春の雪と夏の真珠(第十四話)

第十四話

 ゴールデンウィークの後半はどこに出かけるでもなしに家の片付けなどをしながら近場で食事したりのんびりと過ごした。家の近くをうろついていれば夏珠とばったり出くわすこともあるかと思ったが、そんな幻想はあっさりと打ち消された。
 休みの間、夏珠から連絡はなかった。そして俺からも連絡はしていない。話がしたくないといえば嘘になるが、気軽に連絡をすることはできなかった。
 初夏の日差しをめいっぱいに受けている干された布団を眺めながら季節の移り変わりを感じる。夏本番もすぐそこまで近づいている。
 そのとき電話が鳴っていることに気がついた。まさかと思い慌てて電話をみると会社の上司からだった。妻には何を慌ててと怪訝な顔をされたが話している相手が上司とわかったらしく幸いにして変な誤解も免れた。
 上司と話している最中も胸の高鳴りは続いていた。もし夏珠からだったとしたらどうしただろうか。
 上司の言葉がうまく耳に入ってこず何度も聞き返してしまった。
 夏珠は俺と連絡をとりたいんだろうか。上司の太い声からは絶対に想像できないはずの夏珠のすっきりとした声を思い描いている自分がいた。
 「その人って確か上司だよね? 急にどうしたの?」
 「うん、連休明けのことでさ、今日連絡をするって言ってたのすっかり忘れてて慌てちゃった。別段急ぎの用とかでもないんだ。ちょっとした打ち合わせをね」
 「ふーん。まだあと一日休みあるのになんだか現実に引き戻された気分だわ」
 妻はふてくされたトーンで文句を言ってるいた。本気で上司のことを煩わしく思ったようだった。
 「そんなこと言われてもね。遅かれ早かれ仕事は始まるんだし」
 「ん? なんか妙に悟った感じ。どしたの?」
 「え、いや別に。長く休むのも疲れない? 俺は少しもう働きたい気分だったりするけど」
 言葉には気をつけているつもりでも一言一言と妻には揚げ足を取られそうな気がして怖い。
 「まあね。休むにもお金かかるしね。あー、お金がたくさんあれば働かなくてもいいのに」
 妻は以前、お金があっても働かないと人間腐るから専業主婦なんて絶対に嫌だと言っていた。ここでそれを言うとまた面倒なことになりそうだったので何も言わなかったが、誰しも程よいバランスを求めているんだといよいよ悟りに似た思いに耽ってしまった。
 連休明け一発目の保育園は妻だった。休みで溜まりに溜まった仕事をどんどん片付けていかないと毎日残業になりかねない。残業よりは朝早く出勤したほうがマシだったのでしばらくは毎朝早い出勤になりそうだった。
 結局連休明け一週間はずっと保育園に行くことができずにいた。もういっそ素直に夏珠に会いたいという気持ちを全面に押し出せればどんなに楽なのにと思ってしまう。
 俺は夏珠に会うことを欲していた。元の鞘に収まりたいとかそうゆう気持ちとはまた違う。当時のこと、今までのこと、そして、それらを踏まえたうえでのこれからのことを話すことが俺にも夏珠にも必要だと感じていた。
 問題があるとすれば今現在の俺と夏珠の関係だ。気軽に会うことはおろか連絡を取るのも人目を憚る必要があり、そうしたコソコソとした行動がまた誤解を生む可能性を秘めている。
 妻に本当のことを正直に打ち明けたらどうだろうか。妻のことは誰よりも信頼している。きっとわかってくれると思う。けれども、だからこそ俺の気持ちが伝わらなかったときのことを考えてしまう。
 離婚している夫婦が多いというニュースが頭をよぎる。簡単に後腐れなく別れる夫婦もいれば、本気で愛し合ったからこそ本気で憎み合う間柄に陥ってしまった夫婦もいる。信頼関係なんて紙一重なとても繊細なものなんだと思う。
 明日からは出勤も定時で問題なさそうなので、保育園には俺が行く。遠足前夜の子どもみたいだ。変なそわそわ感が拭えないまま午前の仕事を終えランチに行った。
 恋愛エキスパートの同僚も俺と同じく連休明けの仕事に追われていたようで、ようやくゆっくり昼飯が食べれると久々に一緒の席になった。
 「お、朝田くん久しぶりだね。連休はどうだった?」
 「うーん、特に目立ったことはないかな。普通に実家に帰って、あとは家でのんびりね。立木くんのほうは?」
 一瞬同僚の名前が出てこなかった。恋愛マスターやら恋愛エキスパートやらとの認識が強く名前で呼んだことがあまりなかったようだ。
 立木。下の名前は、けんた、だっただろうか。同期で入社して部署は違う。その恋愛観もさることながら仕事っぷりも高く評価されていて社内ではけっこう知られた人物だ。ただオンとオフがしっかりしていてあまり社内で誰かと仲良くつるんでいるようなところは見たことがなかった。もしかしたら社内では俺が一番よく話しているのかもしれない。
 「俺も特別なことはしてないね。プチ旅行で二泊ずつを三回」
 「え? むしろ贅沢でしょ。十分過ぎる休暇の過ごし方なんじゃないの?」
 「いや、疲れたよ。働きながら限られた時間内で適度にデートのほうが気も引き締まるし集中できていいんだって思う」
 「なんで二泊を三回みたいな形にしたの? 一度こっちに戻って来てってこと? それとも違う場所に移動しつつ?」
 「うん? 三回とも連れ立った相手が違うからさ」
 神妙な面立ちで声をひそめるもんだから真面目なことでも言うのかと思っていたらとんでもない武勇伝だった。
 こっそり言うあたりいくらか世間的には後ろめたいことをしてるとの自覚があるのだろう。
 「そんなこと可能なの?」
 「ま、三人のうち二人は俺がそういうことしてるのは知ってる。一人だけそういうことが嫌だけど俺と付き合いたいみたいな少し面倒な子がいてね。その子が意外と近くの人間でさ。なんとなく俺の所業はわかってるみたいなんだけど露骨に見せられたり知らされたりするのは絶対に嫌だからってことでなるべくわかんないようにしてる」
 やはり恋愛のプロが連れ添う女性もどこかぶっ飛んでいるのか。それとも本当に好きになった相手であれば自分に愛情が向けられている間は他の人にも等しく愛情が向けられても許せるのだろうか。
 「あのさ、もしだよ、その彼女たちが他の男と付き合ってたらどう思うの?」
 「うん? なんとも思わないよ。自分が好きと思う相手と付き合えばいいじゃんか。不埒な気持ちで遊ぶのは嫌だけど真摯に向き合ってのことであれば何人と恋愛関係にあっても俺は何も言わないし、俺の方も願わくは何も言われたくない」
 大事なのはその本気度ということらしい。その本気の基準みたいなものは人により様々な気もするが、そういう恋愛の在り方も存在しているのかとも思う。
 俺にはそんな疲れる人間関係の構築は無理だろう。妻がいて、元カノが登場しただけでこの有様だ。本気だ云々で事がすっきりと収まるとは思えない。
 この恋愛スペシャリストに俺の今の状況を相談してみようかとも思った。彼なら他言無用をわかってくれる気もするし、参考になるアドバイスもくれるかもしれない。社内でできる話ではないので、日を改めて飲みにでも連れていってみようと考えた。
 「なんとなくなんだけど、俺って恋してる人の顔って昔からよくわかるんだよ。朝田くん今なんか気になる人とかいるんじゃない? ただかわいいとか綺麗とか思うんじゃなくて、心から惹かれてる人ね」
 思わず声が出そうになった。恋をしてる人の顔なんてあるのか。あまりに言い当てられて図星って顔をしてないか必死で表情を整えた。
 「やっぱり図星でしょ。いいじゃん、どういう感じなの?」
 恋愛の魔術師に魔法をかけられた。俺は口が軽くべらべらと喋りたい衝動に駆られてしまった。
 「恋なんて高尚なものじゃないよ。決して浮気でも不倫でもない。でもちょっと相談してみたいと思ってることがあるにはある。だからもしよかったらだけど、今度どこか外で飲んで話でもしてほしい」
 「うーん、当たらずも遠からずな感じか。全然いいよ。俺で良ければいくらでも話は聞く。他人に話したりはしないから心配しないで」
 きっと彼は女子力も相当に高めなのだろう。五月というのに唇にさっとリップクリームを塗って早々と食堂を後にした。
 残された俺はなにか大勢の前で勝負事に負けたかのような恥ずかしい気持ちで周りの目が妙に気になってしまった。