春の雪と夏の真珠(第十八話)

第十八話

 これから梅雨を迎える。昼の暑さとは打って変わって夜はまだひんやりすることもしばしばだった。ビール一杯ではほろ酔いすら感じないが、肌に受ける風は冷たく心地よかった。
 恋愛を糧に生きるモンスターとの対談はほぼ言葉の一方通行で幕を閉じた。
 情報が足りないとの指摘はまさにその通りで、俺はやんわりでも夏珠に対して抱いている感情を極力出さずに説明をした。事実確認としてはそのように客観的なほうが好ましいと思ったからだ。けれども、そこに本質がないことをあっさり見抜かれた。
 「まだ話せないなら無理に話さなくてもいい。かなり繊細な問題のようだからね。今日のところは早いがここまでにしよう」
 時間にしたら二時間としっかりしたものだが、その間に飲んだものはお互いにビール一杯のみ。俺が口を開いたのは状況説明のみで、あとはほぼワンマンライブをひたすら見ていた。
 俺が語ったのは夏珠とのごくありふれた思い出。決して平凡という域を出ないもの。その程度の思い出だけで再会を悩むほど俺は弱くないとの見立てをされたわけだが、それは買いかぶりすぎで俺は弱い。こと恋愛に関しては特に弱いと思う。
 今の妻と結婚して落ち着くまではそれ相応に恋愛をし、失恋もした。一人を好むようでいて恋人ができると急に寂しがり屋になる。かと言ってそれを態度に示すのはかっこ悪いと考え、距離感が中途半端になりうまくいかなくなる。ほとんどがそのパターンだった。
 誰かと付き合うといつも同じことの繰り返しだった。付き合った人はすべて全力で好きだった。別れてもなお思い出は大事に保存されている。どうやら俺は別れた相手全員に少なからず未練があるのだと思う。喧嘩して別れても、嫌いになって別れても、相手を好きだった事実がなくなるわけじゃない。俺は楽しい思い出だけを切り取って残していた。
 そうした思い出を並べたとき、確かに指摘された通り夏珠との思い出は特別大事に保存されていたんだとわかる。ありふれた思い出だけでも十分に心を揺さぶられてしまう。でも、もっと深い闇があるのは事実だろう。俺はそれを記憶の奥底に厳重に鍵をかけてしまった。
 無理に思い出すことは避けていた事実。
 夏珠と再会しなければ二度と開けることがなかったはずの記憶の引き出し。それを開けようとしている。そしてそれは開かねばならないものだとも理解している。
 緑の葉を静かに揺らす桜の木を見上げながらぼんやりと思う。今思い巡らせていたことを相談にのってくれた同僚には話していないなと。仮にも恋愛相談なわけで、もっと自分をさらけ出さなければ相手もアドバイスなどできないだろう。そして自分自身でも気づいている問題の本質を伝えることなく俺は漠然とアドバイスを求めた。
 冷たい風が強さを増す。「お前のしてることは相談相手に対して失礼なことなんだ」と怒られている気分だった。
 同僚の器量に甘えるかたちとなり飲み屋を後にしたわけだが、それでも浅い理解ながら十分に気付かされたことも多い。気付かされたというよりは気付かないふりをしていた事実をしっかりと認めさせられたというべきか。
 「あら、おかえり。意外と早かったんだね。終電で帰ってくるとばかり思ってたのに」
 家に帰れば妻がいる。それが今の俺には当たり前の日常だ。
 「うん。仕事の話だし、いまいち盛り上がりに欠けてね」
 部屋の奥から凰佑が出てくる。
 「パパー」
 寝るのが遅い凰佑は夜も元気だ。早く寝ろと言ってもなかなか言うことを聞いてくれない。
 抱きついてくる凰佑に心がほっとする。
 「みてー。わしおせんせい」
 女の子の形をした真っ白な絵に凰佑が色を塗ったようだ。無秩序にひっちゃかめっちゃかにぐりぐり塗りたくっているそれをご満悦の表情で目の前に出してきた。
 「おおー。よく描けてるね。凰佑はほんとに夏珠先生が好きなんだな」
 凰佑を寝かしつけに来た妻が意外そうな顔をしていた。気になったが凰佑を寝かすほうが先だと俺はお風呂に向かい妻と凰佑におやすみと言って別れた。
 熱いシャワーが身に染み入る。しっかりしなければと思う。
 寝室では妻が保育園の連絡帳にコメントを書いていた。
 「そういえばさ、さっきよく凰佑がわしおせんせいって言ったのが夏珠先生だってわかったね」
 ようやく鎮まり静まった心が一気に爆発するかのように膨れ上がった。暑さと寒さが同時に襲いかかってきて心拍脈拍すべてが上昇していくのがわかる。
 何か言わないと不自然だと思った。だがあまりの不意打ちに言葉が出てこない。
 「え。いや、ちゃんと聞いてなかった。凰佑が名前を出す先生は夏珠先生だろうと脳が勝手に置き換えてたから。わしお? 苗字だよね?」
 「保育園には一応写真と名前が書いてはあるんだけどね、隅っこのほうだしみんなちゃんと見てないからさ、私も知らなかった。鷲尾ってかっこいいよね」
 「鳥の鷲? だよね? たぶん」
 「そうそう。鷲の尻尾。鷲尾夏珠ってなんか宝塚のスターみたい」
 妻は字の並びの美しさを褒め称え笑っていたが俺は心から笑うことはできなかった。
 妻は俺に対して本当に何も感じていないのだろうか。とはいえ「俺ってなんか変じゃない?」などと自分から聞くことは疑ってくださいと言っているようなものでできるわけがない。
 聡い妻が何も気がついていないとは思えなくてうっすらと体が震えていた。このままベッドに入るのは無理だと思い、
 「カップラーメンってあったかな? あまり食べなかったから小腹が」
 妻は見る限りじゃ一切の変化もない様子で、キッチンにあるから勝手に食べてと俺を送り出した。