春の雪と夏の真珠(第二十二話)

 第二十二話

 急に強い雨が降ってきた。ちょうど住宅街の一角にある小さな公園に差し掛かり休憩にぴったりの東屋が目に入った。中心に木で丸く椅子が設えられていて、俺と夏珠は雨に濡れないようにできるだけ東屋の中心の椅子にぴったり寄り添うように座った。
 強い雨に打たれて垂れる木々の緑は晴れに見るそれよりも濃く、雨と草木の香りに満たされた空間は心地よかった。
 「雨かなり強まっちゃったね。どこまで話したっけ?」
 「今の奥さんと出会ったところ」
 夏珠は「今の奥さん」と言った。特に意識してのことではないとは思うが、俺にはどこか伏線めいた表現に感じた。
 言葉を発さなければ広がるのは雨の音だけ。またしても二人だけの世界が演出され沈黙が妙に艶っぽくなる。逢瀬なんて甘美な響きのものではないと思っていたのに次第に雰囲気は変わる。俺も夏珠も自身に内在する時間軸にブレが生じているかのように現在、過去、未来と定まらない時空間に揺らいでいた。
 不思議な距離感に身を置いていた。物理的にも精神的にも。端から見たら恋人か夫婦か、そのように見られてもおかしくない。それでもなんらそこに違和感はなく、ずっとそうだったかのように俺と夏珠はそこに寄り添って座っていた。
 
 広告代理店の仕事は要領よくこなせば定時に帰ることが可能なほどに落ち着いてきていたが、単純な仕事量はいくらでもあった。そのため生き甲斐を仕事に見出していた俺はいつだって進んで残業をして仕事に精を出していた。人より仕事ができないとか、逆に人より先に出世したいとか、そのどちらでもなくただ打ち込める何かが欲しかった。
 彼女と話すようになってからはほぼ毎日残業を共にした。彼女は時に俺の仕事を手伝い、俺も彼女の仕事を手伝ったりした。急を要する仕事をしていたわけではないが、かと言ってだらだらと仕事をしていたわけでもない。お互いに真摯に仕事と向き合っていた。
 「真っ直ぐ家に帰ったりしないのですか?」
 さほど親しくない女性に対してはデリカシーのない質問だと思った。けれど彼女は気にする様子もなく、予定もないしと帰ろうとしなかった。
 毎日残業を共にしてても会話は一言二言とあまりお互いのことを話したりはしなかった。それでもお互いに意識し始めているのはバレバレだった。
 「なんか朝田くん見てるとこっちまで仕事したくなるんだよね。昼間は眠くてやる気でないからさ、夜静かに仕事こなすのもいいもんだなって。ね、キリがいいとこでご飯でも行こうよ」
 あるとき急にそう誘われた。同僚との付き合いなどは煩わしくていつも即答で断っていた。でも彼女の誘いには自然と応じてしまった。
 話してみると、やはり価値観や物の見方などが自分とは大きく違うことがわかった。ただ俺はそこに魅力を感じた。そして彼女の方も価値観が違う相手のほうが楽しめる質らしかった。話していくうちにわかったことは、空気の読めない独特の発言がとにかく多いこと。俺はそれが心から面白いと思った。
 「今日ね、他の部署に出してた書類を取りに行ったの。そこの部署での決裁をもらわないといけなくて昨日出してあったんだけどさ、夕方取りに行ったらまだ決裁の判子をもらってませんって。正直カチンときて言っちゃったよね、『ってか今日一日何をしてたわけ?』って。そしたらだんまりよ」
 「さっき見た? 柿屋専務の子どもすごい騒いでたね。でも専務落ち着きなく動き回っても嫌な顔一つせずニコニコしてて。あんな完璧なパパいるのかな、なんか嘘っぽいよね? いや、ほんとなら別にいんだけどさ」
 一度だけ仕事の後に俺と彼女の他にもう三人を連れ添ったときがあった。その中に一人太った女性がいたのだが、ご飯を食べているときに偶然その太った女性の妹とその子ども、つまりは姪が居合わせた。
 姪は人懐っこく俺たちのテーブルに何度も来ては食べたり飲んだりを繰り返し母親に食べ過ぎと注意されていた。それを見て彼女が良かれと思って言ったことが強烈だった。
 「あらあら、よく食べるね。でもあんまり食べると豚さんになっちゃうよ。子豚さんかな? 子豚さんかな?」
 言ってる本人は目の前に太ったその子の叔母がいることはもはや頭にはない。というか、その人が太っていることなどまったく気がついてないとでもいうような感じだった。つまりは、まったく悪気はないのだ。周りはすぐその気まずい雰囲気を察知して姪を遠ざけ話題を変えたが、言った本人は何事もなかったかのように変えられた話題についてくる。
 そんなエピソードが俺にはツボだった。次第に彼女と話すことが楽しみになってきていた。気づけば休みの日に会うことも増え、プライベートを共にする時間も増えていった。 
 それでもこの頃はまだ夏珠の影を探していた。彼女の中にある夏珠と似ているところを見つけたり異なるところを感じたり、言葉にしないながらもすでに恋人のような関係になっていたにも関わらず俺は相変わらずの状態だった。
 彼女は聡い。一度言われたことがあった。
 「未だに忘れられない人でもいるの? 私の中にその人を見てる気がするんだよね」
 正直驚いた。
 俺は何も言えず彼女との関係も終わったと覚悟した。
 「一途なんだね。そいうところ好きだな。ねえ、私のことは好き?」
 それからは一気に時間が流れていった。夏珠のことを忘れたりすることは結局一瞬たりともなかったけれど、彼女といるとそんな自分でも救われた気がした。彼女にも夏珠にも悪い気はしてた。でも彼女は強かった。そん俺を支えてくれた。そんな強さに俺は甘えた。そうやって気がつくとその彼女と結婚としていた。
 そして、季節は巡った。桜の季節に、桜の木の下で、夏珠に再開した。
 運命だと思った。夏珠とのことをちゃんと向き合うことなしに俺は前に進んではいけないんだと確信した。絶対に曖昧にしちゃいけないんだって思った。
 降りしきる雨のせいで時間の感覚がまったくない。どれだけ時間が経ったのだろう。あとどれくらい二人の時間が残されているのだろう。
 「俺はわからないんだ。あんなことがあったけど、夏珠を長いこと放っておいたけど、それでもずっと夏珠のことを想ってた。結婚して子どもまでできて、それなのに夏珠はずっと俺の心の中にいて。俺は夫としては最低なんだと思うけど、こんな俺を妻は必要としてくれて。でも俺は、それでも俺は夏珠をずっと心に留めたままでいる」