分にないものを求める傾向が強かった。それは妻も同様で、その点では俺と妻は価値観が一致している。けれど根っこにある性格はかなり違うし、そのへんが絶妙な心地よさを与えるものだとも思っていた。 妻が突拍子もないことをしても俺はたぶんそれを受け入れるだろう。

 「美化はしてないかな。俺も妻も性格や価値観の違いなんて気にしない。むしろ同じじゃつまらないくらいに思っている」

 「へー、それそれ。誰もが価値観は同じじゃないと駄目って言うじゃんか。だからすぐ破綻するんだよ。同じ価値観の人間なんているわけないのに。根本的なところがおかしいんだから救いようがない」

 確かにその点に関しては賛成かもしれない。決して存在しないだろう同じ価値観の人間を追うことで人間関係がこうもあっさりと脆く儚いものになっている。

 「脱線した。だから、俺が言いたいのは、もっと自分の気持ちに正直になって恋愛に勤しめってこと。恋する気持ちとオシャレをする気持ちはいくつになっても忘れちゃいけないと思う。どちらも自分を磨き輝いた状態にしてくれる」

 脱線も何も、そもそものテーマは世の離婚問題であってこの同僚の恋愛観についてではない。

 同僚は満足といった表情で足取り軽やかにその場を後にした。その後ろ姿には確かにある種のオーラが見える気がした。恋にもオシャレにも気をかけるその神経と集中力はそのまま仕事にも反映されている。実際にその同僚の仕事ぶりは同期を圧倒していた。

 その夜、妻とも同じテーマで会話をした。

 「離婚原因の一位が性格の不一致なんだって」

 妻は案の定のこと声をあげて笑った。

 「結婚すんなって話だよね」

 俺と同じ感想を持ったようだ。というよりも誰だってそう思うのではないかと思ってしまう。きっと当事者たちはそのときが来るまではまず性格の不一致で別れるなんて思ってもいないのだろう。

 「三組に一組が離婚なんて立派な社会問題じゃない?」

 俺の問いかけに妻は真剣に自分の考えを述べる。

 「結婚の敷居を上げたらいんじゃないかな。別れにくくするとか。でもそうすると今度は子どもが生まれなくなるのか。難しいね。ん、離婚が増えてるなら片親の子どもが増えてるのかな? あ、子どもがいないで離婚してる場合もあるのか。子どもの数が減るのを覚悟で真実の愛の結婚か、子どもはできるが今と変わらずどんどん離婚か。はたまた結婚しなくても子どもが生まれて育つ仕組みを作るか」

 「え? 最後のはまずくない? 親の責任が軽くなるからそれこそ親のいない子どもが増えてしまうんじゃない?」

 「ま、例えばだから。離婚だけならそんなに悪いことでもないじゃんよ。子どもがいた場合に問題なわけでしょ」

 その通りだ。子どもがいないのなら別れていいということでもないが、所詮は結婚なんて紙の上の契約でしかない。それは恋人の段階で別れることと気持ちの面でもそこまで変わらないのかもしれない。会社の同僚の顔が浮かんだ。子どもがいる場合でも真実の愛を見つけたならば気持ちの赴くままに走るのだろうか。

 「二位はなんなの?」

 この流れは当然だった。

 「夫の不貞行為だって。これは納得かな」

 言っていて顔が暑くなった。平静を保とうと必死になっている自分が笑えてきた。俺はやましいことなど何もしていないというのに。

 「ま、はるくんは大丈夫か。そこまで肉食じゃないもんね」

 さらっと妻は言ってのけた。信頼されているということか、男としての魅力に欠けると思われているのか。素直に喜んでいいのかわからず苦笑いしかできなかった。