春の雪と夏の真珠(第三十六話)

第三十六話

 日差しで明るい夏珠の部屋に男女の情を掻き立てるムードなんてものはなかった。それでも俺は夏珠を激しく抱いた。そうした行為がいかにも当たり前のことのように。お互いに何一つ躊躇することもなく、結ばれるべくして結ばれた二人への賜物として。そして実際にそう触れ合うことにはなんの不自然さもなかった。
 十四年という歳月を埋めるがごとく俺と夏珠は肌を重ね続けた。時に高校生の感覚に戻り、時に大人の感性でもってお互いを強く激しく感じた。
 言葉など些細なものだった。
 わずかな言葉だけで、余計なことなど言わずともお互いの十四年を理解した。何を考え、何を望み、どう進むべきかがお互いの体を行き来するようだった。
 夏珠の肌は当時より柔らかく、より女性らしい体だった。真珠を、それも最高級の宝石を扱うようにその繊細な体に触れ、口づけをし、優しく俺の想いをぶつけた。
 夏珠の体がそれに応えるたびに俺の気持ちも高まった。俺と夏珠はさらなる高みの境地へと進んでいった。
 「遥征くんは奥さんとおうちゃんを大切にしてあげて」
 日が早い。すでに傾きつつある西日が細く差し込む。
 隣に横たわる夏珠の熱が言葉とともに伝わる。
 その言葉には夏珠の想いすべてが集約されていた。
 「夏珠……」
 「不思議だよね。これだけ想い合ってるのに。何もかもが通じ合っていて、ずっと一緒にいることが当たり前だと思ってたのに……。心から好きだと想うがために私は遥征くんの隣にいてはいけないんだと思う。でも、それでそれをお互いに言わなくても感じちゃうのが切ないね……」
 具体的な言葉には何もしてない。夏珠は俺が好きで、俺も夏珠が好き。お互いの立場とかそんなのは一切抜きにしたまっさらな感情だけを示し合った。
 その結果は俺も夏珠も相手を想うがゆえに結ばれてはならないという選択だった。
 「夏珠、どうして俺が妻を選ぶ……、いや夏珠を想ってながらも妻との生活をとるって思うの?」
 「私が遥征くんだったらそうするから。私は遥征くんで、遥征くんは私。だから遥征くんが私を想ってくれてるのはよくわかるよ。奥さんもずっとそれを理解したうえで遥征くんと向き合ってくれてるんだもんね。遥征くんは奥さんも愛してる。私にとは違うベクトルの想いがそこにはある。もしかしたら奥さんは私たちのことを許してくれるかもしれない。奥さんの元を遥征くんが離れていくことを悲しまないかもしれない。でも私は悲しい。遥征くんが私の元に来てくれて嬉しいのに悲しい。だから遥征くんはそんな奥さんと子どもを捨てるなんてできない。それは私が悲しむから。遥征くんは私が悲しむって知ってるから」
 切なくて胸が苦しいという表現は今こうした気持ちを言うのだと思った。鋭い、とてつもなく鋭利な物で心臓を貫かれたかのような冷たい痛みが広がる。
 「私は遥征くんが私といるほうが幸せになるとかそんな自惚れたことは思ってないよ。奥さんと出会ってなければ遥征くんは私に対してまた違った感情を持ったかもしれない。奥さんと出会ってきちんと恋や愛に触れたからまたこうして私と巡り会えたんだと思うの」
 妻との出会いが夏珠への想いを強くさせた。
 妻との出会いが夏珠との再会を導いた。
 「そんな奥さんに対して遥征くんはこれからも愛をお返ししてあげないといけないの」
 夏珠はいつからこんなふうに考えていたのだろう。俺と妻と凰佑とをどんな気持ちで眺めていたのだろう。俺ならそんな夏珠の気持ちもわかる気がする。
 「遥征くんが私だったらそう思うでしょ?」
 心無しか声が細く小さくなった気がした。
 「夏珠……もういい……。もういいから……」
 俺はもう一度夏珠を抱き寄せ、キスをする。
 お互いの瞳からこぼれる涙が頬をつたって唇を濡らした。