春の雪と夏の真珠(第二十話)
第二十話
付き合っていた頃、雨の日の散歩のとき夏珠は雨についてあれこれ説明してくれた。特別感心するほどのうんちくがあったわけではなく、ただただ見える世界を丁寧に描写して、一面的に見ていた俺にいろいろ気づかせてくれた。
慣れてくると、雨の日の散歩に限って会話はあまりしなくなった。もともと静かに歩いてその世界に没頭するのを楽しむという話だったし、不思議と何も話さないでいると取り巻く世界には二人しかいないような気がした。まるで研ぎ澄まされた五感が互いに通じ合っているようだった。
その証拠に、俺たちの雨の散歩に決まったコースはなかった。目的地を決めずに歩く。その間お互いに一言も話すことがなくとも自然と歩く方向、曲がる方向、休憩するタイミング、そのすべてが呼吸を合わせたようにうまくいっていた。
「ここのカフェで休憩しようって思ってたのわかった?」
「うん。二つ目の角を曲がる辺りで思いついたでしょ?」
そんな神がかったやり取りをよくしていた。
月日が流れ、再び二人で会う日に雨が降るというのもどこか運命的なもののように俺は感じていた。
駅から随分と歩いたところ、外観からして見事な高級マンションの敷地に俺が入っていくと夏珠は驚いたように声を上げた。
「え? マンションだよ?」
夏珠のリアクションは最初に俺がここへ連れてきてもらったときとまったく同じものだった。けれどそれも無理はないと思う。西洋の教会をモチーフに造られたようなそのマンションは白とピンクの大理石が光沢を持ち、ところどころにある彫刻は威厳を放ち、敷地内の庭につながる通路にはステンドグラスが色鮮やかに光っていた。
住人以外は立ち入り禁止と言われても驚くことはないくらい周囲の建物とは違う次元に存在していた。
「どこいくの? 近道とか? こんなとこ通って大丈夫なの?」
俺もまったく同じことを最初に思ったわけだが、夏珠のその素直なリアクションはかわいく、からかいたくなった。
「わかんない。ちょっと迷ったかな? オシャレだったからちょっくら拝みたくなって来ちゃったけどダメかなやっぱ」
「え? ホントに? 絶対ダメだって。住んでる人のパスとか必要なんじゃない」
敷地に入るだけで毎回パスを見せなきゃいけないマンションなんてどんなだと俺は心の中で夏珠のうろたえっぷりに微笑んだ。
「なんてね。ほら、あそこ」
俺は種明かしをした。マンションの敷地内の一角、ひっそりこじんまりとしたお店がなぜか不自然にそこに収まっている。
「知る人ぞ知る、超が付くほどの隠れ家の名店」
次の瞬間、夏珠は言葉を発するより先に全力のグーパンチを俺の腕に放った。無言のままさらに拳を振りかざすために俺は全力で謝った。
「待って待って。ごめんごめんごめん。驚かせたくてつい」
「嘘。私のリアクション見ておかしくなって笑ってたんでしょ」
相変わらず鋭いなと思う一方で、昔と変わらない怒ったときの反応には怒られながらも懐かしさを感じて頬が緩む。
「何? なんでニヤついての? やっぱ馬鹿にしてたんだ」
「ごめん、違うって。夏珠なんだなって」
「なにそれ、意味わかんないし」
「ほら、美味しいもの食べよ。すごくオシャレでいいとこでしょ?」
夏珠はまだご機嫌斜めで何か言いたそうだったが、俺は夏珠の手を取ってお店の中に入った。
店に入るまで自分がしたことになんの違和感も感じていなかった。当時付き合ってたときのように機嫌を直すために手を取って歩き出すということを俺は当然のようにしてしまっていた。
だが夏珠も店内の様子に見入っていてそのことに気がついていないようだった。もしかしたら夏珠にとっても当然のことと当時の感覚になっていたのかもしれない。
店内は温かみのあるウッド調のテーブルとイスに、ヨーロッパをモチーフにした内装が施されていた。看板メニューはガレットだ。すでに食事を楽しんでいる人たちはナイフとフォークを用いて優雅に、まるで貴族のような雰囲気をまとって食べていた。
俺は何事もなかったかのようにそっと手を離し案内されたテーブルに夏珠をエスコートした。
「ガレットのお店なんだね。すごいオシャレ」
こういうリアクションはやはり女の子なんだなと思う。好きだと思うことに対してはいつだって素直に喜んだりしてくれる。
俺たちは毎月変わるというお店のオススメを注文した。
最初に来たのはズワイガニを使ったクリーム系のソースがかかったガレットで、食欲をそそる香りが一気にテーブルに立ち込めた。反射的にお腹が鳴り、聞こえたんじゃないかとひやひやしたが夏珠は目の前にあるガレットによだれを垂らさんとばかりに夢中になっている。
二人でシェアしてほんの一瞬でぺろりと平らげ、そのお互いの食べっぷりに目と目が合ったとき大きな声で笑ってしまった。
「お腹空いてたんだね」
俺が聞くと夏珠は、
「遥征くんだって」
と、照れくさそうに口を尖らせた。
次に運ばれてきたのは、デザートのガレットだ。
オレンジとバニラアイスに濃厚なチョコのソースが綺麗にかけられている。さらにこの上にブランデーを垂らして火を付けるという。
テーブルの上のガレットが赤と青の炎を交えながら燃え上がる。オレンジとお酒の香りがこれまた食欲をそそり、夏珠は今にも飛びつきそうに見えた。
味わい楽しむことも忘れてはいないが、お腹が空いていたのと美味しさのあまり手を休めず食べていたのとであっという間に食事は終わってしまった。
まだ何一つ中身のある話をしていないと思うも、何をどう切り出していいのかまったくわからないでいた。世間話をするために今日この機会を得たわけじゃないことくらいわかってる。それでも俺は話題を慎重に選びながら話すことを止められずにいた。
自分のことでいっぱいいっぱいだったが、夏珠もどこか俺と同じ気持ちでいるような気がした。夏珠から振ってくる話題も当たり障りのないものばかりだったからだ。お互いに会話を弾ませてはいても中身がすかすかな気がしてならなかった。
次第に雰囲気が重たくなってくるのがわかった。そしてついには沈黙が訪れた。
かつてであれば夏珠とは沈黙すら心地よく感じられる関係だったと思う。
「夏珠、場所を変えようか」
「うん、そうだね。少し歩こ」
カフェで話をするには少し空気が違うことを考慮して俺たちはお店を後にした。
「いいお店だね。すごい美味しかったし、また一人でも来ちゃいそ」
お店を出たりすると決まってちょっと先まで小走りで進み感想を漏らす。これも昔から変わらない。
夏珠は自分の行動に少しバツが悪そうな顔をした。恥ずかしそうに俺を見る。
「また一緒に来ようよ」
そして俺たちはいつもの日本の見慣れた風景の街並みに戻っていった。
時計を見ると二時前だった。
妻と凰佑が帰ってくるのがおそらく五時過ぎ。
移動時間も考えるともうあまり時間も残されていなかった。
降っていた雨は止み、ときおり雲間から光が差し込んできていて、梅雨独特の蒸し蒸しとしたじとじと感が肌につきまとう。
雨が止んだのは切り替えのサイン。
俺はそう感じた。
隣を歩く夏珠もそうした変化を感じているのがわかる。俺は自然に切り出すことができた。
「あの保育園にはいつから?」
「もうまる四年経つのかな」
「東京にはいつから?」
恐る恐る聞いてはいたがもう変な緊張感もなくなってきていた。おそらく夏珠も同じ感覚なのか力みがなくなったような気がする。
「大学で東京に出てきた。それからはずっと東京」
「え? そうだったんだ……」
聞けば住んでいたところも俺が大学時代に住んでいたところとけっこう近いことがわかった。
「どんな大学生活だった? いや、その前に聞いておかなきゃいけないことがあるね。福岡での生活はどうだったの?」
夏珠は高校二年のとき、福岡に引っ越した。
「遥征くんの話を先に聞かせてよ。あの後のこと。全部聞きたい。どんな高校生をして、どんな大学生をして、どんな社会人をしたか。どんな人を好きになって、どんな人を嫌いになったか。どんなことを考えて生きてきたか、どんな景色を見てきたか。全部」
かすかに夏珠の声が震えた気がした。