春の雪と夏の真珠(第二十四話)

第二十四話

 夏珠の話にのめり込む自分がいた。時間、空間、身の回りのすべてがたゆんで見える。夏珠はそんな俺を見て一度間を取った。
 「ごめん。続けて」
 再び二人の世界にのめり込んでいく。
 「遥征くんの実家には毎年行ってたんだけね。けれど一度として家を訪ねることはできなかった。遥征くんの両親にどんな顔をして会えばいいかわからなかった。私が勝手に悪い方向に考えているだけで、遥征くんの両親は私に対して何も感じてないかもしれない。その可能性のが高いのはよくわかっていても、私にはあと一歩の勇気がなかった。
 一度だけ遥征くんのお母さんが団地の入り口でおしゃべりしているところを見かけたの。いけないとは思っても私は壁一枚挟んだすぐ後ろでその話を立ち聞きしてしまった。そこでわかったのは遥征くんがもう家を出て一人自立して頑張っているということ。
 家に行っても会えないのかと残念に思うのと同時に、どこかほっとした気持ちもあった。会いたいのに会う心の準備がまったくできてないことに気づいたのはそのとき。
 勇気を出してお母さんに会えば遥征くんの居場所はわかる。でもそれができないために私には手がかりがなかった。街ではいつだってどこにいたって遥征くんが偶然すれ違うんじゃないかと目を凝らした。
 大学生活は徐々に慣れて楽しく感じるようにもなっていった。でもなかなか恋に踏み出すことはできなかった。
 大学に通い出してから一年の間で三人の男の子から言い寄られたんだ。意外とモテるでしょ。でも私はまったく心が揺らぐことすらなかった。ただ謝ることしかできなかった。周りの女の子たちは早く新しい恋をしたほうがいいとみな口をそろえるけど、自分でもどうしたらいいのかわからなかった。
 その後また声をかけてきた別のとある男の子は優しく、自然に打ち解けることができる人だった。この人とならうまく付き合えるかもしれないと思ってたら告白された。
 『ずっと好きな人が私の心の中にはいます。その人のことを想い続けている状態でもよければお付き合いさせてください』
 最低な返事をしちゃった。
 でも彼はそれでもいいと言った。彼にとっては正直付き合えれば誰でもよかったのかもしれない。案の定、付き合ってすぐ態度は変わり、私はすぐに別れを決めることになってしまった。
 無理に恋なんてしたらまた人間不信になりそうだと思った。私は勉強とバイトに集中しようと決めてカフェでバイトを始めた。
 御茶ノ水にあるオシャレなカフェは初めて行ったときにすぐ好きになってそこで働きたいと思った。オープンしたばかりでスタッフを募集してたからすぐさま応募して、採用してもらうことができた。
 コーヒーの香りに包まれながら、その開放的な空間に身を置いて働くのは嫌なことも忘れられる気がして心地よかった。
 働き始めて知ったことだけど、『リヴェデーレ』というイタリア語で『再会』を意味する店名も大好きだったなあ」
 「え?」
 俺は声を上げていた。
 よほど集中して話を聞いていたのだろう。雨が止んで薄く雲間から光が差し込んでいることにそのときやっと気がついた。
 「ん?」
 夏珠は俺がいきなり大きな声を出したことに驚き、同じく雨がいつの間にか止んでいたことに今気づいたらしく、辺りを二度見した。
 「どうしたの? てか雨、いつ止んだの? 全然気が付かなかった」
 俺も夏珠も、そろいもそろって二人だけの世界に入り込んでいたようだ。
 周囲は雨の音すら聞こえない静けさで微かなスズメの声が届くばかりだった。現実に戻ってみるとむわっとした湿気が肌にべたっと張り付くようだった。
 「おかしいな。さっきまでは梅雨とは思えないくらいしっとりと心地よい空気だったんだけど」
 「ほんと。今それ私も思ったよ」
 静かに微笑み見つめ合う。
 静寂。
 沈黙ではなく意図した静寂が辺りを包む。
 「あ、ごめん。お店の名前、『リヴェデーレ』って俺がさっき話したお気に入りのカフェ、そこだよ」
 夏珠は一瞬なんのことを言っているのかわからないといった顔をした。
 「夏珠、あのカフェで働いてたの? 俺がよく行くって言ったとこだよ」
 「本当に……?」
 「信じられないや。多い時は週四くらいで行くときもあったくらいなのに。まったく気が付かないなんて。いや、気が付かないなんてありえないか。たぶんずっとニアミスしてて直接会ったりはしてないんだろうね」
 「うん。私絶対に気が付くと思うもん」
 きっと何かほんのちょっとのことなんだろうと思う。ほんの少し何か選択を違うものに変えていれば、もっと早い段階で再会できていたのかもしれない。
 「俺さ、よく思うことがあるんだ。会社に行くときに駅の改札を出ると上りエスカレータが横並びで三つあるんだけど、何も考えてないといつも一番右側に乗るんだよ。でもさ、これを意識して真ん中とか左側を選択するとその先に起こる未来も変わるんじゃないかって。だからさ、ルーティンワークみたいな習慣も大事だけどあえて変えてみる勇気みたいなものも大事なんじゃないかって。どうでもいい小さな選択一つで違った人生を演出することができるかもしれないって思うとさ、可能性に満ちた感じがしてなんか良くない?」
 「前向きな考え方だね。でもわかる気がする。今日この服でいいやってあまり考えずに決めるんじゃなくて、結局同じ服を選ぶことになっても意識して考えたほうがいいよね」
 「ん? うん。そうだね。それはそれで大事かもだけど。それは俺が言いたいこととはちょっと違うかな……」
 雲の切れ目が大きくできて日差しがちょうど東屋を照らした。
 その太陽の熱のせいで夏珠が顔を赤くしているわけじゃないことは明らかだったが、俺はそこには触れないでこみ上げる笑いをこらえていた。
 昔から夏珠は伝えたいことを微妙に取り違えて解釈する癖があった。
 今なおずっと握っていた手と反対側の手で夏珠は拳を作った。
 「ちょっ、待って……」
 座っている状態の太ももあたりに拳が振り落とされた。ズンという音とともに鈍い痛みが走る。俺は何も悪いことはしてないようなと思いかけて思考を止める。夏珠はそんなオレの思考も読み取る恐れがあるからだ。
 少し上の方から目を細めて夏珠は俺のほうに鋭い視線を投げかける。
 「あの……、ごめんなさい」
 「よろしい」
 ふふっと打って変わって無邪気な天使の微笑みが眩しかった。