春の雪と夏の真珠(第十七話)

第十七話

 六月の梅雨を前にして晴れ間をしっかり稼いでおこうとするのか、連日すっきりとした晴れが続いていた。ネットの週間予報や月間予報を見てもずらっと晴れマークが並んでいた。
 今朝の保育園の送迎が妻の番でよかった。どんな顔して夏珠に会えばいいかわからなかった。
 俺の心はひとまず先に梅雨入りしたのかもしれない。そんな洒落たことを考えながら歩いていると、会社の入り口に恋愛チャンピオンの姿を見つけた。
 「おはよう」
 「あ、おはよ。朝に会うなんて珍しいね。というか初めてかも」
 昼時以外に顔を会わせるのは確かになかったのかもしれない。
 「ちょっと相談があってさ。今度飲みにでもどうかなって思うんだけど」
 「ああ、例の恋愛相談ね。いいよ、行こうか」
 「連絡先知らなかったからさ、教えてもらっていい?」
 いくつになっても連絡先を聞くのはなんとも恥ずかしい。
 「そしたらまた連絡する、ありがと」
 彼は今日でもいいぜと言いそうな顔をしてはいたが、もう少し俺の方でも心の準備が必要だった。
 仕事に集中できないまま午前は過ぎていった。夏珠のこと云々ではなく、相談をするしないで悩んでいた。悩むポイントがずれていることはわかっていた。それならどうしてあの恋愛聖人に連絡先を聞いたのかとも思う。そんなモヤモヤした気持ちを上司に見抜かれた。
 「何か問題でもあるんじゃないのか?」
 優れた慧眼の持ち主だ。いや、俺がわかりやすいのかもしれない。
 「ええ、ちょっとくだらないことで悩んでたんですが、決めました。ありがとうございます、もう大丈夫です」
 考える前に動けとこの上司はよく言う。上司に声をかけられたことで俺はとっとと相談してみようと思い立った。
 そして結局今日の仕事終わりで飲みに行くことになった。夏珠に直接会うまでに話をしておいたほうがいいとも思うし、ダラダラしてたってしょうがない。
 「相談すると言いながらやっぱりどうしようとか悩んでたんじゃないの?」
 開口一番、この男も恋愛に関することとなれば上司にも勝る慧眼を備えているようだ。
 「いや別にそんなもんだって。女の子はけっこうすぐ相談を他人に持ちかけたりするけど男って変なプライドがあるから自分だけで頑張ろうとしちゃうでしょ」
 「で、どんなお悩みなのかな?」
 恋愛を司る神は一人で喋っている。
 「ま、とりあえずビールでも頼んで飲んでからでもいい?」
 この期に及んで出し惜しみをするわけではなく、万全とした説明の場を用意したうえで話したかった。
 店内は完全個室の居酒屋。居酒屋というにはだいぶオシャレな雰囲気で女の子でも連れてくればポイントも高いと思われた。個室のすべてを水槽が取り囲み、その中では優雅に魚が泳いでいる。海鮮居酒屋の料理に使う水槽とは違って本格的な水族館を思わせる神秘的な雰囲気は意中の子を落とす場としてもかなり効果的だろう。やはり店を知っているなと心の中でちょっぴり尊敬の念を抱いてしまう。
 ビールを二つ注文し、運ばれてきたものを見たとき一瞬違うものが来たのかと思ってしまった。ビールなんてジョッキでくるものとばかり思っていたので、底に細かなライトキューブを散りばめて青白く光る細長いピルスナーグラスはとてもビールには見えなかった。
 乾杯し一口飲むと、中身は普通のビールなはずなのに店内の雰囲気で一割、オシャレ過ぎるグラスで一割と味に補正がかかりとてつもなく美味しく感じる。
 「どうよ、リラックスして話せそう?」
 「慣れないよ、こんなオシャレなとこ。よく知ってるなと思う。さすがだよ」
 恋愛の化身は優雅にくつろいで笑った。
 「自分のタイミングでいいからさ。ゆっくり話してよ。時間はたっぷりあるんだから」
 そして言われるままに俺はゆっくりと口を開いた。
 その間、一言も口を挟まずただじっと黙って聞いてくれたのはありがたかった。相手に合わせることに長けた聞き上手だ。
 「すごいな。正直な感想ね。まるでドラマみたい。そんな偶然があるのかと鳥肌が立ったよ」
 「俺も最初は本当に信じられなかった。でもそうはいってもひと目でわかってしまっていたんだけど」
 「悩んでいる一番のポイントはどこ? 奥さんに言うべきか否かってとこ? それともその子のことが今でも好きかもしれないってとこ?」
 「正直なところそれすらもよくわかんない。なにがわからないのかわからないみたいな」
 俺の話を聞いてうっすらと笑みを浮かべて考えを巡らしている様子には余裕のようなものすら感じ取れた。
 「いいね、それこそ恋だよ。盲目になってるね」
 俺は怪訝な顔をしたんだと思う。
 「ごめんごめん。茶化してるわけじゃない。それは素直な反応なんだと思うから。恋には違いないけど、恋をするにしても真っ直ぐそこにだけフォーカスできないように様々なフィルターが置かれてしまってる。そしてそれは意識的なようでいて無意識でもある」
 いたって真剣な語り口で次から次へと哲学者みたいなそれっぽいことを並べてきた。恋愛の相談をしているのかもわからなくなりそうだった。
 「事はそう単純でもない。君は恋をしている。だがそれは今現在既婚者というステータスにあるからこそ生まれ得た感情かもしれない」
 俺に対する人称が苗字から「君」に変わった。
 「どういうこと? 結婚してなきゃ今恋に落ちてないと?」
 「『恋に落ちる』。いい表現だね。君はかつて恋に落ちた。そして再び同じ相手に対してまた恋に落ちた。おっと、失礼。話が逸れたね。あくまで可能性の域ではあるが、結婚してなきゃせいぜい『恋をする』に留まっていたかもしれない。もちろん程度の問題ではあるけれどもそれは重要なことだ」
 完全にスイッチが入ったのか、人格が変わったかのように明らかに口調が変わっている。そのときお店の演出なのか水槽が急に青から赤に変わった。
 「わかってない顔だね。恋という感情に君は恋をしていると言ってもいい。結婚するとそこにあるのは愛だ。恋じゃない。恋が昇華して愛になる。君が妻に対して持っているのが愛。だから恋が欲しくなるなんてそんな簡単なことではないだろうよ。愛に昇華したとしても恋の矛先を妻に向け続けることはできるし、普通はそうだろうからさ。でも君の恋の矛先は意識か無意識かはわからないけど、妻に向けられるように後から人工的に設定して生み出されたものであって、自然発生のものではない。自分の気持ちに正直になるならば、デフォルトだと君の恋の矛先はずっとその子に向いているといえる。言い方悪いが仮にも奥さんとは一度結婚して恋から愛への過程を経た。そして家庭を経験したことで奥さんへの恋の方向性を見失いかけていた。だから元々あったその子への恋の感情を奥さんに対してのものとして人工的に作りあげた。恋の矛先はずっと君から向けられていた。本当は誰に対してなのかはわからないが。そして、本来収まるべきところの相手が幸か不幸か再び現れたことで、その恋の矛先が奥さんとの比較でかつてよりも強い赤い炎を伴っているように見えた。いや、実際長い年月をかけて寝かせて熟成してるわけだからパワーアップしてるのは真かもしれない」
 俺は誰と話しているのだろうか。高いお金を出して怪しいセミナーにでも参加してるのかと錯覚しそうだ。
 言ってることはわかるようなわからないような。
 「つまりは、俺は結婚したことで無意識に元カノへの想いを強くしてて、結婚した妻ではなく元カノのほうが好きだと?」
 真っ赤な部屋の中で繰り広げられた熱いご教授をそんな簡単にまとめるのも気が引けたが、とにかくわかりやすくしてほしかった。
 「さあ。それは君にしかわからない。妻と元カノに優劣をつけることができるなら話は簡単だけどね。でも、結婚して子どもがいてとかそういった現在のステータスすべて抜きにしたなら本質が見えるかい? たぶん難しいだろうよ。真っ直ぐに妻にしても元カノにしても見つめるには今の君には双方が絶妙なフィルターとして作用してしまっているわけだから」
 妻のことを思うから夏珠としっかり向き合えず、夏珠のことを思うから妻に対しても後ろめたいような気持ちを覚えるということか。
 ならどうしたらいいんだろう。
 「で、ならどうしたら?」
 思ったことをそのまま口に出して聞いてみた。
 「ここまで偉そうにあれこれと言ってきといてなんだけど、まだ情報が足りない。君は自分の感情を抜きにした客観的な立場からしか話していない。話を聞く限りじゃなぜ君がそこまで元カノに固執してるのかがいまいち見えてこない。奥さんも子どももいる今の状況が揺らぐほどには思えないってことね。何もなく女に悩むほど君は軽い男だとは思えないしね。何を隠してる? そもそもそこが元カノと今度会って今一度見つめ直していかねばならない点なんじゃないの?」