春の雪と夏の真珠(第四十三話)

第四十三話

 入学式に合わせて桜が咲くようにするため、学校に植えられた桜は様々な品種が混ぜ合わされていると聞いたことがある。
 それでも自然の摂理にいつでも完璧に抗えるわけではないだろう。
 そう考えるとこうして息子の中学の入学式にて満開の桜に迎えられることは十分に奇蹟と思っていいのかもしれない。
 ずっと悪ガキまっしぐらだと思われた凰佑がまさか勉学に目覚めて私立の中学を受験したいと言ったことは今でも信じられない。
 だが現に狙っていた学校の制服を着ている息子とともに春のそよ風が吹く校門を並んで通ると、ようやくそれは実感を帯びてくる。
 何がきっかけなのかはわからない。妻も未だに首を傾げているくらいだ。
 最低限の勉強しかしないで学校生活を送っていたある日のことだった。凰佑が小学五年生のときいきなり私立の、しかもそれなりに名のある有名校を受験したいと言い出した。
 超有名校でなくとも、私立となれば低学年の頃から準備を重ねて懸命に勉強してきた者だけが通れる狭き門だと認識していたため、五年生になって慌てて勉強したところでまず不可能だろうと思っていた。ただ本人の意志は固くやる気はあるようだったし、自分から積極的に願い申し出るようなことは珍しくもあったため俺も妻も応援することに決めた。
 それからの凰佑の頑張りは圧巻だった。親の我々が特に口出しすることもなく懸命に毎日机に向かっていた。むしろ少し遊んだらと促したくらいだ。
 そして見事に凰佑は結果を出した。
 「凰佑、そろそろなんでこの学校を志望したのか教えてよ」
 式が行われる付属のホールに向かう途中、ふと尋ねてみる。
 「ちゃんと勉強したくなっただけだよ」
 勉強なんて本人がその気ならばこの学校でなくてもできる。あの頑張りが単に勉強に興味が湧きましたなわけはないのは明らかだった。
 「それだけ? それであんなに頑張れる?」
 「んー、ま、ちょっと約束があって」
 初めて聞く言葉だ。
 約束。
 やはり何か明確な意思の下で動いていたのだ。相当に大事な約束なのだろうと思う。
 「そっか。よかったな入学できて。改めておめでとう」
 素直に喜ばないのはご愛嬌か。思春期の男の子は難しい。自分の中学のときを思えばそれはよくわかる。ただ常に時代は移ろうもので、当時の自分がしてほしかったことを思い出してそれを凰佑にしたところでうまくはいかない。
 今日どうしても仕事を抜けることができなかった妻は不在だ。息子の晴れ舞台のスタートには立ち会いたい想いだったろうが、こればかりは仕方ない。代わりに俺がこの場に居合わせることになったのはどんな巡り合わせなのか。
 有名私立中学とあって入学式は大学さながらの厳粛な雰囲気のなか、数々の来賓の有り難い御言葉が続く。その後、主席で試験を通ったなんていう古い風習ではなくランダムで選ばれたらしい新入生三人によるスピーチが行われた。中学生にしてこれほど上質なスピーチができることに驚くが、ランダムで選ばれたとあればここにいる誰もが同等のレベルのスピーチができることを意味している。
 凰佑もあそこまで立派に立ち振る舞ってあれほどの文面を用意できるのかと思うと、我が息子を誇りに思う一方で息子のことをあまりわかっていないんだなとも思う。
 入学式の後には生徒のためのオリエンテーションがあるとのことで、俺は終わるまで外で時間を潰すことにした。
 まっすぐ校門に向かおうと思って歩いていると、校舎の間に立ち並ぶ木々のなか一際大きい桜の木が目に入った。
 校舎と校舎をつなぐ渡り廊下が突き当りに見える。そこに突き当たるまでに小さな桜並木道が広がり、渡り廊下の手前にもっとも大きな桜の木が満開の花を絢爛に咲かせていた。
 デジャヴめいたものがよぎると同時に、凰佑が先ほど言った「約束」という言葉が頭の中ではっきりと反芻される。
 両方とも夏珠につながるものだと瞬時に悟った。
 桜に限ったことではなく些細なことで夏珠を連想するのは変わらない。
 だがやはり桜が一番イメージを強く喚起する。
 保育園の卒園から六年が経つ。一度として連絡を交わすことはなくとも、夏珠は俺の中にしっかりといる。
 「幸せになろうね。約束」
 二人だけの秘密の桜並木道で交わした約束がフラッシュバックする。
 吹き抜ける風に舞う花びらはもちろん春の雪のようだった。
 大きな桜の木の下でつい見惚れていると、近くの教室からラジオの音が聞こえてきた。
 「ラジオネーム『春と夏を結ぶ人』さん、私の春はこの曲にあり。甘くも切ない想いが込み上げてきます」
 と、同時に聞こえてくる聞き覚えのある春の名曲のイントロ。
 「みなさんも様々な想いの花を心に咲かせてみませんか。ケツメイシ、『さくら』」
 
 さくら舞い散る中に忘れた記憶と 君の声が戻ってくる
 吹き止まない春の風 あの頃のままで
 君が風に舞う髪かき分けた時の 淡い香り戻ってくる
 二人約束した あの頃のままで

 哀愁漂う綺麗な旋律のイントロだけで鳥肌が立ち涙が出そうになった。これほど自分に、今の気持ちにぴたりと当てはまる曲も他にないだろう。
 「遥征くん」
 君の声が戻ってくる。
 はっきりと夏珠のあの澄んだ心地よい声が聞こえる。
 淡い香り戻ってくる。
 声に遅れてほのかな懐かしい夏珠の甘く優しい香りを感じる。
 
 そっと僕の肩に 舞い落ちたひとひらの花びら
 手に取り 目をつむれば君がそばにいる

 そして……。

 目を開けてなおそこには夏珠がいた。五感を刺激する桜が見せる幻ではなく、本物の実体がそこにはあった。