春の雪と夏の真珠(第三十話)

第三十話

 夏珠がいなくなるとあっという間に梅雨が明けた。痛烈な日差しを送り込む夏が訪れた。
 俺の生活は何も変わらなかった。夏珠に会えないというのは残念なようでいて少しほっとするようでもあり、夏珠のことを考えるたびに複雑な想いに苛まれた。
 毎年夏になると夏珠は元気いっぱいにいつもよりさらにテンションを上げていた。
 「私の季節だよ」
 雨が好きな面もあるから涼しいのが好きかと思えばそうではなく、暑い日差しを全身に受けるのも自然の恵を感じるとかで大好きだという。
 確かに夏珠の口からは「寒い」という言葉は聞いたことがあっても、「暑い」という言葉は聞いたことがなかった。
 いつだって俺が「暑い」と口にすれば、「暑いから夏なんだよ、暑いから楽しいんじゃんか」と滴る汗にもお構いなくどんどんと夏珠は歩いていた。
 太陽の光にきらめく夏珠の汗に暑苦しい印象はなかった。むしろ爽快な輝きを放つそれはまさしく夏の真珠に違いなかった。
 朝から元気に高校生くらいの女の子が走っている。夏休みに彼氏とデートだろうか。彼氏を後ろに置き去りにして、はやる気持ちを抑えきれずに自然と駆け足になる女の子に夏珠の面影を重ねていた。
 「早く、早くー」
 白のノースリーブに同じく薄い白の羽織りを合わせた清楚だが色っぽくも見える大人のコーディネートが微笑ましく見える。足元のミュールはワンポイントの金具がキラキラと太陽に反射して女の子の元気を演出している。
 男の子も清潔感のある白を基調とした格好で、彼女に振り回されることも楽しいといわんばかりに追いかけている。
 もう何十年も夏珠のいない夏を経験してきたはずなのに。心にぽっかりと大きな穴が空いた感じがするのはなぜだろう。
 「映画、楽しみだね」
 彼女らが口にしているのは最近話題の映画だ。漫画が原作の、過去に戻って事件を解決する作品だったと思う。
 最近テレビや映画ではタイムリープものが流行っている気がする。過去のある時間に戻ってやり直す。流れる時間に逆行する。もしあの日あの場所に、過去に戻れるのならば、あの事件を回避することはできるのだろうか。
 もしあの事件が起きていなければ、俺は今こんな気持ちに苛まれることもないのか。夏珠との間に凰佑がいて、三人で家族として暮らしていたのだろうか。
 分岐した世界線の話でいうならば、今のこの世界線と平行して夏珠との人生という世界線が流れているのかもしれない。
 これから仕事だというのに朝からどんな突飛な空想に浸っているのかと思う。暑さで少し頭がぼけている。
 八月は夏珠の誕生日がある。毎年のようにその日は空に向かってお祝いをしていた。どんなに夏珠のことを考えない一年があったとしてもその日が夏珠の誕生日であると、脳が、体が覚えていた。
 けれどもそれは突然に思い出すとは違う。自然に、俺の中でごく自然に夏珠の誕生日が当たり前のように消化される。そんな感覚だった。
 今回に関しては特に意識していたこともあるのか、誕生日当日になぜだか俺は緊張していた。
 仕事に向かう途中、福岡にいる夏珠と出会うはずないのにばったり会うんじゃないかとドキドキしている。乗り降りする女性につい目がいってしまう。ホームを歩く女性を探してしまう。
 会社に到着し仕事をしながらも時間は常に気にしていた。そして、夏珠が生まれた時刻、十時十四分にメールを送った。
 その日の夕方、夏珠からの返信には胸を突く懐かしさがあった。
 「ありがとう。来月は遥征くんの誕生日だね。九月、最初の雨の日にいつもの場所で」
 反射的に夏珠はそう気づかずにメッセージを送ってしまったのかもしれない。俺と夏珠、二人だけしか知らない秘密の約束。当時は中高生だったから可能だったが、お互い社会人となった今その約束を果たすのは難しい。
 九月に入りすぐ雨が降った。夏珠との約束は二人だけの秘密の場所。でも俺も夏珠も仕事がある。妻の話ではもう夏珠は保育園に帰ってきているとのことだった。
 凰佑をいつもより早く起こして早めに家を出た。雨が降っているから時間がかかるということを考慮したものだが、擬似的にでも約束を果たせないかと俺は考えていた。
 「雨はいつも見ている世界を違ったものに変えてくれる」
 夏珠の声が何度も頭の中を響き渡る。
 凰佑を預けて保育園にある大きな桜の木の下に向かう。ちょうどそこには出勤前の夏珠の姿があった。
 高校生の当時から夏珠は似たようなシルエットの服装を好んでいたが、当時よりも大人の色香と相まってよく似合っている。
 「おはよ。どうしてここに?」
 夏珠は質問の答えなどわかってるはずなのにそう聞いた。
 「夏珠こそどうして?」
 俺も同じ質問をした。
 「わかってるくせに」
 「夏珠だって」
 俺は夏珠といれば季節を問わずいつだって桜は満開に見える気がした。だからイベント的な事柄があるときは決まって二人で桜を見に行った。
 今の俺たちにあの場所は少々遠すぎた。それでも代わりとなる場所が一致するところなんか、お互いの想いが通じ合っている証拠のようで嬉しさと切なさが同時に襲ってくる。
 「ちょっと早いけど、誕生日おめでとう」
 「ありがとう」
 遠くで園児の声がする。室内の声がここまで漏れて聞こえているようだ。
 「夏珠、おかえり」
 「ただいま」
 お互いに踏ん切りがないのはこうした運命的な巡り合わせをしてしまうためだろうと思う。今日この場にどちらかがいなかったりしたならば、そういうことが積み重なり段々と心も離れていくのかもしれない。
 「やっぱりさ、結局わかんないままなんだ……。でもわかったこともあるの。もうわかんないならわかんないままでいいやってこと」
 場の空気が変わった。大事なことを言おうとしていることが空気を通して伝わってくる。
 「遥征くん。ずっとずっと好きでした。今でもやっぱり好き。遥征くんが結婚して子どももいることはわかってる。でも私の想いは遥征くんが好きってことで間違いないんだと思う」
 「夏……」
 がさがさと落ち葉を踏み込む音が重なる。この時間は登園する親子が多い。
 ぞろぞろと何組もの親子が歩いている。ちょうど木の影になって見えにくくなってはいるものの、それが却ってただならぬ雰囲気を演出してしまいそうだった。
 「もうそろそろ行かなきゃだね」
 夏珠は俺の返事を待つこともなくすっきりとした笑顔で小走りに去って行った。
 俺はしばらくの間、花のない秋の桜の木を見上げていた。
 夏珠は自分の気持ちを正直にぶつけてきた。俺もちゃんと向き合って応えなければいけない。
 「わかんないならわかんないままでいいや」
 「私の想いは……好きってことで間違いないんだと思う」
 頭の中で夏珠が言った台詞を反芻する。傘を打つ雨の音、乾いた落ち葉を踏むぱりっとした音、濡れた草木から立ち込める匂い、それらすべてが秋の訪れを告げていた。
 好きな人に告白されたならば誰だって嬉しさに心躍るのだと思う。なのに俺は素直に喜べていない。
 夏珠のことが好きだから。
 夏珠を想えば想うほど、俺には夏珠を幸せにできないという恐怖にも似た感情に押しつぶされそうになる。
 いっそ嫌われでもしたら楽になるんじゃないのかとも思う。
 あれ以来からか夏珠は福岡に帰る前の状態に戻り、いつもの元気な夏珠先生だった。保育園で度々と顔を合わせても時と場所に応じて俺に見せる顔を変えてくる器用さもいつもの夏珠だった。

春の雪と夏の真珠(第二十九話)

第二十九話

 それから一週間が過ぎた。
 運命のいたずらか、避けられているのか俺にはわからない。ただ夏珠と顔を合わせることがなく月日が過ぎていった。
 もともと送り迎えの頻度としては妻のほうが多い。保育園で夏珠を見る機会は少なかったわけだから会えないことを気にする必要もない。けれどあんなことがあった後としてはやはり気になってしまう。
 普段ならすぐに準備して保育園を後にするのに、無駄にぎりぎりまで長居してみたりした。
 迎えのときも凰佑の思うままにさせ、時間を潰したりした。
 それでも夏珠に会うことはできなかった。
 二週間会えない日が続き、俺はついに連絡した。さすがに心配だった。妻は度々見かけているとのことだったが、やはり以前のような覇気は薄れ、保育園にいる時間も少ないような気がするとのことだった。
 俺の心配空しく夏珠からは何の問題もないと返信が返ってきた。事務仕事や他の保育園との連携による仕事に追われているとのことで、本当に今の保育園にいる時間が少なくなっているとのことだった。
 それでも一度メールして気持ちが少し吹っ切れたため俺は食い下がった。元気がないように見えるって話を聞いて心配してることを伝えた。
 その件に関しては、仕事量の多さと慣れないことを急に一気にしてるからそれ相応の疲れはあるとのことだった。俺とのことには何も触れずにお互いの仕事の近況を報告しあうまでに留まった。
 「あの日、あの時、夏珠は電車に乗ったの?」
 電話を切ったあと、ふと声に出していた。
 メールだけじゃこらえきれなくて俺は電話をした。声を聞けば俺には夏珠がどういう気分でいるかもわかる自信があったからだ。
 夏珠は疲れた声をしていて、本当に疲労がたまっているようだった。そのせいもあって俺とのことを悩んでいるのかまでは判別できなかった。
 結局当たり障りのないことしか話せず、肝心の事は何も聞けない。聞く勇気を振り絞ることもできずに俺は一人久々に晴れ渡った空を見上げては力なく佇んでいた。
 そして事件は起きた。
 凰佑が保育園で怪我をした。
 その日に限って俺は仕事を早く終え、家に向かっていた。梅雨はまだ明けてないとのことだったがしばらく雨は降っていなかった。空も快晴の日が多く見られた。
 この日も天気は良かった。日が延びたため外はまだたっぷりと明るく、まっすぐ家に帰るのがもったなく感じられた。だがなんとなく俺は家へと足を向けて歩いていた。
 家へと続く通りを歩いていると、自宅の窓から光がこぼれていることに気づいた。この時間にもう保育園の迎えをして帰ってきているとは思えなかったため電気の消し忘れかなにかだろうと思ったが、玄関の扉に手をかけようとしたとき中から声が聞こえた。
 どうやら珍しく妻以外の誰かが家の中にいるようだ。施錠されてないのでそのまま中に入る。見慣れない春らしい黄色のパンプスがそこにはあり、それだけでいつもと違う雰囲気が感じられた。
 奥の部屋まで行くと、まず凰佑が気づいた。
 「パパー」
 「あ、おかえり。早かったんだね」
 そしてその場に本来居るはずのないもう一人の女性と目が合った。
 驚きの表情を隠せないでいたが、訪れることのない人の訪問に驚いているというふうに捉えられたのか、妻は俺のリアクションについては何も言わなかった。
 「こんばんは。おじゃましています」
 丁寧に挨拶するその女性はどこか気まずそうに、申し訳なさそうに明らかに落ち着きを欠いている。
 空気の読めないバカ息子は妙にテンションが上がっていて、
 「なつみせんせいー、なつみせんせいー」
 と何度も呼んでいた。
 そこでやっと俺は凰佑の左足の様子がおかしいことに気づいた。凰佑の左足、正確には左膝の外側にかけてのあたりが大きなガーゼで覆われている。
 「今日保育園で怪我しちゃったんだって」
 俺の視線の先をたどって妻はそう言った。
 「怪我? けっこうがっつりだけど。だいぶやっちゃたの?」
 妻が答えるより先に夏珠が椅子から立ち上がり地面に頭を付けた。
 「本当にすみませんでした」
 「ちょっと、夏珠先生。先生のせいじゃないって。この子が聞き分けなくバカだからこうなったの。ほら、全然こいつ反省してないんだから」
 夏珠のその姿に俺はなんて声をかけていいのかわからずにただ傍観していた。
 妻が俺になんとかしろと目で訴えてくる。
 「あ、夏珠、……先生。頭を上げてください。僕は全然怪我がどうして起きたのか知らないですけど、妻もこう言ってますし」
 夏珠と呼び捨てにしかけて慌てて「先生」を付けたこと、夏珠の前で「妻」という名称を出したこと、どれもこれも気持ちのすっきりしない感覚が走った。
 それでもなお夏珠は頭を上げようとしなかった。夏珠にも俺と同じ感覚が走ったのかもしれない。「夏珠先生」と「妻」というフレーズは俺たちの距離を如実に示す。
 夏珠のその姿はとても弱々しく今にも消えてしまいそうで、見ているこちらがいたたまれない気持ちになってくる。
 妻が夏珠の肩を支えるようなかたちで椅子に座らせた。
 「凰佑がね、友達とまた喧嘩したんだって。夏珠先生は両方をなだめて友達のほうはごめんなさいをしたんだけど凰佑は謝らなかったって。それでちゃんとごめんなさいしようねって言ったら癇癪起こして走り去って行っちゃったんだって。それで工事用具みたいのがたくさん置いてあるとこでわざわざ派手に転んで突っ込んでいったらしいよ。怪我は痛々しいけど、大事には至らなかったわけだし、これは自業自得だよね」
 凰佑はとにかく謝らない。よく言えば負けず嫌いだが、なかなか自分の非を認めようとしないところがある。この性格は父親である俺にも思い当たるところがあり、そうなると責任の所在は父である俺なのではないかとも考えてしまう。
 「凰佑、喧嘩は悪いことなんだよ。わかるかい? 保育園で先生が言うことはすべて正しいと思って、注意されたらちゃんと謝らないといけないの。わかる?」
 凰佑には自分が怒られているという認識はあるのだろうが、その内容までもはっきりと理解しているというわけにはいかないようだ。なんとなく雰囲気でばつが悪いことを感じ取ってごめんなさいとぼそぼそとつぶやいてはいるものの、三歩も歩けばもうすっかり忘れてしまうだろう。
 「夏珠先生がわざわざ家に来てまで謝ることではないですよ。悪いのは凰佑で、さらに言えばそんなふうに育ててしまった親の責任でもあるわけですし」
 妻はおそらくもう何度もこのやり取りをしたのだろう。妙に言い慣れている感じがあった。
 「よく考えればあの場で注意する必要はなかったと思うんです。中に入ってから、周りに危険なものが何もないところで話をすれば怪我をすることもなかった。私が、周りが見えてなかったせいで凰佑くんにこんな怪我をさせてしまったんです」
 責任の所在など誰にも決めることはできない。たまたま凰佑も夏珠も運が悪かったとしか言いようがない。保育士として夏珠が責任を感じて謝りに来るのは当然だろう。来なきゃ来ないできっとどの親だって文句を言う。けれどいざ来られてもそれはそれで困ってしまう。
 「百歩譲って夏珠先生の責任だとしても、今こうして誠意を持って謝罪してくれているわけですし、凰佑のことを心配してくれてもいる。もうそれで十分です。こんなバカ息子の相手を毎日大変かもしれないですけど、これからもよろしくお願いします」
 夏珠の目からは涙が流れていた。
 凰佑は俺が泣かせたと思っているらしく、「ごめんなさいでしょ」ともう自分のことは棚に上げてしまっている。
 一応の解決をみたわけだが気づけば随分と時間が経っていた。駅までの道がわからないはずはないものの、夜道一人で帰らせるのはということで俺が駅まで送っていくことになった。
 「ごめんなさい」
 「もういいって。夏珠のせいじゃないって。誰も夏珠が悪いなんて思ってないから」
 「私……ちょっとわからなくなっちゃって」
 夏珠の声は涙でかすれていた。本気で悩んでいるときに出す声だと俺の記憶がそう言っていた。
 「急なんだけどね、私しばらく福岡に帰ることにしたの」
 その一言に周りの一切の音がかき消された。スポットライトがただ一点、夏珠のみに当てられて静寂となる。俺はその夏珠の姿に見入っていた。
 「ほら、私を救ってくれた保育園でのエピソードは話したでしょ? あそこに恩返しに行こうと思って。私って認可の保育士だから公務員でしょ。本当はそんな融通なんて利かないんだけどさ、うまいことお休みとかいろいろ手回しした結果二ヶ月そっちに行くことになったの」
 「なんで急に?」
 流れで聞いてはみたものの、俺にはなんとなく夏珠の気持ちがわかるような気がした。
 「もともといつかは恩返しに行こうとは思ってたの。ちょっと今一度振り出しに戻って、初心にかえっていろいろ考えたくなって」
 俺は無言のままでいた。
 何を言ったらいいのかわからなかった。
 「すぐだよ。九月には帰ってくるから」
 「夏珠……。ごめん……」
 「なんで遥征くんが謝るの? もうここでいいよ。今日はおうちゃんのこと本当にごめんなさい」
 そう言うと夏珠はすぐに背を向けた。こういうときの夏珠は感情を強く押し殺している。さっとそのまま歩き出して行くその瞬間を俺は捕まえた。
 言葉はいらないと思った。正直に言うと思いつかなかったのだが、夏珠には伝わると思った。
 俺は後ろから強く抱きしめて夏珠を引き止めた。
 夏珠はその場で静かに泣いた。

春の雪と夏の真珠(第二十八話)

第二十八話

 「意味なんてないよ。気持ちはわかるけどね。日本人の一億分の一を引き当てたみたいな発想でしょ? そこに何かしら意味を見出したいのもわからんでもない。でも意味なんてない」
 すっぱり言われた。歩く恋愛コラムニストのこの男なら運命論的なものを口にすると思っていたのに。
 「いや、運命ではあると思う。というか、出会いなんてすべて運命だよね。毎日すれ違う人間でさえ確率でいえば一億分の一。もっと厳密にいえば七十億分の一なわけだし」
 「でもそこに意味を見つける必要はないと思う。それこそなんの意味があるの? それって好きな理由を無理くり探してるのと一緒なのでは?」
 「君の気持ちはどうなの? 本当に好きならばその好きに理由なんてないだろうし、出会った意味だとか悩むことないと思うんだけど?」
 「どちらかを選ばなければいけないって発想が残念で仕方ない。でも困ったことにどれだけ想いの本気度を訴えたところで世間的な認識は不倫だろうから」
 「君は隠しておけないだろうから。性格的にはっきりとどちらかを選択して双方にそれを告げる。ま、奥さんを選ぶのならば余計なことを言う必要もないかもしれないけど、君は何かしら罪の意識とか言ってそうだよね」
 「彼女のほうを選択する場合、君はけじめをつけるだろうけどそうなると法的にもいろいろ大変だ」
 「幸せと不幸せは表裏一体なんだよ」
 いっそ恋愛指南書でも書いたらどうなのかと言いたくなる。今回も前回と同様に最初に俺が概略を説明すると、あとはひたすら恋愛論の講義が始まった。
 お店は前回とは違うところで、オシャレな地中海料理を提供する雰囲気からして高級そうなレストランだった。それでも開放的な席の造りで個室感はない。声高にこの手の内容を話すのも聞くのも少し周りの目が気になってしまった。
 だが店内は賑わっていた。騒がしいという意味ではなく、すべての席が埋まり、各テーブルにそれぞれの物語があり、見えない壁に包まれている。そんな感じだった。
 「ごめん、ずばり聞くんだけどさ、もし俺と同じ立場だったらどんな選択をする? 嫁? 彼女? 両方?」
 ぶしつけな質問だ。でもわかりやすい意見が聞きたかった。
 「俺は結婚をしたこともなければ子どもを授かったこともない。だから厳密には本当にその状況で今と同じ考えでいられるかは断言できないけど、ま、両方を選択するだろうね。両者に強い運命を感じている。どちらも自分にとって必要だ。その想いを両者にぶつける。それで両方とも去っていくならそれまでだ」
 「それ本気で言ってる? どちらも手放すことになるかもしれないのに」
 「それもまた人生。そのときはどちらも運命のもとになかったってことなんじゃないの?」
 聞いておいてなんだがあまり参考にならない。俺にはとても真似できない。結婚して子どもを持つことは責任が伴うことだと思う。そんな簡単に、いくら自分の人生だからといって諦めたり手放したりしていいと思えない。
 「俺にはどんなに本気を伝えたところでそんな二股まがいなことを納得してくれる女性がいるとは思えないんだけど」
 「それは君が考えることじゃない。女性が決めることだ。答えはいつだって女性が教えてくれるんだから」
 今こうして店内で食事を楽しんでいる人たちに、どれくらい似たような悩みを持つ人がいるのだろうか。たくさんの笑顔がここにはある。でも心から笑っていないものが混ざっているのだろうか。
 三割が離婚するのは周知の事実となりつつあるが、三割の妻が恋人を持つらしい。俺の妻はどうなのだろうか。もし妻が今の俺と同じ立場にあったとして、それを知ったとき俺は妻に対してどういう態度に出るだろうか。
 浮気じゃなくて本気なのと言われても納得できないと思う。俺のことは愛しているけれど彼のことも愛してると言われたところで、じゃあ三人で仲良くしていきましょうなんて言えるだろうか。そんな心の広い人間がどれだけいるのか。
 でも、と俺は思う。俺は妻と付き合う当時、心の中に夏珠が住まうことを妻に見抜かれ、結果その一途なところを買われた。妻はその手の理解がある人間なのだろうか。
 結局今回も相談をするものの明確な答えは見つからないまま終わってしまった。
 「簡単な問題じゃないからね。君の場合は俺のような考えができないわけだからもうどこかで割り切るしかないよ。ま、振り出しに戻ってしまったような感じだが、どちらか一方を選択する。これだけだ」
 俺は今はっきりと自覚している。俺は夏珠が好きだ。ずっとずっと好きだった。夏珠とは公言してなくとも俺は妻にその心の存在を打ち明けていた。そしてその存在が現れた。
 妻は俺の心に他の誰かがずっと居ることを知っている。それでも俺といてくれている。それなのにそんな妻を捨てるのか。
 十四年離れてなお心が通じ合っていると思われる相手。夏珠を選択したら俺は幸せかもしれない。でも残された妻のことを考えてしまう。夏珠にだって罪の意識が芽生えないとは思えない。矛盾じみてるが夏珠も俺が妻と別れることを望んでいるとは思えない。
 夏珠のことを想うからこそしっかりと向き合って別れをしなければならないのかもしれない。

春の雪と夏の真珠(第二十七話)

第二十七話

 カーテンを開け放っても眩い光は俺の目に届かなかった。どんよりと黒い曇り空が広がり、今にも雨が降りそうだった。
 休み明けだというのに今しがた仕事を終えたかのような疲労感が残っている。胸は空しさを感じている。
 夏珠との時間。
 あの東屋ですべてが終わっていれば。
 駅のホームで向かい合うことさえなかったならば、また何か違ったものになっていたのだろうか。
 夏珠と別れて家族と合流してからのことはほとんど覚えてない。何度も妻にうわの空だと注意され妻の機嫌を損ねたこと、ちょっと温泉施設の湯に浸かりすぎたと苦しい言い訳をしたこと、そんなことだけしか覚えていない。
 すっきりしない空模様はいつまで続くのだろう。梅雨が明ければ空は晴れ渡るのだろうが、俺のこの曇りきった心も爽快に晴れ渡る日がくるのだろうか。
 会社に到着してすぐにメールが届いた。夏珠からだ。
 名前を変えて登録していることを夏珠は知らない。家族と一緒にいる昨日を避けてあえて今日この時間にメールをしてきたのだろう。
 その通知を見ただけで胸が締め付けられた。連絡がきたことが嬉しいのか怖いのかよくわからない感情が渦巻いていた。
 見たら仕事に差し支える気がした。見なければ気になってそれはそれで仕事に差し支えるような気もする。
 湿気を多く吸ったほんのりかび臭いオフィスは居心地が非常に悪かった。この場所でメールを開けば内容も悪いものになるとさえ思えた。
 よく磨かれた会社の通路のタイルはピカピカに光っている。梅雨のこの時期気持ちを澄み渡る状態にしてくれる場所は少ないだろう。白を基調に手入れされたこの通路ならいくらかましか。
 「おはようございます」
 この時間は社員の行き来が激しい。うじうじと携帯とにらめっこしてても仕方ない。俺はメールを開いた。
 「昨日はありがとう」と、そこには短い文があるだけだった。
 わかってはいたようで、期待と不安のどちらをも裏切る内容に心はほっとしているのかざわついているのかやはりわからなかった。
 昼休みに恋愛センサーを内蔵した同僚がすぐに俺のことを見つけ出した。
 「どうだった? 二人で会って話したんじゃなかったっけ?」
 特に時間と場所を示し合わせたわけでもない。この男はいつも俺のいるところにいたりする。
 「会ったよ。話もした」
 「そっか、あまり解決に至ってはいないのだね?」
 恋愛に通じていなくとも今の俺の表情を見れば誰でも察するのかもしれない。
 「余計にわからなくなったような感じ。ちょっとここでは話しにくいかな」
 「オッケー。また時間作って飲みにでもいこうか」
 どうやらすでにお昼は済ませた後のようで、その場を立ち去ろうとして急に思い出したように振り返った。
 「あ、ちなみに話はどんなこと話したの? それも言いにくい?」
 俺は少し考えたが、相談に乗ってもらう手前ざっくりでも概要は伝えておくべきだと思った。
 「お互いの過去のこと。別れてからのね。俺たちが再び出会うまでにどんなことがあったか」
 「それでお互い妙に感極まってしまったと」
 「……」
 感極まって何をしたか、それをわかったうえであえて言わないのがこの男のうまいところだ。
 顔が赤くなってるのが自分でもわかる。急に暑く汗ばんできた。
 誰でも今の俺の話を聞いて、顔を見て、そういう結論に至るのだろうか。それともこの同僚の鋭い恋愛力によるものか。
 「ま、いいや。続きはそのときに聞かせてよ」
 そう言うと、不敵な笑みというのはああいう表情を言うのだろう、得意満面に去っていった。
 夏珠にはどう返信したものか。
 ぐだぐだ悩んだところで時間はただ過ぎるばかり。素っ気ない感じもしたが、「こちらこそありがとう。また」と打ち込んで送信した。
 それ以上の返信は望めないにもかかわらず俺は度々携帯の画面を操作してメールがきていないかをチェックしてしまう。
 仕事が終わるまで何度も、そして仕事を終えてなお夏珠からまだ何かメールがくるのではないかと携帯画面から目が離せなかった。
 「おかえり」
 妻はいつだって元気だ。あまり沈んだところを見たことがないかもしれない。言いたいことを言うはっきりした性格だからか、ストレスとか悩みもそこまで溜め込まないのだろう。
 「ただいま」
 いつもと変わらない様子で返事をしたつもりだったが、妻は様子が違うことがわかったらしい。
 「なんか元気ない? 梅雨でじめじめして疲れたの?」
 「ん? まあ、じめじめはうっとおしいけど別に疲れちゃいないよ」
 「あ、そう。今日は夏珠先生もあまり元気なかったよ。いつもの弾ける笑顔というか元気というか、そういうのがなかった」
 妻が夏珠を引き合いに出したのは偶然だ。偶然のはずだがこうもピンポイントで名前を挙げられると心臓に悪い。
 「へー、ま、保育士さんは大変だからね。うっとおしく騒ぎ立てる子どもを相手しながら梅雨のじめじめだもん。元気もなくなるでしょ」
 話しているのが自分ではないみたいな気がした。俺はこんなふうに嘘がつける人間だっただろうか。
 「うーん、あれは相当疲れてるよ。ちょっと心配。体もメンタルも弱ってたら子ども相手にするのって絶対無理じゃない。私だったら子どもぶん殴ってしまいそうだし」 
 ほんのつい最近のことだ。家の近くにある小さな私立の保育園にて虐待が発覚した。若い女性の保育士さんが逮捕されたが、彼女は七年目でその保育園では歴が長いほうだったという。周りも気がついていたが、立場が上のほうであったらしく見て見ぬふりとなってしまい発見が遅れたらしい。
 ニュースで家の近くのその保育園が映し出されたときは驚いた。その保育園の前を俺はいつも通っていたし、捕まった保育士の女性もけっこうな頻度で見ていた。
 子どもが嫌いで保育士になる人などいないと思うが、好きだと思ってやっていてもそういう事件が度々起きてしまう。
 夏珠は天職だと言っていたし、夏珠に限って子どもに手をあげるなど絶対にないと信じたいが、いつだって世の中はまさかあの人がなんて事件で溢れていたりする。
 「ま、うちの保育園はわりと大きいし先生の人数も多いから大丈夫だとは思うけどね。それにしても今日の夏珠先生はすごく無理してる感じに見えたなあ」
 俺は部屋で着替えながら夏珠からのメールを再び見た。夏珠が今どのような気持ちを抱いているのかはわからない。けれど少なくとも俺と似たような気持ちでいる可能性は高い。
 再会などしなければ心の中でお互いを想うだけ。それこそ片想いのような状態のままそれぞれの人生を歩むことができたのかもしれない。
 人と人が出会うことにはどんな意味があるのだろう。一人の相手と知り合う。そして恋人になる。そんな選び出された出会いに意味がないとは思えない。一度ならず、俺が十四年越しに夏珠と再会したことにも意味があるとすればそれはなんだろうか。

春の雪と夏の真珠(第二十六話)

第二十六話

 濡れた地面が太陽を反射して眩しい。目を細めて初めてしっかりと晴れ間が出てきていることに気がついた。
 「そんな感じかな。で、今に至る」
 俺はすぐに言葉が出てこなかった。こういうときなんて声をかけたらいいのだろう。
 「このストラップ、覚えてる?」
 夏珠はポケットから携帯を取り出し、懐かしいそのストラップを顔の前で揺らした。
 「このストラップが守ってくれたの。私はあの人と結婚すべきじゃないってことを教えてくれたんだと思う」
 俺だったら幸せにできるのだろうか。夏珠は今でも俺のことを想っているのだろうか。
 「これでお互いの歴史はざっくり話したね。何か質問ある?」
 質問。
 聞きたいことなど山ほどあるはずなのに何を聞いたらいいのかわからない。
 「十四年か……。長かったね」
 夏珠は俺が口を開かないためか、ずっとしゃべりっぱなしだった。
 遠くで子どもの声が聞こえる。雨があがって外に遊びに出てきたのだろう。
 「凰佑くん、かわいいね。昔に遥征くんの家で見た子ども時代の写真にそっくりだね。本当はね、凰佑くん見た時にすぐピンときてたんだ。絶対に遥征くんだって」
 「夏珠……」
 ようやく声を出したのに口に出たのは名前だけ。
 「遥征くん、今は幸せ?」
 その言葉に胸が詰まる思いだった。
 俺は幸せなのか。即答できない自分に嫌気が差す。
 もし幸せだとして、一人幸せでいいのか。夏珠は幸せなのか。
 「遥征くん、私ね……」
 辺りが静かでなければ間違いなく気が付かずスルーできたであろう携帯電話のバイブの音が会話を遮る。
 「電話、出ないの?」
 出たくない。でも夏珠はそれを許さない目をしていた。
 電話は妻からだった。
 「あ、もしもし、今どこにいる? 強行したけどこの天気だからもうお開きになっちゃってさ。家に帰ってもいいけど時間つぶして外でご飯食べんのもいいかなって」
 音漏れが激しい。取り乱した心では通話音量ひとつうまく操作できない。
 夏珠が心無しか寂しそうな顔をしているのは気のせいだろうか。
 「もしもーし、聞こえてる?」
 「ごめん、電波悪いのかな。うん、わかった。じゃあ、どこかで待ち合わせしようか」
 電波が悪いなんて今時の都会でまずありえない設定を妻はどう思っただろうか。
 「そしたらいつものゲームセンターにいるよ」
 家の最寄り駅のそばにある商業施設内のゲームセンターを凰佑はこよなく愛していた。
 「行かなきゃだね」
 音に形があるのなら、今の夏珠の声はとても線が細く、たちまち消えてしまいそうなものだったと思う。
 「夏珠、最後なんて言おうとしたの?」
 ちょっと考えた顔をし、俺が昔よく見ていたすべてを包み込むような優しい笑顔を向けた。
 「うーん、忘れちゃった」
 もう限界だった。
 俺は夏珠を思い切り抱き寄せた。
 ほんの一瞬抵抗の素振りもあった。でもすぐに夏珠は力を抜いた。
 俺の鎖骨辺りに顔をうずめ、首筋には湿ったものを感じる。
 夏珠は声を押し殺して、静かに力なく泣いていた。
 俺は夏珠の小さな体の震えが止まるまで抱きしめていた。目の前の夏珠のことしか考えることができなかった。
 震えが止まったとき、顔を上げた夏珠と目が合った。夏珠の唇に引き寄せられるかのように、俺はそっと夏珠に口づけをした。
 額と額をくっつけながら一度唇を離し、夏珠は「ダメだよ」と声を漏らしたが、もう世界には俺と夏珠の二人しかいなかった。
 雨が完全に上がった。
 それは俺と夏珠の時間の終わりを暗示しているように思えた。雨が降ってなければこのような時間の共有はできなかったかもしれない。駅に向かうまでの間、俺と夏珠はどちらともなく、ごく自然に手をつないで歩いていた。
 細い路地を抜けると大通りに差し掛かる。段々と歩く人の数も増えてくる。雨が止んだせいで通りを歩く人の数は行きよりも多く見えた。
 人混みに紛れているとはいえ、いつ誰がどこで見ているかわからない。俺か夏珠を知る人間に手をつないで歩いているところを目撃でもされたら。頭は自分でも驚くほど冷静なのに俺はつないでいる手の力を弱めようとは思わなかった。
 お互いに帰る方向が違っていたのは幸か不幸か。
 別れを惜しめば本当に引き返せなくなりそうな感覚は俺だけじゃなく夏珠も感じているようだった。募る気持ちを抑えるように、ゆっくりとつないだ手を離して別れを告げる。
 ドラマでよく見るような、ホームを挟んで向かい合うかたちになった。
 高校生の付き合ってた当時、数本の電車をわざと逃して無駄に時間を重ねて向かい合ったりしていた。声など頑張らなければ届かない。ただお互い見つめ合い、微笑みあい、同じ空間と時間を、世界を共有する。それだけで十分だった。それだけで幸せだった。
 十四年という歳月は俺も夏珠も大人になるには十分すぎた。
 向かい合って立つも、すぐに電車が到着するとのアナウンスが響く。夏珠は顔の前で小さく手を振った。慌てて俺も返したがそれとほぼ同時にお互いのホームに電車が滑り込んできた。
 乗るべきか否か、考える時間はほとんどない。
 混雑した車内のせいで電車に夏珠が乗ったかどうか確認できない。
 人生の岐路に佇む。そんな言葉が頭に浮かぶ。俺は今この瞬間がそうなのではないかと大袈裟に考えてしまう。
 人生の帰路。
 その選択が大きく未来を変える。
 俺は乗ってしまった。
 それが正解なのかどうかもわからないまま。
 夏珠がいるであろう方向に背中を向けて立ち、そのままゆっくりと電車は動き出した。
 夏珠は乗ったのだろうか。
 背中に何か感じるものがある。高まる鼓動に表現しがたい苦しさを覚えていた。

春の雪と夏の真珠(第二十五話)

第二十五話

 「残りの大学生活は特筆すべきエピソードは特にないなあ。
 単調な毎日。でも目を閉じると瞳の奥には遥征くんがいる。姿こそ高校生の状態で止まってはいたけれど、無理に忘れることを止めた私はそんな毎日でも幸せだった。
 『えー、なっちゃん、そりゃちょっとメンヘラっぽいよー、大丈夫なのー?』
 大学で仲良くしているりっちゃんはいつでも語尾を伸ばすゆっくりおっとりマイペースな女の子なんだけど会うたびにそう口にしてた。
 『メンヘラ』なんて初めて聞く言葉だった。
 『まー、そこまで重度じゃないけどさー、一途過ぎる愛もねー』
 なんかの病気なのかと真面目に尋ねちゃった。
 『病気っていうか性格とか性質とかー? ひどい人は感情の浮き沈みが激しくて異常なほどに愛を求めちゃうのー。愛してくれないなら死ぬわよー的な』
 そんな喋り方だからいまいち危ない感じが伝わってこなかったんだけどね。でも私はそこまで遥征くんに求めてなかった。両想いかもしれないけど叶わぬ片想いみたいな感じもあったから。
 会いたいけど会いたくないのはたぶん傷つきたくないから。会えば当時のことを思い出す。どちらが悪いわけでもないのに、私たちの関係は修復が困難になってる。時間が経てば経つほどどんどん修復不可能な状態に陥るのにね。
 『好きなのはわかるけどさー。でも向こうもなっちゃんが好きならなんとしてでも会いに来るんじゃないのー?』
 りっちゃんは悪気はないんだけどけっこうこういう繊細な問題にも普通に切り込んでくるの。
 『そんな簡単でもないんだよ。彼がもし私と同じ気持ちでいるならやっぱり会いたいけど会いたくないかもしれないし』
 私はそう返した。遥征くんとは同じ考えな気がして。
 『んー。積極的には会いたくないけどどこかでお導きがあるかもしれないからそれを待つ的なー?』
 彼女の口調はどんなに深刻なテーマの話をしててもライトな感じに聞こえちゃうの。でもがっつり重たく話されるより全然よかった。
 私はそこまで消極的でもないと思ってた。会ったら意外となんともなかったりするかもとか思ってた。
 『私にはわからないやー。でも困ったことがあれば力にはなるよー』
 根は優しい友達を持って私は幸せだったね」
 夏珠はひと息ついた。当たり前だが夏珠にも夏珠の時間が流れていて、いろいろなことを思い、考えてきたのだと思った。
 「大学を卒業して私は保育士になった。仕事として子どもと接すると預かっているという責任感からか少し感じが違った。
 最初は誰しも子どもが大好きでという決まり文句で保育士になる人が多いけど続く人はかなり少ないの。
 さっきのりっちゃんは保育士を三年で辞めた。
 『私には無理だったー。子どもは可愛いんだけどねー。でもやっぱり仕事にするもんじゃないなー』
 多くの人がストレスに苛まれる。子どもからの圧力に加え、親御さんからもそれ相当な圧力がかかる。単に子どもが好きという程度の心構えでは続かないんだと思う。
 確かに大変だよ。でも私には天職なのかもって。辛いこと嫌なこともそりゃもちろんあるんだけどさ、子どもたちが元気な顔して駆け寄って来るの。それ見ると一気にそんなネガティブな気持ちも吹き飛ぶんだよ。
 私がどん底で沈みきっていたときも救ってくれたのは子どもたちの笑顔だった。私はいつだって子どもたちに救われてきた。今の私にできるのはそんな子どもたちへの恩返し。
 『すごいなー。私も最初はそう思ってたんだけどさー。気持ちが続かなかったよー』
 そんなふうに言ったりっちゃんは今は事務職をやっているみたい。やりがいはまったく感じないけど自分のペースで仕事ができるからストレスはほとんど感じないって言ってた。
 私はそれが羨ましいとは思わなかった。保育士での適度なストレスは自分を奮い立たせる活力になるし、やりがいはいつだってすごく感じる。好きなことを仕事にできている今の私はそれなりに幸せなんだと思った。
 職場は子どもたちでいっぱいだからそこでの出会いはほぼなかったよ。でも友人の紹介が多くて出会いに事欠かなかった。私の境遇を、私の気持ちとは裏腹にほとんどの友人が憐れみの目で見てて、かなり頻繁にお見合いまがいな合コンをセッティングされた。
 私は恋をする気はさらさらなかった。そんな私の気持ちをよく理解してがつがつしてこない男性が一人だけいた。今思えば結婚をゴールにいい人を演じていただけのようにも思えるけど、その当時は私のペースに合わせて自分の考えを強引に押し付けてきたりしないだけでも私からの評価は高くなってた。
 彼は私のことを好きと言ってくれた。それに応じないことを告げてもなお諦めず私のことを適度な距離感でかまってくれた。彼は何度も一人で生きていくより誰かと共に生きていくほうがいいことを説いた。そのしつこさに折れた部分もあったけど、私はこの人となら、この距離感でならそれなりにうまくやっていけるのかもしれないとわずかに感じた」
 先ほど俺が妻のことを話しているときに夏珠は今の俺が感じているような気持ちだったのだろうか。嫉妬なんだと思う。嫉妬する権利があるのかもわからないが、夏珠が俺以外の男の話をするとひどく心が、胸が締め付けられて苦しくなった。
 「二年ほどそんな感じでお付き合いをして、彼の家に挨拶に行くことになったの。秋も深まり肌寒く、紅葉が鮮やかで冬はもうすぐそこという頃だったと思う。
 山梨の田舎まで車で連れて行かれて、初めて彼が歴史ある古い家の家系の人間だと知った。代々その辺りの土地の地主で、将来的に長男である彼が家を継ぐことになるらしいの。
 大きなお屋敷は伝統的な日本家屋で、庭は『侘び寂び』なんて言葉が聞こえてきそうなほどしっとりと京都の観光名所を思わせる立派な造りだった。
 彼のお母さんは当然のように着物で、快く出迎えてくれてはいたけど私のことを舐め回すように見てた。嫁に相応しいかチェックしてたんだね。
 その家には一泊することになってたの。でもそこで事件が起きてしまってね。
 ちょうど彼の姉一家も帰省してた。彼にとっては姪にあたる女の子が人懐っこくて、私の職業柄の癖もあってつい仲良くなったの。部屋で二人でおしゃべりをしていたとき、彼女が私の携帯ストラップに興味を示した。
 『このストラップ可愛いね。この英語なんて読むの?』
 そう聞かれて私は正直に答えた。
 『春の雪って意味なんだよ。かわいいでしょ』
 『春の雪? どういう意味なの?』
 私はそのストラップについ募る想いを馳せてしまったの。
 『好きな人の名前なの。春の雪、はるゆきっていうの。お姉ちゃんの一番大事な人なんだ。これ私が彼の誕生日に作ったものでね、色違いを彼に渡してあって、そっちには夏の真珠、なつみってお姉ちゃんの名前が刻まれてるんだよ』
 小学生の女の子に話したところで話が広がるとも思わなかったし問題ないだろうと油断してた。
 その話を彼の母親がふすま一枚隔てた隣の部屋で聞いてたみたい。
 いきなり血相を変えた彼の母親が現れて、女の子そっちのけで私の腕を掴み自室に連れ込んだ。
 『今の話はどういうことかしら? 財産目当てと疑われても仕方がないと思うのだけど』
 そのときやっぱり無理だったんだと思った。
 今時見るのも珍しい囲炉裏の薪が立てる小さなパチパチという音が妙に部屋に響いた。それくらい静けさがしみ入るつんと緊張感のある感じだった。
 私は正直な自分の気持ちを伝えた。
 もちろんそんな私の気持ちなど旧家の格式高い身分の母親に理解されるはずもなく、私は家を追い出された。その日泊まることは許されなかったの。
 寒空の下、吐く息がほんのり白く見えるくらい辺りの夜は暗く冷え込んでいた。それでも不思議と嫌な感じはなく、むしろすっきりしていた。
 彼はそれでも私に固執していた。でも家族の賛成なしに縁談はまとまるはずもないし、彼には家と縁を切ってまでという覚悟はなかった」

春の雪と夏の真珠(第二十四話)

第二十四話

 夏珠の話にのめり込む自分がいた。時間、空間、身の回りのすべてがたゆんで見える。夏珠はそんな俺を見て一度間を取った。
 「ごめん。続けて」
 再び二人の世界にのめり込んでいく。
 「遥征くんの実家には毎年行ってたんだけね。けれど一度として家を訪ねることはできなかった。遥征くんの両親にどんな顔をして会えばいいかわからなかった。私が勝手に悪い方向に考えているだけで、遥征くんの両親は私に対して何も感じてないかもしれない。その可能性のが高いのはよくわかっていても、私にはあと一歩の勇気がなかった。
 一度だけ遥征くんのお母さんが団地の入り口でおしゃべりしているところを見かけたの。いけないとは思っても私は壁一枚挟んだすぐ後ろでその話を立ち聞きしてしまった。そこでわかったのは遥征くんがもう家を出て一人自立して頑張っているということ。
 家に行っても会えないのかと残念に思うのと同時に、どこかほっとした気持ちもあった。会いたいのに会う心の準備がまったくできてないことに気づいたのはそのとき。
 勇気を出してお母さんに会えば遥征くんの居場所はわかる。でもそれができないために私には手がかりがなかった。街ではいつだってどこにいたって遥征くんが偶然すれ違うんじゃないかと目を凝らした。
 大学生活は徐々に慣れて楽しく感じるようにもなっていった。でもなかなか恋に踏み出すことはできなかった。
 大学に通い出してから一年の間で三人の男の子から言い寄られたんだ。意外とモテるでしょ。でも私はまったく心が揺らぐことすらなかった。ただ謝ることしかできなかった。周りの女の子たちは早く新しい恋をしたほうがいいとみな口をそろえるけど、自分でもどうしたらいいのかわからなかった。
 その後また声をかけてきた別のとある男の子は優しく、自然に打ち解けることができる人だった。この人とならうまく付き合えるかもしれないと思ってたら告白された。
 『ずっと好きな人が私の心の中にはいます。その人のことを想い続けている状態でもよければお付き合いさせてください』
 最低な返事をしちゃった。
 でも彼はそれでもいいと言った。彼にとっては正直付き合えれば誰でもよかったのかもしれない。案の定、付き合ってすぐ態度は変わり、私はすぐに別れを決めることになってしまった。
 無理に恋なんてしたらまた人間不信になりそうだと思った。私は勉強とバイトに集中しようと決めてカフェでバイトを始めた。
 御茶ノ水にあるオシャレなカフェは初めて行ったときにすぐ好きになってそこで働きたいと思った。オープンしたばかりでスタッフを募集してたからすぐさま応募して、採用してもらうことができた。
 コーヒーの香りに包まれながら、その開放的な空間に身を置いて働くのは嫌なことも忘れられる気がして心地よかった。
 働き始めて知ったことだけど、『リヴェデーレ』というイタリア語で『再会』を意味する店名も大好きだったなあ」
 「え?」
 俺は声を上げていた。
 よほど集中して話を聞いていたのだろう。雨が止んで薄く雲間から光が差し込んでいることにそのときやっと気がついた。
 「ん?」
 夏珠は俺がいきなり大きな声を出したことに驚き、同じく雨がいつの間にか止んでいたことに今気づいたらしく、辺りを二度見した。
 「どうしたの? てか雨、いつ止んだの? 全然気が付かなかった」
 俺も夏珠も、そろいもそろって二人だけの世界に入り込んでいたようだ。
 周囲は雨の音すら聞こえない静けさで微かなスズメの声が届くばかりだった。現実に戻ってみるとむわっとした湿気が肌にべたっと張り付くようだった。
 「おかしいな。さっきまでは梅雨とは思えないくらいしっとりと心地よい空気だったんだけど」
 「ほんと。今それ私も思ったよ」
 静かに微笑み見つめ合う。
 静寂。
 沈黙ではなく意図した静寂が辺りを包む。
 「あ、ごめん。お店の名前、『リヴェデーレ』って俺がさっき話したお気に入りのカフェ、そこだよ」
 夏珠は一瞬なんのことを言っているのかわからないといった顔をした。
 「夏珠、あのカフェで働いてたの? 俺がよく行くって言ったとこだよ」
 「本当に……?」
 「信じられないや。多い時は週四くらいで行くときもあったくらいなのに。まったく気が付かないなんて。いや、気が付かないなんてありえないか。たぶんずっとニアミスしてて直接会ったりはしてないんだろうね」
 「うん。私絶対に気が付くと思うもん」
 きっと何かほんのちょっとのことなんだろうと思う。ほんの少し何か選択を違うものに変えていれば、もっと早い段階で再会できていたのかもしれない。
 「俺さ、よく思うことがあるんだ。会社に行くときに駅の改札を出ると上りエスカレータが横並びで三つあるんだけど、何も考えてないといつも一番右側に乗るんだよ。でもさ、これを意識して真ん中とか左側を選択するとその先に起こる未来も変わるんじゃないかって。だからさ、ルーティンワークみたいな習慣も大事だけどあえて変えてみる勇気みたいなものも大事なんじゃないかって。どうでもいい小さな選択一つで違った人生を演出することができるかもしれないって思うとさ、可能性に満ちた感じがしてなんか良くない?」
 「前向きな考え方だね。でもわかる気がする。今日この服でいいやってあまり考えずに決めるんじゃなくて、結局同じ服を選ぶことになっても意識して考えたほうがいいよね」
 「ん? うん。そうだね。それはそれで大事かもだけど。それは俺が言いたいこととはちょっと違うかな……」
 雲の切れ目が大きくできて日差しがちょうど東屋を照らした。
 その太陽の熱のせいで夏珠が顔を赤くしているわけじゃないことは明らかだったが、俺はそこには触れないでこみ上げる笑いをこらえていた。
 昔から夏珠は伝えたいことを微妙に取り違えて解釈する癖があった。
 今なおずっと握っていた手と反対側の手で夏珠は拳を作った。
 「ちょっ、待って……」
 座っている状態の太ももあたりに拳が振り落とされた。ズンという音とともに鈍い痛みが走る。俺は何も悪いことはしてないようなと思いかけて思考を止める。夏珠はそんなオレの思考も読み取る恐れがあるからだ。
 少し上の方から目を細めて夏珠は俺のほうに鋭い視線を投げかける。
 「あの……、ごめんなさい」
 「よろしい」
 ふふっと打って変わって無邪気な天使の微笑みが眩しかった。