春の雪と夏の真珠(第七話)
第七話
今朝はいつもより早く目が覚めてしまった。二度寝の誘惑に駆られることもなく、すんなりと起き上がることができた。
自分の身支度をすべて整えてから息子の凰佑を起こした。早く目が覚めたぶん凰佑を起こす時間も普段より少し早い。それでも珍しく前日早く寝たためか凰佑は機嫌が良く、かなり早い時間に家を出ることになった。
連日と風が強かったせいで道には飛び散ったたくさんの桜の花びらがピンクのカーペットのように敷きつめられていた。それを見て凰佑は物珍しそうに声を上げていた。
保育園までの坂道を登っていて、夏珠と少しでも話がしたいがために早く家を出たように思えた。家を出るまではそんなこと微塵も感じていなかったのだが、視界に入る桜は夏珠を連想させるキーアイテムの如く俺に夏珠を意識させた。
ずっと会いたいと思っていたはずなのに、いざ再会すれば素直にその気持ちを表現することができない。会いたいのに会いたくない。本当に会ってもいいものか。微妙な思いが胸をくすぶる。考えている間もなく保育園に着き、真っ先に俺と凰佑を迎えたのは他でもない担任の夏珠だった。
「おうちゃん、おはよ」
爽やかに挨拶する夏珠は春のイメージで、周囲をその優しさで包むかのようだった。
凰佑は夏珠が大好きだ。他の先生のときとは露骨に態度を変え、デレデレと甘えた声を出す。かなり好き嫌いがはっきりしていて、嫌いな先生には挨拶すらきちんとしない。
保育園の先生に対する凰佑の態度を見ていると、どうやらサバサバしたツンデレ系の女の人は苦手にしているようで、おっとりしたいかにも優しい感じの女の人を好む傾向にあることがわかった。子どもなんてみなそうなのかもしれないが、これは父親である俺とは逆の性質だった。俺はおっとりしている優しい感じというのはどこかトロいイメージを持ち好きにはなれなかった。むしろ攻撃的なデレ少なめのツンデレのが好意を持つ。そして夏珠の本性は、実はサバサバしたツンデレだ。夏珠はうまいこと園児を騙しているようだ。
「おうちゃんのお父さん、おはようございます」
甘える凰佑をあやしながら夏珠は俺に挨拶をしてきた。園児の父親に挨拶しているだけなのに俺は不覚にもドキドキと鼓動が高鳴るのを抑えることができなかった。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
平静を装いお腹に強い力を入れて声を絞り出した。
夏珠と目が合った。
どのくらいそうしていただろうか。かなり長い時間ずっと見つめ合っていたような気がする。
「おうちゃんだー」
仲の良い友達の大きな声で我に返った。周りから変な目で見られていないだろうかとつい慌てて周囲をきょろきょろしてしまった。そんな俺の思いを見透かしてか夏珠はくすくすと小さく声を漏らしながら意地悪く笑っていた。
「お仕事頑張ってください」
そう言って、夏珠は凰佑や他の園児を連れて奥に入っていった。
どうにも敬語で話すことに慣れない。それでも一度こうして夏珠に会ってしまうと案外緊張はなくなり、肩の荷が下りたみたく気持ちは軽くなった。
昼休みに再び恋愛マスターである例の同僚と席が一緒になった。
「ひとつ聞いていい? 昨日の続きなんだけどさ、結婚して子どもがいたとしても他に好きな人ができてしまい、そっちが運命だと思えば迷わずそっちに行くの?」
昼間からなんて話題を持ち上げているのだと思ったが、もう聞いてしまった。同僚はその手の話は大歓迎といった嬉しそうな顔をしている。
「気持ちに素直になるというのはどんな状況でも貫きたいとは思うよ。でも実際問題子どもがいるとなるといろいろと難しくなるね。子どものために離婚を絶対に避けたいとする人はいるだろうし。離婚したとしても養育費やら慰謝料やらとお金もかかるでしょ。それらを当たり前のように払えるならともかく普通はそう簡単にはいかないよね」
珍しく同僚がまっとうなことを言った気がした。
「じゃあ子どもがいるケースなら諦めるってこと?」
「いや。諦めたりはしない。子どもまで生んでなんだと社会的にはひどく糾弾されるんだろうけどさ、自分の一度きりの人生なんだよ。仕方ないところもある」
前言は撤回だと思った。
「ちょっと待って。今なんか少しひいた? 違う違う、なにも積極的により運命に近い相手を貪れってんじゃないんだよ? 基本的なスタンスは一途で浮気なんてしない。ただ、それでもこれだけ長い人生を生きてりゃさ、紙一重の差かもしれないけどこちらの人のがより運命の人なのかもって思える人が出てくる可能性もあるでしょ。そもそも恋愛って出会う順番や付き合う順番で決まるの? あまり理解されない考え方かもだけど、浮ついた気持ちはこれっぽっちもなくて、全部本気だ」
思わず食べたものを吹き出しそうになった。決して浮気ではなくて、あなたのこともあの人のことも本気なんだ、そう言って納得する人間がどこにいるのだろうか。考え方としてはわからないこともないが、今の日本人の多くが持つ恋愛観にはまずそぐわないし、今後もその考えが浸透していくとも思えない。
「みんながそうだと無秩序な社会になるとか思った? でもさ、案外そうでもないと思うんだよね。結局どこかでバランスって取れるんだよ。今は少数派だからそう感じるだけでさ、もしかしたら今ある日本人が当たり前だと思う恋愛観も少数派からスタートしたのかもよ?」
織田信長の時代に誰が飛行機で空を飛ぶことができると思っただろうか。フランス革命期に誰が電話で世界中の人とタイムレスで話すことができると思っただろうか。確かそんなような理屈をあれからも延々と同僚は語っていた。