「オシャレ貧乏」(第七話)

第七話

 年が明けた。もっと困窮しているかと思ったが、意外と普通に生活できていた。そして今の生活にもだいぶ慣れてきた。相変わらずかつかつの生活であるとの認識には間違いないが充実していた。楽しいとも感じていた。
 エアコン代の節約のため暖房はつけていない。冷たい部屋というのは見た目にもわかる気がする。暖色の物を置いてもどこか冷たい色を帯びて映る。毛布に包まって丸くなる。世間に見せられない格好悪いスタイルだと思う。オンとオフにあまりに差があるとも思ったが、今はまずオンの外見を徹底的に磨いていくことを目標にした。それが落ち着いてきたら人が見ていない内面の部分もこだわって磨いていきたいと思う。
 僕は仕事が休みの日も外に出るようにした。引きこもるより外に出たほうが何かとインスピレーションもある。
 外食はしないで、弁当を女子のように持ち歩いた。街を歩いて、どのようなスタイルがあるのか眺めて過ごす。ただそれを努力とは思わなかった。好きでやっていたし、結果それが糧になることは後々気がついたことだった。
 代官山はやはり街自体がいちいちオシャレな印象だった。街を歩いているだけでもクリエイティブな空気に触れることができる感じがしていい刺激になる。平日とあって人はあまり多くなく、気兼ねなくゆっくりと眺めていられるのはよかった。特に用もなかったが蔦屋に入った。普通の本屋に比べるとすぐ目に付くあたりに、普段なら興味がいかないような本が多く置かれていて、それが却って興味を湧き立てた。
 平積みにされた本を目で追っていると、カラフルでいかにも上質なスーツに身を包んだ黒人たちがポーズを決めている写真が表紙に使われている写真集に目が止まった。
 コンゴ共和国のとある人々に焦点を当てた写真集で、使われている写真にはすべてオシャレに着飾った黒人男性たちが写っていた。彼らは「サプール」と呼ばれる人々で、「お洒落な優雅な紳士たち」という意味のフランス語からきていると帯に記されていた。着ている服はどれもハイブランドのもので、さぞかし富裕層の集まりなんだろうと思っていると、まったくそんなことはなく、むしろかなり生活水準の低い暮らしをしていることがわかった。物価がまったく違うためにイメージはつきにくいが、ひと月の給料はおよそ三万円という貧困層が多い国らしい。そして写真に写る彼らもその貧困層に位置し、毎日バケツに水を汲みに行くような生活を強いられているという。
 強く頭を殴られたかのような衝撃だった。
 その本に出逢っただけでも僕は今日ここに来た価値があったと思えた。この本は僕には必要な本であると思いすぐに購入した。そして銀座に行き、バイト先である商業施設に行った。
 僕は休日でもここに来ることが多い。それは休憩室の存在が大きい。出勤していなくとも入館証があれば来ていても誰も文句は言わないし、いちいち周りはそんなことに気づきもしない。そのため僕は空調が整い、飲み物も用意された休憩室で過ごすことが多くなっていた。
 平日はどこも暇なのか休憩室のスタッフ人口もいくらか多い。隣近所のお店のスタッフさんの顔もちらほら見えるが、僕はあまり、というかほとんど周りの店舗との付き合いがなかったため、一人でのんびりと過ごすことができた。
 さきほど買った写真集をさっそく眺める。
 カラフルな装いのスタイルはどれも僕が思うところの、いやおそらく誰でもが思うところのオシャレを体現していた。被写体の中心人物だけでなく、サプールではない周りの人々もとても幸せそうな笑顔で写されている。貧困に喘ぐ暮らしの中でも希望があると言わんばかりに周囲を明るく元気にする。そんな構図が伝わってきた。
 人生を楽しもう。
 毎日の生活のすべてを祝福しよう。
 そうした姿勢、己の信念を貫いているようで、見ていて胸が熱くなった。誰もがサプールを中心に楽しい雰囲気を醸し出していた。そこには笑顔しかなかった。
 オシャレやブランド物はリッチな人だけのものではない。お金持ちではなくとも、一生懸命に素敵な服を買い、心からオシャレを楽しむ。その生き方はまさに僕が今実践しているものそのものだ。ただ、彼らに比べたら僕なんてあまりに恵まれている。
 日本という国に生まれた時点で僕は彼らから見たら富裕層と変わらない。僕は確かに彼らと同じように給料のほとんどを良い服に使い、オシャレを楽しんではいる。でもそこには、自分に見合わない服をあえて着て、形から入ることで自らを鼓舞し、あわよくば引き寄せのようにうまいことそれに相応しい地位やステータスが付いてくるかもしれないとの欲望渦巻く思いも抱いていた。
 僕は恥ずかしくなった。つまらない野心をいつまでも引きずっていることが情けなくも思った。彼らサプールがオシャレをする理由、それはただオシャレへの強いあこがれやこだわりだけではない。武器を捨て、エレガントな装いをしようというもので、平和を願う生き方を表している。
 僕はいてもたってもいられなくなり、休憩室をあとにした。自分が働くお店になぜか向かっていた。お店にはオーナーと店長が同時に僕に気がついて迎えてくれた。