春の雪と夏の真珠(第三話)
第三話
「保育園に預けた子どもの担任が元カノだったなんて設定どう思う?」
大学時代から仲良くしている友達と久々に二人で飲むことになりお酒の力を借りて口走ってしまった。
「何それ? 小説かなんか?」
「うん、そうそう。ネットサーフィンしててたまたまブログにあがってた小説が目に止まったんだ」
言っててドキドキしてしまった。友達から見て俺に違和感はないだろうか。酔った頭をフル回転させて平常心を保つ。
「気まずいでしょ。どういう別れ方をしたかにもよるけど」
「その話だと確か悲劇が起きてお互いの想い叶わず引き裂かれてしまったような感じだったかな。で、十四年ぶりにいきなり再会」
「てことはお互いずっと想い合ってるってこと?」
意外にも友達は食いつきがいい。あまり具体的に言い過ぎるとその小説を探して読んでみるなんて言いかねない。うまい具合にぼやかしていかなければ。
「どうかな。全部をちゃんと読んだわけじゃないから。でも主人公の男は結婚しちゃってるみたい」
「いや、そりゃそうだろ。保育園に子ども預けてんでしょ? 俺が聞きたいのは結婚しててもその彼女のことを忘れられずに想ってしまっているかどうかだよ」
酔いも加わり顔が一気に火照ってしまった。真っ赤な顔をしてるんじゃないだろうか。安易に考えもなく話してたせいであっさりボロが出てしまった。幸いにも友達は俺のミスに気づく様子もなくこの複雑な恋愛模様について熟考しているようだ。
「誰かが幸せなら裏で必ず誰かが不幸。不幸とまではいかなくてもたぶん涙してるんだよな」
友達の感傷的な一言に思考が揺らぐようだった。俺は幸せそうに見えただろうか。それを見て彼女はどう思ったのだろうか。逆に幸せそうな彼女を俺が見たらどう思うのだろうか。素直に祝福できるだろうか。
俺が妻ではなく彼女を選択したなら、妻は泣くのだろうか。幸福と不幸が表裏一体ということの意味を初めてちゃんと考えた気がした。
「あれ? 今かっこいいこと言った気がするんだけどなんでなんもリアクションしないわけ? すげえ恥ずかしいじゃん」
友達が本気で恥ずかしそうに笑い、照れを隠そうと手元にあったジョッキを一気に飲み干した。俺たちはすぐおかわりを注文した。
友達と別れて家までの道のりを歩く。ただ歩くという動作にだけ妙に意識が向かった。仕事を早く切り上げて飲み始めていたのでまだ九時過ぎとそこまで遅い時間ではなかった。駅はターミナルとあって多くの人が足早に動いている。これだけの人数の人間がみな恋をし、なにか思い煩うものを多かれ少なかれ抱えている。そう思うと、自分はそんなに特別ではないのかもしれない。
真っ直ぐ家に帰るつもりのはずが気づけば保育園に向かっていた。遠回りだが桜並木道を通って夜桜を眺めながら行くことにし、小さなファミリーレストランの脇道を入った。ここから保育園までの道のりは街灯がほとんどなくかなり真っ暗だ。それなりに人通りが多いのだから改善したらいいのにと通るたびに思う。
ゆっくり坂道を登り、頂上に着くと完成したばかりの賃貸マンションが見えてきた。保育園はこの敷地内のマンションの一階二階にある。
マンションが近づいてなお仄暗い道の左を行くと保育園がある。俺はそこを右に折れ、長い直線を歩いた。左手にはマンションがあるもののこの通りもほぼ真っ暗といっていいほどで、人の姿もまったくないため肝試しには格好の場所だった。
強い風が冷たく、春でも夜はまだ少し肌寒く感じた。
よく見るとこの通りにある木々も桜だった。せっかく暖かくなり花を開いたというのに突然の冷たい風に晒されて寒そうに揺れていた。
暗いというのもあるが、やはり意識がぼけっとしているためか前から近づいてくる人影に気がつかなかった。俺がその存在に気がつくと向こうが足を止めた。それに合わせるかのように俺も自然と足を止めてしまった。そしてそれまで真っ暗だったはずなのに、実際なお辺りに街灯などはないのに、そこにいる俺たち二人にだけスポットライトが当たったかのように姿をはっきり捉えることができた。
「夏珠……」
とっさにかろうじて声帯を震わせて絞り出したその声は彼女に届いただろうか。お互いに動きがないまま俺が名前を呼んだそのとき、一際強い突風が吹き抜けた。風に舞う桜の花は暗闇で白さが引き立ち、まるで本物の雪にも見紛うほど綺麗だった。
「春の雪」
声に出してしまった。今度はしっかりと声帯を震わせることができたと思う。夏珠と目が合い、高校時代の記憶が蘇る。
「桜の花が舞い散るのって綺麗だよね。私すごい好き。だからかも」
「だからかも? なにが?」
「だから遥征くんのことが好きなんだと思う」
「ん? どういうこと?」
「舞い散る桜の花って雪みたい。春の雪じゃん。はるゆきでしょ」
「俺の名前は遥か遠くまで突き進んで征くって意味のはるゆきだから。そんな雅でオシャレな感じじゃないだろ」
この当時には意識的に目に焼き付けていた春の雪もかなり長いこと見ていなかったように思う。いや、実際は見ている。見ていてもそれを春の雪と認識できていなかっただけだ。俺は自分の記憶を都合よく封印してしまっていた。
「あ……」
言葉が続かない。そしていざ話そうとすると、またしても思うように声帯が震えない。音を響かせるのを拒むかのようにかすれた声しか出てこない。
「遥征くん」
逆に向こうから響いてくる音を、その声をしっかりと俺の耳は捉えた。忘れることができなかった声。十四年経って少しトーンが落ち着いたようにも聞こえるが、俺はそのよく通る声を、聞くとなぜか心地よく安心する声を知っていた。その声を再び聞くときのために脳の処理領域を開けておいたかのようにすっと彼女の声が頭の奥底に馴染んでいくのがわかる。
「本当に遥征くんなんだね。今でもちょっと信じられない」
「でも……」
「名簿見て動揺が隠せなかった。朝田遥征。朝夜の朝を使った朝田さんなんてあまりいないからさ。提出してもらってる親御さんの顔写真を見ればすぐわかるのにね。それができなかった。本人じゃなかったらとわかるのが怖かった。ううん、本人だとわかるのも怖かったかな」
夏珠は少しうつむきながら控え目なヴォリュームで話す。それでも一語一語聞き漏らすことなく夏珠の言葉は自然に俺の耳に入ってきていた。彼女も相当に緊張しているのがわかる。かすかに緊張で声が震えるのは昔と変わらないようだ。それでも彼女は話し続けていたのに、俺はまともな言葉を返すことができなかった。
「昨日の朝、初めて保育園で会ったときは正直どうしていいかわからなかった。急いですぐ行っちゃたよね。でも私あのときあれ以上は無理だったと思うから助かった」
「ごめん。急いでたのは本当だけど俺もどうしていいかわからなくて。逃げてしまった」
ようやく文章を口にすることができたと思ったその言葉に当時の記憶がひとつずつ紡がれていく。
逃げてしまった。
俺は逃げたんだ。
「逃げたなんて言わないで。大丈夫だから」
夏珠のその言葉は一体どのことに対して向けられているのかすぐに判断するのは難しかった。