春の雪と夏の真珠(第二十三話)

第二十三話

 雨に包まれた空間が肌寒いわけではない。緊張とも違う。それでも俺の体は震えていた。
 俺の話が終わると夏珠はそっと俺の手を取り、握ってくれた。過去にいつだって俺が不安や悲しみにくれているときそうしてくれたように。
 「ごめんね。ずっと苦しい想いをさせてたんだね。あのときから、一番そばにいてあげなきゃいけないときから私は遥征くんの隣にはいなかった。本当にごめん」
 夏珠の手に力がこもる。その暖かく柔らかい手に俺は何度と癒やされてきたんだった。
 雨はさらに勢いを増し、東屋の中心に居ても濡れてしまうほどだった。
 雨の匂いに混じってすぐ隣にいる夏珠の匂いが時間を忘れさせる。今この瞬間だけは時間が止まってくれればいいのにと願う。
 「私の番だよね。遥征くんの話を聞いて私が何か言う前に私自身の話をするべきなんだよね」
 夏珠は俺の手を取りながら時間を逆行していく。
 「私はずっと震えが止まらなかった。あの事件があってからずっと。
 事件当日、遥征くんがずっと抱きしめていてくれた。その間だけは唯一落ち着くことができたのに。
 事件の後すぐに私の両親は引越しの手続きを済ませた。私があの町にいたという痕跡をあらゆる手を尽くして消していた。それは後になって遥征くんが追ってこられなくするためかのように。
 私はそれをただ見ていることしかできなかった。頭ではダメだとわかっていても事件のショックからなのか体が言うことを聞いてくれなかった。
 部屋に引きこもっていても外からの眩い光は認識できた。こんなにも私の心は暗く深く沈んでいるのに秋の空はどこまでも広く晴れ渡っていて、太陽はすべてを明るく照らしてくれるような光を放っていたのを覚えてる」
 夏珠が語り始めた言葉を一語も聞き漏らさないようにつないだ手からも全身で夏珠を感じた。
 「それでも私の心の闇を照らすことは叶わなかった。そこまで闇が深いのか、私が照らされること自体を拒否しているのか自分でもわからなかった。
 会いたい。
 遥征くんに会いたい。
 引越しはすぐだった。事件から三日という早さで。当日私は家を飛び出して遥征くんのところに行こうとした。けれど外の世界にはみな同じ顔をしたモンスターがたくさんいた。後に心療内科を受診してわかったことだけど、私は軽度の対人恐怖症になってしまってたの。道行く人が怖くて呆然とした。それ以上動くことができなかった。
 両親は私のことを心配する一方で遥征くんと引き離す好機とも思ったようなの。抵抗する力を失った私をあっさりと連れて福岡へ飛んだ。
 高校にはまったく通うことができなかった。父も母も世間体ばかりを気にしていて私のことを本気で考えてくれているようには見えなかった。周りの景色はあまりに異質に見えたし、毎日外を眺めるだけで吐き気がした。
 高校三年になり周りは受験だなんだで忙しそうに動いていたんだと思う。私は学校に通っても教室に足を運ぶことはできず、心療内科の先生に紹介されたカウンセラーの人と一緒に保健室で最低限の出席日数をかせいだ。
 受験なんてとても考えが及ぶはずもなく、あっさり高校生活最後の一年を何もしないで終えた。
 高校こそ卒業したものの私の人生はもう終わっていた。本当に何もやる気が起きなかった。朝になれば目が覚めて食事を取る。部屋で遥征くんのことだけを想い、夜になれば眠る。
 『生きる』という行為の定義はなんだろうって思った。私は生きていないんじゃないかって。どんなに晴れ渡った空を見ても気分は晴れ渡るどころか暗く沈んでいく。
 誰も助けてくれない孤独を味わった」
 夏珠には辛い過去だろう。こんなにも暗い声の夏珠を前にしたことがあっただろうか。
 「夏珠? 大丈夫?」
 「うん。ごめんね」
 夏珠が握る手の力が心無しか強まった気がした。
 「カウンセラーの人はそれでも毎日私の元を訪ねてくれた。でも私はほとんど心を開かなかった。かろうじて敵ではないと認識することができた程度で、恐怖の対象には変わりなかった。
 変化が生じたのは、カウンセラーの人が自分の四歳になる娘を連れてきたとき。
 『結菜っていうの。私の娘』
 結菜ちゃんは人懐っこかった。子どもは感性が鋭いから私みたいなどん底の淵ですさんでいる人間を無意識に忌み嫌うものだと思っていたのに会った瞬間から私に飛びついてきた。
 不思議と結菜ちゃんを敵やらモンスターやらと認識することはなかった。
 『子ども好きでしょ?』
 そう言われて私は子どもが好きなことを思い出した。
 『今度保育園に行ってみない?』
 私はなるべく外の世界の住人を見ないようにしながら保育園に行った。そこにはたくさんの子どもがいた。彼ら彼女らは世界が美しく楽しさで溢れていると信じてやまない無垢な心で遊んでた。
 『おねえちゃん、遊ぼ』
 そう言われて胸が高まるのを感じた。周りを囲まれ、子どもたちと様々な遊びをした。お人形遊び、レゴブロック、線路をつなげて電車を走らせ、縄跳び、ボール遊び、鬼ごっこ、じゃんけん。
 疲れたりすることはなかった。一緒に遊べば遊ぶほど元気が湧いてくる。そんな感じだった。
 『おねえちゃん、好きな人いるの?』
 五歳児ともなればもう簡単なガールズトークはお手の物だった。
 『うん。いるよ。大好きな人が。今は遠く離れたところにいるんだけどね。また会えるように頑張ってるんだ』
 そんなことを言ったと思う。実際はそのときまだなんにも頑張ってなどいなかったのに。でもそれが決意表明になった。私は私のできること、やるべきことをやろう。こんな姿じゃ遥征くんに嫌われる。しっかり地に足付けてまた遥征くんに会うんだ。私は猛勉強をした。専門学校でもよかったけど、いろんなことを知りたいと思った。昼間は保育園で子どもたちと遊び、夕方から夜にかけて勉強と対人恐怖症を直すリハビリメニューをこなした。
 一年浪人して頑張った結果、対人恐怖症も緩和して大学に通うことができた。東京の大学はあまりに人が多くてちょっとハードルが高かったけど、辛い時は遥征くんに会いたい想いで頭をいっぱいにすることで乗り切れた。
 上京して一番最初に向かったのは遥征くんの実家だった。久々に中学高校を過ごした町を歩いて心が踊る一方で、思い出したくないことまで頭をかすめてしまった。でも私は過去の記憶に押しつぶされない程度には強くなっていた。
 駅から遥征くんの家に向かう途中、駅前の商業施設、大きな市立病院、夏祭りが行われた公園、二人だけの秘密の桜スポット、一つ一つ丁寧に私たちの聖地を巡礼して想い出を再構築した。
 早る気持ちを抑えきれずに上京とともに出向いてしまったのは失敗だった。あと一週間もすれば桜は開花して想い出通りの姿になるだろう。そしたら遥征くんもここに来るかもしれない。そう思ったから。
 その年から現在に至るまで私は毎年二人だけの秘密の桜スポットに桜を見に行った」
 夏珠は毎年あの場所に桜を見に行っていたという。俺はどうかといえば、ここ何年かは行ってなかった。夏珠と別れてから十年近くは毎年無意識に訪れていたのに。
 夏珠も俺と別れて苦しんでいたことを知り、そして今なお俺のことを想ってくれているような気さえして感情がぐるぐる変化していく。自分が今この瞬間に抱いている感情がなんなのかわからない。嬉しい、悲しい、楽しい、ムカつく、そんな基本的な感情すらわからなかった。
 夏珠とはすぐに会える距離にいた。なんなら同じ日のわずかに異なる時間に同じ場所で同じ景色を眺めていたのかもしれない。
 雨に濡れた空気はしっとりしていた。
 梅雨の始まりとは思えない空気の質感が辺りを包んでいる。
 十四年経ちようやく俺と夏珠はまた同じ景色を一緒に見ている。桜ではないが、夏珠が好きな雨の景色を。