春の雪と夏の真珠(第二十九話)

第二十九話

 それから一週間が過ぎた。
 運命のいたずらか、避けられているのか俺にはわからない。ただ夏珠と顔を合わせることがなく月日が過ぎていった。
 もともと送り迎えの頻度としては妻のほうが多い。保育園で夏珠を見る機会は少なかったわけだから会えないことを気にする必要もない。けれどあんなことがあった後としてはやはり気になってしまう。
 普段ならすぐに準備して保育園を後にするのに、無駄にぎりぎりまで長居してみたりした。
 迎えのときも凰佑の思うままにさせ、時間を潰したりした。
 それでも夏珠に会うことはできなかった。
 二週間会えない日が続き、俺はついに連絡した。さすがに心配だった。妻は度々見かけているとのことだったが、やはり以前のような覇気は薄れ、保育園にいる時間も少ないような気がするとのことだった。
 俺の心配空しく夏珠からは何の問題もないと返信が返ってきた。事務仕事や他の保育園との連携による仕事に追われているとのことで、本当に今の保育園にいる時間が少なくなっているとのことだった。
 それでも一度メールして気持ちが少し吹っ切れたため俺は食い下がった。元気がないように見えるって話を聞いて心配してることを伝えた。
 その件に関しては、仕事量の多さと慣れないことを急に一気にしてるからそれ相応の疲れはあるとのことだった。俺とのことには何も触れずにお互いの仕事の近況を報告しあうまでに留まった。
 「あの日、あの時、夏珠は電車に乗ったの?」
 電話を切ったあと、ふと声に出していた。
 メールだけじゃこらえきれなくて俺は電話をした。声を聞けば俺には夏珠がどういう気分でいるかもわかる自信があったからだ。
 夏珠は疲れた声をしていて、本当に疲労がたまっているようだった。そのせいもあって俺とのことを悩んでいるのかまでは判別できなかった。
 結局当たり障りのないことしか話せず、肝心の事は何も聞けない。聞く勇気を振り絞ることもできずに俺は一人久々に晴れ渡った空を見上げては力なく佇んでいた。
 そして事件は起きた。
 凰佑が保育園で怪我をした。
 その日に限って俺は仕事を早く終え、家に向かっていた。梅雨はまだ明けてないとのことだったがしばらく雨は降っていなかった。空も快晴の日が多く見られた。
 この日も天気は良かった。日が延びたため外はまだたっぷりと明るく、まっすぐ家に帰るのがもったなく感じられた。だがなんとなく俺は家へと足を向けて歩いていた。
 家へと続く通りを歩いていると、自宅の窓から光がこぼれていることに気づいた。この時間にもう保育園の迎えをして帰ってきているとは思えなかったため電気の消し忘れかなにかだろうと思ったが、玄関の扉に手をかけようとしたとき中から声が聞こえた。
 どうやら珍しく妻以外の誰かが家の中にいるようだ。施錠されてないのでそのまま中に入る。見慣れない春らしい黄色のパンプスがそこにはあり、それだけでいつもと違う雰囲気が感じられた。
 奥の部屋まで行くと、まず凰佑が気づいた。
 「パパー」
 「あ、おかえり。早かったんだね」
 そしてその場に本来居るはずのないもう一人の女性と目が合った。
 驚きの表情を隠せないでいたが、訪れることのない人の訪問に驚いているというふうに捉えられたのか、妻は俺のリアクションについては何も言わなかった。
 「こんばんは。おじゃましています」
 丁寧に挨拶するその女性はどこか気まずそうに、申し訳なさそうに明らかに落ち着きを欠いている。
 空気の読めないバカ息子は妙にテンションが上がっていて、
 「なつみせんせいー、なつみせんせいー」
 と何度も呼んでいた。
 そこでやっと俺は凰佑の左足の様子がおかしいことに気づいた。凰佑の左足、正確には左膝の外側にかけてのあたりが大きなガーゼで覆われている。
 「今日保育園で怪我しちゃったんだって」
 俺の視線の先をたどって妻はそう言った。
 「怪我? けっこうがっつりだけど。だいぶやっちゃたの?」
 妻が答えるより先に夏珠が椅子から立ち上がり地面に頭を付けた。
 「本当にすみませんでした」
 「ちょっと、夏珠先生。先生のせいじゃないって。この子が聞き分けなくバカだからこうなったの。ほら、全然こいつ反省してないんだから」
 夏珠のその姿に俺はなんて声をかけていいのかわからずにただ傍観していた。
 妻が俺になんとかしろと目で訴えてくる。
 「あ、夏珠、……先生。頭を上げてください。僕は全然怪我がどうして起きたのか知らないですけど、妻もこう言ってますし」
 夏珠と呼び捨てにしかけて慌てて「先生」を付けたこと、夏珠の前で「妻」という名称を出したこと、どれもこれも気持ちのすっきりしない感覚が走った。
 それでもなお夏珠は頭を上げようとしなかった。夏珠にも俺と同じ感覚が走ったのかもしれない。「夏珠先生」と「妻」というフレーズは俺たちの距離を如実に示す。
 夏珠のその姿はとても弱々しく今にも消えてしまいそうで、見ているこちらがいたたまれない気持ちになってくる。
 妻が夏珠の肩を支えるようなかたちで椅子に座らせた。
 「凰佑がね、友達とまた喧嘩したんだって。夏珠先生は両方をなだめて友達のほうはごめんなさいをしたんだけど凰佑は謝らなかったって。それでちゃんとごめんなさいしようねって言ったら癇癪起こして走り去って行っちゃったんだって。それで工事用具みたいのがたくさん置いてあるとこでわざわざ派手に転んで突っ込んでいったらしいよ。怪我は痛々しいけど、大事には至らなかったわけだし、これは自業自得だよね」
 凰佑はとにかく謝らない。よく言えば負けず嫌いだが、なかなか自分の非を認めようとしないところがある。この性格は父親である俺にも思い当たるところがあり、そうなると責任の所在は父である俺なのではないかとも考えてしまう。
 「凰佑、喧嘩は悪いことなんだよ。わかるかい? 保育園で先生が言うことはすべて正しいと思って、注意されたらちゃんと謝らないといけないの。わかる?」
 凰佑には自分が怒られているという認識はあるのだろうが、その内容までもはっきりと理解しているというわけにはいかないようだ。なんとなく雰囲気でばつが悪いことを感じ取ってごめんなさいとぼそぼそとつぶやいてはいるものの、三歩も歩けばもうすっかり忘れてしまうだろう。
 「夏珠先生がわざわざ家に来てまで謝ることではないですよ。悪いのは凰佑で、さらに言えばそんなふうに育ててしまった親の責任でもあるわけですし」
 妻はおそらくもう何度もこのやり取りをしたのだろう。妙に言い慣れている感じがあった。
 「よく考えればあの場で注意する必要はなかったと思うんです。中に入ってから、周りに危険なものが何もないところで話をすれば怪我をすることもなかった。私が、周りが見えてなかったせいで凰佑くんにこんな怪我をさせてしまったんです」
 責任の所在など誰にも決めることはできない。たまたま凰佑も夏珠も運が悪かったとしか言いようがない。保育士として夏珠が責任を感じて謝りに来るのは当然だろう。来なきゃ来ないできっとどの親だって文句を言う。けれどいざ来られてもそれはそれで困ってしまう。
 「百歩譲って夏珠先生の責任だとしても、今こうして誠意を持って謝罪してくれているわけですし、凰佑のことを心配してくれてもいる。もうそれで十分です。こんなバカ息子の相手を毎日大変かもしれないですけど、これからもよろしくお願いします」
 夏珠の目からは涙が流れていた。
 凰佑は俺が泣かせたと思っているらしく、「ごめんなさいでしょ」ともう自分のことは棚に上げてしまっている。
 一応の解決をみたわけだが気づけば随分と時間が経っていた。駅までの道がわからないはずはないものの、夜道一人で帰らせるのはということで俺が駅まで送っていくことになった。
 「ごめんなさい」
 「もういいって。夏珠のせいじゃないって。誰も夏珠が悪いなんて思ってないから」
 「私……ちょっとわからなくなっちゃって」
 夏珠の声は涙でかすれていた。本気で悩んでいるときに出す声だと俺の記憶がそう言っていた。
 「急なんだけどね、私しばらく福岡に帰ることにしたの」
 その一言に周りの一切の音がかき消された。スポットライトがただ一点、夏珠のみに当てられて静寂となる。俺はその夏珠の姿に見入っていた。
 「ほら、私を救ってくれた保育園でのエピソードは話したでしょ? あそこに恩返しに行こうと思って。私って認可の保育士だから公務員でしょ。本当はそんな融通なんて利かないんだけどさ、うまいことお休みとかいろいろ手回しした結果二ヶ月そっちに行くことになったの」
 「なんで急に?」
 流れで聞いてはみたものの、俺にはなんとなく夏珠の気持ちがわかるような気がした。
 「もともといつかは恩返しに行こうとは思ってたの。ちょっと今一度振り出しに戻って、初心にかえっていろいろ考えたくなって」
 俺は無言のままでいた。
 何を言ったらいいのかわからなかった。
 「すぐだよ。九月には帰ってくるから」
 「夏珠……。ごめん……」
 「なんで遥征くんが謝るの? もうここでいいよ。今日はおうちゃんのこと本当にごめんなさい」
 そう言うと夏珠はすぐに背を向けた。こういうときの夏珠は感情を強く押し殺している。さっとそのまま歩き出して行くその瞬間を俺は捕まえた。
 言葉はいらないと思った。正直に言うと思いつかなかったのだが、夏珠には伝わると思った。
 俺は後ろから強く抱きしめて夏珠を引き止めた。
 夏珠はその場で静かに泣いた。