春の雪と夏の真珠(第四十一話)

第四十一話

 夏珠が福岡に帰ってしまってからも生活には何一つ変化はなかった。
 担任が急にいなくなったことに対しても凰佑はまだあまりピンときていない部分も多く、ひょっこりまたすぐ現れるくらいに思っているのかもしれない。
 生活は今まで通りだ。
 ただ俺はふと保育園で夏珠を探してしまうことがある。あれだけきっちりと別れてなおそのイメージがしっかり残っている。残留思念のようなものを感覚的に追っているのか、夏珠との想い出や特にゆかりのあると思われるところに意識が勝手に向くことがある。
 今もそうだ。
 後ろから何か音がしたと振り返るが何もない。そこは地下倉庫へと続く道で、かつて夏珠とその倉庫で話をしたのがついこの間のように蘇る。
 今はまだ夏珠という存在が俺の中を占める割合が多い。時が経とうともその割合は変わらないのかもしれない。それでも段々と意識の上に現れる頻度は減っていくのだと思う。けれどそれは忘れるのとは違う。
 夏珠に再会する以前から俺の頭の中、心の中には常に夏珠がいた。ただあまりに潜在的な部分にあるためにそれこそほぼ無意識だった。
 別れて日が浅いため今はまだまだ意識の上で夏珠と結びつくことが多い。それでも日を重ねるごとにまた少しずつ意識の底の方に夏珠は沈んでいく。そう思うと寂しく感じるが、きっとそれは結晶化のようなものなんだと思う。
 俺と夏珠の恋は十四年という歳月をかけてようやく結晶化した。だんだんと意識に上ることは減っても、その輝きは永遠に残る。そして外界からの情報に反射して光ることで俺はいつだって夏珠を感じることができる。
 「結晶化ねえ。綺麗にまとめたね。実る恋だけがすべてじゃないと」
 「負け犬の遠吠えに聞こえるかもしれないけど、実る実らないじゃないと思うんだ。ただただこの形が俺と彼女の恋だったんだと」
 「決して悲劇ではない。とある二人の幸せの在り方か……いや切ないよ」
 同僚は自分のことのように胸を押さえて身悶えている。俺も最初はあんなふうに胸が締め付けられる想いにずっと苛まれていた。
 「でも本当に良い恋というのは結果に関わらず君みたいにいい顔をすることができるものなのかもしれないね」
 なんだかんだと同僚はやはり上手いこと締めてくれた。
 土曜日。
 雪が降るなんて予報があった気がしたが、外はこれでもかと言わんばかりの冬晴れ。
 陽射しに当たれば寒さもぐんと和らぐほどだ。
 妻と凰佑を連れて買い物に行く途中、家の近くの私立保育園の子どもたちが先生に連れられ散歩していた。
 土曜日に預けられる子どもの数は少ないようで四人の子どもを若い女性の保育士さんが引率している。
 凰佑は自分のことは棚に上げて、「あかちゃんだ」と叫ぶ。
 「おうちゃんと同い年くらいだよ」
 妻にツッコまれてもなんのそのだ。
 「保育士さんは大変だよねー。自分の子どもでもこんなに大変なのにさ」
 妻の言いたいことはよくわかる。事実保育士のなかでもそうしたストレスに耐えかねて辞めていく人が多いのだと夏珠も言っていた。
 「でも夏珠先生は逆に癒やされるんだって」
 いきなり妻から夏珠の名前が出て驚いた。
 「最後の日ちょっとだけ話してさ。これからも保育士を続けるっていうから好きなんですねなんて言ったら癒やしなのでって」
 「すごいね。天職とはこういうのを言うのかな」
 どこまでも広がるこの青い空は夏珠の元までつながっている。
 夏珠も同じ空を見上げているだろうか。
 「おうちゃん、今日はパパとお出かけできてよかったね」
 「おうちゃんはねー、パパとママがだいすきなんだよ」
 家族に向けた愛はこのようにしてちゃんと返ってくる。
 俺自身ですら家族に対する意識が変わったことを自覚している。元々そこまで家族を顧みないなんて状態ではなく、家族とも向き合っていたつもりだった。でも今は今までよりも強く深く家族との時間を大事にしている。
 それは妻にも当然のように伝わるらしく、
 「なんか最近変わったよね。妙に私たちに優しい気がする。これは何か後ろめたいことでもあるのかな?」
 冗談混じりとはいえ妻のその言葉にはドキリとさせられる。
 俺はただ苦笑いでその場をやり過ごすことしかできないでいる。いつかはちゃんと言うべきだとは思っていても、本当のことはまだ言えない。
 「後ろめたいことがあったら俺は家族とこんなふうに向き合えないと思うよ」
 「それもそうだね。嘘とか付くの下手だもんねえ」
 「パーパー、みてー」
 凰佑が上手い具合に夫婦の会話をかき消す。
 妻から見た俺は嘘を付くのが下手だそうだ。ところどころで嘘を重ねてきてしまってはいたが、根っこにある気持ちに嘘はないからだろうか、結果それは小さな嘘でも妻には真実味を帯びたのかもしれない。
 なんて、妻を見くびっていいものかと思う。本当は全部知っているかもしれないのだから。
 妻の器の大きさを考えると、知ってて今のこうした対応も可能な気がする。結局のところ俺はそんな器量の計り知れない妻に救われているのだと思う。夏珠も言っていたが、妻と出会い、恋愛というものを改めて感じることができたために今こうして俺は生きている。
 妻と出会っていなければ今なお夏珠のことで苦しんでいたかもしれないし、夏珠と再会していてももっと全然違う悪い方向に事が運んだかもしれない。
 「パーパー、みてー」
 「うん。なんだい?」
 「きいろぶーぶー」
 鮮やかに磨き上がった黄色のボディを持つ車が信号待ちの列の先頭で一際目立っていた。
 「凰佑はぶーぶーが大好きだな」
 何が幸せかは人それぞれ違う。俺が何をしようとも夏珠が幸せと言わなければそれは夏珠の幸せではない。
 俺たちはお互いに最善の道を歩むことができているのかもしれない。普段はほんのりうっとおしくも感じる凰佑の声にそんなことを思った。