春の雪と夏の真珠(第三十九話)

第三十九話

 すっきりとした朝だった。
 意識ははっきりとしている。長い夢でも見ていたのかもしれない。夢を見ることで人間は記憶の整理をするなどというが、ごちゃごちゃになっていたメモリーが解放され軽くなっている気がする。
 妙に頭は冴え渡り、処理速度は格段に上がっているようでいい仕事ができそうだとも思えた。
 「凰佑、おはよ」
 珍しく我が子はしゃきっとした顔で起きている。ご飯を食べながら朝のテレビにも食いついていた。
 気分も悪くない今日なら息子の粗相も軽くやり過ごせそうな感じもしたが、そこはさすがの天邪鬼ぶりをいかんなく発揮してくれた。凰佑はいつにも増して聞き分けがよく素直に歩き、保育園での準備もあっさり終えた。
 事務室にいる夏珠と目が合う。
 おはようの意味の笑顔をお互いにやり取りして、俺は会社に向かった。
 「あれ、一皮剥けたみたいな顔しちゃって」
 恋の神通力を惜しみなく使う同僚はなんでも知っている。
 「いいか悪いかはわかんないだけどさ、お互いのすべてをぶつけることができたと思う」
 「そっか。その顔に行き着くまでにはかなりの苦労もしたんだろうね。でもいい顔してると思う。胸はって言い回れるような内容のことではないだろうけど俺は君のしたことを称えるよ」
 この同僚にはお世話になった。アドバイスが直接効いたかは疑問だが彼との対話であれこれと考えさせられたのは確かだ。
 「ありがとう。これからもちょくちょく飲みには行こう」
 「そうだね。今度は俺の方から酒の肴となる話題を提供できるように頑張るよ」
 恋の引き出しの多さはすでによく理解している。改めて話題を仕込んでくる必要などなさそうにも思ったが、彼なりの挨拶だろう。
 クリスマス、大晦日と一気に慌ただしくなってすぐ年が明けるんだろうなとオフィスの窓の外を吹きすさぶ冷たいであろう風、飛んでいく葉っぱにそう感じた。
 それから数週間が過ぎ、いよいよ年末かと世間もどこか慌ただしい雰囲気が漂っていた頃、家に帰ると妻もその波に乗るように慌てた様子で駆け寄ってきた。
 「どうしたの?」
 帰宅を歓迎しているのとは違う何か重大なことを言うときの顔だ。
 「夏珠先生、年明けでもう辞めちゃうんだって」
 「え?」
 夏珠が辞める事実は俺以外の保護者にはまだ公表していなかったのだろう。年も暮れかかったこの時期とは急すぎやしないか。俺の驚きはそうした意外性であって夏珠が辞めることに対してではなかったが、つい安易に驚きを表してしまった。
 「ねー。びっくりだよね。もう少し早く言ってくれればいいのに」
 妻は俺が素直にもたらされたニュースに驚いていると思ってくれているようだった。
 「詳しいことはちゃんと聞いてないんだけどね、でも保育士さんが変わる最後の日は顔を出すって」
 妻のその発言にやはり保育士が変わることは俺が聞き逃していた可能性が濃くなった。
 「ごめん、保育士が変わるっていうのさ、俺ちゃんと聞いてなかったみたいで最近親御さんらが話してるのを断片的に聞いて知ったんだけど……」
 「は? 保育園に入る前に話したよ。一年で先生が変わるのは少し可哀想だよねって」
 「言われてみたらそんな気もするんだけどさ、ごめんなさい。たぶんうわの空だったかも」
 妻はまったくという表情をするも怒ってはいなかった。
 「ま、それはいいとして、夏珠先生だよ。担任だしさ、何かあげようって話になってるの。親子でメッセージカードみたいのを手作りしようかってのが有力」
 「うん。いいんじゃないかな。俺らも何かするんだよね?」
 「そりゃそうでしょ。凰佑なんてひとりじゃまだ無理なんだから。うちらがベース作って凰佑にも色を塗らせたりする感じなんじゃない?」
 どこか夏珠がいなくなることが嘘のような期待もあったが、間違いなく現実として話が進んでいることが分かった。納得していたはずの心がわずかに揺らぐ心地だった。
 夏珠へのプレゼントは各々の親子による手作りメッセージカードということに決まった。
 凰佑の写真を中心に添えて周りにメッセージを書く。凰佑にも自由に書かせてやると、前衛的な画家のような筆使いの絵が現れた。
 凰佑は複数の色鉛筆を駆使して懸命に描いていた。凰佑なりに夏珠がいなくなるということを理解しているのかもしれない。
 話を聞く限りでは凰佑は誰よりも夏珠に懐いているようだった。どんなに機嫌が悪くとも夏珠であれば笑顔になる。他のどの先生を無視しようとも夏珠だけは絶対に無視しない。
 少々露骨すぎる態度は子どもだから許されるのかと親ながら思ってしまうほどだった。次の日から夏珠の姿が毎日見えなければ凰佑も寂しく感じてしまうかもしれない。