春の雪と夏の真珠(第三十四話)

第三十四話

 朝の目覚めは妙によかった。
 酔った勢いで夏珠に連絡しかけたが思いとどまる理性が残っていたのは幸いだった。素直な本音は言えたかもしれないが酔った状態じゃなんとも誠意に欠ける。
 俺の中でするべきことが固まっているのがわかる。
 夏珠は職員室で何かしているようでこちらに気が付かない。俺は夏珠を見つめてこっちに来てと念を送った。昔から遠くに夏珠を見つけたときにそうやって呼び止めたり、こちらに気づかせたりするのが成功していた。そのたびに不思議な絆で結ばれていることを二人で喜んだりしたのが懐かしい。
 俺の念に気づいたわけじゃないかもしれないが、結果夏珠は外に出てきて俺がいることに気づいてくれた。
 「あ、おはよう。ございます」
 他の先生や保護者が周りにいることを警戒した挨拶だ。
 「夏珠、時間を作ってほしい。少し話がしたいんだ」
 ストレートに要件だけを伝えた。
 夏珠は小さく頷くとメールするという仕草を残して足早に去っていった。
 端から見たら保育士と保護者という禁断の逢瀬の構図に捉えられてしまうリスクも顧みずよく言ったと思った。
 心臓が大きく鳴っているのは何に対する反応なのだろう。
 昼に夏珠からきたメールを見たときも心臓はわかりやすく反応していた。
 いきなりどうしたの? 何かあった? 遥征くんの都合に合わせるよというメールには夏珠を感じた。
 十一月の半ば、今度の日曜日に会う約束を取り決めた。
 前日の土曜日は妻が出かける。一日凰佑の面倒は俺が見ることになっている。これを交換条件に日曜日は俺が外出できると思ったからだ。
 「日曜日なんだけどさ、ちょっと友達と会ってきていいかな?」
 その夜すぐに妻に話した。
 「あら、珍しいね。誰と会うの?」
 「友達というか会社の同僚なんだけどさ、最近ちょくちょく飲み歩いてるやつ。けっこう息が合うのか休みの日にゆっくり昼間っから飲むのもどうかなって」
 夏珠と会うとはやはり言えない。
 嘘をつくことに罪悪感がないわけではない。けれども本当のことを言っても話がややこしくなるだけだ。
 俺はこんなに嘘をつくのが上手だっただろうか。妻は言わないだけで何か思うところもあるかもしれない。
 逢瀬。
 表紙をこちら側に向けて本棚に飾ってあるお気に入りの本の帯に書かれた文句が光って見える。
 ただの友達ではない相手。想いを向ける相手。それは立派な逢瀬といえる。
 夏珠と連絡を取ったり会ったりするのに毎回こんなにも胸が苦しい思いをしなければならないことが辛く感じられる。
 それでも俺は妻のことを愛していた。だからこそ夏珠のことを打ち明けられずにいる。
 「本当に奥さんを愛しているのなら真実を奥さんに告げることも選択肢の一つに考えときな」
 同僚の言葉が頭に鳴り響く。それも一つの愛なのだろうが、俺の考える愛とは違う。
 正解なんてない。そんな無駄な合理化に浸る自分に自己嫌悪を覚えるも、自己嫌悪するくらいならと堂々巡りな悪循環にはまりそうになる。
 「外出許可が出たんなら外を歩くより私の家に来る? そのほうが人目にもつかないしゆっくりできるんじゃない?」
 次の日の夜、夏珠は電話でそう言った。
 夏珠の家と聞いて正直少し躊躇した。家に行くというのはどういう意味をなすのだろうか。夏珠に深い意味なんてないのだろうが、少なからず男の俺は女性の家という場所には少なからず抵抗を覚えてしまう。
 独り身であれば喜んでお邪魔させてもらいたいと思うのだろうが。
 外で人目につくよりも難しい展開になるリスクを思う。
 「見せたいものもあるからさ」
 夏珠の頼みで断ったものがあったかと記憶を探るも、おそらく一度としてなかったと思う。
 日曜日に夏珠の家に行く約束をして電話を切る。
 スマホを耳から離し画面を見る。ホーム画面に切り替わりブラックアウトする。夏珠の声の余韻が耳にも目にも残るようで、外気に触れて体が冷えていたことも忘れていたことに気づいた。
 日曜日は朝から冬晴れのいい天気となった。
 俺の住む町の最寄り駅から四駅という距離に夏珠は住んでいたが、その駅で降りるのは初めてだった。
 改札を出ると左右に出口がある。夏珠からは右に出て正面の商店街を真っ直ぐ歩いてきてとのことだった。
 駅まで迎えに行くと夏珠は言ってくれたが、さずがに誰が見てるかわからないため出来る限り俺の方から歩いていくことにした。
 昔だったら日曜日というと商店街はどこも休みで静かなイメージがあった。今の時代はそうもいってられないのか賑わいをみせていた。年配の集まりやら家族連れやら部活に励む学生やらと様々な人で溢れて活気がある。
 あっという間に長い商店街が終わり、道路を挟んで左側に夏珠がちょこんと立っていた。
 「おはよ」
 口の動きを見るだけで夏珠の声が一音の狂いもなく正確に頭の中で再生された。
 そこから五分ほど歩いたところに夏珠の住むマンションはあった。
 オートロック完備の見た目新しい感じのマンションで、夏珠の部屋は四階にある。
 エレベーターに乗った数秒がものすごく長く感じられた。ずっと喋りながら来ていたからかふと訪れた沈黙が妙に色めいたものに感じられて思わぬ緊張が走る。
 夏珠の部屋は1LDKと一人暮らしには十分の広さだった。
 部屋に上がった瞬間に夏珠の匂いを感じ、過去に戻っていく。
 「あんまりあちこち見ないでよね。今お茶いれるから」
 俺は夏珠にお土産に買ってきたケーキを渡した。
 「あ、ここのケーキ地味に美味しんだよね。保育園の先生たちの間でもけっこう有名」
 「本当はもっと気の利いたものと思ったんだけど……」
 夏珠は特に返事を言葉にしなかったが、ちょっぴり覗かせる顔からは全然いいよという声が聞こえてきそうだった。
 夏珠はオシャレな花柄のティーカップに綺麗なピンク色のハーブティーを用意してくれた。
 その心地よい香りが夏珠の部屋をさらに華やいだものに変える。
 相変わらず物が少ないシンプルな部屋だった。香るものこそ女の子らしいものの、ぱっと見ではやはり女性の部屋とはすぐに判断しかねる。
 「さて、話とは何かな?」
 「うん。でもまずは夏珠から。見せたいものって?」
 いきなり過去の重たい話をするにはちょっと微妙な雰囲気だ。少しずつ話題を変えていければと思う。
 「ああ、私のはそんな大したことないよ。ずっとどこにしまったかわかんなくなってた大切なアルバムが見つかったからさ」
 「アルバム? 大切なのにどこにしまったのか忘れたの?」
 夏珠の目つきが変わる。何か地雷を踏んだのかと考えるのと同時にそのアルバムが俺との想い出の品なのだと気づいた。
 大切だけどずっと目に見えるところに置いておくのも考えものな品なのかもしれない。俺だって大事には思っても肌身離さず持っているわけにもいかずひっそりと実家に隠しているものは多い。
 「ごめん。昔の俺がいるのかな? 見たい」
 夏珠は意地悪そうな顔で俺を見る。
 「二人で見ようと思って、見つけてからまだ見ないでおいたんだけどな。遥征くんに見せるのやっぱりやめようかな」
 「ごめんごめん。見せてよ。改めて昔のことに向き合いたいと思って今日は来たんだ。だから……」
 場の空気が少し真剣な色を帯びた。
 「しょうがないな。どうしてもっていうなら見せてあげよう」
 夏珠は言外の意味を汲み取ってくれたようだった。