春の雪と夏の真珠(第二十七話)
第二十七話
カーテンを開け放っても眩い光は俺の目に届かなかった。どんよりと黒い曇り空が広がり、今にも雨が降りそうだった。
休み明けだというのに今しがた仕事を終えたかのような疲労感が残っている。胸は空しさを感じている。
夏珠との時間。
あの東屋ですべてが終わっていれば。
駅のホームで向かい合うことさえなかったならば、また何か違ったものになっていたのだろうか。
夏珠と別れて家族と合流してからのことはほとんど覚えてない。何度も妻にうわの空だと注意され妻の機嫌を損ねたこと、ちょっと温泉施設の湯に浸かりすぎたと苦しい言い訳をしたこと、そんなことだけしか覚えていない。
すっきりしない空模様はいつまで続くのだろう。梅雨が明ければ空は晴れ渡るのだろうが、俺のこの曇りきった心も爽快に晴れ渡る日がくるのだろうか。
会社に到着してすぐにメールが届いた。夏珠からだ。
名前を変えて登録していることを夏珠は知らない。家族と一緒にいる昨日を避けてあえて今日この時間にメールをしてきたのだろう。
その通知を見ただけで胸が締め付けられた。連絡がきたことが嬉しいのか怖いのかよくわからない感情が渦巻いていた。
見たら仕事に差し支える気がした。見なければ気になってそれはそれで仕事に差し支えるような気もする。
湿気を多く吸ったほんのりかび臭いオフィスは居心地が非常に悪かった。この場所でメールを開けば内容も悪いものになるとさえ思えた。
よく磨かれた会社の通路のタイルはピカピカに光っている。梅雨のこの時期気持ちを澄み渡る状態にしてくれる場所は少ないだろう。白を基調に手入れされたこの通路ならいくらかましか。
「おはようございます」
この時間は社員の行き来が激しい。うじうじと携帯とにらめっこしてても仕方ない。俺はメールを開いた。
「昨日はありがとう」と、そこには短い文があるだけだった。
わかってはいたようで、期待と不安のどちらをも裏切る内容に心はほっとしているのかざわついているのかやはりわからなかった。
昼休みに恋愛センサーを内蔵した同僚がすぐに俺のことを見つけ出した。
「どうだった? 二人で会って話したんじゃなかったっけ?」
特に時間と場所を示し合わせたわけでもない。この男はいつも俺のいるところにいたりする。
「会ったよ。話もした」
「そっか、あまり解決に至ってはいないのだね?」
恋愛に通じていなくとも今の俺の表情を見れば誰でも察するのかもしれない。
「余計にわからなくなったような感じ。ちょっとここでは話しにくいかな」
「オッケー。また時間作って飲みにでもいこうか」
どうやらすでにお昼は済ませた後のようで、その場を立ち去ろうとして急に思い出したように振り返った。
「あ、ちなみに話はどんなこと話したの? それも言いにくい?」
俺は少し考えたが、相談に乗ってもらう手前ざっくりでも概要は伝えておくべきだと思った。
「お互いの過去のこと。別れてからのね。俺たちが再び出会うまでにどんなことがあったか」
「それでお互い妙に感極まってしまったと」
「……」
感極まって何をしたか、それをわかったうえであえて言わないのがこの男のうまいところだ。
顔が赤くなってるのが自分でもわかる。急に暑く汗ばんできた。
誰でも今の俺の話を聞いて、顔を見て、そういう結論に至るのだろうか。それともこの同僚の鋭い恋愛力によるものか。
「ま、いいや。続きはそのときに聞かせてよ」
そう言うと、不敵な笑みというのはああいう表情を言うのだろう、得意満面に去っていった。
夏珠にはどう返信したものか。
ぐだぐだ悩んだところで時間はただ過ぎるばかり。素っ気ない感じもしたが、「こちらこそありがとう。また」と打ち込んで送信した。
それ以上の返信は望めないにもかかわらず俺は度々携帯の画面を操作してメールがきていないかをチェックしてしまう。
仕事が終わるまで何度も、そして仕事を終えてなお夏珠からまだ何かメールがくるのではないかと携帯画面から目が離せなかった。
「おかえり」
妻はいつだって元気だ。あまり沈んだところを見たことがないかもしれない。言いたいことを言うはっきりした性格だからか、ストレスとか悩みもそこまで溜め込まないのだろう。
「ただいま」
いつもと変わらない様子で返事をしたつもりだったが、妻は様子が違うことがわかったらしい。
「なんか元気ない? 梅雨でじめじめして疲れたの?」
「ん? まあ、じめじめはうっとおしいけど別に疲れちゃいないよ」
「あ、そう。今日は夏珠先生もあまり元気なかったよ。いつもの弾ける笑顔というか元気というか、そういうのがなかった」
妻が夏珠を引き合いに出したのは偶然だ。偶然のはずだがこうもピンポイントで名前を挙げられると心臓に悪い。
「へー、ま、保育士さんは大変だからね。うっとおしく騒ぎ立てる子どもを相手しながら梅雨のじめじめだもん。元気もなくなるでしょ」
話しているのが自分ではないみたいな気がした。俺はこんなふうに嘘がつける人間だっただろうか。
「うーん、あれは相当疲れてるよ。ちょっと心配。体もメンタルも弱ってたら子ども相手にするのって絶対無理じゃない。私だったら子どもぶん殴ってしまいそうだし」
ほんのつい最近のことだ。家の近くにある小さな私立の保育園にて虐待が発覚した。若い女性の保育士さんが逮捕されたが、彼女は七年目でその保育園では歴が長いほうだったという。周りも気がついていたが、立場が上のほうであったらしく見て見ぬふりとなってしまい発見が遅れたらしい。
ニュースで家の近くのその保育園が映し出されたときは驚いた。その保育園の前を俺はいつも通っていたし、捕まった保育士の女性もけっこうな頻度で見ていた。
子どもが嫌いで保育士になる人などいないと思うが、好きだと思ってやっていてもそういう事件が度々起きてしまう。
夏珠は天職だと言っていたし、夏珠に限って子どもに手をあげるなど絶対にないと信じたいが、いつだって世の中はまさかあの人がなんて事件で溢れていたりする。
「ま、うちの保育園はわりと大きいし先生の人数も多いから大丈夫だとは思うけどね。それにしても今日の夏珠先生はすごく無理してる感じに見えたなあ」
俺は部屋で着替えながら夏珠からのメールを再び見た。夏珠が今どのような気持ちを抱いているのかはわからない。けれど少なくとも俺と似たような気持ちでいる可能性は高い。
再会などしなければ心の中でお互いを想うだけ。それこそ片想いのような状態のままそれぞれの人生を歩むことができたのかもしれない。
人と人が出会うことにはどんな意味があるのだろう。一人の相手と知り合う。そして恋人になる。そんな選び出された出会いに意味がないとは思えない。一度ならず、俺が十四年越しに夏珠と再会したことにも意味があるとすればそれはなんだろうか。