春の雪と夏の真珠(第十六話)

 第十六話

 恋愛キングには会えなかった。彼には隠し事などできないから正直なところを聞いてもらいたかった。今日は連絡先を交換するつもりだったのだが、会いたいときに限って会えないのはやはり世の常みたいだ。
 今日の俺は誰から見てもいいことがあった幸せ者の顔をしているらしい。度々会社の人間から「何かいいことでもありましたか?」と聞かれてしまった。厳密にはいいことなのかわからないが浮足立っていると見られてはそう思うしかなく、気を引き締めるきっかけにはなった。
 連休明けの仕事はすっかり落ち着きを取り戻し、今日も定時で会社を出ることができた。妻に連絡して俺が迎えにいくと伝え、俺は足早に保育園に向かった。夏珠が早番シフトで帰ってしまう可能性を懸念してということではなしに、なんとなく早く凰佑に会いたかった。
 いつもより多少早く保育園に着いたこともあり残っている子どもの数も多かった。普段から子どもの顔をよく覚えているというわけではないが、まったく見慣れない顔が多数あって驚いた。それでもどこかで子どもたちは俺のことを覚えているらしく、全然知らない子から凰佑のパパと認識されていて子どもの記憶力に脱帽した。
 ちょうど夏珠が帰るところを見かけた。向こうも俺に気がついたらしく携帯電話を取り出して目で合図をしてきた。連絡するというサインは昔から決まって今のような目のやり取りだったことを懐かしく思い出し、笑みがこぼれそうになった。
 夏珠の携帯は時代の変化とともにガラケーからスマホに移行してはいたが、そこには確かに揺れる赤いストラップの存在があった。遠目にもわかる月と星のチャーム。刻まれた文字こそ見えないまでもそれがあの時のストラップに間違いないことはすぐにわかった。それなのに、あれ以来ずっと付けていてくれたという事実を俺はどう受け取っていいのかわからないまま夏珠の背中を見送っていた。
 その夜、さっそく夏珠のほうからメールが届いた。表示された名前は夏川くんだ。さすがに鷲尾夏珠と本名で登録するのはあらぬ誤解など招くリスクが大きすぎると思い、夏川くんと登録した。
 月末の日曜日に会えないかというストレートな内容だった。『母を囲む会』というイベントがあっておそらくお互い時間を取れるのではないかと夏珠は提案をしてきたが、俺にはそれがなんの会なのかまったくわからなかった。
 「ねえ、『母を囲む会』ってなんなの?」
 俺は妻に聞いてみることにした。
 「あれ? なんで知ってるの? そういえばまだ言ってなかったよね?」
 「あ、さっきお母さんたちがそんな話をしてたのが聞こえたからさ」
 俺が知っていたら不自然な情報だったのだろうか。咄嗟に出た嘘でごまかせるか変な緊張が走った。
 「うん、次の次の日曜日かな。母親と子どもだけの会があるの」
 「保育園で? 父親は蚊帳の外なの?」
 なんとか自然な会話に持っていけたようでほっとする。
 「母の日にちなんだ会なんでしょ。きっと来月には父親に関するイベントが用意されるかもよ」
 「あ、なるほどね」
 「午前中は保育園で母子で遊んだりするんだって。で、一緒に料理して昼ごはんを食べる。午後は遠足と称して近場の山に登って夕方くらいに解散になるみたいよ」
 「そんながっつりなイベントなの?」
 「そう。ちょっと大変だよね。ほぼ一日だし」
 妻は露骨に面倒な顔をしていた。
 「断ったりできないの?」
 この時点で俺は内心日曜日に一人になれる時間が作れることを喜んでいたが、寂しいアピールがないと不審がられると思い会話を続けた。
 「それがね、断りにくいんだよね。不参加の人ってほとんどいなくてさ。というか参加しないのは気まずい雰囲気を作られちゃってて。これ父母会の自主的なイベントで、保育園は当日貸してもらうだけなの。今の父母会の会長がかなり積極的な人でさ、親子の絆をみたいなことを言うのが好きみたいで。せっかく会長になったからこの手のイベントたくさんやりましょうって。父母会の会長なんて絶対にやりたくないと思ってたけどこういう人が会長になるのも同じくらい面倒だわ」
 ということは保育士はいないのかもしれない。夏珠がその日を指定した理由がようやく理解できた。
 「先生らはいないってこと? 先生らなしでそんな本格的にやるの?」
 「ほんと。だったら先生たちも招待すればいいのにと思う。そしたらもっと盛り上がるし親の負担も少しは減るでしょ」
 「そっか。休みなのになんか悪いね。俺だけ一人ゆっくりできちゃうんだね」
 「ま、来月はもっとエグいのありそうだし。その時はパパの出番となるだろうから。ゆっくりしたらいいよ」
 「んー、確かにハードなのきそうだな。覚悟しておこう」
 妻は特に俺に対して思うところもないようで、そのまま凰佑とお風呂に行ってしまった。
 俺は気が引ける感じもありつつメールだとダラダラと時間がかかると思い、夏珠に電話をかけた。
 電話越しに夏珠の声を聞くのはやはり十四年ぶりのことで、面と向かって話すときに聞くのとは耳に神経を集中させているためか違って聞こえた。付き合ってた当時に比べれば少し低く落ち着いた声になった気がする。それでも当時の面影はしっかりと耳に感じられ、この声にも恋をしていたことを思い出した。
 夏珠の声は一般的な女性の声と比較すると気持ち高いくらいだろうか。発声した言葉が真っ直ぐ聞き手に送り届けられる伸びやかなよく通る声をしていて、俺は夏珠がどんなに小声で喋ったりしても聞き漏らすことはなかった。
 初めて電話したのはまだ付き合う前のことだったと思う。あのときも今と同じようにメールじゃ時間がかかるからと俺から電話をかけたんだった。
 その時から夏珠の声に魅了されていた。変わった声をしているわけではなかった。ただ俺が好きな声なんだと思う。普段話していて気が付かなかったその声に初めて電話をして気がついた。それ以来は以前よりもしっかりと夏珠の声に耳を傾けるようになった。
 たぶんだが、本人には声が好きとかそのようなことは一度も話したことがないと思う。ずっと密かな自分だけの楽しみとして夏珠の声を聞いていた。付き合ってほどなくして二人で行ったカラオケは最高に楽しかった。上手い下手とか関係なしに夏珠の歌声はしゃべり声とはまた違った艶っぽさがあり、ずっと聞いていたいと思ったほどだ。
 笑った声、怒った声、泣いた声、いろんなパターンの声を聞いてきた。そのどれもが夏珠であり、いつでも俺の心には強く響き、心地よい音が奏でられていた。
 「もしもーし」
 「ごめんごめん。なんか電話するのとかも久しぶりだなと思って」
 夏珠と再会してから俺がひとつずつ二人の思い出を丁寧に紡いでいることを夏珠は知っているだろうか。
 「また私の声に聞き惚れてたかい?」
 「え?」
 「一度だけ言ってくれたことあったの覚えてない? 私の声がなんだかわかんないけどすごく心地よいって。カラオケに初めて行ったとき。すごく嬉しくて今でもはっきり覚えてるよ。遥征くんは恥ずかしがってそれからは何も言ってくれなくなったけどね」
 記憶とは曖昧なもの。夏珠とのことはほんの些細なことでもきっかけひとつで詳細に思い出せるくらい脳の記憶領域を別フォルダで保存管理していたつもりだった。でも言われてみればカラオケで夏珠の声に聞き惚れすぎてつい言ったような気がする。
 「アニソン歌った後だよね。今も昔も変わらない俺の好きな声だよ」
 そう言って、まずかったなと後悔した。今でも夏珠のことを意識してると思われただろうか。実際問題として十分に意識はしているのだが、今はまだあまり露骨にそうした態度を取るのはよくないと思った。
 「そう。あれ以来ずっと私の声をいつも注意深く聞くようになったよね。ちょっと話すの恥ずかしかったんだから」
 俺の発言に特に気にした様子もなく、電話の向こうで夏珠は笑っていた。
 俺がそんなふうに聞き耳ばっちりだったことを夏珠が知ってたとは。当時の夏珠のことならなんでも知っていると自惚れていた。
 「日曜日、大丈夫そうだよ。会がある時間であれば自由に動ける」
 「そっか。よかった。じゃあ、ランチしてお茶でもしよっか」
 「了解。そうしよう」
 「うん。今って家だよね?」
 「そうだね。家にいる」
 「だよね。うん、ごめん。そしたら日曜日に。また保育園で。おやすみ」
 俺が家にいることを気にしたのだろう。会話がどこかぎこちない。俺と夏珠はずいぶんと別々の違った時間を過ごしてきたのだと感じた。
 「うん。おやすみ」
 俺は耳からスマホを外して画面を見た。でも通話を切るボタンを押せずにいた。通話時間の表示が一秒、また一秒と時を刻んでいく。電話は未だ接続状態のまま、無言で俺と夏珠はつながったままでいた。
 「ごめん。俺が切るね」
 夏珠はずっと耳に当てていたのかすぐに返事がきた。
 「うん。ごめんね」
 電話を切るタイミングすらもどかしくなる付き合いたての中学生のようだった。
 逢瀬とは、愛し合う二人が密かに会う機会をいう。お互いの気持ちを確認したわけではないから愛し合う二人ではないのだろうが、俺は自分がしていることを正直に妻に言えないこととして少なからざる背徳感のようなものを抱いていた。
 何度も考えている。けれども夏珠とのことを正直に言ったところで話がこじれるだけのような気がしてならなかった。それが結局自分本位の考えなのはわかってはいても、うまく伝えきれずに要らぬ誤解が生じ、俺と妻の関係が悪くなるなんてことは避けたかった。都合の良い考えでも、できるだけ誰も不幸にならない選択をしたかった。