春の雪と夏の真珠(第三十話)

第三十話

 夏珠がいなくなるとあっという間に梅雨が明けた。痛烈な日差しを送り込む夏が訪れた。
 俺の生活は何も変わらなかった。夏珠に会えないというのは残念なようでいて少しほっとするようでもあり、夏珠のことを考えるたびに複雑な想いに苛まれた。
 毎年夏になると夏珠は元気いっぱいにいつもよりさらにテンションを上げていた。
 「私の季節だよ」
 雨が好きな面もあるから涼しいのが好きかと思えばそうではなく、暑い日差しを全身に受けるのも自然の恵を感じるとかで大好きだという。
 確かに夏珠の口からは「寒い」という言葉は聞いたことがあっても、「暑い」という言葉は聞いたことがなかった。
 いつだって俺が「暑い」と口にすれば、「暑いから夏なんだよ、暑いから楽しいんじゃんか」と滴る汗にもお構いなくどんどんと夏珠は歩いていた。
 太陽の光にきらめく夏珠の汗に暑苦しい印象はなかった。むしろ爽快な輝きを放つそれはまさしく夏の真珠に違いなかった。
 朝から元気に高校生くらいの女の子が走っている。夏休みに彼氏とデートだろうか。彼氏を後ろに置き去りにして、はやる気持ちを抑えきれずに自然と駆け足になる女の子に夏珠の面影を重ねていた。
 「早く、早くー」
 白のノースリーブに同じく薄い白の羽織りを合わせた清楚だが色っぽくも見える大人のコーディネートが微笑ましく見える。足元のミュールはワンポイントの金具がキラキラと太陽に反射して女の子の元気を演出している。
 男の子も清潔感のある白を基調とした格好で、彼女に振り回されることも楽しいといわんばかりに追いかけている。
 もう何十年も夏珠のいない夏を経験してきたはずなのに。心にぽっかりと大きな穴が空いた感じがするのはなぜだろう。
 「映画、楽しみだね」
 彼女らが口にしているのは最近話題の映画だ。漫画が原作の、過去に戻って事件を解決する作品だったと思う。
 最近テレビや映画ではタイムリープものが流行っている気がする。過去のある時間に戻ってやり直す。流れる時間に逆行する。もしあの日あの場所に、過去に戻れるのならば、あの事件を回避することはできるのだろうか。
 もしあの事件が起きていなければ、俺は今こんな気持ちに苛まれることもないのか。夏珠との間に凰佑がいて、三人で家族として暮らしていたのだろうか。
 分岐した世界線の話でいうならば、今のこの世界線と平行して夏珠との人生という世界線が流れているのかもしれない。
 これから仕事だというのに朝からどんな突飛な空想に浸っているのかと思う。暑さで少し頭がぼけている。
 八月は夏珠の誕生日がある。毎年のようにその日は空に向かってお祝いをしていた。どんなに夏珠のことを考えない一年があったとしてもその日が夏珠の誕生日であると、脳が、体が覚えていた。
 けれどもそれは突然に思い出すとは違う。自然に、俺の中でごく自然に夏珠の誕生日が当たり前のように消化される。そんな感覚だった。
 今回に関しては特に意識していたこともあるのか、誕生日当日になぜだか俺は緊張していた。
 仕事に向かう途中、福岡にいる夏珠と出会うはずないのにばったり会うんじゃないかとドキドキしている。乗り降りする女性につい目がいってしまう。ホームを歩く女性を探してしまう。
 会社に到着し仕事をしながらも時間は常に気にしていた。そして、夏珠が生まれた時刻、十時十四分にメールを送った。
 その日の夕方、夏珠からの返信には胸を突く懐かしさがあった。
 「ありがとう。来月は遥征くんの誕生日だね。九月、最初の雨の日にいつもの場所で」
 反射的に夏珠はそう気づかずにメッセージを送ってしまったのかもしれない。俺と夏珠、二人だけしか知らない秘密の約束。当時は中高生だったから可能だったが、お互い社会人となった今その約束を果たすのは難しい。
 九月に入りすぐ雨が降った。夏珠との約束は二人だけの秘密の場所。でも俺も夏珠も仕事がある。妻の話ではもう夏珠は保育園に帰ってきているとのことだった。
 凰佑をいつもより早く起こして早めに家を出た。雨が降っているから時間がかかるということを考慮したものだが、擬似的にでも約束を果たせないかと俺は考えていた。
 「雨はいつも見ている世界を違ったものに変えてくれる」
 夏珠の声が何度も頭の中を響き渡る。
 凰佑を預けて保育園にある大きな桜の木の下に向かう。ちょうどそこには出勤前の夏珠の姿があった。
 高校生の当時から夏珠は似たようなシルエットの服装を好んでいたが、当時よりも大人の色香と相まってよく似合っている。
 「おはよ。どうしてここに?」
 夏珠は質問の答えなどわかってるはずなのにそう聞いた。
 「夏珠こそどうして?」
 俺も同じ質問をした。
 「わかってるくせに」
 「夏珠だって」
 俺は夏珠といれば季節を問わずいつだって桜は満開に見える気がした。だからイベント的な事柄があるときは決まって二人で桜を見に行った。
 今の俺たちにあの場所は少々遠すぎた。それでも代わりとなる場所が一致するところなんか、お互いの想いが通じ合っている証拠のようで嬉しさと切なさが同時に襲ってくる。
 「ちょっと早いけど、誕生日おめでとう」
 「ありがとう」
 遠くで園児の声がする。室内の声がここまで漏れて聞こえているようだ。
 「夏珠、おかえり」
 「ただいま」
 お互いに踏ん切りがないのはこうした運命的な巡り合わせをしてしまうためだろうと思う。今日この場にどちらかがいなかったりしたならば、そういうことが積み重なり段々と心も離れていくのかもしれない。
 「やっぱりさ、結局わかんないままなんだ……。でもわかったこともあるの。もうわかんないならわかんないままでいいやってこと」
 場の空気が変わった。大事なことを言おうとしていることが空気を通して伝わってくる。
 「遥征くん。ずっとずっと好きでした。今でもやっぱり好き。遥征くんが結婚して子どももいることはわかってる。でも私の想いは遥征くんが好きってことで間違いないんだと思う」
 「夏……」
 がさがさと落ち葉を踏み込む音が重なる。この時間は登園する親子が多い。
 ぞろぞろと何組もの親子が歩いている。ちょうど木の影になって見えにくくなってはいるものの、それが却ってただならぬ雰囲気を演出してしまいそうだった。
 「もうそろそろ行かなきゃだね」
 夏珠は俺の返事を待つこともなくすっきりとした笑顔で小走りに去って行った。
 俺はしばらくの間、花のない秋の桜の木を見上げていた。
 夏珠は自分の気持ちを正直にぶつけてきた。俺もちゃんと向き合って応えなければいけない。
 「わかんないならわかんないままでいいや」
 「私の想いは……好きってことで間違いないんだと思う」
 頭の中で夏珠が言った台詞を反芻する。傘を打つ雨の音、乾いた落ち葉を踏むぱりっとした音、濡れた草木から立ち込める匂い、それらすべてが秋の訪れを告げていた。
 好きな人に告白されたならば誰だって嬉しさに心躍るのだと思う。なのに俺は素直に喜べていない。
 夏珠のことが好きだから。
 夏珠を想えば想うほど、俺には夏珠を幸せにできないという恐怖にも似た感情に押しつぶされそうになる。
 いっそ嫌われでもしたら楽になるんじゃないのかとも思う。
 あれ以来からか夏珠は福岡に帰る前の状態に戻り、いつもの元気な夏珠先生だった。保育園で度々と顔を合わせても時と場所に応じて俺に見せる顔を変えてくる器用さもいつもの夏珠だった。