「雪の瞳に燃える炎」(第六話)
第六話
光央は店内の奥にあるトイレに立った。扉を一枚隔てているはずなのにその向こう側には彼女がいるとはっきり感じた。声が聞こえるとか、香りがするとかではなく、存在感が確かにそこにあった。
光央はどうしてここまで鼓動が高まっているのかわからなかった。初対面の店員さんに対して何を緊張することがあるのか。何を恐れることがあるのか。震える手で静かに扉を開けた。そして、やはりそばにいた彼女はすぐ光央に気がついた。
「君、日本人かな?」
その声に光央は心をぎゅっと掴まれた。暴力的にではなく、包み込むように。彼女の声の響きに心が覆われる。耳から入ってくるようでいて、直接脳に優しく響き渡るその声に光央は心地良いめまいを覚えた。
外見の美しさは声までも美しくする。それくらい彼女の声は透きとおっていた。彼女から放たれる言葉によって震える空気が色めくようだった。その声に反応して鮮やかになる周囲の空気は、彼女の香りとも結びつく。場の空気は完全に彼女のものだった。
彼女は光央が答えられずにいたために日本人じゃないと思ったのか、
「あれ? 違うのかな?」
と、独り言のように紡ぐ言葉すら一つの音楽の調べを成していた。
「あ、あの、すみません、日本人です」
ようやくなんとか力を振り絞って光央は声を出した。
「あ、やっぱり。韓国人や中国人とはどこか少し違うよね。なんとなく日本人は見てわかる。でもこんなところに来る日本人は珍しい。ガイドブックとかにも一切載せてないから地元の人しか知らないの。いい友達を持ったね」
一言一言が価値ある宝石みたいだと光央は思った。彼女が話せば話すほど辺りの空気がきらめく。
「ここで働いてるんですか?」
言ってから変な質問だと光央は気がついた。
「遊んでるように見える?」
彼女は笑った。営業用のスマイルとは違う純粋な笑顔。見ているだけで体が溶けそうになる感覚は光央にとって初めてだった。
「うそうそ、冗談。こっちに住んでるから。ここはバイトでね。日本人と話すのもすごく久しぶり。街へ出れば見かけたりはするけど話したりはしないからさ」
異国にいると感情の高ぶりが激しくなる。異国にいると思い切った行動ができたりする。
「あの、明日とか……えっと……会えたりできませんか」
考える前に口が動いていた。
「お友達はいいの?」
「明日はみんな仕事で、一人で時間を潰さないといけなくて……」
「そっか。ん、いいよ。私も明日は暇だし」
ポケットからメモ用紙とペンを取り出し彼女は何かを書きつける。
「これ、私の番号。いつでも連絡くれていいから。こっちの携帯端末は持ってるでしょ?」
そう言うと、彼女は小さく手を振り、先にホールに戻って行った。
あっけなくナンパじみた行為が成功し、光央は今更にして全身の震えがピークに達した。その後マリオたちと話した内容、テーブルに並ぶ繊細な工夫が凝らされた料理など、漠然としか光央の記憶には残っていなかった。
会計を済ませ席を立つと、彼女は奥のほうからさりげないウインクをした。光央はわずかに頭を下げ、わずかに口角を上げて笑顔を返す。
「光央、あの彼女ウインクしなかった? もしかして声かけた?」
フランチェスカが目敏く気づいた。あれだけフランチェスカが近くにいるだけで胸にときめきを覚えていたのに、その恋心とも思えた感情は漆黒の髪を持つ日本人女性によって完璧に上書きされた。
「ちょっとね」
光央は必死のシニカルな笑みでその場を後にした。
スマートフォンならばなんでもできるが、光央が持つイタリアで購入した旧世代の携帯電話ではその国の文字しか打ち込むことができない。彼女にメッセージを送るにもどうしたものかと光央は考えた。ローマ字で日本語を打つか、イタリア語を打つか、マリオに尋ねてスペイン語で打つか。光央には電話をかけるという選択肢はなかった。同じスペインにいながらも国際電話扱いになる電話代を気にしていたのではなく、単に上手く話せる自信がなかった。せっかくの約束が台無しになりそうで怖かった。
光央はスペイン語で打つことにした。それもマリオの助けを借りずに。正確にはマリオの部屋にあるネットの力を借りている時点でマリオの手は借りていることにはなるが、彼女とのことを聞かれるリスクはない。
調べ物があるという理由で光央は一人パソコンを使わせてもらう。マリオはシエスタだと言って昼寝をしていたが、外は徐々に夕焼けで染まりゆく時間だった。このまま朝まで起きないんじゃないかと一緒に暮らしていたときも何度となく思った。マリオは休みだといつも夕方近くに寝て夜に起きる。
マリオは例外としても、黙っていることがないスペイン人とずっと時間を共にしていたせいで独りの時間が妙に静かに感じる。時折、遠くのほうで爆竹が聞こえてはくるものの、久々に与えられた完全に独りの時間を懐かしんだ。
マウスをクリックする音すら綺麗に鳴る。
日本のニュースが目に付くとネットサーフィンをしそうになる。光央はすぐにネットを切り、携帯端末のメッセージ画面を開いた。
明日昼から会おう、そう簡潔にメッセージを送る。彼女からは瞬時に、オッケー、とだけ返事がきた。続けて、正午にバレンシアの駅で、とすぐに送られてきた。
遠足の前日の子どもはこんな気持ちだったかなと思う。胸がドキドキと、遠くの爆竹に負けないくらい音を立てていた。高揚した想いのまま鮮やかな夕日にたそがれていると、シエスタの雰囲気に呑まれたのか疲れがどっと出た。そしてゆっくりと光央はまどろんでいった。
「光央」
聞き慣れた声、好きだった声、フランチェスカが光央を眠りから呼び起こした。外はすっかり暗くなっている。
一度別れたフランチェスカもいつの間にか再び合流していた。
「ご飯ができたよ」
リビングに行くとマリオが作ったと思われる料理がテーブルにところ狭しと並んでいた。
「せっかく光央を招いておいて明日も一日独りぼっちにしちゃうからさ。そのお詫びとして腕を振るったよ」
美味しいパエリアと奇跡的な美しさのカフェ、さらにはあの彼女との出会いをもたらしてくれたマリオたちには光央に詫びることなどこれっぽっちもない。むしろ光央がただひたすらに感謝したいくらいだった。けれどもシニカルな笑みを浮かべるマリオの優しさを素直にいただくことにした。それでも光央はどこか抜け駆けのようで彼女に会うことに若干の後ろめたさを感じてもいた。