春の雪と夏の真珠(第八話)

第八話

 桜の見頃は本当に束の間で終わる。その短命さゆえに花見ができずに四月を過ごす人も多い。満開の桜はもうすでに散り始め、葉桜へとその姿をシフトしつつあった。

 「でも葉桜もいいよね。春から夏に向けて衣替えの途中。ピンクと緑が絶妙なバランスになるときってそれはそれで素敵な眺めだと思わない?」

 夏珠の言葉を頭の中で何度も反芻する。そんな絶妙なバランスを持っているのが夏珠なんだよなと思う。初めて会ったときは夏っぽさ全開のイメージだった。でも時折見せる慈愛の表情やしぐさは春の桜の美しさのようだった。付き合ううちにそのどちらもが夏珠であり、春と夏を生きる女の子だと改めて惚れ直した。

 初めて夏珠と桜を見に行ったのは恋人へと関係を昇格させてすぐ翌週のことだったと思う。その年も桜が咲くのは遅かったため四月も第二週目に入っていた。春休みは終わり、中学最後の年を受験勉強と並行して楽しまなければならなかった。ただ夏珠という恋人の存在があった俺はいわゆるリア充で幸せ者だった。

 学校の授業がスタートしたため、違う学校に通う夏珠と会う機会は少なくなった。そんなときテレビのニュースで桜の開花宣言を見てすぐに俺は夏珠にメールした。

 俺には偶然見つけた桜の穴場スポットがあった。自分だけの秘密の場所として毎年そこで桜を見るくらいには桜が好きだった。夏珠と同じ景色が見たい。一緒に見れば桜はいつにも増して綺麗に映る気がした。

 世間は桜の開花に浮き足立っていた。週末はきっと桜の名所と呼ばれるところのほとんどが多くの人で賑わうことだろう。俺と夏珠はそうした俗世とは隔離された場所を並んで歩いていた。

 僅か二十メートルほどの短く狭いしっかり舗装もされていない道。その狭い道の両側にはびっしりと隙間なく桜の木が並ぶ。真ん中に立つと、全方位からいっぱいの桜が視界に飛び込んでくる。

 文字通り桜のトンネルであるその場所に夏珠を連れて行ったときの反応は今でもしっかりと覚えていた。

 そこに着くまでの狭い道を進んでいる段階では、桜のてっぺんの花がわずかに確認できるくらいだ。あまり良くない足場に注意を促しながら初めて夏珠と手をつないだ。さりげなくエスコートするかたちになったが、俺の心臓は飛び出るくらいに音を立てていた。

 「いい? そこの角を曲がると別世界だよ」

 何度も来ている場所だったのにいつもと違う感覚がする。夏珠の柔らかな手にほんのり力が入ったことでその緊張が伝わってきた。曲がればそこに広がる世界には俺もなんだか緊張した。

 「え?」

 夏珠がその光景を見て一番最初に発した言葉がそれだった。そこからしばらくは絶句という表現がもっとも適切だと思う。夏珠は長いこと声も出せずに固まっていた。そしてつられるように俺も同じ感覚を共有していた。例年見る桜とは明らかに違った。温かみのある淡いピンクのトンネルの入り口で、俺と夏珠は時が止まったかのように長く立ち尽くしていた。

 「凄い。凄すぎて何も言えなかったよ。こんなとこがあるなんて」

 「すごいでしょ。迷い込んで偶然見つけたんだ。でも今日見る桜はいつもと全然違う気がする。俺もびっくりした」

 「それって私効果じゃない? 桜が私を大歓迎で咲き誇った」

 「なにその超自意識過剰は」

 夏珠はむむっとほっぺたを大きく膨らませて不機嫌な顔をした。そんな小学生みたいなつまらないことでむくれる姿すら可愛く見えた。俺は無意識に夏珠のほっぺたをつついていた。

 ぷしゅーっと音がするかのように夏珠は元の顔に戻った。張り詰めていた緊張感が一気にほどけて、俺と夏珠は大笑いした。知らない誰かが見ていたならばさぞかしバカップルだと思われたと思う。

 住宅街の奥まった場所ということもあり、人を見かけることがほとんどない。今この世界には俺と夏珠の二人しかいない。

 清水の舞台から見る壮大な桜にも決して負けないボリューム感。桜が風に揺らぐ微かな音。桜の木の匂いに混じる夏珠の香り。揺れる花びら、舞い散る桜吹雪。それらを感じながらも時間が止まっている感覚を有する。

 俺と夏珠は一歩ずつ一歩ずつゆっくりと歩いた。一歩歩くだけで見える世界が変わる気がした。

 「なんかさ、春限定の桜の木でできた家に住む妖精になったみたいだね」

 「え、急に女の子みたいなこと言ってどうしたの?」

 「なにそれ。どういう意味? 喧嘩売ってんの?」

 すぐ怒り、すぐ笑い、すぐ喜び、そして、すぐ泣く。喜怒哀楽をはっきりと表現する夏珠と見る桜は、俺の感情をも豊かにしてくれるようだった。

 短い短い桜並木道。その完全に自然の桜で覆われたトンネルの中には俺と夏珠しかいない。もう何度もお互いにそう感じている。そう思った。

 ちょうど真ん中に差し掛かり、どちらともなく同時に足を止めた。俺と夏珠はドラマの主人公とヒロインになっていた。緊張感はなかったし、夏珠にもそんな様子はなかった。桜の、春の雪がささやかに舞う幻想的な空間に導かれるように、俺はごく自然に夏珠と唇を重ねていた。

 次の週末も二人だけの秘密の場所に行った。そのときはもう葉桜だった。

 「葉桜も素敵」

 そのとき夏珠が言った言葉をこれだけ時間が経ってなお鮮明に覚えている自分がいる。

 桜を見るのは毎年のこと。でも今年は明らかに違う。意識して桜を見ている。

 仕事帰りにわざわざ遠回りして保育園のそばを経由していく。桜を見ることを口実に、また偶然夏珠と出会うことを期待しているのかもしれない。自分自身の行動に頭が追いついていなかった。

 団地から漏れてくる灯りだけが頼りの暗い道で、ひとり夜の葉桜を眺める。鮮明に頭の中で紡がれる記憶に思いを馳せる。

 そう遠くないところから子どもの奇声が聞こえて我に返った。ずいぶん長いこと物思いにふけっていたことに気づいた。思わず周囲を見渡すも誰もいない。なんだか急に恥ずかしくなり、足早に家に帰った。