「漂う」(第十二話)

第十二話 

 あなたは依頼主が襲われたという閑静な住宅街を歩いていた。
 弁護士事務所を立ち上げるにあたり、悩める女性の味方としてあなたは自身をセルフプロデュースしていた。そのためあなたの元に訪れる女性の多くはレイプ被害者だった。それは警察に相談できない女性が多いことを如実に示すものだった。
 コツコツと甲高い足音が白昼の日差しに吸い込まれていく。
 あなたはそれが自分の足音だとわかっていても、誰かに追われているかのように錯覚した。
 鳴り響く足音は止まらない。あなたが歩みを止めない限りしっかりとどこまでもついてきていた。
 あなたは幸か不幸かレイプされたことがなかった。
 白昼堂々と襲われるということがどのようなものなのかあなたは知りたいと思う。今の立場上の知見としてであり、淫らな思考によるものではないとあなたは自身に言い聞かせる。
 あなたが被害者である大学生の女の子に対して抱いた印象は、『音もなくそこに佇むことができそうなほど物静か』だった。
 性犯罪の被害にあう女性の多くは派手な格好ではなく、おとなしそうな、むしろ控え目で地味な格好をしていることが多い。
 あなたは想う。今の自分のスーツ姿は地味に映るだろうかと。
 あなたは彼女の家からゆっくりと歩き、彼女の通う大学に到着した。
 大学の近くに住んでいても決して安全ではない。逆にその灯台下暗しのような視点で犯行は行われたのかもしれないとあなたは思う。
 あなたは視点を切り替える。
 犯人はこの大学の生徒なのではないだろうか。
 大学構内に入るとすぐにあるのは大きな図書館。案内図にある『賢者の間』というその独特な名称にあなたは惹かれた。
 若い視線をたくさん感じる。
 若い男の子たちがあなたを見ていた。それは恐らく羨望の眼差しだとあなたはそう理解した。
 あなたは想う。視線の中にあなたを次のターゲットにしているものが含まれていると。
 じわりと吹き出るものをあなたは強く感じた。
 あなたは呼吸を丁寧に丁寧に深く取った。
 そして落ち着いたあなたの耳にどこからか聞き覚えのあるドイツ語が届いた。
 あなたの耳を優しく甘噛みするようなその声をあなたは確かに知っていた。

「漂う」(第十一話)

第十一話

 ホットヨガスタジオのタイムスケジュールを見ながらあたなは悩んでいた。
 恋と呼ぶには早計かもしれないが彼女以外の他のインストラクターのときには決して感じない何か焦がれるという想いの記憶があなたの胸にちりちりとしたものを残していた。
 彼女の名前を見ても特別なものは感じない。決まって彼女の声に導かれるかたちで特別な境地に至る。
 あなたは彼女の名前を探していた。
 一週間に一度だけの存在。
 それがまた特別たらしめるところなのかもしれないとあなたは思った。
 昨晩飲みすぎたのかあなたは軽い頭痛に苛まれていた。
 長い付き合いの幼なじみと飲むとき、いつも次の日は体が怠い。
 汗をかいてデトックスしたい気分であったが、休日のタイムスケジュールに彼女の名前を見たことはなかった。
 あなたの記憶の中で彼女の声は確かに再現される。けれども生の声から導かれるのと同じ状態には決して至ることはなかった。
 あなたは深い呼吸から深く深く自己の内面を見つめようと瞑想を試みる。
 あなたは深い森を彷徨う冒険者だった。
 冷たい空気で心が洗われる心地がした。
 コツコツというその場に相応しくない固く高い音が聞こえる。
 森を抜けた遠くのほう。音に導かれあなたは歩みを速めた。
 あなたは強く壁にぶつかり、現実を把握した。
 あなただけの力で今のような境地を体験するのは初めてのことだった。
 そして、窓から見下ろす景色の端に遠ざかるコツコツという音を見た。
 後ろ姿だった。見慣れないスーツ姿。
 だがそれは確かに細く女性らしい綺麗なシルエットだった。

「漂う」(第十話)

第十話

 あなたは海の底とは異なる喧騒の只中で息をしていた。
 最先端のデバイスを身につけることなく、目で認識できるほどの濃いタバコの煙に巻かれ焼酎をちびちびとすすっていた。
 「海の底の話も興味深いんだけどさ、俺にしたらお前が身につけるウェアラブルバイスのほうに興味があるよ」
 二十五年来の付き合いの幼なじみがそう言う。
 「それ付けてたらタバコの煙に目がしみることもないんだろ?」
 あなたは海に潜り続けているためか陸の上での生活に多々違和感を感じることが増えてきた気がしていた。
 あなたはいつか海の中で暮らしていけるようになりたいと幼なじみに言った。
 真面目に取り合ってもらえないかとあなたは思っていたが、彼はそれもできる時代なのかもなとあなたの言葉にきちんと向き合った。
 あなたの話をいつだって彼はきちんと聞いてくれた。どんなに突拍子のないことですらも。
 ただひとつだけ。どうしてもただひとつだけあなたは彼に話すことができていないことがあった。
 あなたは海の底から戻ったら言おうといつも心に決めているのに、陸の空気はあなたを怯えさせた。
 あなたは彼が笑うのを眺める。
 海の中で見たらもっと眩しく笑顔が輝くのになと思ってみる。
 海の中であればもっと自由に大胆になれるのになと思ってみる。
 「水族館の講演はうまくいった?」
 あなたはまずまずと答えた。
 あなたはいつも幼なじみの彼に話しかけるように講演に臨む。たった一人に聞いてもらっているかのように、海の底にいるときのように心を穏やかにして。
 あなたは深い喧騒の中にいた。
 心を落ち着かせることは難しい。

「漂う」(第九話)

第九話

 あなたは澄んだ水で満たされた水槽の中にいた。
 あなたは水の抵抗など感じることなく動くことができた。
 腕を広げる。足を動かす。力を抜く。あらゆる動作にあなたを取り囲む魚たちが反応を示し、コミカルなダンスを舞う。
 あなたは空気の流れである小さな気泡を宝石を扱うように手繰り寄せる。呼吸の乱れはなく、水の中でさえしっかり酸素を肺に取り入れることができた。
 あなたは水槽の中から講演を行うひとりの男性を見た。
 深海について研究する若き博士が海に興味を持ってもらおうと優しい語り口で多くの魚のことを説明しているのをあなたはただただ見つめていた。
 あなたは人を魅了するマーメイド。彼の視線を奪う。彼の視線を独り占めする。
 あなたが踊る優雅であろうダンスは求愛の証。あなたは踊る。
 水槽の色が変わる。
 あなたの動きに合わせて色は美しいグラデーションを成す。
 あなたが微笑むと、彼は歩み寄る。そしてそのまま、透明なガラスをまるで二人の間に何もないかのように自然とすり抜けてくる。
 あなたは手を差し出す。彼もまた手を出した。
 手と手が触れ合ったとき、何かを告げるチャイムが鳴り響いた。
 それは講演の終わりを告げるもの。
 あなたの意識は現実に引き戻された。
 「やだ、これじゃ大学にいるあいつと同じじゃない……」
 あなたは思わず声に出していた。
 ステージの幕に下がっていく彼の背中を見つめたまま。

「漂う」(第八話)

第八話

 あなたはあなたが言うところの禁書目録を片手に、おびただしい数の書物に囲まれていた。知性をさらなる高みに体系化すべく、書物の海に体を預け精神を統一していた。
 「お疲れ。賢者の間にいるの好きだね」
 あなたの耳に優しく届くその美しい声は、どうしようもなくあなたを不治の病に誘うらしい。
 周囲が言うには、あなたは患っていた。中二病という難しい病を。
 あなたは隣に座るその彼女が妖精の類であると知っている。そして将来の自分のプリンセスになると。
 あなたはおよそすべてを知っていた。
 ただ、あなたは今、俗世に身を寄せている。仮の姿と称して力は大方封印されている。
 「ドイツ語で『弁護士』って言うとすごくかっこいい」
 あなたは誇らしげに彼女に教えた。
 「『レヒツアンヴァルト』という」
 「それほんと? またいつもの設定っての?」
 あなたは彼女に語りかけるが決まっていつも半信半疑なリアクションを取られてしまう。
 「てか来るたびに思うけど『賢者の間』って。大学の図書館の一施設をなんでこの大学はそう名付けたのかな」
 あなたは仮の姿のままだと思うように力が使えない。それでも彼女に自分の力を信じてもらおうと躍起になる。
 「いい名前だと思うけど。実に知の探求に相応しい」
 あなたの言葉に彼女はいつも苦笑いする。あなたはそれがなぜだか理解できないでいる。
 あなたは彼女ともっと深く話すべきだと悟っているが、彼女は今日もどこかに急いでいる。
 「ごめん、最近水族館にはまってて。またね」
 あなたは空を見つめ、誰にも聞こえないであろう小さな声で呪文を唱える。
 「我、真紅の空が現れし……」
 強い風が吹きすさび自分の声すらかき消された。

「漂う」(第七話)

第七話

 あなたの意識に語りかけるのは日本語とは大きく異なる言語だった。
 あなたはドイツ語をお茶しながら学べるカフェの一室にいた。ドイツ語講師がずっとあなたに呼びかけていたらしい。
 あなたの意識は光と闇を彷徨っていた。すぐ向かいに座る大学生くらいの男の子と目が合い、あなたは彼のくすっと笑う表情に恥ずかしさを覚えた。
 週に一度のドイツ語カフェ。あなたはそこで出逢った彼を気にせずにはいられなかった。彼を意識して見るたびにあなたの体は火照り、女として反応してしまう。
 あなたは紛れもなく性依存症だった。抑えようとすればするほど、あなたは深く淫らなほどのレイプ願望を抱いた。
 あなたにとって世間で言うところの光は闇だった。
 あなたは自己を内面から見つめる必要があった。
 弁護士という仕事が自分を抑圧しているのではないかとさえ考えた。
 あなたは深い呼吸に意識を集中した。副業として、また、今の自分に必要なことでもあるとして、週に一度行うホットヨガのインストラクターとしての自分を想い出す。
 「普段は弁護士ですが、内面を磨くためにホットヨガのインストラクターもやっています」
 あなたはゆっくりだが丁寧な発音でそうドイツ語を響かせた。
 あなたはつい正面にいる彼と目を合わせてしまう。
 彼の驚きの表情、それはあなたに対する羨望の眼差し。あなたは勝手にそう解釈し、その嫉妬の渦にのまれたい欲求に駆られた。
 あなたは動悸が激しくなるのを感じた。同時に、抑えきれず全身から溢れ出てくるものを。
 あなたは少し席を外しますとトイレに立った。
 そして闇から光へ、光から闇へと意識を彷徨わせた。

「漂う」(第六話)

第六話

 あなたが意識を現実に取り戻したとき、あなたは滝のような汗を流していた。着ているメッシュ素材のシャツは余裕で絞れるほど汗を含み、ぴったりと体に密着している。
 正面の大きな鏡に映る自分と目が合う。
 その下の時計を見ると、あなたが途方もなく長い旅をしていたと感じたものは時間にして僅か三十分であると客観的な事実をそこに刻んでいた。
 あなたは現実をしっかりと受け止める。薄暗くエメラルドグリーンの照明の部屋はゆっくりと赤紫色へと変わる。
 止まらない汗。
 蒸した暑い部屋。
 あなたは自身が深い瞑想状態にあったことを知った。極限までに集中していることによるフロー状態にも似た現象。あなたは紛れもなく自己と向き合い、深い内省を通して長く長い旅をしていた。
 あなたが見た景色、それはすでにぼやけた記憶となりつつあったが、それはすべてあなたの内側にあるものだとあなたは理解した。
 それが暗示しているものが何かは具体的にはわからない。それでもあなたは気持ちがすっきりしていた。
 「一時間ありがとうございました。リラックスできましたか?」
 細く女性らしい綺麗なシルエットのインストラクターからあなたは声をかけられた。
 「ありがとうございました。違う世界に意識が飛んでいました。すごく清々しい気分です」
 「よかった。また疲れたとき、リラックスしたいときはいつでもお越しくださいね」
 あなたは彼女の声に癒やしを感じていた。彼女の声を辿ってあのような不思議な体験をしたのだと、不意になんとなくそう思った。
 あなたは想う。
 焦がれていたあの感情のことを。
 スタジオを出るときあなたは確かに見た気がした。
 ほんの刹那、あなたのインストラクターのその整った顔に影が差したのを。