春の雪と夏の真珠(第二十六話)

第二十六話

 濡れた地面が太陽を反射して眩しい。目を細めて初めてしっかりと晴れ間が出てきていることに気がついた。
 「そんな感じかな。で、今に至る」
 俺はすぐに言葉が出てこなかった。こういうときなんて声をかけたらいいのだろう。
 「このストラップ、覚えてる?」
 夏珠はポケットから携帯を取り出し、懐かしいそのストラップを顔の前で揺らした。
 「このストラップが守ってくれたの。私はあの人と結婚すべきじゃないってことを教えてくれたんだと思う」
 俺だったら幸せにできるのだろうか。夏珠は今でも俺のことを想っているのだろうか。
 「これでお互いの歴史はざっくり話したね。何か質問ある?」
 質問。
 聞きたいことなど山ほどあるはずなのに何を聞いたらいいのかわからない。
 「十四年か……。長かったね」
 夏珠は俺が口を開かないためか、ずっとしゃべりっぱなしだった。
 遠くで子どもの声が聞こえる。雨があがって外に遊びに出てきたのだろう。
 「凰佑くん、かわいいね。昔に遥征くんの家で見た子ども時代の写真にそっくりだね。本当はね、凰佑くん見た時にすぐピンときてたんだ。絶対に遥征くんだって」
 「夏珠……」
 ようやく声を出したのに口に出たのは名前だけ。
 「遥征くん、今は幸せ?」
 その言葉に胸が詰まる思いだった。
 俺は幸せなのか。即答できない自分に嫌気が差す。
 もし幸せだとして、一人幸せでいいのか。夏珠は幸せなのか。
 「遥征くん、私ね……」
 辺りが静かでなければ間違いなく気が付かずスルーできたであろう携帯電話のバイブの音が会話を遮る。
 「電話、出ないの?」
 出たくない。でも夏珠はそれを許さない目をしていた。
 電話は妻からだった。
 「あ、もしもし、今どこにいる? 強行したけどこの天気だからもうお開きになっちゃってさ。家に帰ってもいいけど時間つぶして外でご飯食べんのもいいかなって」
 音漏れが激しい。取り乱した心では通話音量ひとつうまく操作できない。
 夏珠が心無しか寂しそうな顔をしているのは気のせいだろうか。
 「もしもーし、聞こえてる?」
 「ごめん、電波悪いのかな。うん、わかった。じゃあ、どこかで待ち合わせしようか」
 電波が悪いなんて今時の都会でまずありえない設定を妻はどう思っただろうか。
 「そしたらいつものゲームセンターにいるよ」
 家の最寄り駅のそばにある商業施設内のゲームセンターを凰佑はこよなく愛していた。
 「行かなきゃだね」
 音に形があるのなら、今の夏珠の声はとても線が細く、たちまち消えてしまいそうなものだったと思う。
 「夏珠、最後なんて言おうとしたの?」
 ちょっと考えた顔をし、俺が昔よく見ていたすべてを包み込むような優しい笑顔を向けた。
 「うーん、忘れちゃった」
 もう限界だった。
 俺は夏珠を思い切り抱き寄せた。
 ほんの一瞬抵抗の素振りもあった。でもすぐに夏珠は力を抜いた。
 俺の鎖骨辺りに顔をうずめ、首筋には湿ったものを感じる。
 夏珠は声を押し殺して、静かに力なく泣いていた。
 俺は夏珠の小さな体の震えが止まるまで抱きしめていた。目の前の夏珠のことしか考えることができなかった。
 震えが止まったとき、顔を上げた夏珠と目が合った。夏珠の唇に引き寄せられるかのように、俺はそっと夏珠に口づけをした。
 額と額をくっつけながら一度唇を離し、夏珠は「ダメだよ」と声を漏らしたが、もう世界には俺と夏珠の二人しかいなかった。
 雨が完全に上がった。
 それは俺と夏珠の時間の終わりを暗示しているように思えた。雨が降ってなければこのような時間の共有はできなかったかもしれない。駅に向かうまでの間、俺と夏珠はどちらともなく、ごく自然に手をつないで歩いていた。
 細い路地を抜けると大通りに差し掛かる。段々と歩く人の数も増えてくる。雨が止んだせいで通りを歩く人の数は行きよりも多く見えた。
 人混みに紛れているとはいえ、いつ誰がどこで見ているかわからない。俺か夏珠を知る人間に手をつないで歩いているところを目撃でもされたら。頭は自分でも驚くほど冷静なのに俺はつないでいる手の力を弱めようとは思わなかった。
 お互いに帰る方向が違っていたのは幸か不幸か。
 別れを惜しめば本当に引き返せなくなりそうな感覚は俺だけじゃなく夏珠も感じているようだった。募る気持ちを抑えるように、ゆっくりとつないだ手を離して別れを告げる。
 ドラマでよく見るような、ホームを挟んで向かい合うかたちになった。
 高校生の付き合ってた当時、数本の電車をわざと逃して無駄に時間を重ねて向かい合ったりしていた。声など頑張らなければ届かない。ただお互い見つめ合い、微笑みあい、同じ空間と時間を、世界を共有する。それだけで十分だった。それだけで幸せだった。
 十四年という歳月は俺も夏珠も大人になるには十分すぎた。
 向かい合って立つも、すぐに電車が到着するとのアナウンスが響く。夏珠は顔の前で小さく手を振った。慌てて俺も返したがそれとほぼ同時にお互いのホームに電車が滑り込んできた。
 乗るべきか否か、考える時間はほとんどない。
 混雑した車内のせいで電車に夏珠が乗ったかどうか確認できない。
 人生の岐路に佇む。そんな言葉が頭に浮かぶ。俺は今この瞬間がそうなのではないかと大袈裟に考えてしまう。
 人生の帰路。
 その選択が大きく未来を変える。
 俺は乗ってしまった。
 それが正解なのかどうかもわからないまま。
 夏珠がいるであろう方向に背中を向けて立ち、そのままゆっくりと電車は動き出した。
 夏珠は乗ったのだろうか。
 背中に何か感じるものがある。高まる鼓動に表現しがたい苦しさを覚えていた。