春の雪と夏の真珠(第四十話)

第四十話

 年末は慌ただしい。毎年どんなに構えていてもすぐバタバタしてしまう。今年も案の定のこと、俺も妻も仕事に追われあっという間に仕事納めを迎え、何も片付いてない家のことに取りかかればまたたく間に年が明けてしまった。双方の両親との付き合いなどをしたりすれば三が日もほんの束の間だ。
 暮れ、年明け、正月という風習をまったくといっていいほどゆっくり楽しむことなく休みは終わり、新年の仕事が始まってしまった。
 十二月のほとんどは保育園の送り迎えを妻が行かざるを得ないくらい俺に時間の余裕はなく、残り時間も僅かな夏珠に会うことはほとんどなかった。
 ただ夏珠から一度だけ連絡があった。
 元旦に明けましておめでとうとメールが入った。
 返事の文面に最近会えなくてごめんと最初は打ち込んでいた。でも今の二人の関係とこれからのことを考えると変に感情を露わにするべきではないと思い直し、正月の挨拶のほかは残りの仕事を頑張れと軽い激励の言葉を残すに留めた。
 そして、保育園が再開して三日目。夏珠の最終日が訪れた。
 冬晴れの気持ちの良い朝、俺はこの日もいつもより早く出勤しなければならず保育園に顔を出せずにいた。
 早い時間のためにあまり混雑してない電車のせいで、普段感じる通勤のストレスがない。そのことが却って俺にあれこれ考えさせた。
 流れる景色のなかに夏珠を想う。
 夏珠の目から見えている世界を見るのが好きだった。
 いつも見ているはずの景色も夏珠と一緒に、夏珠を通して改めて見るとまったく違ったものに見えた。
 毎日こうして電車に揺られながら見える景色も変わるのだろうか。
 妻にも同僚にもどこか吹っ切れた顔をしている的なことを言われたものだが、こうしてみるとどこまでも夏珠のことを考えていることがわかる。
 潜在的な意識の奥底にはいつだって夏珠がいて、世界のありとあらゆる些細な事象に関してですら、それがふと夏珠と結びついてしまう。
 午前から雑務を猛烈な勢いでもって片付けていった。できれば早く仕事を切り上げて夏珠の最後をと思うが、運命のいたずらはやはり起こる。
 同じチームのメンバーのミスが分かり、急遽修正しなければならなくなったのだ。それも夕方に近い時間帯のこと、いよいよ帰るのは絶望的になってしまった。
 「朝田さん、すみません。今日急いでそうでしたよね、俺頑張るんで先に上がってください」
 力なくそう言われるとそんな後輩を残して一人おいそれと帰ることなどできない。ましてや信用してないわけではないがまた同じようなミスをされても困る。
 「一人のミスはチーム全体のミスでもあるからさ。俺のことは気にしないでいいからいい仕事しようか」
 終わってみれば時刻は九時を回っていた。
 保育園に着いたのは十時を大きく過ぎてからだった。誰もいない保育園の前を通り大きくため息をつく。
 いつもなら七時くらいに帰ることが多い夏珠がいるはずもないのに俺は自然と足を保育園に向けてしまっていた。
 マンションの灯りが届かない通りは薄暗いを通り越して真っ暗に近い。
 白い息が一際目立ち、寒さが増すようだった。
 冷えた手を温めようとポケットに手を入れ直したとき、携帯が震えていることに気がついた。
 画面を見るまでもなく夏珠だと思った。
 「遅い」
 通話口の向こうから聞こえてくる温かみのある声。それだけで辺りの寒さが和らぐようだった。
 「夏珠……ごめん……」
 そこで気づいた。暗がりの向こうに見える白い息と光る携帯端末の画面に。
 「夏珠?」
 黒のダウンジャケットを羽織っているせいで闇に紛れてその姿をなかなか捉えることができなかった。
 「夏珠……どうして……」
 「最後なのに来てくれないんだもん。でも絶対に来てくれるって思ってたからさ」
 通話口からと、正面から空気を振動して伝わる声の両方がいっぺんに聞こえてくる。
 そこに夏珠はいた。
 「なんて、嘘嘘。今日送別会してもらってたの。で、お開きになって最後にもう一度保育園を見ておこうって思ってね。でもなんとなく遥征くんがいる気もしてさ」
 夏珠は偶然この時間にここにいたみたいなことを言っているが、体は芯から冷え切っているのか震えているのがわかる。送別会は嘘ではないだろうがきっと長い時間ここで待っていたのだろう。
 「遅くなってごめん」
 「ううん。ちゃんと来てくれたもん」
 俺は夏珠を抱きしめた。腕の中にいる夏珠はひどく冷たくて凍っているんじゃないかと思うほどだった。
 保育園のそばで夏珠と抱き合うのはリスクが高いなんてことはまったく考えなかった。
 もう今この瞬間に関して言えば誰に見られてもいいとさえ思った。ただ今ここで夏珠にしっかり別れを言わなければこれまでのこともすべて無駄になり、一生後悔するとまで感じた。
 「夏珠、本当にごめん。そして今まで本当にありがとう。俺はこの先も夏珠を忘れることはない。今までのように夏珠を想い、夏珠を感じて生きていくと思う。世間が聞いたらなんて最低な男だと思われるかもしれない。でも俺は夏珠を心に感じながら妻と子どもを一生愛していく。俺も頑張るから、夏珠も元気で頑張って……」
 こらえていたものが一気に溢れてきた。最後のほうは声がうわずりなんとも情けない感じになってしまった。
 それでも夏珠は慈しみの笑みと温もりで俺を優しく包み込んでくれた。さっきまであんなに冷たい体をしていたはずなのに今はもう俺のほうが暖められている。
 「うん。私も頑張る。私の心にもいつだって遥征くんがいるから」
 「幸せにしてあげられなくてごめん」
 「私は幸せだよ。私は遥征くんを愛して、遥征くんも私を愛してくれた。遥征くんは今でも私が愛した遥征くんのままでいてくれてる。そしてこれからも。それで十分だよ」
 それからもしばらくの間そこで抱き合っていた。寒さという概念が消え去ったかのように俺は何も感じなかった。本来寒いはずなのに、その場にただずっと留まっていた。
 「あと一回。三月の終わり。それが本当のラスト。みんないるし形式的なお別れしかできないかもしれないね。でも涙はそこにとっておく」
 「俺はそこでは泣けないな。だから今ちょっぴり泣いていい? ってもう泣いてるかな」
 ぼろぼろと取り乱した号泣なんてことにはならないが、積もり積もった感情が爆発するのを抑えることはできなかった。自然の流れに身を任せ目に涙が溜まっては溢れる。
 十四年。長かったと思う。
 「十四年……。長かったね。ハッピーエンドかな、やっと落ち着いたね」
 また新しい一歩を踏み出して行く。
 そうして運命がまた二人を導くことがあるのかもしれない。
 俺たちはそう言い合ってその場を締める。
 高校生当時のいつまでも別れを惜しんでいた頃とは違う。二人とも強く大人になっていた。
 同時に背中を向け、振り返ることなく暗闇の道を歩いていく。
 曲がり際に来た道を見てもそこにはただ暗闇が残るだけだった。