春の雪と夏の真珠(第十五話)

第十五話

 過ごしやすい気温の日が続き、今日も清々しい朝だった。
 凰佑を叩き起こして少し家を早く出た。ゆっくり保育園まで歩く道のり、木々はすっかり緑をいっぱいにしていて、その辺りだけは空気も澄んでいるかのように思えてくる。
 眠そうに歩いていた凰佑もそんな季節の変化を感じているのか、次第にしゃきっと元気になっていった。
 「おはようございます」
 凰佑と同い年の女の子のお母さんだ。確か妻とは同い年で、ママ友の中でも仲が良かったはず。思ったことをけっこうズバズバ言う性格らしく、綺麗な見た目もなんとなく性格をよく表してそうな感じがした。
 「おはようございます」
 妻とだったら世間話に花が咲くところなのだろうが、俺は挨拶するのがやっとだった。パパ友を作れと妻からは言われているものの、男同士なんて変なプライドが邪魔してフラットに付き合うだけでもかなり時間がかかりそうだし、人間関係に疲れるだろうから嫌だった。
 凰佑はその女の子と仲が良く、あっさり俺の元を離れてさっさと行ってしまった。いつもこれくらいさくっと準備してくれれば楽なのにと思うも気まぐれな子ども相手に文句を言ってもしょうがない。
 もともと早く家を出て、保育園での準備もあっさり終わってしまい、時間を持て余していた。
 よく会う人間とはなにかしらの因果や因縁がある。怪しい運命論にひたりそうなくらい思わぬタイミングで夏珠と出くわしてしまった。
 「わ、おはよ。あ、あ、おはようございます」
 咄嗟に夏珠から出たタメ口に親近感が湧く。夏珠は今のはまずかったと思ったのか辺りを伺いオロオロしている。
 「おはよ、ございます」
 俺もタメ口でいこうとしながら失敗した。
 夏珠は荷物を倉庫かどこかに運んでいる途中らしく、重たそうに持っていた。
 何も考えていなかった。体が勝手に動いたというのがもっとも適切な表現だったと思う。俺は夏珠から荷物を取り上げて夏珠の進行方向に向かって歩いていた。
 背中に夏珠の「えっ」という声が聞こえたような気もしたが、夏珠は黙って俺の前に出て行き先を導いた。
 関係者以外の人間が出入りをしていることが知られたら怒られるであろう地下の倉庫に俺と夏珠は二人でいた。いい大人が子どもにでも戻ったかのように二人で悪いことをしてる感じにドキドキしているのがわかった。
 声をひそめて会話をし、目と目があってどちらからともなく笑ってしまう。
 緊張感とも背徳感とも言えぬドキドキが止まらなかった。夏珠はどう感じてるのだろう。大人になってからここまで胸が苦しく鼓動をしたことがあっただろうか。それくらい変に心臓は動いていた。
 電気を点けてもなお部屋は煌々と明るくはならず、その暗さがまたなんともいえない雰囲気を作り上げていた。 
 「ごめん、ずっと連絡したかったんだけどさ。どうにも思うようにいかなくて。でも一度ゆっくり話をしたいと思ってて」
 「うん。それは私も同じだから」
 手を伸ばせばすぐそこに夏珠がいる。
 俺は夏珠の肩に手を置いた。
 ダンっという大きな音がして夏珠は声を上げて飛び上がった。棚の上に置いてある荷物が落ちてきてしまったようだ。
 俺は今、何をしようとしていたのだろう。あのまま荷物が落ちてきて物音が立たなかったら、俺は夏珠を抱きしめキスでもしていた気がする。
 夏珠はうつむきかげんに苦笑いをして、
 「覚えてる? 前にもこんなことあったよね」
 と言って、再び俺を過去へと逆行させた。

 九月に入り中学もあとわずかとなってきた。季節は秋に移りゆくものの未だ残暑とかなり暑い日々が続いていた。
 九月の第一週に俺の誕生日があり、夏珠はプレゼントに自分が華道部で生けた花を見せたいと言ってくれた。しかし問題があって、それを外に持ち出すことはできないのだという。俺は写真でもいいと言ったけれど夏珠は本物を見てほしいと聞かず、俺は夏珠の中学校に忍び込むことになった。
 さすがに平日は無謀すぎるので日曜日にした。部活動に励む生徒以外はほとんどいない日を狙って校舎に堂々と入って行った。
 そのとき夏珠はもちろん学校の制服を着ていた。俺は自分の制服を着るわけにもいかなかったし、私服じゃ目立ちすぎたためジャージ姿だった。俺の学校と違って学校指定のジャージなどがなかったため、ジャージ姿の俺は夏珠の中学の生徒としてあまり違和感はなかった。
 華道部は顧問の先生の都合上、土日は活動したりしなかったりだという。この日も部活動はお休みで、華道部の生徒は誰も来ていない。
 普段は美術室の倉庫の隣にある空き教室を使って活動していて、作った作品はしばらくの間その隣の倉庫に飾られ、保管されるとのことだった。
 夏珠の作品は倉庫にあり、その倉庫には窓がなく外から見ることができない。入るにはまず美術室に入り、さらにそこから倉庫に入らないといけないのだが、鍵が二つ必要となる。
 「へへ、念入りに調べたんだよ。鍵の場所とか、職員室の先生の休日の出入り具合とかね」
 「え、もしかして黙って鍵を持ち出して侵入するわけ?」
 夏珠は何を当たり前のことを言ってるの的な顔をしているが、ただでさえ他校の人間が校内に入ってるというのに鍵まで奪った侵入行為などばれたりしたら許されるわけがない。俺も夏珠もただじゃ済まないのは間違いない。
 「いやいや、さすがにそりゃまずいって。見つかったらどうするのさ。だったら正直に事情を説明すれば少しくらい許してもらえるかも」
 「こういうのが楽しいんじゃん。捕まったら捕まったでいいよ」
 いや良くないだろとは思ったが夏珠はきっともう俺の言うことなど絶対に聞き入れないことくらいわかっていた。
 校舎は確かにがらんとして人の気配はまったくしなかった。校内で活動している部活もあるにはあるが、今日は何もないはずだと夏珠は偉そうに言っていた。
 職員室は、スポーツ部などの顧問が出入りしていたり、事務員がいたりはするもののあまり常駐してないしセキュリティは甘めだよと夏珠はかわいく笑顔で説明するものの、俺は不安でしょうがなかった。
 まずは職員室。下駄箱から右に曲がるとすぐにあり、扉が開いていたので中の様子が見えた。先生らしき人が二人いて、まったく別々の事務仕事か何かにあたっていた。鍵は職員室の扉のすぐそばにまとめてかけられていて、二人の先生はこちら側にはぎりぎり背を向けている格好だった。それでも入ってもたもたしていればおそらく視界に入るぎりぎりで気づかれる。
 「この時間が一番職員室に人が少ないの。鍵の有無なんてたぶん昼間に気にしたりしないだろうから鍵さえ取れればオッケー」
 その余裕はどこからくるのか聞きたかったが、それこそ時間が惜しい。夏珠が鍵を取ってくるという流れで、俺は職員室の後ろの扉まで行きその様子を見ていた。万が一に先生らが夏珠の方に向き直りそうだった場合には注意をそむける役目を負った。
 夏珠はキャッツアイさながらの見事な身のこなしで一切物音を立てずに狙いの品を奪ってすぐ外に出てきた。俺も夏珠もそのときには緊張と暑さによりかなりの汗をかいていた。
 鍵をゲットしてのち、そのまま俺たちは四階の美術室を目指した。途中すれ違う人もなくあっさりと美術室に到着した。念のため中に誰かいないか確認するも中は静まりかえって鍵もかかって誰もいないようだった。
 中に入ると美術室に独特の絵の具やら古い木やら油やらの匂いが鼻につく。熱気もこもっていたせいで余計にその匂いが強く感じられた。
 中からも鍵をかけることができたので一応鍵をかけ、さらに奥にある倉庫に向かった。昼間なのに聞こえてくるのはグラウンドからの部活の掛け声のみで変な静けさがそこにはあった。倉庫の扉はいたって普通の鉄の扉なのにファンタジー世界の宝の在り処のようにも見えた。
 夏珠が鍵を開ける音が大きく美術室に響きわたった。
 中は窓がなく太陽光が届かない作りになっていてほんのりひんやりする薄暗い部屋だった。電気を点けても外からは見えないので、かなり小さめなあってないような豆電球を灯した。
 「あった、これこれ。私の作品。題名は『想い人』なんだよ。遥征くんをイメージしたの。わかる?」
 口には出さなかったが、正直まったくわからなかった。華道なんて名前しか知らないし、生けられている花は当然どれも知らない。何がどう俺を表現しているのか全然理解できなかった。
 左下のほうに緑が際立った大きな葉っぱが三つ葉でもって二つ。真ん中にはピンクのコスモスのような花と真紅の鮮やかな小さな花。そしてそれらの背中を支えるように背の高い白と紫のゆりのような花。右側から後方にかけては、長い茎で先端に紅葉のような紅い葉をたくさんつけたものが鮮やかに上から見下ろしていた。
 素人目にはこれがどの程度の評価が与えられるものか見当もつかなかったが、色のバランスなど見ていて不思議と惹き込まれるものがあった。
 「ま、わかんないよね。土台を支えるのはしっかりとした若い力強い葉、中心にあるのは可愛らしい花々、トップにあるのは燃えたぎる情熱と紅く姿を変える肉食的なイメージ」
 「男らしさの上に女の子的な一面を出しながらもやっぱり狼のように肉食なのが本性だ、みたいな? 俺ってそんな感じ?」
 夏珠は笑った。
 「うん。まあ、だいたいそんな感じかな」
 「すごくいい。作品の出来なんかは正直言うとよくわからないんだけどさ、すごく好きだよこれ。なんだろ、見惚れてしまうっていうか」
 「そう言ってもらえると私も頑張った甲斐があるってもんだ。誕生日おめでとう」
 夏珠の作品が生み出す雰囲気の中に浸ってなんとなしに俺らは無言のまましばらくその作品に見入っていた。
 「ありがとう」
 そういって俺は夏珠を抱きしめていた。自分自身でも抱きしめてやっと自分が何をしているのか気づいたくらい俺は無意識だった。
 夏珠もドキドキしているのが伝わってくる。こっそり学校に忍び込んでいる背徳感と合わせた緊張感が俺も夏珠も最高潮にまで達していくのがわかる。
 別に初めてなわけでもないし、さっとキスくらいできたらかっこよかったのに俺はその独特な雰囲気に呑まれていた。ダサい童貞のように夏珠の肩に手を置いて躊躇していた。そしていざキスをしようとしたとき、廊下を通る人の声が聞こえた。特に美術室に用があるわけでもなくただ通り過ぎる人のようだったが、俺と夏珠は大きく体を仰け反って驚いた。
 びっくりでのドキドキでムードはぶち壊しとなってしまったが、目と目があったとき自然と笑顔がこぼれ大爆笑にいたった。
 「実はね、プレゼントは他にもあるんだ。はい、これ」
 そう言って夏珠は小さな青い袋をくれた。中を開けると携帯のストラップが二つ入っていた。一つは赤ベースで編まれたものに月と星のチャームが付いていて、spring snowと刻まれていた。もう一つは青ベースに同じく月と星のチャームで、summer pearlとあった。
 春の雪と夏の真珠。
 「それぞれがお互いのを持つのとかどうかな? 頑張って作ってみたんだけどすごく良く出来たと思うんだよね。すごくかわいくない?」
 「手作りなの? すごいクオリティじゃんか。マジでうれしいよ、ありがとう」
 今でも俺はそのストラップを持っている。さすがに付けてはいなかったが、実家の大事な思い出の箱の中にあるはずだ。
 「仕事の時間大丈夫? もう出たほうがいいよね」
 「あ、うん。連絡する。今度時間取る」
 「うん。仕事頑張ってね。いってらっしゃい」
 「夏珠も。いってきます」
 倉庫から保育園の入り口までに人はいたものの、特に俺のことを怪しむ人もいなかったためそのまま駅に向かい仕事に行った。電車の中でもまだ胸のドキドキを抑えることができなかった。いい歳した大人なのにと恥ずかしくも思う。
 夏珠との別れ際に引っかかっていたものの正体に気がついた。俺は凰佑のことをよろしくと言う立場なのに凰佑を登場させなかった。二人だけの世界ということだろうか。あれこれと都合よく考察はできても結局自分のことすらよくわかっていないんだと胸の音を聞きながら呆然とした。