春の雪と夏の真珠(第二十五話)

第二十五話

 「残りの大学生活は特筆すべきエピソードは特にないなあ。
 単調な毎日。でも目を閉じると瞳の奥には遥征くんがいる。姿こそ高校生の状態で止まってはいたけれど、無理に忘れることを止めた私はそんな毎日でも幸せだった。
 『えー、なっちゃん、そりゃちょっとメンヘラっぽいよー、大丈夫なのー?』
 大学で仲良くしているりっちゃんはいつでも語尾を伸ばすゆっくりおっとりマイペースな女の子なんだけど会うたびにそう口にしてた。
 『メンヘラ』なんて初めて聞く言葉だった。
 『まー、そこまで重度じゃないけどさー、一途過ぎる愛もねー』
 なんかの病気なのかと真面目に尋ねちゃった。
 『病気っていうか性格とか性質とかー? ひどい人は感情の浮き沈みが激しくて異常なほどに愛を求めちゃうのー。愛してくれないなら死ぬわよー的な』
 そんな喋り方だからいまいち危ない感じが伝わってこなかったんだけどね。でも私はそこまで遥征くんに求めてなかった。両想いかもしれないけど叶わぬ片想いみたいな感じもあったから。
 会いたいけど会いたくないのはたぶん傷つきたくないから。会えば当時のことを思い出す。どちらが悪いわけでもないのに、私たちの関係は修復が困難になってる。時間が経てば経つほどどんどん修復不可能な状態に陥るのにね。
 『好きなのはわかるけどさー。でも向こうもなっちゃんが好きならなんとしてでも会いに来るんじゃないのー?』
 りっちゃんは悪気はないんだけどけっこうこういう繊細な問題にも普通に切り込んでくるの。
 『そんな簡単でもないんだよ。彼がもし私と同じ気持ちでいるならやっぱり会いたいけど会いたくないかもしれないし』
 私はそう返した。遥征くんとは同じ考えな気がして。
 『んー。積極的には会いたくないけどどこかでお導きがあるかもしれないからそれを待つ的なー?』
 彼女の口調はどんなに深刻なテーマの話をしててもライトな感じに聞こえちゃうの。でもがっつり重たく話されるより全然よかった。
 私はそこまで消極的でもないと思ってた。会ったら意外となんともなかったりするかもとか思ってた。
 『私にはわからないやー。でも困ったことがあれば力にはなるよー』
 根は優しい友達を持って私は幸せだったね」
 夏珠はひと息ついた。当たり前だが夏珠にも夏珠の時間が流れていて、いろいろなことを思い、考えてきたのだと思った。
 「大学を卒業して私は保育士になった。仕事として子どもと接すると預かっているという責任感からか少し感じが違った。
 最初は誰しも子どもが大好きでという決まり文句で保育士になる人が多いけど続く人はかなり少ないの。
 さっきのりっちゃんは保育士を三年で辞めた。
 『私には無理だったー。子どもは可愛いんだけどねー。でもやっぱり仕事にするもんじゃないなー』
 多くの人がストレスに苛まれる。子どもからの圧力に加え、親御さんからもそれ相当な圧力がかかる。単に子どもが好きという程度の心構えでは続かないんだと思う。
 確かに大変だよ。でも私には天職なのかもって。辛いこと嫌なこともそりゃもちろんあるんだけどさ、子どもたちが元気な顔して駆け寄って来るの。それ見ると一気にそんなネガティブな気持ちも吹き飛ぶんだよ。
 私がどん底で沈みきっていたときも救ってくれたのは子どもたちの笑顔だった。私はいつだって子どもたちに救われてきた。今の私にできるのはそんな子どもたちへの恩返し。
 『すごいなー。私も最初はそう思ってたんだけどさー。気持ちが続かなかったよー』
 そんなふうに言ったりっちゃんは今は事務職をやっているみたい。やりがいはまったく感じないけど自分のペースで仕事ができるからストレスはほとんど感じないって言ってた。
 私はそれが羨ましいとは思わなかった。保育士での適度なストレスは自分を奮い立たせる活力になるし、やりがいはいつだってすごく感じる。好きなことを仕事にできている今の私はそれなりに幸せなんだと思った。
 職場は子どもたちでいっぱいだからそこでの出会いはほぼなかったよ。でも友人の紹介が多くて出会いに事欠かなかった。私の境遇を、私の気持ちとは裏腹にほとんどの友人が憐れみの目で見てて、かなり頻繁にお見合いまがいな合コンをセッティングされた。
 私は恋をする気はさらさらなかった。そんな私の気持ちをよく理解してがつがつしてこない男性が一人だけいた。今思えば結婚をゴールにいい人を演じていただけのようにも思えるけど、その当時は私のペースに合わせて自分の考えを強引に押し付けてきたりしないだけでも私からの評価は高くなってた。
 彼は私のことを好きと言ってくれた。それに応じないことを告げてもなお諦めず私のことを適度な距離感でかまってくれた。彼は何度も一人で生きていくより誰かと共に生きていくほうがいいことを説いた。そのしつこさに折れた部分もあったけど、私はこの人となら、この距離感でならそれなりにうまくやっていけるのかもしれないとわずかに感じた」
 先ほど俺が妻のことを話しているときに夏珠は今の俺が感じているような気持ちだったのだろうか。嫉妬なんだと思う。嫉妬する権利があるのかもわからないが、夏珠が俺以外の男の話をするとひどく心が、胸が締め付けられて苦しくなった。
 「二年ほどそんな感じでお付き合いをして、彼の家に挨拶に行くことになったの。秋も深まり肌寒く、紅葉が鮮やかで冬はもうすぐそこという頃だったと思う。
 山梨の田舎まで車で連れて行かれて、初めて彼が歴史ある古い家の家系の人間だと知った。代々その辺りの土地の地主で、将来的に長男である彼が家を継ぐことになるらしいの。
 大きなお屋敷は伝統的な日本家屋で、庭は『侘び寂び』なんて言葉が聞こえてきそうなほどしっとりと京都の観光名所を思わせる立派な造りだった。
 彼のお母さんは当然のように着物で、快く出迎えてくれてはいたけど私のことを舐め回すように見てた。嫁に相応しいかチェックしてたんだね。
 その家には一泊することになってたの。でもそこで事件が起きてしまってね。
 ちょうど彼の姉一家も帰省してた。彼にとっては姪にあたる女の子が人懐っこくて、私の職業柄の癖もあってつい仲良くなったの。部屋で二人でおしゃべりをしていたとき、彼女が私の携帯ストラップに興味を示した。
 『このストラップ可愛いね。この英語なんて読むの?』
 そう聞かれて私は正直に答えた。
 『春の雪って意味なんだよ。かわいいでしょ』
 『春の雪? どういう意味なの?』
 私はそのストラップについ募る想いを馳せてしまったの。
 『好きな人の名前なの。春の雪、はるゆきっていうの。お姉ちゃんの一番大事な人なんだ。これ私が彼の誕生日に作ったものでね、色違いを彼に渡してあって、そっちには夏の真珠、なつみってお姉ちゃんの名前が刻まれてるんだよ』
 小学生の女の子に話したところで話が広がるとも思わなかったし問題ないだろうと油断してた。
 その話を彼の母親がふすま一枚隔てた隣の部屋で聞いてたみたい。
 いきなり血相を変えた彼の母親が現れて、女の子そっちのけで私の腕を掴み自室に連れ込んだ。
 『今の話はどういうことかしら? 財産目当てと疑われても仕方がないと思うのだけど』
 そのときやっぱり無理だったんだと思った。
 今時見るのも珍しい囲炉裏の薪が立てる小さなパチパチという音が妙に部屋に響いた。それくらい静けさがしみ入るつんと緊張感のある感じだった。
 私は正直な自分の気持ちを伝えた。
 もちろんそんな私の気持ちなど旧家の格式高い身分の母親に理解されるはずもなく、私は家を追い出された。その日泊まることは許されなかったの。
 寒空の下、吐く息がほんのり白く見えるくらい辺りの夜は暗く冷え込んでいた。それでも不思議と嫌な感じはなく、むしろすっきりしていた。
 彼はそれでも私に固執していた。でも家族の賛成なしに縁談はまとまるはずもないし、彼には家と縁を切ってまでという覚悟はなかった」