春の雪と夏の真珠(第二話)

第二話

 その女性のことを俺は本当によく知っていた。だから正確に言えばそれは再会ということになる。

 十四年。

 それだけの月日が流れてなお鮮明に覚えていたし、当時から十四年後の姿を見ても本人であるとすぐに分かった。
 幸か不幸かすぐに仕事に行かなければならなかった。俺はただ素っ気なく急いでいるとしか言えずにその場を後にした。
 だが急いでなかったとしても、俺の口から何か気の利いた言葉が出てくるとは思えなかった。ゆっくり、きちんと頭の中を整理してから話したほうが良かったのだと考えることにした。
 彼女は俺の名前を口にした。その場を立ち去ってすぐのときは自分のことを覚えていてくれたのかと胸がそわそわと落ち着かなくもなったが、いくらか冷静になってから考えてみると、彼女は保育園の先生であって園児の親の顔写真やプロフィールを見てる可能性があることに気づいた。前々から俺の存在には気がついていたかもしれない。それでも、たとえ覚えてなかったとしても、それをきっかけに思い出してくれたという事実には変わりない。
 なにをそんなポジティブに事を考えているのだろうと思う。真っ直ぐ歩けていない自分を認識するのに随分と時間がかかった。
 面と向き合って話すべきだろうか。

 今の俺と彼女の関係。それは園児の親と保育士だ。旧知の仲だとしてもあまりベタベタと馴れ馴れしく話していいものかとも思ってしまう。
 なんら悪いことをしているわけではない。なのにもうすでに妻に対してどこか後ろめたいような気さえしてくる。
 向こうは俺のことをどう思っているのだろうか。知りたいと思う一方で知るのが怖いとも思う。それくらいの出来事が俺たちには起きた。十四年間決して忘れることのできなかった想い。思い出さないよう避けていた想い。今を生きているようでいて実はずっと止まっていた時間が動く。そんな気がした。
 
 「なにかあった?」
 妻の一言にどきりとした。
 「なんで?」
 「なんとなく。なんか感じが違う気がしたから」
 女の感というやつなのだろうか。今朝のことは正直かなり動揺し引きずっていた。それでも表情には出さず平常心を保っていたつもりだったのだが、妻はあっさりと見抜きかけている。鋭いにも程がある。
 「なんだろう。特に面白いこともつまらないこともない変わらぬ一日だったけど。あ、でも凰佑の担任の先生らしき人は見たよ。挨拶したわけじゃないけど、見慣れない人だったからたぶんそうかなって」
 不自然かとも思ったが保育園で起きたことを正直に言ってみた。もちろん肝心なことを隠してはいたが。
 「あ、なつみ先生ね。かわいかったでしょ?」
 答えに困った。すごくリアルな返答をしてしまいそうでうまい言葉が見つからなかった。
 「うん、ずば抜けた美人って感じじゃないけど雰囲気がかわいいというかそんな感じ?」
 いつもの俺ならきっとそう言うだろう。なんとか言葉を探し出して言ってみたが、どこかぎこちなくなってしまった感があった。幸い妻は特に気にすることもなく、「でしょ」と一言残してキッチンへ向かった。どうやらこの場における正解を導き出したようだ。
 鼓動が高鳴っているのを感じた。重要な仕事のプレゼンでもこんなにドキドキしないぞと自分の今の状況の理解に苦しんだ。まだなにもないのに。ほとんど一方的に見ただけに過ぎないのに。説明のつかない気持ちが胸の奥底にぐるぐると渦巻いているのがわかった。
 案の定、ベッドに入ってもまったく寝付けなかった。頭が冴えているわけではない。どちらかといえばまどろんでいた。それでもそのまどろみの中に浮かぶのは、大きな桜の木の下で微笑む彼女。桜の花びらが舞う光景は春なのに雪を思わせた。
 「桜の花が舞い散るのって綺麗だよね。私すごい好き。だからかも……」
 満開の桜が作る並木道は俺たち二人の秘密の場所だった。二十メートルほどとはいえこれほど見事な桜を堪能できる場所はそうそうないだろう。わかりにくいところにあるため花見に来る人はほとんどいないという穴場で、毎年桜の季節はこの道を並んで歩いた。ひらひらと、春の優しい風に吹かれてゆっくりと落ちる花を見ながら夏珠はそう言った。
 「だからかも? なにが?」
 俺は淡いピンクの空間に身を置く彼女を愛おしく感じていた。
 「パパー」
 凰佑の寝言で現実に戻された。いたずらをしたのが見つかったときのようなスリル感を覚える。
 すべては過去。やり直すことができないのはわかっている。できるのは失われた過去の時間を現在にて修復することだ。けれどそれは今の自分がしてよいことなのだろうか。そもそも修復などできるのか。俺たちはお互いにお互いの時間が流れている。もしあの時あの場所で彼女と再会してなければ二度と会わなかった可能性だってある。
 俺は運命論を少し信じてしまう質なんだとこのとき思った。再び出会ったことにはなにかしらの意味がある。そう考えてしまう。自分だけではどうにもわからなかった。彼女の気持ちを聞けたらと思う。凰佑の担任である以上これからも最低限の付き合いは続けていかなければならないのだから。
 最低限の……。
 それだけでいいのだろうか。結局考えが堂々巡りしてしまう。
 「うーん」
 思わず声に出てしまった。慌てて寝返りをうち寝てるふりをしたが、妻を起こしてしまったらしい。
 「どうしたの? 眠れないの?」
 「ごめん、起こしちゃったね。ちょっと変な夢を見てたみたいで目が覚めちゃった。ごめん、おやすみ」
 なぜか妻の目を真っ直ぐ見据えることができなかった。暗い部屋をいいことに寝ぼけて視線が定まらないふりをして誤魔化してしまった。
 
 今朝の送迎当番は妻だった。仕事の都合上どうにも今日は凰佑を送っていくことができない。次の俺の番は明後日だ。昨日のことが頭をよぎる。やはりきちんと会話をするべきだった。これでは気まずくて今日明日と俺が保育園に来てないと思われてしまう。自意識過剰だろうか。案外彼女の方はなんとも思ってないかもしれない。
 今日は天気は良いがとにかく風が強かった。春の嵐だと天気予報のキャスターも言っていた。
 家を出て向かい風のなか駅に向かう道を歩いていても、風に細める目の先にふと彼女がいるのではないかと気持ちが落ち着かない。実際に俺は街を歩く人混みのなか一人ひとりと彼女を探していた。
 それは初めて恋に落ちた中学生みたいだった。いい年して何を考えているのだろう。客観的に自分を眺めることがまだかろうじてできていることにいくらかの安堵はあった。けれども、保育園で顔を合わせるのだし、このままでは精神衛生上あまり良くないなと思う。
 電車からの景色が自然と目に入った。綺麗に咲く桜が鉄橋に遮られながらも断続的に見える。淡い昔の光景と、つい昨日の光景がダブルに俺を襲ってきた。
 朝のラッシュに揉まれながらも頭は彼女のことだけを考えていた。汗ばんだ初老のサラリーマンたちに周りをピッタリと囲まれていても不思議と嫌な感じを覚えない。いつもなら露骨に嫌な顔をしていたと思うのに、それだけ感覚が麻痺しているのだろうか。
 いつになくぼーっとしてしまう。次第に電車の外の風景すら目に入ってこなくなっていた。
 夏の真珠と書いてなつみ。美しい真珠を冠する彼女はその名の通り黙っていればおしとやかな柔らかい丸い印象を持つ。元気いっぱいの願いを込めて夏を当てた通りのようでもあったが、その芯からあふれる慈悲の優しさは春のイメージでもあった。
 事実、彼女は四季で春をなにより愛した。桜の下で見る彼女は優しい光に包まれ、淡いピンクと調和した自然なコントラストを描いていた。
 「春珠のが私っぽいのかな?」
 桜の季節には定番の質問だった。子どもが好きな彼女は道行く子どもすべてに反応を示すほどで、どちらが子どもなのかわからないくらい無邪気な顔をした。同時に、慈悲の愛とでも呼べそうな嘘偽りのない慈しみの愛情をたっぷり注ぐ。その姿だけを見るならば春珠もいいかもしれない。それでも普段の夏珠はやはり夏珠だろう。見た目こそおとなしそうに見えるが、「なつみ」という語感のイメージにある活発さは彼女によく当てはまっていた。
 「いや、やっぱり夏珠だよ。活き活きとして元気な感じ。桜の季節だけはしっとりおとなしくなるから春珠かも」
 「なにそれ。普段は落ち着きないってこと?」
 このやりとりもお決まりとなっていた。
 新宿で乗客の総入れ替えが起きた。そこでまたようやく現実に戻ってくることができた。今の乗り入れのように頭の中を総入れ替えすることができたとしたら、どうなっていただろう。今の俺は、「もし」とか「たら、れば」が多い。
 彼女に桜のイメージが強いのは事実だが、桜の季節になると必ず思い出すなんてセンチメンタルなものではない。自分の中ではうまく消化できていたつもりだった。

 それは罪の意識だ。心のどこかで会いたいと願う一方でもう二度と会うことはないだろう、会ってはいけないのだろうという思いを持っていた。俺はどこか諦めに似た感情を持っていたんだと思う。
 深層に押し込んだはずのありとあらゆる記憶と、当時の感情が堰を切ってしまったようだ。大人になったと思っていた自分はまったくそんなことはなく、十四年経ってなお当時の感情をどう扱っていいのかわからなかった。
 そんな俺の頭の中とは正反対に乗客の入れ替えを終えた電車は再び目的地を目指して力強く走り始めていた。