「漂う」(第十六話)

第十六話

 あなたは深い呼吸に身を委ねていた。
 「吸ってお腹を膨らませて……」
 あなたは心地よい声に導かれ想うがままになる。
 「吐いてお腹を凹ませる……」
 あなたの意志よりも、何か先立つものがある。
 あなたは全身の力が呼吸とともに抜けていくのがわかる。
 自分がそうしているのか、そうなるように導かれているのか。意識はまどろむようでいて、研ぎ澄まされたものもある。
 あなたはインストラクターを見つめた。
 その全身を見る。
 結び束ねられた長い黒髪。
 照明に彩られた光る汗。
 透き通る瞳とバランスの取れた鼻。
 幸せの微笑みを生む口。
 細く女性らしい身体。
 全身を覆うオーラ。
 そのすべてが艶肌をさらに色めき立つものへ変える。
 あなたは不思議に想う。
 欲情してもおかしくないほど魅力的で惹かれているというのに自分の中に邪な考えがないことを。
 あなたは想う。
 今まで自分が本当の恋愛と呼べるものを経験していないのではないかと。
 あなたは深く深く呼吸を繰り返すたびに今までに感じたことのない想いをその心に燻らせていた。
 スタジオの照明が明るくなる。
 彼女との時間はいつだって儚く、光のように一瞬で終わる。