春の雪と夏の真珠(第九話)

第九話

 夏珠とメールのやり取りをしたのは番号を交換した最初の日だけで、それ以降は特に連絡はなかった。

 どこかほっとする気持ちと少し残念に思う気持ちがないまぜになってすっきりしない。頻繁に連絡を取り合える関係ではない。夏珠もその辺りをわきまえてのことだろうか。それとも、本当はもっと連絡したいと思っているのだろうか。

 今日は行きも帰りも俺が凰佑を担当した。けれども朝も夜も保育園に夏珠の姿はなかった。

 「あら、おうちゃんパパおかえりなさい。何かお探しですか?」

 年配の保育士さんに不意に声をかけられた。無意識に夏珠を探していた自分に動揺を覚えるも、何事もなかったかのように愛想笑いでその場をしのいだ。

 「凰佑、今日は夏珠先生と遊んだ?」

 凰佑にならまだ俺の気持ちを察することなどできないだろうと軽い気持ちで言葉を投げかけた。

 「え、なつみせんせいいないよ」

 「ん? お休みかな?」

 まだ大雑把な会話しかできないため細かな点を追求することが難しい。夏珠が今日いなかったことは間違いないようだが、それ以上のことはわからなかった。

 夏珠とのことがなんともうやむやな状態のままゴールデンウィークに入った。仕事が重なり保育園に行けない日が続き、そのまま大型連休となってしまった。

 十連休の計画は、俺の実家に二泊、そこから俺の両親と一緒に伊豆旅行だった。

 心ここにあらずとまではいかなくとも、ふと夏珠のことを考えてしまう時間が増えてきたことは自覚していた。妻や凰佑が気づいている様子はないが、あらぬ誤解を招いてもと思い、極力ポーカーフェイスを意識した。

 夏珠がどこに住んでいるかなんて知らない。保育園がこの町にあるからといって夏珠もここに住んでいるとは限らない。けれども近隣に住んでいる可能性はある。ゴールデンウィーク初日、実家に帰るために乗る電車で夏珠と乗り合わせてしまうことをつい想像してしまった。

 実家のある駅までは乗り換えなく一本で行ける。それでも九十分もの長旅になる。凰佑はさっそうと落ち着かない様子で騒いでいる。今は凰佑が言うことを聞かないでいてくれたほうがどうにも気が紛れた。

 電車一本で帰れるところに実家があるとはいえ、帰省するのはかなり久しぶりのことだった。いつでも帰れると思うとなかなか足が向かなくなる。

騒ぎ疲れた凰佑と、怒り疲れた父親である俺はわりと簡単に眠りに落ち、気づけばすぐに実家の駅に到着していた。

 ベッドタウンとあって駅の周辺には相変わらず団地でいっぱいだった。団地にはすべて鳥の名前が付いていて、長く暮らしている住人にはわかりやすい。

 駅周りにすべてそろっていて、生活するに何不自由ない。俺が子どもの頃と比べるとさらに利便性が増しているようだった。

 駅に隣接する商業施設で手土産にとケーキを買った。このケーキ屋は俺が中学の時にできたもので、まだそこにあることに懐かしさが込み上げてきた。そして同時に、またも夏珠のことを思い出してしまった。

 夏珠もここのケーキは好きだった。店内にイートインスペースもあるため俺と夏珠はよく塾や学校の帰りに寄り道をしていた。

 よく見ると店内の内装は当時と大きく変わっていた。安いフードコートだったはずが、高級感を醸し出す造りで個室っぽい席が設えられていた。座っている学生を見てもどこか品があるように見えてしまう。その学生らに当時の自分たちを重ねてしまいそうになり、慌てて凰佑と外に出た。

 家に帰るまでの道のりには大きな市民病院がある。その敷地内を通るのが最短ルートでいつもここを通っていた。この病院には何度もお世話になった。小さな頃に中耳炎で入院し、中学最後の年に入ってすぐにも突発性難聴というやはり耳の病気で入院した。

 あらゆる景色が必然的に夏珠と結びつく。

 二週間くらいの入院だったか、毎日お見舞いに来てくれた夏珠のことを思う。

 「三年生スタートしていきなり入院って、なんてアンラッキーなの?」

 心配そうにしながらも病室には夏珠の笑い声が響いた。

 「ほんとだよ。突発性だって。原因とかわかんないらしい。マジでいきなりだよ。急に左耳が聞こえなくなって。あれ、聞こえないって自覚した瞬間に三半規管のせいかな尋常じゃないめまいがしてさ。座ってたのにグルグル回ってその場にぶっ倒れた。地面に頭がついてなおグルグル回ってて本当に死ぬと思ったよ。母親が帰ってきて息子が倒れてるって慌てて救急車を呼んで即入院。二週間で完治しないと一生治らないんだって」

 俺は幸いにも三日ほど点滴を受けただけでほとんど聴力は回復していた。正確には完治してないようだが、日常生活には何も問題はなかった。

 「ま、無事でなにより。やることもないんだし受験勉強に勤しめ」

 退院したときがちょうどゴールデンウィークだった。部活はまだ引退してなかったが体は急に動くはずもなく、暇をしてても友達はみなこの時期部活に精を出していたため遊び相手もいない。とにかくやることがなかった。

 夏珠の言うように勉強してもよかったが、早めの段階で塾にも通っていたため志望校への内申は十分だったし、入試の対策もまだそこまで必要性を感じなかった。

 そのため、夏珠がずっとそばにいた。

 夏珠は華道という変わった部活に所属していた。家柄が良くお嬢様育ちのため、本人の希望というよりは親の意向で華道部に入れられたようだ。精神を集中する雅な世界だと夏珠は言っていたが俺にはまったく理解できなかった。

 そんな華道部はゴールデンウィークが完全にお休みということで夏珠は俺のそばにいる。毎年家族で行く軽井沢の別荘をひとりキャンセルし留守番することにしたらしい。

 「そういえばさ、なんでそんなお嬢様な家柄っぽいのに中学も高校も私立じゃないの?」

 せっかくの連休なのに俺と夏珠は最寄り駅近くのカフェで時間を潰していた。

 「親は私立に入れたかったみたい。でも私は嫌だったの。小学校で仲良くなった友達と離れたくないって。だからその代わりになるべく親の言うこと聞くようにしてる。華道を続けてるのもそれ。ま、華道は私自身もけっこう好きではあるんだけど。高校の選択に関してはもう口出ししてこなかったな。なんか急に方針変えたみたいで、好きなように生きなさい的な?」

 小さな団地に住む俺たち貧乏家族とは住む世界が違うんだろうなと子どもながらにも感じた。けれど夏珠と一緒にいてそうした距離感を感じることはまったくなかった。

 「ねえ、私ってお嬢様っぽい?」

 夏珠の家に行くことになり歩いていると突然夏珠はそう口にした。