春の雪と夏の真珠(第十話)

第十話

 駅の周辺はほとんど団地で埋め尽くされている。駅周辺を抜けると一戸建ての住宅が並ぶ場所が見えてきた。都心からは離れた町とはいえそこに並ぶ家々はどれも立派な門構えで、かなりの金持ちが住んでるだろうとかねてから思っていた。そんな住宅街に入ったところで、ふと夏珠は自分がお嬢様に見えるのか聞いてきた。
 「ん? 見た目とかじゃあんまりわかんないな。話を聞いて、華道とか軽井沢の別荘とかそういうちょいちょい出てくるフレーズでお嬢様なのかなって思う程度。性格だってあまり上品には思えないし」
 「なにそれ? 女らしくないってこと?」
 急に沸点が低くなるときがある気がする。夏珠はちょっぴりご機嫌斜めの様子だ。お嬢様らしく見られるのが嫌なのかと思って発言したのだが少し間違えたようだ。
 「いや、違うって。上品じゃないから下品ってことじゃないし。いわゆるお嬢様みたいなキャラって癇に障るくらい上品なイメージじゃん。夏珠は全然普通の女の子だから」
 それを聞くと今度はほんのりニヤけた。忙しいやつだなと思ったりもしたが、そんな夏珠もやはり好きだった。
 建ち並ぶ高級住宅の一つが夏珠の住む家だった。大豪邸と呼んでも差し支えないくらいの大きさで、外側の門から家の玄関までですでに俺の家の大きさと同じような気がした。外観はシンプルな四角形の作りで、ダークグレーで統一されたメタリックな印象のやや近未来な雰囲気の建物だった。
 玄関を入ると中はスペースで溢れていて、とにかく開放感に満ちていた。真っ直ぐに夏珠の部屋に行ったため家の内部構造はわからなかったが、聞くに部屋は十くらいあるらしい。両親の他に祖父母も住んでるらしく、泊まり込みでの来客も多いとか。さぞかし社会的地位が高いのだろうと想像してしまう。
 夏珠の部屋はやはり広かった。俺の家の寝室二つ分くらいありそうだからおそらく十二畳ほどあるだろうか。なんの背景知識もなくその部屋を見たら男の子が使っているんじゃないかと思うくらい物が少なくシンプルで、女の子の部屋にありそうな彩りが一切なかった。
 中学三年とはいえ俺も何度か女の子の部屋に出入りしたことくらいはある。女の子の部屋というとピンクや赤といった典型的な女の子カラーで飾られていることが多い。やや性格がボーイッシュな夏珠といえど女の子らしい部屋を想像していただけに素直に驚いてしまった。
 「なに? 部屋が殺風景だなとか思ったんじゃない?」
 見事に心を見透かされてさらに驚きたじろいでしまった。
 「うん。もっと女の子女の子した部屋だと思ったからさ」
 「正直だな。でも事実だよね。昔はけっこうそうだったんだけどさ、なんかめんどくさくなっちゃって。かわいい部屋は親がそうさせてたとこがあったから、それに対する反抗かな」
 確かに普段着ている洋服を見てもあまりど派手な感じのものは少ない。ユニセックスとまではいかなくとも女の子の典型が着るようなものはあまりイメージがなかった。この時まではあまり気にしていなかったが、女の子らしい服装の夏珠も見てみたいと思った。
 「夏珠らしいと思うから、全然いいと思うよ。でもかわいい服とか着ても似合うと思うけどな」
 「え? 服?」
 思ってたことをつい口走ってしまって恥ずかしくなった。
 「あ、いや、服もシンプルにしてるのかなって」
 夏珠は納得した顔で微笑んでくれた。
 「服は別にそんなにこだわってないよ。超フリフリのスカートとかは履きたくないけどかわいいと思う服はそれなりに着るよ」
 嫉妬心を意識した。自分の前ではかわいい姿であってほしいと思う傍らで、あまり本気を出してオシャレをしないでほしいとも思ってしまっていた。夏珠は絶対モテるから。
 夏珠の部屋でも俺たちはひたすらおしゃべりをした。祖父母も家にいるとのことで完全な二人っきりではないにしても密室に二人という状況には変わらない。思春期の淡い期待もどこかにあったとは思うが、ただ一緒にいるというだけで二人とも幸せだったんだと思う。
 「ちょっと、何してるの?」
 実家の近くの市民病院を俺は立ち止まって眺めていた。また昔の思い出に浸ってしまっていて、妻から叱咤の声が飛んできた。凰佑は大きな病院の前に止まる救急車を見て不謹慎にもテンションを上げている。
 「親子そろってぼけっとしないで」
 実家に着くまでにあといくつの思い出ポイントを通るんだっけ。遠い昔を偲ぶ旅みたいだと、実家に帰る足がいくらか軽くなる心地がした。
 そんな気分で歩いている様子は妻にも伝わるらしく、
 「楽しそうだね」
 やや嫌味の込もったトーンで釘を刺された。
 妻にしてみれば俺の実家などあまり居心地のいい場所ではないだろう。心から楽しめるかと言えば決してそうではないはずだ。
 病院を抜けると、毎年夏休みに盆踊りが行われるそこそこ広い公園がある。広いは広いのだがすぐ後ろが道路ということもあり、あまり球技などにはむいていない。なのでそこまで頻繁に利用するというところではなかった。それでも久々にそこを歩けば、予想していた通りに懐かしい記憶が呼び起こされる。
 辺りは夏の様相を帯び、蝉の鳴き声と大音量の盆踊りの歌がコラボする。びっしりと並んだ屋台の焼きそば、たこ焼き、水飴、リンゴ飴、金魚すくい、綿菓子、射的と見ているだけで楽しくなる光景が浮かんだ。
 中学三年の夏。
 ぼちぼち受験勉強にも熱が入る時期でもあったが、休みならばいつも夏珠と会っていた。八月下旬の土日に行われるこの町で最大のお祭りにも当然一緒に行くつもりでいたのだが、夏珠は祭りの存在自体は知ってたもののまだ行ったことがないとのことだった。団地に囲まれた場所にあり、確かに夏珠の家からは少し遠い。それならなおさら一緒に行こうと夏珠を誘った。過去に付き合ったどの子よりも一緒に行きたい気持ちが強かった。
 ちょうどこのお祭りの一週間前が夏珠の誕生日だった。付き合って初めて迎える彼女の誕生日は頑張りたかったが、その当日お互いに珍しく都合がつかず会えないままメールと電話だけで誕生日を祝った。まだバイトもしていないためお金は親からもらうしかなかった。そのため凝ったプレゼントを買うことができず、俺は情けなくも素直に夏珠にそのことを告げた。
 「だから、その代わりお祭りは最高に楽しいようにエスコートする」
 お祭り当日は夕方駅前で待ち合わせをした。俺の家からだと会場となるその公園を通って駅に行くため往復することになるが、夏珠をエスコートすると気合が入っていた。
 夏の夕方はまだ全然暗くなかった。日が傾いて暑さはいくらか和らいでいるものの、西日に直に当たればあっさりと汗ばむようだった。駅前に早く着いてしまい手持ち無沙汰にどうしようとキョロキョロしていると、雑多な人混みの中にはっきりと光り輝くオーラみたいなものが見えた。俺の目は一直線に迷うことなくその光に向けられた。そこにはまだ待ち合わせ時間でもないのに俺を見つけて小走りになる夏珠がいた。
 淡い白をベースとした生地に微妙なグラデーションによる色合いの桜が数々と散りばめられている浴衣を着た夏珠は、俺の目には誰よりも輝いて見えた。
 その姿を見て胸がきゅーっと締め付けられるような感覚が走った。今まで付き合った誰にもこのような感情を持たなかったことに気づいた。
 本気で夏珠のことが好きだと思った。
 絶対に離したくないと思った。
 ずっとずっと一緒にいたいと、そう思った。
 「何か言うことないの?」
 開口一番、夏珠は小言を言うようにぶつくさと照れくさそうにそう聞いた。夏珠の魅力に本当にやられていた俺はすぐに言葉が出てこなかった。
 「すごい似合ってる」
 馬鹿正直な実に素直な感想だった。静かな海で肩を寄せ合いささやき合うかのようなボリュームの声だったと思う。それでも夏珠には伝わったみたいで、俺も夏珠も顔を真っ赤にしていることがコンビニの鏡に映っていて大笑いした。
 すれ違うすべての人が夏珠のことを見ていく気がした。釣り合ってるかはともかくとして、俺は夏珠を連れて歩くことがすごく自慢げだった。
 一番最初にやったのはヨーヨー釣りだった。俺も夏珠もうまいこと赤と青のヨーヨーを釣り上げた。ちょうど隣では小さな兄妹もチャレンジしていて、その姿を夏珠は微笑ましく見て、子どもってかわいいよねと子ども好きの一面を見せてくれた。
 すごい人の多さだったため俺たちは自然と手をつないで歩いたものの、今更ながらかなり照れくさい感じがした。それは夏珠を今まで以上に本気で意識したからだろう。
 ゆっくりと屋台を見て回り、盆踊りのリズムに揺られながら少し離れた公園の木の下で休んだ。毎年来ている夏祭りなのにその印象は大きく異なっていて、新鮮にすら感じていることを夏珠に話すと、
 「それって私効果じゃない?」
 夏珠は得意の節を展開した。
 「そうかもね。夏珠はどう? ここの夏祭り」
 笑って流すふうでいて俺は本当に夏珠のおかげで祭りが楽しいんだと思っていた。夏珠も同じ気持ちでいてくれたらどんなに嬉しいことか。
 「最高。いつものお祭りの一億倍楽しい。なんか遥征くん今日男らしくてちょっとキュンとしちゃった」
 楽しいとの一言だけでも嬉しかったのに、プラスアルファの一言で俺のほうがキュンとしておかしくなりそうだった。気づけば俺は夏珠の手を引き、思いっきり抱きしめていた。
 「誕生日おめでとう。プレゼントこんなんでゴメン」
 木の下は暗く、そんなに人の目があったわけではなかったが、随分大胆な行動に出たもんだと後々振り返ったことを覚えている。
 夏珠は突然のことにびっくりしたようではあったが、
 「ありがとう」
 そう言ってそっと優しく俺の体を包んでくれた。
 その時に香ったほのかな夏珠の香りは今でも覚えている。

春の雪と夏の真珠(第九話)

第九話

 夏珠とメールのやり取りをしたのは番号を交換した最初の日だけで、それ以降は特に連絡はなかった。

 どこかほっとする気持ちと少し残念に思う気持ちがないまぜになってすっきりしない。頻繁に連絡を取り合える関係ではない。夏珠もその辺りをわきまえてのことだろうか。それとも、本当はもっと連絡したいと思っているのだろうか。

 今日は行きも帰りも俺が凰佑を担当した。けれども朝も夜も保育園に夏珠の姿はなかった。

 「あら、おうちゃんパパおかえりなさい。何かお探しですか?」

 年配の保育士さんに不意に声をかけられた。無意識に夏珠を探していた自分に動揺を覚えるも、何事もなかったかのように愛想笑いでその場をしのいだ。

 「凰佑、今日は夏珠先生と遊んだ?」

 凰佑にならまだ俺の気持ちを察することなどできないだろうと軽い気持ちで言葉を投げかけた。

 「え、なつみせんせいいないよ」

 「ん? お休みかな?」

 まだ大雑把な会話しかできないため細かな点を追求することが難しい。夏珠が今日いなかったことは間違いないようだが、それ以上のことはわからなかった。

 夏珠とのことがなんともうやむやな状態のままゴールデンウィークに入った。仕事が重なり保育園に行けない日が続き、そのまま大型連休となってしまった。

 十連休の計画は、俺の実家に二泊、そこから俺の両親と一緒に伊豆旅行だった。

 心ここにあらずとまではいかなくとも、ふと夏珠のことを考えてしまう時間が増えてきたことは自覚していた。妻や凰佑が気づいている様子はないが、あらぬ誤解を招いてもと思い、極力ポーカーフェイスを意識した。

 夏珠がどこに住んでいるかなんて知らない。保育園がこの町にあるからといって夏珠もここに住んでいるとは限らない。けれども近隣に住んでいる可能性はある。ゴールデンウィーク初日、実家に帰るために乗る電車で夏珠と乗り合わせてしまうことをつい想像してしまった。

 実家のある駅までは乗り換えなく一本で行ける。それでも九十分もの長旅になる。凰佑はさっそうと落ち着かない様子で騒いでいる。今は凰佑が言うことを聞かないでいてくれたほうがどうにも気が紛れた。

 電車一本で帰れるところに実家があるとはいえ、帰省するのはかなり久しぶりのことだった。いつでも帰れると思うとなかなか足が向かなくなる。

騒ぎ疲れた凰佑と、怒り疲れた父親である俺はわりと簡単に眠りに落ち、気づけばすぐに実家の駅に到着していた。

 ベッドタウンとあって駅の周辺には相変わらず団地でいっぱいだった。団地にはすべて鳥の名前が付いていて、長く暮らしている住人にはわかりやすい。

 駅周りにすべてそろっていて、生活するに何不自由ない。俺が子どもの頃と比べるとさらに利便性が増しているようだった。

 駅に隣接する商業施設で手土産にとケーキを買った。このケーキ屋は俺が中学の時にできたもので、まだそこにあることに懐かしさが込み上げてきた。そして同時に、またも夏珠のことを思い出してしまった。

 夏珠もここのケーキは好きだった。店内にイートインスペースもあるため俺と夏珠はよく塾や学校の帰りに寄り道をしていた。

 よく見ると店内の内装は当時と大きく変わっていた。安いフードコートだったはずが、高級感を醸し出す造りで個室っぽい席が設えられていた。座っている学生を見てもどこか品があるように見えてしまう。その学生らに当時の自分たちを重ねてしまいそうになり、慌てて凰佑と外に出た。

 家に帰るまでの道のりには大きな市民病院がある。その敷地内を通るのが最短ルートでいつもここを通っていた。この病院には何度もお世話になった。小さな頃に中耳炎で入院し、中学最後の年に入ってすぐにも突発性難聴というやはり耳の病気で入院した。

 あらゆる景色が必然的に夏珠と結びつく。

 二週間くらいの入院だったか、毎日お見舞いに来てくれた夏珠のことを思う。

 「三年生スタートしていきなり入院って、なんてアンラッキーなの?」

 心配そうにしながらも病室には夏珠の笑い声が響いた。

 「ほんとだよ。突発性だって。原因とかわかんないらしい。マジでいきなりだよ。急に左耳が聞こえなくなって。あれ、聞こえないって自覚した瞬間に三半規管のせいかな尋常じゃないめまいがしてさ。座ってたのにグルグル回ってその場にぶっ倒れた。地面に頭がついてなおグルグル回ってて本当に死ぬと思ったよ。母親が帰ってきて息子が倒れてるって慌てて救急車を呼んで即入院。二週間で完治しないと一生治らないんだって」

 俺は幸いにも三日ほど点滴を受けただけでほとんど聴力は回復していた。正確には完治してないようだが、日常生活には何も問題はなかった。

 「ま、無事でなにより。やることもないんだし受験勉強に勤しめ」

 退院したときがちょうどゴールデンウィークだった。部活はまだ引退してなかったが体は急に動くはずもなく、暇をしてても友達はみなこの時期部活に精を出していたため遊び相手もいない。とにかくやることがなかった。

 夏珠の言うように勉強してもよかったが、早めの段階で塾にも通っていたため志望校への内申は十分だったし、入試の対策もまだそこまで必要性を感じなかった。

 そのため、夏珠がずっとそばにいた。

 夏珠は華道という変わった部活に所属していた。家柄が良くお嬢様育ちのため、本人の希望というよりは親の意向で華道部に入れられたようだ。精神を集中する雅な世界だと夏珠は言っていたが俺にはまったく理解できなかった。

 そんな華道部はゴールデンウィークが完全にお休みということで夏珠は俺のそばにいる。毎年家族で行く軽井沢の別荘をひとりキャンセルし留守番することにしたらしい。

 「そういえばさ、なんでそんなお嬢様な家柄っぽいのに中学も高校も私立じゃないの?」

 せっかくの連休なのに俺と夏珠は最寄り駅近くのカフェで時間を潰していた。

 「親は私立に入れたかったみたい。でも私は嫌だったの。小学校で仲良くなった友達と離れたくないって。だからその代わりになるべく親の言うこと聞くようにしてる。華道を続けてるのもそれ。ま、華道は私自身もけっこう好きではあるんだけど。高校の選択に関してはもう口出ししてこなかったな。なんか急に方針変えたみたいで、好きなように生きなさい的な?」

 小さな団地に住む俺たち貧乏家族とは住む世界が違うんだろうなと子どもながらにも感じた。けれど夏珠と一緒にいてそうした距離感を感じることはまったくなかった。

 「ねえ、私ってお嬢様っぽい?」

 夏珠の家に行くことになり歩いていると突然夏珠はそう口にした。

   

春の雪と夏の真珠(第八話)

第八話

 桜の見頃は本当に束の間で終わる。その短命さゆえに花見ができずに四月を過ごす人も多い。満開の桜はもうすでに散り始め、葉桜へとその姿をシフトしつつあった。

 「でも葉桜もいいよね。春から夏に向けて衣替えの途中。ピンクと緑が絶妙なバランスになるときってそれはそれで素敵な眺めだと思わない?」

 夏珠の言葉を頭の中で何度も反芻する。そんな絶妙なバランスを持っているのが夏珠なんだよなと思う。初めて会ったときは夏っぽさ全開のイメージだった。でも時折見せる慈愛の表情やしぐさは春の桜の美しさのようだった。付き合ううちにそのどちらもが夏珠であり、春と夏を生きる女の子だと改めて惚れ直した。

 初めて夏珠と桜を見に行ったのは恋人へと関係を昇格させてすぐ翌週のことだったと思う。その年も桜が咲くのは遅かったため四月も第二週目に入っていた。春休みは終わり、中学最後の年を受験勉強と並行して楽しまなければならなかった。ただ夏珠という恋人の存在があった俺はいわゆるリア充で幸せ者だった。

 学校の授業がスタートしたため、違う学校に通う夏珠と会う機会は少なくなった。そんなときテレビのニュースで桜の開花宣言を見てすぐに俺は夏珠にメールした。

 俺には偶然見つけた桜の穴場スポットがあった。自分だけの秘密の場所として毎年そこで桜を見るくらいには桜が好きだった。夏珠と同じ景色が見たい。一緒に見れば桜はいつにも増して綺麗に映る気がした。

 世間は桜の開花に浮き足立っていた。週末はきっと桜の名所と呼ばれるところのほとんどが多くの人で賑わうことだろう。俺と夏珠はそうした俗世とは隔離された場所を並んで歩いていた。

 僅か二十メートルほどの短く狭いしっかり舗装もされていない道。その狭い道の両側にはびっしりと隙間なく桜の木が並ぶ。真ん中に立つと、全方位からいっぱいの桜が視界に飛び込んでくる。

 文字通り桜のトンネルであるその場所に夏珠を連れて行ったときの反応は今でもしっかりと覚えていた。

 そこに着くまでの狭い道を進んでいる段階では、桜のてっぺんの花がわずかに確認できるくらいだ。あまり良くない足場に注意を促しながら初めて夏珠と手をつないだ。さりげなくエスコートするかたちになったが、俺の心臓は飛び出るくらいに音を立てていた。

 「いい? そこの角を曲がると別世界だよ」

 何度も来ている場所だったのにいつもと違う感覚がする。夏珠の柔らかな手にほんのり力が入ったことでその緊張が伝わってきた。曲がればそこに広がる世界には俺もなんだか緊張した。

 「え?」

 夏珠がその光景を見て一番最初に発した言葉がそれだった。そこからしばらくは絶句という表現がもっとも適切だと思う。夏珠は長いこと声も出せずに固まっていた。そしてつられるように俺も同じ感覚を共有していた。例年見る桜とは明らかに違った。温かみのある淡いピンクのトンネルの入り口で、俺と夏珠は時が止まったかのように長く立ち尽くしていた。

 「凄い。凄すぎて何も言えなかったよ。こんなとこがあるなんて」

 「すごいでしょ。迷い込んで偶然見つけたんだ。でも今日見る桜はいつもと全然違う気がする。俺もびっくりした」

 「それって私効果じゃない? 桜が私を大歓迎で咲き誇った」

 「なにその超自意識過剰は」

 夏珠はむむっとほっぺたを大きく膨らませて不機嫌な顔をした。そんな小学生みたいなつまらないことでむくれる姿すら可愛く見えた。俺は無意識に夏珠のほっぺたをつついていた。

 ぷしゅーっと音がするかのように夏珠は元の顔に戻った。張り詰めていた緊張感が一気にほどけて、俺と夏珠は大笑いした。知らない誰かが見ていたならばさぞかしバカップルだと思われたと思う。

 住宅街の奥まった場所ということもあり、人を見かけることがほとんどない。今この世界には俺と夏珠の二人しかいない。

 清水の舞台から見る壮大な桜にも決して負けないボリューム感。桜が風に揺らぐ微かな音。桜の木の匂いに混じる夏珠の香り。揺れる花びら、舞い散る桜吹雪。それらを感じながらも時間が止まっている感覚を有する。

 俺と夏珠は一歩ずつ一歩ずつゆっくりと歩いた。一歩歩くだけで見える世界が変わる気がした。

 「なんかさ、春限定の桜の木でできた家に住む妖精になったみたいだね」

 「え、急に女の子みたいなこと言ってどうしたの?」

 「なにそれ。どういう意味? 喧嘩売ってんの?」

 すぐ怒り、すぐ笑い、すぐ喜び、そして、すぐ泣く。喜怒哀楽をはっきりと表現する夏珠と見る桜は、俺の感情をも豊かにしてくれるようだった。

 短い短い桜並木道。その完全に自然の桜で覆われたトンネルの中には俺と夏珠しかいない。もう何度もお互いにそう感じている。そう思った。

 ちょうど真ん中に差し掛かり、どちらともなく同時に足を止めた。俺と夏珠はドラマの主人公とヒロインになっていた。緊張感はなかったし、夏珠にもそんな様子はなかった。桜の、春の雪がささやかに舞う幻想的な空間に導かれるように、俺はごく自然に夏珠と唇を重ねていた。

 次の週末も二人だけの秘密の場所に行った。そのときはもう葉桜だった。

 「葉桜も素敵」

 そのとき夏珠が言った言葉をこれだけ時間が経ってなお鮮明に覚えている自分がいる。

 桜を見るのは毎年のこと。でも今年は明らかに違う。意識して桜を見ている。

 仕事帰りにわざわざ遠回りして保育園のそばを経由していく。桜を見ることを口実に、また偶然夏珠と出会うことを期待しているのかもしれない。自分自身の行動に頭が追いついていなかった。

 団地から漏れてくる灯りだけが頼りの暗い道で、ひとり夜の葉桜を眺める。鮮明に頭の中で紡がれる記憶に思いを馳せる。

 そう遠くないところから子どもの奇声が聞こえて我に返った。ずいぶん長いこと物思いにふけっていたことに気づいた。思わず周囲を見渡すも誰もいない。なんだか急に恥ずかしくなり、足早に家に帰った。

春の雪と夏の真珠(第七話)

第七話

 今朝はいつもより早く目が覚めてしまった。二度寝の誘惑に駆られることもなく、すんなりと起き上がることができた。

 自分の身支度をすべて整えてから息子の凰佑を起こした。早く目が覚めたぶん凰佑を起こす時間も普段より少し早い。それでも珍しく前日早く寝たためか凰佑は機嫌が良く、かなり早い時間に家を出ることになった。

 連日と風が強かったせいで道には飛び散ったたくさんの桜の花びらがピンクのカーペットのように敷きつめられていた。それを見て凰佑は物珍しそうに声を上げていた。

 保育園までの坂道を登っていて、夏珠と少しでも話がしたいがために早く家を出たように思えた。家を出るまではそんなこと微塵も感じていなかったのだが、視界に入る桜は夏珠を連想させるキーアイテムの如く俺に夏珠を意識させた。

 ずっと会いたいと思っていたはずなのに、いざ再会すれば素直にその気持ちを表現することができない。会いたいのに会いたくない。本当に会ってもいいものか。微妙な思いが胸をくすぶる。考えている間もなく保育園に着き、真っ先に俺と凰佑を迎えたのは他でもない担任の夏珠だった。

 「おうちゃん、おはよ」

 爽やかに挨拶する夏珠は春のイメージで、周囲をその優しさで包むかのようだった。

 凰佑は夏珠が大好きだ。他の先生のときとは露骨に態度を変え、デレデレと甘えた声を出す。かなり好き嫌いがはっきりしていて、嫌いな先生には挨拶すらきちんとしない。

 保育園の先生に対する凰佑の態度を見ていると、どうやらサバサバしたツンデレ系の女の人は苦手にしているようで、おっとりしたいかにも優しい感じの女の人を好む傾向にあることがわかった。子どもなんてみなそうなのかもしれないが、これは父親である俺とは逆の性質だった。俺はおっとりしている優しい感じというのはどこかトロいイメージを持ち好きにはなれなかった。むしろ攻撃的なデレ少なめのツンデレのが好意を持つ。そして夏珠の本性は、実はサバサバしたツンデレだ。夏珠はうまいこと園児を騙しているようだ。

 「おうちゃんのお父さん、おはようございます」

 甘える凰佑をあやしながら夏珠は俺に挨拶をしてきた。園児の父親に挨拶しているだけなのに俺は不覚にもドキドキと鼓動が高鳴るのを抑えることができなかった。

 「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

 平静を装いお腹に強い力を入れて声を絞り出した。

 夏珠と目が合った。

 どのくらいそうしていただろうか。かなり長い時間ずっと見つめ合っていたような気がする。

 「おうちゃんだー」

 仲の良い友達の大きな声で我に返った。周りから変な目で見られていないだろうかとつい慌てて周囲をきょろきょろしてしまった。そんな俺の思いを見透かしてか夏珠はくすくすと小さく声を漏らしながら意地悪く笑っていた。

 「お仕事頑張ってください」

 そう言って、夏珠は凰佑や他の園児を連れて奥に入っていった。

 どうにも敬語で話すことに慣れない。それでも一度こうして夏珠に会ってしまうと案外緊張はなくなり、肩の荷が下りたみたく気持ちは軽くなった。

 昼休みに再び恋愛マスターである例の同僚と席が一緒になった。

 「ひとつ聞いていい? 昨日の続きなんだけどさ、結婚して子どもがいたとしても他に好きな人ができてしまい、そっちが運命だと思えば迷わずそっちに行くの?」

 昼間からなんて話題を持ち上げているのだと思ったが、もう聞いてしまった。同僚はその手の話は大歓迎といった嬉しそうな顔をしている。

 「気持ちに素直になるというのはどんな状況でも貫きたいとは思うよ。でも実際問題子どもがいるとなるといろいろと難しくなるね。子どものために離婚を絶対に避けたいとする人はいるだろうし。離婚したとしても養育費やら慰謝料やらとお金もかかるでしょ。それらを当たり前のように払えるならともかく普通はそう簡単にはいかないよね」

 珍しく同僚がまっとうなことを言った気がした。

 「じゃあ子どもがいるケースなら諦めるってこと?」

 「いや。諦めたりはしない。子どもまで生んでなんだと社会的にはひどく糾弾されるんだろうけどさ、自分の一度きりの人生なんだよ。仕方ないところもある」

 前言は撤回だと思った。

 「ちょっと待って。今なんか少しひいた? 違う違う、なにも積極的により運命に近い相手を貪れってんじゃないんだよ? 基本的なスタンスは一途で浮気なんてしない。ただ、それでもこれだけ長い人生を生きてりゃさ、紙一重の差かもしれないけどこちらの人のがより運命の人なのかもって思える人が出てくる可能性もあるでしょ。そもそも恋愛って出会う順番や付き合う順番で決まるの? あまり理解されない考え方かもだけど、浮ついた気持ちはこれっぽっちもなくて、全部本気だ」

 思わず食べたものを吹き出しそうになった。決して浮気ではなくて、あなたのこともあの人のことも本気なんだ、そう言って納得する人間がどこにいるのだろうか。考え方としてはわからないこともないが、今の日本人の多くが持つ恋愛観にはまずそぐわないし、今後もその考えが浸透していくとも思えない。

 「みんながそうだと無秩序な社会になるとか思った? でもさ、案外そうでもないと思うんだよね。結局どこかでバランスって取れるんだよ。今は少数派だからそう感じるだけでさ、もしかしたら今ある日本人が当たり前だと思う恋愛観も少数派からスタートしたのかもよ?」

 織田信長の時代に誰が飛行機で空を飛ぶことができると思っただろうか。フランス革命期に誰が電話で世界中の人とタイムレスで話すことができると思っただろうか。確かそんなような理屈をあれからも延々と同僚は語っていた。

春の雪と夏の真珠(第六話)

第六話

 昨日に続いて今日も凰佑を送っていくのは妻だ。駅までの道のり、どうにもぼんやりとしてしまうなか、昨夜に夏珠から来たメールを見ていなかったことに気がついた。

 メールの内容は当たり障りのないシンプルなもので、会えて嬉しかったこと、またゆっくり話をしようということが書かれていた。すぐにまた保育園で顔を合わせるわけで、いつまでも返信しないのも変だと思い、同じような内容を打って返すことにした。

 朝の駅は人で溢れている。知っている人とすれ違ってもわからないことのほうが多いはずだが、ついすれ違う人間に気を配ってしまう。つい夏珠を探してしまっていた。会いたいのか会いたくないのかはっきりしない。そんなもやもやする気持ちを抱えたまま混雑率が異常な通勤ラッシュに俺は飛び込んだ。

 いつもと異なる日常となったからか、妙に時間が過ぎるのが早く感じる。あっという間に迎えた昼休み、スマホでぼんやりとニュースを眺めていると、三組に一組が離婚しているという記事に目が止まった。離婚の原因の第一位は性格の不一致らしい。

 思わず笑ってしまい同僚に指摘された。

 「なに携帯見てニヤニヤしてんの?」

 「いや、馬鹿だなと思ってさ。離婚の原因が性格の不一致なんだってよ。結婚すんなって話じゃない? 結婚や出産で性格が変わるなんてのはもちろんあるだろうけどさ、それも含めて理解するなり見極めるなりして結婚するんじゃないのかな。みんな安易に結婚しすぎだ」

 かく言う俺も偉そうに言えるほど考えて結婚したのかと聞かれると言葉に詰まりそうだが、少なくとも性格の不一致で離婚することはまずないと思う。

 「お互いに釣った魚に餌はやらないんだろう。結婚がゴールみたいなとこあるから。その後のモチベーションが続かない」

 この同僚は確かまだ結婚はしていない。彼も結婚願望がないわけではないが、本気でずっと一緒にいたいと思える人とは巡り合っていないそうだ。現在彼女はいるという。そうなると今の彼女に対してその発言はどうなんだと思うが、口には出さなかった。

 「ちなみに二位は?」

 「ん? 何が?」

 「離婚の理由」

 「あ、えっとね、二位は夫の不貞行為だって。でもこれのほうが納得かも」

 結婚は一応永遠の愛を誓うことであるわけでその契約期間内に他の女性に気が向くのはやはり良くないだろう。

 「なんかいい仕組みないのかね」

 同僚は真剣に悩んでいるようだった。食後のタバコを吸いながら渋い顔をしている。

 「なにが?」

 「縛られすぎじゃん? 結婚してます、恋人います、だから他の人を好きにはなりません。それっておかしくない? そうやってのっけからリミッターを取り付けちゃってたらさ、運命の人を取り逃がすでしょ」

 「悪い、どういうこと?」

 この同僚、常日頃から独自の恋愛観を語ることで有名だったことを思い出した。なにせ頭が良く、しゃべりも上手いせいで聞いてるほうはなるほどなと納得させられてしまうことが多いという。だけど今のは少しよくわからない。

 「例えば、俺は彼女がいます。でもその子が運命の人かはまだわかりません。あ、運命の人かどうかの判断をどこでするかは今は置いておく。で、彼女と付き合っていて、他にいい子と出会ったとします。絶対的に好きで、直感的にも運命を感じる相手ね。その新たに出会った子が運命の人かもしれないのに、俺は今恋人がいるから他の人は好きにはならないよ。これって自分の気持ちに嘘をついてるし、そのせいで運命の人を取り逃がしてる可能性がある。逆もあるよ。運命の人と思える相手を見つけたけど、その人は恋人持ちか既婚者だった。だからその人のことを好きになってはいけないと諦める。どちらも馬鹿だ。世間的に見たらそれは当たり前のように思えるかもしれないけどさ、それは今の日本がたまたま一人の人を愛しなさい的な社会にあるだけで本当のところ何が正しいかなんて誰にもわからない」

 「結婚してても他の人を好きになっていいってこと?」

 「それは自由じゃんか。いいか悪いかではなくて、結婚してるからこの気持ちはいわゆる好きではないんだと決め込むなってこと」

 わかるようなわからないようなが正直な感想だった。

 「でもそれだと男女関係がめちゃくちゃになるんじゃ?」

 「もうすでにめちゃくちゃでしょ。毎日ばんばんと離婚してんだよ。しかも今さら性格の不一致とかってもう十分異常だと思うけど」

 「好きだからこそふと見つけてしまった相手の嫌な部分が許せなくなってしまうのかもよ」

 俺は別にこの同僚の意見に賛成とも反対とも立場をとっているわけではないが、一般論として思うところを言ってしまった。

 「いや、結局自分が許せる部分にしか目を向けてないからそんなんなんでしょ? 絶対に無理な部分を愛せとは言わない。そんなのは苦行だし。でも付き合う段階でこれだけ好きな人でも自分が絶対にしてほしくないこともする可能性があるって考えないのかな」

 「いやいや、そんなこと考えないでしょ、普通。好きになればなるほど余計に美化しちゃうと思うけど」

 「今の奥さんは? 美化しちゃってる?」

 考えたこともなかった。でも美化はしていないと思った。俺はもともと性格や価値観は違うからこそ面白いと考える人間だ。付き合う相手には自分にないものを求める傾向が強かった。それは妻も同様で、その点では俺と妻は価値観が一致している。けれど根っこにある性格はかなり違うし、そのへんが絶妙な心地よさを与えるものだとも思っていた。 妻が突拍子もないことをしても俺はたぶんそれを受け入れるだろう。

 「美化はしてないかな。俺も妻も性格や価値観の違いなんて気にしない。むしろ同じじゃつまらないくらいに思っている」

 「へー、それそれ。誰もが価値観は同じじゃないと駄目って言うじゃんか。だからすぐ破綻するんだよ。同じ価値観の人間なんているわけないのに。根本的なところがおかしいんだから救いようがない」

 確かにその点に関しては賛成かもしれない。決して存在しないだろう同じ価値観の人間を追うことで人間関係がこうもあっさりと脆く儚いものになっている。

 「脱線した。だから、俺が言いたいのは、もっと自分の気持ちに正直になって恋愛に勤しめってこと。恋する気持ちとオシャレをする気持ちはいくつになっても忘れちゃいけないと思う。どちらも自分を磨き輝いた状態にしてくれる」

 脱線も何も、そもそものテーマは世の離婚問題であってこの同僚の恋愛観についてではない。

 同僚は満足といった表情で足取り軽やかにその場を後にした。その後ろ姿には確かにある種のオーラが見える気がした。恋にもオシャレにも気をかけるその神経と集中力はそのまま仕事にも反映されている。実際にその同僚の仕事ぶりは同期を圧倒していた。

 その夜、妻とも同じテーマで会話をした。

 「離婚原因の一位が性格の不一致なんだって」

 妻は案の定のこと声をあげて笑った。

 「結婚すんなって話だよね」

 俺と同じ感想を持ったようだ。というよりも誰だってそう思うのではないかと思ってしまう。きっと当事者たちはそのときが来るまではまず性格の不一致で別れるなんて思ってもいないのだろう。

 「三組に一組が離婚なんて立派な社会問題じゃない?」

 俺の問いかけに妻は真剣に自分の考えを述べる。

 「結婚の敷居を上げたらいんじゃないかな。別れにくくするとか。でもそうすると今度は子どもが生まれなくなるのか。難しいね。ん、離婚が増えてるなら片親の子どもが増えてるのかな? あ、子どもがいないで離婚してる場合もあるのか。子どもの数が減るのを覚悟で真実の愛の結婚か、子どもはできるが今と変わらずどんどん離婚か。はたまた結婚しなくても子どもが生まれて育つ仕組みを作るか」

 「え? 最後のはまずくない? 親の責任が軽くなるからそれこそ親のいない子どもが増えてしまうんじゃない?」

 「ま、例えばだから。離婚だけならそんなに悪いことでもないじゃんよ。子どもがいた場合に問題なわけでしょ」

 その通りだ。子どもがいないのなら別れていいということでもないが、所詮は結婚なんて紙の上の契約でしかない。それは恋人の段階で別れることと気持ちの面でもそこまで変わらないのかもしれない。会社の同僚の顔が浮かんだ。子どもがいる場合でも真実の愛を見つけたならば気持ちの赴くままに走るのだろうか。

 「二位はなんなの?」

 この流れは当然だった。

 「夫の不貞行為だって。これは納得かな」

 言っていて顔が暑くなった。平静を保とうと必死になっている自分が笑えてきた。俺はやましいことなど何もしていないというのに。

 「ま、はるくんは大丈夫か。そこまで肉食じゃないもんね」

 さらっと妻は言ってのけた。信頼されているということか、男としての魅力に欠けると思われているのか。素直に喜んでいいのかわからず苦笑いしかできなかった。

春の雪と夏の真珠(第五話)

第五話

 時折吹く強く冷たい風に煽られながら俺たちは立ちっぱなしのまま昔話に花を咲かせてしまっていた。人がほとんど通らない暗い道とはいえ保育園は目と鼻の先にあり、他の保育士や保護者がどこで見ているかわからない。保育士と保護者が道すがら偶然会ったように見えるかもしれないが、話している内容をもし聞かれたならばあらぬ誤解を招いて変な噂が飛び交っても不思議ではない。

 「ごめん。こんなとこで長々と話すことじゃないよね」

 そう言うものの夏珠は純粋に再会を喜んでいるようだった。笑顔が絶えることはなく、明るい。それに反して、俺は正直未だに戸惑いを隠せないでいた。俺には夏珠がどうしてこんなに普通にしていられるのか理解できなかった。この十四年間を俺と夏珠はまったく異なる想いで過ごしてきたのだろうか。

 「立場上こんなふうに仲良く話してたらまずいよね。でも話したいことたくさんあって。時間とれる?」

 夏珠は何を望んでいるのだろう。俺と同じように夏珠ももう別の誰かと結婚して子どもを生み、暖かく幸せな人生を歩んでいるのかもしれない。そうならば俺と再会してする話はひとつのけじめだろうか。夏珠は俺との再会を奇蹟だと言った。そんな出会いに感謝をし、過去に起きたことをすべて精算するつもりなのかもしれない。それでも夏珠が元気に振る舞うなかにはどこか少し無理をしている部分もあるんじゃないかとも思ってしまう。

 俺自身もずっと夏珠と話をしたかった。話をすることを望んでいたはずなのに、いざ夏珠を前にすると萎縮してしまっているようだった。自分の器の小ささに打ちひしがれた。

 「ねえ、聞いてる?」

 暑いのか寒いのかよくわからなかった。汗ばむようでいて肌寒く鳥肌が立つ。自分が何を考えようとしているのかもわからなくなっていた。

 「ごめん。ちょっと思考が追いつかなくて。それくらい俺にとって夏珠との再会はインパクトのあるものだったから」

 「私だってそうだよ。だからこそ話がしたいの。駄目?」

 俺がよく知る夏珠だった。少し歳をとったが今なお変わらない夏珠に懐かしさを覚えた。それと同時に俺の胸の中では落ち着かない何かが騒ぎ立てていた。いつだって俺はこんな夏珠に振り回され、けれどもそれが全然嫌ではなく、ずっと続く当たり前のものだと思っていたはずだった。

 家に帰ると凰佑が満面の笑みで出迎えてくれた。扉ひとつで違う世界に来たんじゃないのかと思うくらい家庭は温かく、その温度差にどっと疲れがにじみ出た。

 妻は凰佑をうっとおしくあしらいながら夕食の支度をしていた。部屋にはシチューのような空腹を刺激する美味しそうな匂いが広がっている。

 「おかえり。飲んできたんだよね? 忘れてて普通に食事の用意しちゃった。まだ食べれる?」

 飲みの席ではほとんど食事らしい食事をしなかった。そのためお腹は空いていた。

 「もらうよ」

 俺はそう妻に言い、自室に着替えに行った。

 部屋は妙に静けさに満たされていて落ち着かなかった。静けさに身を委ねてしまうと、何かわからないがその何かに自分が負けてしまう気がした。

 すぐに着替えて凰佑と遊ぼうとしたそのとき、机に置いたスマホが震えた。登録していない番号からのショートメールで、間違いなく夏珠からだと思った。夏珠と会ってしまったあの場をひとまずお開きにするには番号を交換するしかなかった。決して連絡先を教えることが嫌だったわけではないが、教えてすぐメールが来るということがここまで自身の心を揺さぶるものだともっと慎重に考えるべきだった。俺はメールを確認することなく部屋を後にした。

 心拍数が異常をきたしている。浮気をしている人間を尊敬する。俺には平常心を保つべく神経を集中させるだけで疲れてしまう。絶対にすぐバレるだろうと思う。

 「パパ、みて」

 凰佑が妻に買ってもらったミニカーを誇らしげに見せつけてきた。凰佑を見て夏珠は何を思うのだろう。気づけば頭の中が夏珠で埋め尽くされている状態に寒気がした。

 出来上がったシチューを食べ、ものすごくほっとした。今ある幸せで十分だと思った。それ以上など望んでいない。

 それ以上。

 夏珠とはそれ以上があるのか。

 結局どうしていても夏珠に思考が結びついてしまう。

 「今日一緒に飲んでたのって、あっくんだっけ?」

 妻の何気ない質問が疑いをもつもののように聞こえてしまった。暑くはないはずなのに俺は妙に汗をかいていた。

 「うん、そうそう。かなり久しぶりだったから話もはずんで楽しかったよ」

 「また家にも遊びに来てもらいなよ。凰佑がまだ歩けない時に来た以来だよね」

 流れる月日の早さを感じる。妻が言う話がつい先日のように思える。

 「そうだね。またみんなでご飯でも食べようか」

 凰佑は俺が食べているのもお構いなしにあれこれと話しかけてくる。そのたびにパパからもママからも注意される姿は哀れだが可愛らしかった。

春の雪と夏の真珠(第四話)

第四話

 俺たちが一番初めに出会ったとき、それはまだ中学生だった。高校受験に向けて塾などに通う人が増えるのは中学も三年になってからだが、俺はそこそこ勉強は真面目にやっているほうで二年の終わりには塾に通い出していた。

 夏珠とはその塾で初めて出会った。でも最初は一方的に俺の視界に夏珠が入っていただけだ。同じ塾の、俺よりランクがひとつ上のクラスにいる優等生だった夏珠に俺は一目惚れをした。

 中学生ながらそれまでにも恋人を作るという恋愛経験はあった。けれどそのどれとも違うときめきのようなものが俺の心の内にあった。
 勉強が嫌いではなかったことに感謝して俺は猛勉強した。かなり不順な勉強理由だが結果的に成績もクラスも上がり、そのご褒美に夏珠と同じ教室で勉強することができるようになった。
 彼女は俺とは違う中学校に通っていた。同じ町に住んでいてもぎりぎり学区が異なるのはよくあることだった。その塾に彼女と同じ中学校の生徒は少なく、会話するメンバーが固定されていてなかなか話す機会はなかった。
 それでもできるだけ行動を合わせるようにした。偶然を装いよく顔を会わせるように動いた。我ながらやることが小さいとは思ったが中学生なんてそんなものだろう。
 次第に顔だけ知っている仲から、いつからか少ないながら言葉を交わす仲になっていた。
 春休みに入り、春期講習が始まった。そのころには自然に会話もできるようになった。もっと彼女と仲良くなりたかった俺は、高校に合格したら買ってもらえるはずだった携帯電話をあれこれ理由を並べ一年早く前倒しで買ってもらうことに成功し、彼女と番号を交換した。
 毎日のようにメールのやりとりをし、塾の帰りに二人でお茶をするようにもなった。

 「ねえ、志望校ってどこなの?」

 「俺は家からも近いし港南第一高校に行くつもり」

 「そうなんだ。でもあの高校ちょっと古くて汚くない? 私は綺麗な高校がいいからさ、市立北にしようと思うの。出来たばかりですごく綺麗なんだよ」
 俺が行こうとしていた高校は確かに古くて汚いで有名だった。でも電車やバスに乗ってまでして通学することなんて考えられなかった俺は、歩いて行けて学力もそこそこな高校に目星をつけていた。
 夏珠が行こうとしていた高校は学力こそ俺のところと同じくらいだが、新しく校舎を建て直したばかりでとにかくその最新設備が売りだった。
 夏珠がそこに行くなら俺も志望校を変えようかなとも思ったが、決めたことを曲げる人間と思われたくなかったし、別々の高校に通っているくらいの距離感のがいいかもしれないと、まだ付き合ってもいないのにそんなことを考えていた。
 中学生くらいの頃はお互いにちゃんと言葉にしないことには関係が前に進まなかったんだと思う。お互いを名前で呼ぶほどの仲になり、四月に入ると周りから見ても付き合っているように見えるくらい俺たちはいつも一緒にいたが、まだ恋人ではなかった。それこそ友達以上恋人未満なんていう曖昧微妙な関係にあったのだと思う。
 先に告白したのは夏珠だ。
 その年も冬が長引き四月に入ってもまだ桜はあまり咲いていなかった。厚手のコートこそいらないものの、それなりに着込んでないと寒さが残る季節だったのを覚えている。
 塾の帰り、夏珠は用事があると急いでいた。けれど先に出口へ向かったはずの夏珠はまだそこにいた。急に雨が降り出したため足止めをさせられていた。天気予報では雨が降るかもと言ってた気がするが彼女は傘を持っていなかった。俺は持っていた折りたたみ傘を彼女に差し出した。

 「俺は大丈夫。教室にもう一本折りたたみを置いてあるから」

 もちろんかっこつけるための嘘で傘なんてその一本以外に持っていない。彼女が困ってる姿を見るのが嫌だった。

 後日塾で話してるとき、俺の友達のせい(おかげ)で、俺たちの物語は大きく動き出した。

 「この前すんごいずぶ濡れで歩いてんのな、よく風邪ひかないな」

 教室内のすぐ近くに夏珠はいた。その場は明るいムードに包まれてはいたが、そのとき夏珠と目が合った。

 夏珠の目はどういうことか説明しなさいよと言わんばかりの少し怒ったふうに見えた。

 「さっきのどういうことなの? ずぶ濡れって何? 傘持ってるって言ってたじゃん」

 塾が終わり駅の裏手の人通りがほとんどないところで俺は夏珠に追い込まれていた。人の流れがほとんどなくとも駅の真裏とあって声がたくさん飛び交って静かではない。それが沈黙の気まずさをいくらか和らいでくれてはいたが、素直に俺は謝った。

 「ごめん。でも夏珠が困ってるのが嫌だったんだ。急いでたみたいだし二人で一つの傘に入るのも動きが遅くなると思って」

 「それで一人ずぶ濡れで帰ったわけ? どうして一人でかっこつけるの? 私だって遥征くんが辛い思いするの見たくない」

 夏珠はいつになく本気で怒っているようだった。感情で声が大きくなる癖があるタイプだが、リミットを越えると逆に声がすごく小さくなるのが夏珠の特徴であることをそのとき初めて知った。
 小鳥が優しくさえずるかのようなささやき声でいて、とてもよく通る怒気が込もった声に俺は本気でやばいと思った。

 「遥征くんは好きな人が自分のためとはいえ辛い思いをするの我慢できる?」

 怒りながらもどこか照れてるしぐさを見せたために俺はその違和感になんとか気づくことができた。だがいろんな感情が湧き上がっていたせいで冷静に考えることができなかった。

 「今のって……」

 「もっとちゃんと言いたかったのに」

 やっぱり告白なんだと思った。俺もずっと夏珠のことは好きだった。でも友達として仲良くなり過ぎたことが結果的にそれ以上距離を縮める妨げになっていると感じていた。便乗するようだけれども、これはもう俺も正直に気持ちを伝えるべきだと思った。

 「夏珠、俺も夏珠のことが好き。友達としてじゃない。ずっと好きだった。ちゃんと言えなくてごめん。でも本当に好きです」

 ひどい噛み噛みの告白だった。それでも両想いであるなら晴れてハッピーエンドで抱き合うなどの王道展開を期待していた俺はその後の夏珠の言動と行動に驚いた。

 「なら一人でかっこつけるな」

 言葉と同時に強烈な握りこぶしが俺の右肩に飛んできた。あまりの理想と現実のギャップに思考がすぐには追いつかなかった。

 「一人で頑張って苦しむなんて許さないから」

 殴られて一人で痛みに苦しむ今のこの状況はどうなんだよと言いたかったが、そんなちょっぴり破天荒な夏珠もまた好きだった。

 駅から小さな子どもの「バーカ」という甲高い声が聞こえてきた。

 俺は夏珠を「バーカ」と全力で抱きしめた。

 「ちょっと、痛いよ」

 「一人で苦しむなって言ったじゃんか。夏珠も痛い思いを共有」

 そんなあまりロマンティックではないやり取りを経て、俺と夏珠は正式な恋人に関係を昇格させた。