春の雪と夏の真珠(第十九話)
第十九話
五月最後の週の日曜日はあいにくの雨だった。例年よりやや早い梅雨入りとなったようで、この先もしばらく予報に雨マークが並んでいた。
晴れていれば少し散歩でもと思ったが、この雨では歩くのも億劫だと思った。午前はカフェで時間を潰し、ランチを食べ、再びカフェに落ち着こうと簡単な計画を考えた。
さすがに最寄り駅付近は誰かに出くわす恐れもあったため、雨でも決行するという遠足の場所も考慮したうえで駅を選んだ。ずいぶん早く到着してしまい先にカフェに入ることにしたのだが、カウンターしか空いてなかった。
一瞬考えたが、夏珠が来るまでに空く可能性もある。カウンター席からは駅を一望できるため、俺からも夏珠からも発見しやすいと思いとりあえずカウンターに座った。
二階から見下ろす駅には多くの人間が行き交い、色も大きさも違う様々な傘が街を彩っていた。
たまに無性に雨が恋しくなるときがある。この先ずっと雨と思うと鬱蒼とする部分もあるが、今日に関して言えば久々の雨だ。雨の匂い、雨によってもたらされる雰囲気、雨は見慣れた街並みをも変化させる力を持つ気がする。
安い透明なビニール傘で雨をしのぎ客引きをするカラオケ屋の店員。青い傘と赤い傘を仲良く並べてバスを待っている母子。ひときわ目立つ黄色の傘を持つ高級そうな洋服に身を包んだ女性は駅の中に勢いよく吸い込まれていく。都心の派手な装飾に負けじと各々の傘たちが存在感を露わに優雅に踊っている。
黒い折りたたみ傘は自転車を走らせる女子校生によるもの。ピンクの花柄の傘は同じくピンクのレインコートを着た小さな女の子とともに舞う。
雨の有無に関わらず、こうして街を見下ろすことができるカフェの窓際でぼんやりと眺めるのは面白い。行き交う人の数だけ物語があると思うとなぜかうっとりしてしまう。
駅が見えてもこれだけ人がいたら夏珠を見つけるのは難しいかもしれないと思ったのはまさしく杞憂だった。
駅から出てきた一人の女性に目が吸い込まれていった。特別に珍しい格好をしているわけでもない。それなのに目が引き寄せられたその女性こそ夏珠だった。
白のヒマワリ柄のワンピースに淡い白のロングカーディガンを羽織り、ほんのりピンク色をした傘を差して夏珠はこちらに向かっていた。
待ち合わせのときはいつだってそうだ。どんなにお互いが遠くにいようとも、夏珠がいると信じて向けた視線の先には必ず夏珠がいて、向こうもこちらの目を真っ直ぐに見つめている。
駅を出て傘の中から覗く夏珠と目が合った。手を振るでも何か口パクするでもなく、ただゆっくりと微笑む。どれだけ雑多な場所であっても、俺は夏珠以外は視界に入らなかった。
「おはよ。相変わらず待ち合わせの時間よりずっと早く来てるんだね。そゆとこ変わらないんだ」
夏珠からみたら俺はかなり几帳面な性格なのかもしれない。でもそれは夏珠自身との比較であって俺自身は特別几帳面でも神経質でもないと思っている。待ち合わせ時間のことにしても、夏珠のときに限ってのことで誰か別の人と待ち合わせをするときはぎりぎりに着くくらいにしてる。
「おはよ。よく俺がカウンターにいるのすぐわかったね」
「うん。そのカフェにいることはメールで知ってたし、いつもながらいるかなって目を向けると必ず遥征くんはそこにいるんだもん」
十四年経って変わったものってなんだろうか。
時代や街並み、俺たちを取り囲む周囲の環境は大きく変わった。そして俺たちの姿形も変わった。でもそこには変わらないものも確かにあるって思う。
俺と夏珠は、時間がどんなに二人を長く遠ざけようとも絶対に変わらない何かを共に持ち合わせている。そんな気がした。
「この辺りにはよく来るの?」
辺りは駅の喧騒もすっかり届かないくらい閑静な住宅街だ。しとしとと降る雨の微かな音すら耳に感じるくらい静かだった。
「いや、全然来ないよ。あの駅はターミナルだから駅付近はよく利用するけどここまでは来ない。昔、営業先の人にこの先にある隠れ家的なお店を教えてもらってさ。でも自分で行ったことはないからあんまり道覚えてないかも」
カフェでまったりを決め込んでいた俺に対して夏珠はいきなりこの雨の中でも少し外を歩きたいと言い出した。もともとランチもどこと決めていたわけではなかったし、せっかくだから歩きがてら俺が知る唯一他人にお薦めできるお店に行こうということになった。
大通りから狹い路地を入った。雨が降っていることもあってほとんど人の気配がなかった。
「こんなふうに一緒に歩くのなんて久しぶりすぎるね」
十四年だもんな。俺は言葉に出さずに頷いた。
雨を恋しく思うときがある理由を思い出した。雨の中を散歩することを夏珠は好んでいたんだった。
あれはいつ頃のことだっただろうか。
「雨が降ってきたよ」
夏珠は嬉しそうに俺の実家の窓から雨が落ちていくのを見ていた。
「雨っていいよね」
雨のいいところなんてこれっぽちも思いつかない。ただ、唯一雨に感謝することがある。それは結果として雨が俺と夏珠を恋人に昇格するチャンスを引き寄せてくれたことだ。そう考えると、雨が降ることは俺たちにとって特別なことなのかもしれない。でも日常的にみると雨はただ煩わしいものでしかなかった。
「雨? 何がいいの?」
「見える世界が変わるでしょ。雨が降ることで音、匂い、景色、雰囲気、いろんなことが変わるの。すごくない? 毎日降るわけじゃないからさ、たまに降る雨ってなんかすごくありがたいものに思えるの。雨を全身で感じて楽しんでみなよ。いいもんだよ。ね、じゃあ、散歩行こ」
そう言う前からもう夏珠の手は俺の手を引っ張っていた。
夏珠と一緒に歩いた雨の街並みは確かにいつもとまったく違って見えた。道路を走る車の音が雨の水とコラボしエッジが効いた感じに聞こえる。アスファルトが濡れることで立ち上る匂いも嫌な感じはしなかった。どんより暗いようでいて、一粒一粒落ちてくる雨が昼間から灯る街灯にきらめいていた。火照った体はひんやりした空気にすっと冷やされた。そのどれもが新鮮に感じられた。
「そりゃあさ、超土砂降りとかだったらこんな気持ちにもなれないかもしれないけど、しとしと降る雨はなんとなく贈り物のような気がするの。だから私、梅雨もそんなに嫌いじゃないよ」
贈り物。夏珠はそう言った。それ以来だったかと思う。雨が降るたびに俺は夏珠と散歩をした。夏珠の都合がつかなかったときは一人でも歩くようになり、晴れの日がしばらく続いたりすると雨が恋しいとさえ思うようになっていた。
さすがに梅雨はうんざりもしたが、雨の恩恵を感じる程度には雨が好きになったのは夏珠のおかげだろう。
以前通ったときは晴れていた。やはり見える景色はどこか異なる。
「今でも雨の日には散歩したりするの?」
独り言かと思うようなくぐもった小さな声を出してしまった。
「うん。雨はやっぱり好きなんだ」
夏珠は俺の声をしっかりと捉えてくれていた。