春の雪と夏の真珠(第三十二話)

第三十二話

 目が覚めたとき自分がどこにいるのか、現実なのか夢なのかさえまったくわからなかった。時間をかけてやっと今自分が自分の部屋で寝ていることに気がついた。見慣れた景色のはずが妙に異質に映る。
 外は明るく、目に入る時計の針はまもなく三時になろうとしていた。
 状況がまったく理解できていない。ついさっきのことだと頭が訴えている光景を振り返る。
 夏珠と帰ってる途中に変な男たちに絡まれた。俺は金属バットで殴り、その男を……。
 体中に痛みが走る。俺もかなりぼこぼこに殴られていたことを思い出した。
 あの場所から逃げて走っていたはずだったが。
 意識が朦朧としてきて夏珠に手を引かれていたような。
 途中からの記憶はすっぽりと抜け落ちていた。俺は気を失ってしまったのかもしれない。あの後どうなったのだろうか。夏珠は無事なのか。
 起き上がろうとしてふらつき本棚に強く倒れ込んだ。足ががくがくして思うように動かない。
 「遥征、起きたの?」
 母親が物音を聞きつけてすっ飛んできた。
 「夏珠は……?」
 「夏珠ちゃんのお父さんがあんたをここまで運んでくれたんだよ。詳しいことは何も聞いてないんだけど、夏珠ちゃんのお父さんとにかくすごい剣幕で。『もう今後一切夏珠と関わらないでくれ』って。手切れ金ってやつなのかな、いらないって言ったんだけど強引にお金まで渡されてさ」
 「なんだよ、それ……。夏珠は?」
 「夏珠ちゃんはいなかったよ。本当にそれだけ。私も何がなんだかわかんない。ただあんたがぼろぼろで気を失ってたもんだから、あんまり夏珠ちゃんのお父さんの話に意識が向かなかった」
 母親と話をしていると、俺が目を覚ましたのを待っていたかのようなタイミングで警察が訪ねてきた。罪に問うとかそういうことではないらしいが状況の確認をしたいため、それぞれの言い分が食い違ってないかなどを調べなければならないらしい。
 ドラマでよく見るような口ぶりで私服の警官が俺を見据える。
 俺は素直に従い、そのまま警察署に連れて行かれた。
 テレビだと取調室で尋問されるイメージが強かったが、通された場所は普通の会議室などに使いそうな広い四角くテーブルを並べた部屋だった。
 だだっ広い部屋には俺の他に警察の人が三人いた。彼らは横並びに座り、それぞれが資料のようなものを持っていた。
 俺は彼らとは直角をなすような位置に座り、何か聞かれるのを待った。
 一つ一つ質問されると思っていたのとは違って、彼らから事件の概要が大まかに語られ、事実に相違はないかと聞かれただけだった。
 だが彼らの口から語られたのはどう考えても俺が覚えていることとは違っていた。
 「いや、違います。俺はバットで二人を殴って、一人は倒れて動かなくなったと思います」
 警察官が言うには、怪我をした男三人は自分たちでバットを振り回して脅したところ自分たちのミスでお互いを殴り合ってしまったと証言しているという。
 「でも君は意識を失っていたよね?」
 「それは事件の後にショックと疲れで倒れてだと。格闘してたときははっきりしてました」
 「一緒にいた女の子も君はただ彼女を守ろうとしてただけで手は出してないと言ってるんだよ」
 横の警察官がすぐ続いた。
 「すぐそばの家の人も目撃してて証言している。三人の男たちに絡まれて格闘まがいな感じにはなったけど何もしてないと。彼らが自滅しただけだと」
 ものすごく眉間にシワを寄せて目を細めてしまった。
 確かにあのとき正気だったかと聞かれれば夏珠を守ることに必死でよくわかんなくなってはいた。実際記憶も曖昧な部分が多い。けれども金属バットで殴った感触はなんとなく手にも頭の中にも残っている。それは間違いないと思う。それに自滅ってなんだよと思う。あの状況でそんなことが現実に起こるとは思えないし、そんな証言をいい大人がそろって信じているのも俺は納得がいかなかった。
 そもそもあんなチャラチャラした素行の悪そうな連中があのような仕打ちを受けて俺を悪く言わないなんてとても考えられなかった。近隣住民の証言だって妙だ。あの夜は周りに電気が灯ってる家はなかったと確認している。辺りは絶対に真っ暗だった。
 「我々としてもね、被害者は君たちだと思っている。状況からしても、証言からしても三人の男たちに非があるのは明らかだ。彼らは前科もあって何度も厄介事を起こしてるんだよ。自滅っていうのは確かに少々引っかかる点もあるにはあるんだけど、彼らがそれでいいって言ってるわけだしね。それに君に傷害の疑いをかけたところでこの場合そこまで罪が問われるとも思えない」
 起きた出来事が明らかに改ざんされている気がした。けれども俺には何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。
 夏珠の声が聞きたい。
 夏珠が無事なのか知りたい。
 俺は携帯を取り出し夏珠に電話をかけた。けれども通話口から聞こえてきたのは、現在使われておりませんとの機械的な言い回しをする文字通り機械音だった。
 寒さと状況のわからなさとに身震いが激しい。日が沈むのにもうそんなに時間はなく街の灯りがちらほらと目につく。
 何度かけたところで結果は同じ、何度画面を見直したところで夏珠という表示もやはり同じ。
 夏珠に何かあったのだろうか。携帯を止める必要性なんて俺にはまったく頭に浮かばなかった。最悪の事態が一瞬よぎったが、それなら警察から何かしら話があるだろう。それでも便りがないのは良い便りなんて悠長なことを言ってられるほど心は穏やかではなかった。
 そのときようやく気がついた。同時に辺りはもう夜と呼べる暗さになっていた。日が沈むぎりぎりのタイミングで外にいたのだろう。携帯の画面が夜に見るとき特有の強いバックライトの光を出していた。
 俺が夏珠とデートをしたのは土曜日だった。帰りが遅くなることを考慮して次の日も休みである土曜日に二人で決めたんだ。
 画面に表示されているのは月曜日の文字。土曜日に事件は起きて俺はまる一日以上眠ってしまっていたということになる。
 「あ、俺だけど。それは後で話す。それより俺って一日以上目を覚まさなかったわけ?」
 慌てて家に電話をかけて確認すると、土曜日の夜に夏珠の父親によって運び込まれ、そのまま日曜日は目を覚まさず今日に至ったということだった。
 非常に嫌な予感がした。
 夜に一人取り残される子どものような、本能的に何かまずいと思った。
 俺は走って夏珠の家を目指した。大通りから細い道を入り、静けさと暗さからつい起きたばかりの事件がフラッシュバックしてくるが、俺は止まらずに走り続けた。
 夏珠の豪邸はそこにあった。電気も付いている。
 チャイムを鳴らし中に入れてもらおうとお願いするもいい返事は返ってこなかった。
 「鷲尾様一家は引越しをなされてもうこの家には住んでおりません。今現在は我々家政婦が、鷲尾様の親戚が引き継いでこの家に住むまでの間責任もってお掃除等をしています」
 ロボットのような口調で決められた台詞しか答えないかのような無機質な声だった。俺は何も言えないでいると、チャイムの向こうの相手もしびれを切らして俺との会話は無駄と判断したのか一方的に切られてしまった。
 引越し。
 たった一日で引越しなんてできるのか。
 どうして夏珠は俺に何も連絡をしてくれなかったのか。
 全身の力が抜けて俺はそのままその場にへたり込んでしまった。
 すると門が開いて家政婦らしき年配の女性が顔をのぞかせた。
 「ご主人様から伝言を受けています。あなたは朝田遥征さんですね? もう二度と夏珠お嬢様と関わりをもつことをやめてほしいと」
 ご主人様? 夏珠の父親のことか。
 ぶれぶれの頭をなんとか働かせる。
 「夏珠はどこに?」
 「それにはお答えできません」
 ダメだと思った。たぶんこちらの望む答えはまず返ってこない。
 「お引き取り願います」
 冷たい声でそう言われて、俺の心臓はつんと冷たい痛みを覚えた。