春の雪と夏の真珠(第十二話)

第十二話

 中学三年の夏休み。
 あれだけ時間が余っていたのになぜか八景島に行くことは思い浮かばなかった。夏祭りの余韻に浸って夏珠とはさらに絆を深めていたそのとき、母親から最近八景島に行ってないねなんてふと言われた。なんで今まで忘れてたんだとすぐに夏珠に連絡して、夏休み最後の思い出にと行ったのが二人での初めての八景島だった。
 当日は一日デートを計画していて、午前中は隣町にある子ども科学館に行きプラネタリウムを見た。ここも小学生の頃はよく来ていたスポットの一つで、ぜひ夏珠を連れて来たかった。俺も夏珠も星を眺めるのが好きだった。だからこのプラネタリウムはかなり喜んでいてくれたと思う。その証拠に、これをきっかけに俺たちはその後も度々とプラネタリウムを見に行った。特に何か嫌なことがあったときは気晴らしに昼間から星を眺めることができるのはとても重宝した。
 午後は八景島に向かった。その際に利用するのが、シーサイドラインという電車だ。この電車は海の上のレールを走るちょっと特殊な電車で、駅と駅の間隔が短く、次の駅が見えることも多い。そのため次の駅に着く時間を測って、その秒数を予測しあうゲームを行く途中にいつもしていた。さすがに夏珠と二人でそんな子供っぽいことはできなかったが、そんな思い出があるんだと盛り上がった。シーサイドラインからの眺めは太陽に反射した海の輝きが眩しく、普通の電車では味わえない景色は近未来の電車に乗っているような気分になる。
 到着した時間は夏の日差しがもっとも激しい時間で暑いなんてもんじゃなかった。着いて早々とその灼熱地獄に夏珠はブーブー言っていた。
 それでも駅から程なくして見えてくる橋から吹き抜けてくる爽快な海風にネガティブな感情はすべてさらわれてしまった。
 潮の香り、カモメたちの声、船の汽笛や水に飛び込むアトラクションの水しぶきの音、そして、ジェットコースターから聞こえる悲鳴。それらすべてが風に乗って運ばれてきた。
 相変わらず暑いには違いないが俺たち二人のテンションは一気に高まり、手をとって走り出した。
 橋を渡ってまず目に飛び込んでくるのはメルヘン全開なメリーゴーランドだ。可愛げな音楽とともにゆっくり回る木馬たちが俺たちを粋な演出で迎えてくれた。
 左側からはアトラクションの鋭い轟音と絶叫が入り混じって聞こえてくる。海賊船をモチーフにしたバイキングという乗り物と、百メートルほどの高さから一気に落ちるブルーフォールという絶叫マシンが悲鳴を量産しているようだ。
 雲ひとつない晴れ渡る空をあの高さから見るのは絶景だと思うも、夏珠は賛成してくれるだろうか。
 「絶叫マシンとかって大丈夫だったりする?」
 夏珠の顔がすぐに強張るのがわかった。おそらく苦手なのだろう。
 「無理無理無理。絶対に無理」
 予想していた通りの答えが返ってきて俺は笑ってしまった。そのことに夏珠は馬鹿にされたと思ったらしく、ぷくっと頬を膨らませてぶつかってきた。
 「何だったら乗れる?」
 その答えに対して夏珠が指を差した先にあるのはコーヒーカップだ。
 「ごめん。あれは俺が無理だ。ただ回るだけとかってマジで気持ち悪くなるんだよ。爽快な感じのなら大丈夫なんだけどさ」
 「かわいいじゃん。爽快だよ」
 夏珠はまだふくれっ面をしていた。
 「あ、じゃああれにしよ」
 俺が夏珠を連れて行ったのはお化け屋敷だ。特設された期間限定のもので、マイナス三十度の氷の世界という屋敷と二つ横並びに建てられていた。
 「夏といえばでしょ?」
 性格悪いなお前って顔して夏珠が俺のことを見てるのがわかる。夏珠はサバサバしているようで意外と怖がりなのは知っていたけどそんなふうにいじめたりいじめられたりするのが楽しかった。
 結局文句を言いながらも夏珠はお化け屋敷に入るのを了承し、かなりの忍び足で恐る恐る入っていった。中は思ったより暗くはなく、いかにも脅かしてきそうなポイントが露骨に目立っていた。それはそれでわかっているからこそ逆に怖いという変な心理が働いてしまった。さらには夏珠がかなりがっつりしがみついているせいでなかなか思うように進めない。夏珠に気を取られているとその瞬間にお化けが出てきたりとその不意打ちに俺はビクっとなり、夏珠はいつだってビクついていて、お化け屋敷側の策略にまんまとはまってしまっていた。
 電気が点滅すれば、「きゃー」と叫び、大きな音がすれば、「きゃー」とまた叫ぶ。その声に俺が毎回びっくりし、つかまってる夏珠から恐怖心が伝わってきて俺の方もドキドキしっぱなしだった。
 吊橋効果などと良く言われるが、これは確かに恋のスパイスにはもってこいだと暗がりにふとそんなことを感じた。夏珠はそんなこと考える余裕もなくただ無心に怖がっているだけかもしれないが俺はドキドキがそのまま夏珠に対しても向けられていて、たまらなく愛おしく抱きしめたい衝動に駆られていた。
 その後しばらく夏珠は涙目のまま無言で俺の隣を歩いた。よほどに怖かったのが露骨に表現されていてちょっと扱いに困った。
 「ソフトクリームでも食べる?」
 夏珠の目に命の光が宿ったみたく、その瞬間に目の色がはっきりと変わるのがわかった。チョコとバニラのミックスを夏珠が食べながら徐々にいつもの元気を取り戻していくのは俺の方も助かった。
 「ホントに怖かったんだから。またあんなの連れてったら絶交だから」
 いつもの口調はすっかり戻っていた。黙って涙シリアスな状態の夏珠もたまにはいいが、やはりうるさいくらいが夏珠らしくてちょうどいい。
 俺が適当に返事しているのが気に食わないらしく真面目な返事をするまで同じことを何度も聞いてきた。
 「わかったって。ごめん。じゃあ気分変えて水族館にでも行ってみようか」
 「行く。ペンギン触りたい」
 ここの水族館は一般的な水族館としてのクオリティーはもちろんのこと、実際に海の生物と触れ合えるというのを売りにしていた。触れるのは、ペンギンや白イルカで、トドだかセイウチだかどっちか忘れたがそれらも触れることができた気がする。
 水族館の中はクーラーががっつり効いていて半袖一枚という夏服には少し肌寒いほどだった。白くま、ラッコ、ペンギン、トド、サメ、クラゲ、マニアックな海洋生物などなど海の生物の予測不能な水の中での動きに俺立ちはテンションを上げるも、海の中にいるような幻想的な雰囲気には癒されもした。
 恒例であるイルカショーは見事で、
 「あのイルカたち遥征くんよりも賢いんじゃないの」
 そんな鋭い指摘に、さすがに負けてないだろとは思えどいまいち自信が持てなくて夏珠に大笑いされた。
 いくらか日が傾いてきたといっても夏真っ盛りの炎天下はかなりの暑さだ。海からの潮の香りを乗せた風もその暑さを完全に和らげることは難しい。触られることに慣れているペンギンも屋外でのお仕事には少し疲れているように見えるのは俺だけなのだろうか。ペンギンの体は思っていたより固く、毛の質感が独特でザラっとした感じだった。ぬいぐるみのイメージそのままを想像していたから意外で驚いた。
 「すごーい。不思議な触感だね。でもめちゃくちゃかわいい」
 夏珠が喜ぶと俺も嬉しい。
 そのまま白イルカにも触りに行く。白イルカは水槽の中をのんびりと泳いでいて、自分の意志だけではあまり俺たちのほうには来てくれなかった。見かねた飼育員のお姉さんが声をかけて呼び寄せてくれた。俺たちにパフォーマンスを見せたあとはおとなしく背中の辺りを触らせてくれた。こちらはツルツルとした感じで大方イメージ通りではあったものの初めて触るイルカに俺も夏珠も感激しっぱなしだった。
 その後もぶらぶら歩いたりお茶したりお土産を買ったりと時間はあっという間に過ぎていった。夏珠は疲れた様子も見せずいつも笑顔でいてくれた。
 「もうそろそろ時間?」
 夏珠の声にもっと長く一緒にいたいという想いが含まれているように感じたのはうぬぼれだっただろうか。
 「もうちょっとだけ。見せたいものがあるんだ」
 太陽は西の空でその光を少しずつ弱めていた。今日が雲ひとつない晴天で本当によかったと思った。
 夕日が西の空に絶妙な色のグラデーションを描いていた。
 小さい頃からずっと考えていた。大きくなったらこの景色を誰かに見せようと。その初めての人が夏珠になった。
 「これからさ、またここに来るときは必ずこの時間のこの景色を見てから帰ろう。この景色は、二人だけのもの」
 いい雰囲気だった。大人であればここは絶交のキスシーンの場面となるのであろうが、まだ中学生の俺にはそんなロマンティックな演出は無理だった。手をつないで静かにゆっくりと色を変えていく夕日を眺めるのが精一杯だった。