春の雪と夏の真珠(第二十一話)

第二十一話

 ほんのしばらくの間、いや、かなり長い間だったのか。俺は無意識の狭間で動けなくなっていた。精神的にきてしまっていたようだ。
 意識をしっかり持ったときにはすでに夏珠の姿は俺の前から消えていた。今までの事が夢だったかのように、夏珠という存在は綺麗に消え失せた。
 同時に、今まさに自分の身に起きていることが夢であってほしいとも願った。これは夢で、目が覚めればそこにはいつものように夏珠がいて、優しく微笑んでくれる。
 朦朧とする頭を動かして状況の理解に努めた。
 夏珠は福岡に家族で引っ越すことが決まり、すでにそちらに移ってしまった後だという。夏珠の携帯の連絡先は変更されていて、高校生の俺個人の力では夏珠の情報を引き出すことは難しかった。
 夏珠が自分の意志で俺との別れを望んでいるとは思えなかった。自惚れでもなんでもなく、俺たちはそういう関係なんだと確信めいた想いがあった。親同士で引き合わせることがないように何か仕込んでいると疑心暗鬼になった。それからというもの夏珠以外に対しては完全に人間不信に陥ってしまった。
 夏珠の学校、夏珠の友達、住んでた家の周り、あらゆる手がかりを当たってみるも、周到としかいえないほどに口止めされてるのかのように誰もが口を開くことをしなかった。
 結果として高校三年になっても俺は何も手につかなかった。親とは毎日のように衝突を繰り返し、無為に高校最後の一年を過ごした。ただ夏珠への想いだけは心にしっかり灯ったままで。
 今思えばどうせ何もしてないのだし、あの時ただひたすらにバイトでもすればよかったなと思う。そうすれば早い段階で福岡に行くお金はできただろう。もちろん福岡に行ったところで探すのは難しいだろうが、無駄に過ごすくらいならそのほうがよっぽどいい。
 俺はとにかく馬鹿だった。こんな俺を見て夏珠がどう思うのかすら考えが及ばなかった。結局自分のことだけしか見えてなかった。
 よくあるドラマじゃこの場面で人生を変える出会いがあって立ち直るのが王道展開だが、俺はただ時間をかけて自分自身で落ち着きを取り戻していった。
 高校を卒業して半年。ダメだと思った。もし急に夏珠に会えたとして俺はどんな顔をして会えばいいのかって思った。今の自分にできることをしようと思ったのはその時だった。
 がむしゃらに勉強した。どこでもいいから入れる大学で一番いいところを目指してとにかく勉強に明け暮れた。やりたいことがあったわけじゃないけど自立した人間になるにはいろんなことを知る必要があると感じた。
 大学に入ってからも勉強は続けた。かろうじて入れたのはそれなりに名のある大学だったし、無駄にしたくなかったから努力はした。おかげで全然大学の友達はできなかった。与えられた時間はすべて勉強とバイトに費やした。
 御茶ノ水にあるすごくいい雰囲気のカフェを偶然見つけたのは大学に入ってすぐの頃のことだった。家からも大学からも特別近いわけじゃないのに集中してがっつり勉強したいって思うときは決まってそこに行って勉強した。開放感にあふれた造りで、一人ひとりに与えられるスペースが広々としている。それに反してプライベートな空間がしっかりと演出されていて、適度な照明の灯りやコーヒーの香り、気にならない程度のBGMと店内の騒がしさが心地よかった。
 勉強が一番のルーティンワークになりつつあったためにバイトは居酒屋から家庭教師にすぐ切り替えた。最初は時間効率の悪い仕事だと思ったけど、力が付いてくると個人契約になって直接俺に対して高い報酬が払われることが増えてきた。
 たぶん大手の企業に勤める新卒の倍くらい給料もらってたと思う。そして俺はそのお金で春休みを使って福岡に行った。なんの手がかりもなく行く初めての町はどうしていいかわからず途方に暮れたのを覚えてる。
 東京と比べて空気が美味しいのはすぐにわかった。福岡も中心地は東京と変わらない喧騒が広がってはいたが、東京ほど雑多な感じはなく嫌いじゃなかった。
 「準備はいいんかね?」
 「みんなそうしちょるけんね」
 「ちょ、なにしとー」
 年配の人、俺と同じくらいの人、小さな子ども、それぞれから独特のイントネーションの方言が聞こえてくる。同じ日本人。見た目は誰も彼も都会の様相とそこまで違いはなく、決して田舎臭いとは思わない。それでも会話を聞いていると、標準語が聞こえてくる頻度は圧倒的に少なかった。
 どこに向かっていいのかもわからない。俺はタクシーに乗り、主要な名所を巡った。けれども観光に来たわけではないし、地元民よりも外からの人間で溢れた場所に夏珠がいるとは思えなかった。かといって住宅街を無作為に歩いたところでどうにかなるわけでもない。
 北九州は小倉。
 なぜそこに行き着いたのかは自分でもわからない。駅は近未来を思わせる造りで近大都市のように豪華な印象だったものの、少し駅から離れると田舎をイメージしたときに思うそのまんまの風景が広がり、東京とのギャップに見入ってしまった。
 タクシーで街を移動していると、特攻服を着た男たちが派手な演出のもと騒々しく歩いていた。距離を置くように普通の学生服を着た男女の集団も見える。きっと高校の卒業式なのだろうと思う。そういえば成人式の式典で毎年大暴れでテレビに特集されているのはこの辺りの地域だったかと思い出した。今もなお時代錯誤なあんな格好をして歩く人間がいることに驚くも、これもある種の伝統だと思うと、良くも悪くも伝えゆくべき文化なのかもしれないなと思う。
 結局、福岡でできることは皆無だった。正直本当に夏珠を探す気があるのかも自信がなくなっていた。いざ会ってもどんな顔をしていいかわからない。
 天神にて夏珠の幸せを願った。自分はどうなってもいいから、夏珠の人生が幸せであってほしいとそう願い、俺はそのまま東京に戻ってきた。
 大学に通うなかでその頃には俺にも新しい彼女がいた。文化祭を通じて付き合うという大学生の典型を体現していた。でも彼女ができてもずっと夏珠を見ていたんだと思う。直接彼女と夏珠を比べるようなことは絶対にしてないとは思うけど、彼女のほうは俺がどこかうわの空なのに気がついていたようだった。春休みに黙って福岡に行ったことをきっかけに関係がぎくしゃくしてわずか四ヶ月くらいで別れることになった。
 今思うとなんであんな簡単に彼女を作ってしまったのかと思う。でもたぶん誰でもよかったんだ。夏珠の代わりになれる存在なんかいない。それでも一人よりかはマシだと考えていた。結局のところ後に残ったのはひどい虚無感しかなかった。自分が本当に心を動かされるような人間と出会うまでは恋愛なんかしないようにしようと決めた。
 けれどもそんな誓い虚しく、多感の時期の男なんてそんなものだろうけど欲望にのまれて複数の女性と交際をすることになった。言葉は悪いがすべてにおいて本気になれる恋なんてものはなく、惰性の遊びとしか俺には映っていなかった。当然どれ一つとして長く続くものはなく、いつだって虚しさを強めていく結果になるだけだった。
 その後は大学を卒業するまで恋愛をすることはなかった。遊びと言えど人付き合いが疲れる煩わしいものに感じられた。何度か合コンに誘われたりもしたけどいつも断っていた。
 大学四年のときにどうしてもって友達に誘われてギリギリまで行くことにしていた合コンがあった。
 「四対四で数が合わなくて困ってる。お金は全部負担するから、いるだけでいいから」
 メンツを聞くと実に冴えない男ばかりで、その中でだったら何も話さなくても俺は目立ってしまうんじゃないかと自惚れでもなく本気で思った。けれどもそこまで頼まれては、しかも条件も自分にとってそんなに悪いものではないし、ちょうどその日の予定も空いていた。
 当日、俺は欠席した。思わせぶりなのは良くないと思ったからだ。仮定の話だが、もし参加して俺に気を持った女の子がいたりしたら悪い気がしたから。正直に数合わせなんだと言ってしまい興を削いでしまいそうだったから。
 後日談だが、当日相手の女の子たちにも欠員が出たとのことで結果三対三で無事合コンは行われ、くっついたペアもあったとのことだ。
 大学を出てからは一応それなりに大手の広告代理店に就職した。塾や家庭教師の業界に名前がそこそこ知れ渡っていて、かなりのお誘いをもらってはいたけれどやりたいことはそれじゃなかった。俺は今なお達成はしてないけど、広告という媒体を使って夏珠にだけわかるメッセージのようなものを送りたいと思っていた。
 広告代理店での仕事はかなり激しかった。毎日のように残業で下積みの時代は長かった。俺が思ってたのとはだいぶ違っていて、自分で広告を作るなんてのは土俵違いでほぼ不可能なことは早々と理解した。それでもあがいてあがいていつか職権乱用をしてでもやり遂げてやろうと毎日を頑張って生きていた。奇しくもそんな中で出会ったのが、今の妻だ。
 「いつも遅くまでご苦労様」
 一つ年上の彼女は役職こそ俺と変わらないまでも先輩には違いないため最初は距離があった。同じ部署でも密な関わりがあるわけでもなかったし、話し込む仲ではなかった。
 三年経ちなおも俺は仕事の鬼と化して打ち込んでいたとき、そんな俺の姿が目に止まったと後になって妻は言っていた。
 「そんなにムキになってやることもないと思うけど?」
 一人残業を遅くまでしていたとき背後から声をかけられた。
 「お疲れ様です。特に予定もないので、できるうちにやっておこうと思ってやってるだけです」
 その答えには納得してない様子だった。
 「なんか悩んでるの?」
 当たらずも遠からずだが微妙に俺のことを誤解しているようで、その不意をついた一言に俺は笑ってしまった。
 「何? そこ笑うとこ? ほんとに心配で気になって声かけたのに」
 照れくさそうに少し怒る姿は思ってた印象とは違った。
 彼女を見て素直に綺麗だと思った。肩にかからないくらいに切りそろえられた髪がいわゆるできる女を演出していた。彼女については、その物言いに凄みがあり、あまり怒らせないほうがいいんだろうという印象をかねてから持っていた。思ったことを何でも言ってしまう性格で、本人には至って悪気はないのだけれど周りが見えてなかったり空気が読めなかったりですごい発言を飛ばしていることを多々目にしていた。
 だからそんな彼女の思いがけない姿にはややギャップめいたものを感じてお互いのことを少しずつ知っていくうちに俺は身にまとっていたバリアを彼女に対してだけは自然と解いていってしまっていた。