「漂う」(第九話)

第九話

 あなたは澄んだ水で満たされた水槽の中にいた。
 あなたは水の抵抗など感じることなく動くことができた。
 腕を広げる。足を動かす。力を抜く。あらゆる動作にあなたを取り囲む魚たちが反応を示し、コミカルなダンスを舞う。
 あなたは空気の流れである小さな気泡を宝石を扱うように手繰り寄せる。呼吸の乱れはなく、水の中でさえしっかり酸素を肺に取り入れることができた。
 あなたは水槽の中から講演を行うひとりの男性を見た。
 深海について研究する若き博士が海に興味を持ってもらおうと優しい語り口で多くの魚のことを説明しているのをあなたはただただ見つめていた。
 あなたは人を魅了するマーメイド。彼の視線を奪う。彼の視線を独り占めする。
 あなたが踊る優雅であろうダンスは求愛の証。あなたは踊る。
 水槽の色が変わる。
 あなたの動きに合わせて色は美しいグラデーションを成す。
 あなたが微笑むと、彼は歩み寄る。そしてそのまま、透明なガラスをまるで二人の間に何もないかのように自然とすり抜けてくる。
 あなたは手を差し出す。彼もまた手を出した。
 手と手が触れ合ったとき、何かを告げるチャイムが鳴り響いた。
 それは講演の終わりを告げるもの。
 あなたの意識は現実に引き戻された。
 「やだ、これじゃ大学にいるあいつと同じじゃない……」
 あなたは思わず声に出していた。
 ステージの幕に下がっていく彼の背中を見つめたまま。