春の雪と夏の真珠(第三十三話)

第三十三話

 「今思うとなんでそこでしゅんと縮こまったまま何もしなかったのかって。しばらく、本当に長いこと何もできなかった。精神的にというのは言い訳だよね。すぐに行動すれば変わってたものもあったかもしれないのに」
 俺と同僚は、俺の希望で賑わう大衆居酒屋で飲んでいた。飲んでいたといってもここまで重たい話をしてることもあって全然お酒は進んでいない。
 いつもならオシャレな個室感のある場所に行くとこだが、話が話だけに逆に開放的だが隣近所の話なんて聞こえないくらいのどんちゃん騒ぎをしている居酒屋が好ましかった。静かで落ち着いたところでこんな話をしたりしたら今改めて精神的に病んでしまいそうな気がした。
 普段タバコとは無縁の生活をしてるためタバコの煙がかなり目にしみる。気のせいかとも思うが、心なしか喉がいがいがしてくる。
 「今更だし君に対して気を使う必要もないと思うからなんの考えもなしに言うけど、つくづくドラマでありそうな展開ばかりなんだね」
 「どう思う?」
 何がどう思うのか、自分でも何を聞いてるのかよくわからない質問だったがきっと何かしら答えは返ってくると思った。
 「事件自体は不運としか言えないね。そして彼女の家柄もまた君にはアンラッキーだったのかも。なんの証拠もないから真実まではわからないけど、十中八九すべて彼女の父親がもみ消したね」
 グラスに残ってたビールを一気に流し込んで同僚はそう言った。
 「うん。俺もあとあと冷静に考えてみてそう結論づけたよ。事件が明るみになれば夏珠の汚点になってそれはそのままあの家の汚点にもなるわけだから。悪く言うわけじゃないけど、体裁を気にしてあの父親が金に物を言わせたんだと思う」
 「ま、明らかに証言が食い違ってて不自然すぎる。でも、彼女と別れることにはなったけど罪に問われなかったのは儲けものと思っていんじゃないかい? 罪の意識に駆られることはないと思う。だって君は彼女を守ろうとしてやったことなわけだし。罪に問われて彼女との縁も切られたじゃあんまりだろう」
 俺は何も答えなかった。
 「彼女は別れてから君のことは探したって?」
 「大学からこっちに戻ってきてたらしくてさ、俺の実家のそばにも何度か行ってたって。俺のことを聞く手段が夏珠にはあったけど、いざ情報を得ても俺に会っていいものかと悩んだんだって」
 「ん? 父親の策かもしれないけど何も言わずに君との縁を切ったことを言ってる?」
 「そう。俺は夏珠が自分の意志で俺との縁を切るなんてことは絶対にしないって信じてたよ。夏珠も俺が信じてくれてるって信じてたみたいなんだけど、やっぱり最後の勇気が出なくてとか言ってたかな。俺が逆の立場でもそうなると思うし、まあ、気持ちはわからなくもない」
 つまみをビールで流し込んでどこか納得いかなそうな表情で同僚は大きく頷く。
 「なんだろうね。お互い本気で好きすぎて一歩引いちゃってる」
 「どういうこと?」
 「いやさ、好きなら好きでその人オンリーでがっついていいと思うんだよ。でもたまに君たちみたいなのいるでしょ。好きだからこそ別れるみたいな発想。自分の幸せよりも相手が幸せならそれでいい的な」
 そんな簡単にテンプレートにはめ込まれるのはやや心外だが世間からは表面的にそう見えるのは仕方ない。
 「いや、事はそう単純じゃないのはよく理解してるよ。でもシンプルに考えればそういうことでしょ」 
 おかわりした生ビールがいいタイミングで運ばれたきた。しばしの沈黙。お互いに思うところがあるのだろう、グラスをちびちびと飲みながら喋るともなく周囲を見渡している。
 「もう決めてんじゃないの?」
 なんでもお見通しか。
 「決めてる?」
 それでも俺は曖昧な返事をした。
 「はっきりとはしてなくても方向性というか、彼女との関係。少なくとも付き合うか付き合わないかの大きな二択なら付き合わない選択をするってのはもう頭の中にあるんじゃ?」
 言葉にしなければそれは効力を発揮しない。考えているだけじゃはっきりとは形にならない。そんな考えが俺に逃げる場を与えていた。
 今こうして同僚からの質問でぼやけた輪郭が形を成していく。
 「今までの話を聞いてる限りじゃ君も彼女もその選択がお互いに一番幸せに落ち着くと考えてそうに思えるからさ。違ったらごめん。どんな選択をするにしてももちろん俺は君の選択を尊重する。ここまで聞いたわけだし、行くとこまで付き合うからすべて教えてほしい」
 これが恋愛に関する話でなければこの同僚はここまで親身に付き合ってくれてはいなかったのだろうか。
 お互いのグラスがちょうど空になったところで俺たちは店を出た。
 「あんまり思いつめることでもないと思うけど。今のままで、言い方悪いけどダラダラとただ保護者と保育士の関係を続けることだってできる」
 温まった体に冷たい風が気持ちいい。
 「うん」
 「どうしてもなにかしらのけじめをつけたいって顔してるね」
 いつもに比べたら今日は飲んだ。いつもよりさらに表情も緩んであらゆることが顔に出やすくなってるのかもしれない。