春の雪と夏の真珠(第三十七話)
第三十七話
夏珠の家の近くにある個人経営らしい洋食屋に夕ご飯を食べに行った。
夏珠との時間はいつだってあっという間に流れていく。午前中から会っていたのにもう外は暗い。こんな住宅立地でもイルミネーションは所々で輝いていた。
上手く言葉にはできなかったけれど、お互いの気持ちは肌と肌を通して伝わった。
でもこれでいいのだろうかとも思う。
温かい空気に包まれて食欲をそそる匂いが漂う。こんな気持ちにあってもお腹は空くという現実を物悲しく思う。
窓際に置いてあるハリネズミらしきオブジェが目に入った。
「ハリネズミのジレンマ」
夏珠は俺の視線を辿ってそうつぶやいた。
「ヤマアラシじゃなかったっけ?」
「うん。元々はヤマアラシだよ。アニメで使われた造語なんじゃなかったっけ。でも意味はほとんど同じじゃないかな」
愛し合う二匹は抱き合うもお互いの針のせいで痛い思いをする。寒さをしのごうと寄り添うこともできない。適度な距離感を見つけることでお互いの関係もスムーズにいくことを説いたものだと思うが、愛し合う二人が近づいて苦しむなんてあんまりだ。
「今時でよく言われるのはカップルの話だよね。近づけば喧嘩するけど離れるとやっぱり寂しいとかって」
「だからいい距離感を見つけなさいって? 俺と夏珠にもそんな距離感があるのかな……」
つい口走ってしまった言葉に後悔した。
俺たちに適度な距離感なんて存在しない。すべてを投げうってくっつくか離れるかしかない。
「ドロドロ上等な悪い女であれば駆け落ちでもするのかな」
ぼそっと夏珠は怖いことを言う。
結ばれた二人は幸せかもしれない。でも残された者は。
「自分たちしか見ないなんて図太い神経は私にはないや……。それって本当に相手を想ってるのかな。私には自分の幸せのことしか考えてない気がする」
万人が幸せになる恋愛なんてないとは会社の同僚も言っていた。けれど誰もが自分が一番に幸せを願うことが間違っているのだろうか。
邪魔に感じないくらい自然に流れる店内の音楽に包まれる。
「ごめん。またしんみりしちゃったね」
店主の計らいを感じるタイミングで場の雰囲気を和ますように見た目も美味しそうな料理が運ばれてきた。
美味しい料理は人を幸せにするなんて言葉が聞こえてきそうだった。温かい料理に俺も夏珠も笑顔を取り戻していった。
「しんみりついでに言っちゃうんだけどさ……」
聞きたくないと思った。直感的に求めていないものが夏珠から提示される気がした。
「年明けたら福岡に帰ろうかと思って」
その意味を俺はすぐに理解した。正月の帰省ではなく、ちょっと実家に帰るとかでもない。それは半永久的に残りの人生を福岡で過ごそうとする決意のようなものだと。
「どうして……」
俺は取り乱すことだけは避けようと懸命に感情をコントロールした。
夏珠はなるべくしんみりさせないつもりなのか明るい調子で続ける。
「ほら、保育園のスタッフ総入れ替えしちゃうじゃん。だから時期的に早いんだけどフライングして抜けさせてもらおうと思ってね」
夏珠の言ってることがわからなかった。
「スタッフ総入れ替え?」
「ん? なんで? 知らないの? 三月いっぱいで今いる先生たちは全員いなくなるよ。管理する組織が変わるから新しい保育士さんが来るの。パートの人とかは残る人もいるけれどメインでいる保育士さんはみんな変わる」
初耳だった。
もしかしたら妻にそんな話をされていたのかもしれない。頻繁にではないもののたまに妻の話をながら聞きしてちゃんと聞いてないときはある。よりによってそんな大事なことを聞き逃したのか。
「それっていつから決まってたの?」
「もう随分前だよ。おうちゃんが来る前からだから入る前に説明がされてるはずだよ。保育士が途中で変わるけど大丈夫ですかとか」
夏珠と再会してからならば家で保育園の話題が出れば否が応でも耳が反応する。でも夏珠に再会する前となるとそうじゃないかもしれなかった。
あの妻に限ってそうした話を俺にしないわけはないとも思った。
「そっか……。妻の話にちゃんと耳を傾けてなかったのかも……」
夏珠は苦い顔をする。
「男の人ってどうしてそうなのかな。女の子の話をじっと聞いてられないのかな」
「いや、そんなことはないんだけどさ。たまにね。たまに何かしながら聞いたりしてると意識があまり向かないときとかがさ」
「私の話も聞いてないときあるの?」
少し機嫌を損ねたときの声色だ。
「いや、夏珠の話はいつだってちゃんと聞いてるよ」
それは本心だった。夏珠の声はどんなにボリュームが小さくても聞き取れる自信があったし、実際一語一句漏らさず意識せずとも耳がしっかり夏珠の声を捉えていた。
「なら奥さんの話もちゃんと聞かなくちゃ」
そうは言われてもこればかりは説明が難しい。たぶん男が女の話を聞かないのは脳の仕組みに起因するものだと思う。それでも夏珠の話はすっと入ってくる。それを言ってしまうと、夏珠と妻では妻に向ける意識のほうが劣ると聞こえてしまいそうだが、決してそんなことはないと思う。
余計なことを言うと話がこじれそうだと思い俺は黙って頷いた。
話の矛先が変わってしまった。でも雰囲気はよくなっていた。
考えてみれば俺も夏珠もお互いが好きであるがゆえにきっちりと別れるという選択をしたのに、なぜ俺は夏珠が福岡に行くと聞いてうろたえているのだろうか。夏珠だって辛いなか自分でしっかりと決めたというのに。
「福岡でも保育士を続けるの?」
「もちろん。私たぶん他の仕事してたらこの状況で精神やられてたと思う。子どもの顔が見れるから頑張れるの」
俺からしたら保育士という仕事は他の仕事よりも圧倒的に精神力を使う仕事に思える。夏珠にはそれが癒やしにもなるというから驚きだ。
「それじゃあ……」
もう会えないのかという言葉を俺は飲み込んでしまった。
「切ないよね。でも私たちはもう会わないほうがいいんだよ」
お互いに納得してのことだ。でも本当にそれでいいのか未だにわからない。はっきりとそれがベストな選択だともベターな選択だとも自信をもてない。
俺の幸せは……。
俺の幸せは、夏珠が幸せであること。