「雪の瞳に燃える炎」(第五話)
第五話
海からの風は冷たいものの、決して寒いとまで感じないのはバレンシアの恵みたる太陽のおかげだと光央は思う。
ここでは爆竹の音はほとんど聞こえない。聞こえてくるのは波の音、空を舞う鳥の声、そして、光央たちの笑い声。砂浜に足を取られながら歩くのが苦にならない。歩くという行為が楽しいとさえ感じられた。
途中大きな岩山が行く手を塞いだ。どうしてそこにその岩山だけが残されてしまったのかと大自然の神秘を思わせる。岩山は砂浜にしっかり乗り上げているが、海に面している部分もかなりを占める。海岸線に沿ってさらに歩こうとするならば浜から完全に陸地まで迂回しなければならなかった。
「ここなんだ。秘密の隠れ家カフェ」
マリオは今までで一番なほどにシニカルな笑み作る。
迂回しようと岩山を回り込んでいるのかと思う途中、岩山が人を飲み込んだ。不自然にではなく、あくまでも自然に岩山が口を開けている部分があった。マリオを食べてしまった大きな口を光央は恐る恐る覗いた。そこには海賊船の牢屋を思わせる扉があり、マリオはその前で手招きしていた。
「どうなってるのここ? この岩山そのものが人工的に造られたものなの?」
光央は感じた疑問をぶつけずにはいられなかった。
「岩山は正真正銘の天然だよ。天然で生み出された岩山の内部のスペースに造られた奇蹟のカフェ」
店内は極力自然の岩をそのままに利用した造りのカフェで、狹いところや広いところが入り混じり、空が見えたり隠れたり、お店というにはあまりに秩序のない造りだった。だが、奥まで進むと一気に視界が開け、幻想的な空間が出現した。
両サイドには分厚い岩山がそびえ、その岩山の両端を上から覆うかたちで、限りなく透明に近い、薄く色が散りばめられたステンドグラスのようなものが乗っかっていた。太陽を透過し、かつ、反射することで角度によって様々な色合いを見せる。正面には太陽によって輝いた大きな海原が望め、暗礁の上に席を設え、打ち寄せる波を感じることができる。文字通り海の上にあるカフェだ。
光央にはどういう仕組みによるものなのかわからなかったが、足元の海は黄緑色に光輝き、ファンタジーの世界を演出していた。波の音という自然の音楽と、邪魔しない程度に流れるヒーリング系のメロディがその場をさらなる癒やしの、外の世界とは切り離した空間を作り上げていた。
「どう?」
マリオだけじゃなく、フランチェスカやファビオまで光央にシニカルな笑みを向けていた。
光央は言葉を発することができなかった。どんな言葉も陳腐に聞こえてしまいそうで、ただ無言でいることこそがこのカフェに対する最高の賛辞に思えた。
席に着くと光央は強烈な既視感を覚えた。ここで誰かに出会う。そんな光景が記憶の片隅から、屈折する光によって届けられた。
海に大きく面したところにあるテーブルを整えている女性スタッフの姿を光央は捉えた。光の反射で逆行となる。けれどもその輪郭がぼんやり浮かび上がるだけで、光央にはそれが直感的にイメージした彼女だと思った。
彼女がほんのわずか動いたことでその姿が光の中にはっきりと現れる。
彼女は特別だった。
目立っていたとかではなく、彼女を認識した途端に彼女しかいなくなってしまったという感覚に近い。彼女しか見えない。
スペイン人の多くは黒髪だが、彼女のそれは黒よりも黒い、漆黒。背中まである長い漆黒の髪は光を飲み込む黒ではなく、光と共存し、より輝かしい艶を持つ。
黄緑の光を放つ海の上に立つ姿は幻想的で、そのステージは彼女のために用意されたかのように絶妙な具合で調和していた。
光央は視線を完全に奪われていた。
その視線に気づいた彼女と目が合った瞬間、光央は自分を保つことが難しくなった。圧倒的な力を誇示するような強い目。その目で見られた者は決して抗えない、抗いたくない、征服されたいとまで感じる絶対服従の目。
彼女がこちらに近づいてきているはずなのに光央は自分のほうが彼女に惹き寄せられていくような感覚に襲われた。
「注文はお決まりです?」
流暢なスペイン語が彼女の美しく整った小ぶりの口から届けられる。
各々が注文をするなかでまったく自分という存在を見失っていた光央は、ただ何もわからないままなんとかマリオと同じものを注文した。
「綺麗な人だね。日本人なんじゃない?」
フランチェスカはうっとりとした目で彼女を追っていた。
「光央?」
隣にいるマリオの声が妙に遠く聞こえた。
「あ、うん、日本人かも」
「光央、あまりに綺麗だからって見惚れてたか?」
ファビオに茶化されたそれらの会話が彼女の耳に届いていないかと心配になる。こちらに背を向けて厨房に注文を飛ばしている彼女の、ちょこんと左右についた小悪魔的な耳は彼女のテリトリー内の会話ならすべて捉えてしまいそうな気がした。