「漂う」(第二十三話)

第二十三話

 あなたは心を掻き乱されていた。
 右手に刻まれし刻印に誓った。あなたが愛するのは、かのプリンセスであると。
 あなたは想う。
 あなたに寄り添うかの気高き女性もまたエルフか何か、人間を仮の姿として自身を抑えているのだろうかと。
 あなたは思考がうまくまとまらなかった。
 おかしくなりそうなほど心地よい香りがあなたの鼻を刺激する。
 おかしくなりそうなほど甘美な声があなたの耳を刺激する。
 おかしくなりそうなほど柔らかい感触があなたの肌を刺激する。
 あなたは想う。
 そのまま思考を放棄したならばあなたは奴隷のように意志を失ったかもしれないと。
 「想い人がいる」
 人間という仮の姿では力をうまくコントロールできないなか、あなたはかろうじてそう言葉を有機物であるかのように精製した。
 あなたは確かに見た。
 拒否とも取れるあなたの言葉に対してかの女性が一瞬恍惚な表情を浮かべたのを。
 あなたは狂気を感じた。それと同時にその勇気もまた感じ入った。
 あなたは想う。
 刻は来た。
 混沌の理から解放される今こそ、告げるべき刻であると。

「漂う」(第二十二話)

第二十二話 

 あなたはかつて何度となく経験してきたことを再度経験した。
 容姿やキャリアが相対的に人より秀でているとあなたは素直に自覚し、認めてからというもの、同性異性を問わず告白されることがさらに増えた。
 そしてまた。
 「こうしてご飯をともにしただけで判断してるような軽いものだと思われるかもしれない。でも、その声、その立ち振舞い、そのあらゆるすべてに惹かれました。好きです」
 週に一度のホットヨガでインストラクターをしているときの生徒の男性にご飯に誘われ、告白された。
 あなたはその真摯な、紳士な態度に良い印象を抱いた。
 軽い判断ではないことがうかがえた。心の声に正直になって生み出したものだと感じることができた。
 あなたは想う。
 どうして追われるとこうも気持ちが盛り上がらないのかと。
 一歩引いたところにあなたはいた。
 俯瞰してあなたはあなたと彼を見る。
 あなたはどこまでも追いかける人間だった。
 追いかけて追いかけて、手が届かないからこそ余計に焦らされ焦がれていく人間だった。
 あなたの身体はどこまでも素直だった。
 熱くなる部位はなく、至って冷静だった。
 ただ冷静にその告白を見ることしかできなかった。
 「気持ちを伝えられてよかったです。今日はありがとうございました」
 あなたは想う。
 その潔い去り際に何か熱く感じるものがあると。
 思わず止めようと差し出した手を収め、あなたはあなたが望むものを求めてみようと決めた。

「漂う」(第二十一話)

第二十一話

 あなたは動揺していた。
 おそらく人生の中においてもっとも衝撃を感じたものかもしれないとあなたは深い呼吸とともに自身を落ち着かせ、今一度状況の理解に努めた。
 「ずっと好きだった」
 幼なじみからの一言。
 長い付き合いで、好きとか嫌いとかそういう関係でもない。言葉にしなくとも無二の親友の関係ができていると、そう思っていた。
 けれども幼なじみの本意を友情を言葉に置き換えた程度のものではないことがすぐにわかった。
 真剣そのもの、言うことで関係を壊したくないが言わなければいけないという覚悟のようなものがはっきりと見て取れた。
 今更ながらとあなたは振り返る。
 幼なじみに交際相手が一度もいなかったことを。
 「悪い……」
 あなたはただ一言、そう言うことしかできなかった。なんと答えていいのかわからなかった。
 あなたは想う。
 自分のことをどこまでも理解してくれるのは間違いなく幼なじみという存在であるということを。
 言葉にはしなくとも大切なひとりとしての認識があることを。
 それでも。
 幼なじみが望む意味での想いには応えることができない。
 幼なじみはそうしたことまで理解してくれていた。
 あなたが受け入れることができないということを。
 後日、あなたは正直に告げた。
 好きな人がいることを。
 幼なじみは心から応援してくれた。喜んでくれた。祝福してくれた。
 そしてあなたは、幼なじみの気持ちを心に、想い人に自分の気持ちを伝えた。

「漂う」(第二十話)

第二十話

 あなたは壇上にいた。
 各界の重鎮の目という大小様々なカメラがあなたに向けられていた。
 それはときに優しく、ときに厳しく、可視化した光線のように色を変えながらレンズから発射された。
 皺のないタキシードにさらに張りを出しそうなほどの熱い視線。
 高級感あるネクタイが首を締め付けるのを助長させるような冷たい視線。
 あなたはうんざりするほどに見てきた。
 この場に立つ人間に向けられる人間臭い濃厚な感情の波を。
 あなたは想う。
 この場の誰にも理解されなくてもかまわないと。
 ただひとり、自分という人間をなんとなくでも理解してくれるのなら他に何も望まないと。
 そのひとりはこの場にはいない。
 淀みない空気とは相反する空気の流れが会場内を満たしていく。
 あなたは思惑が渦巻く様子が目視できるかのようだった。
 あなたは再び想う。
 壇上の真正面にあるあの大きな扉が開かれ、自分をここから解放してくれる存在が現れればと。
 あなたはスピーチを終え、大きな扉に向かう。
 自分の足で道を切り開いていくしかないと心に決めて。
 そして大きな扉に手をかけた。

「漂う」(第十九話)

第十九話 

 あなたはオーストリアの宮廷でディナーを楽しんでいた。
 豪奢なシャンデリアは淡い光を細かく無数に放ち、だが主役は決して自分ではないと目立つことは避け、あなたを一番美しく輝かせることに専念しているようだった。
 宮廷音楽家が奏でるメロディーが食事のスパイスとなる。
 厚い絨毯はあなたをしっかりと支え、最高級の木材を使ったテーブルと椅子には金銀の宝石細工が施されている。
 あなたはお姫様だった。
 何重にも薄い絹が丁寧に織り込まれたドレスは着ているのは感じさせないほど軽く、だがその真紅の光沢は存在感を一際目立たせる。
 あなたは物語のヒロインだった。
 無数のダイヤを散りばめられた金のティアラは中世の大国の至宝。
 あなたのためだけに用意された。
 ひとつ、またひとつと料理が運ばれてくる。
 お皿に乗るそれらはどれも少量で、けれどもそこには小さな宇宙が広がっていた。それぞれのプレートに物語があるようで、色鮮やかな佇まいは五感を楽しませた。
 大きく長いテーブルに座るのはあなただけ。
 その向かいの席は空いていた。
 あなたは想う。
 彼はもう間もなくやってくると。
 薄く小さな足音が聞こえた気がした。
 あなたの鼓動と同じリズム。
 そして、重厚な扉が開かれた。

「漂う」(第十八話)

第十八話

 あなたは水の中にいた。
 あなたはそれが幻影だと知っていた。
 澄んだ水はひんやりと冷たい。だが肌には心地よいとすら感じられた。
 呼吸が苦しいこともなく、周囲を囲む魚たちは饗宴の演舞を執り行っているかのようだった。
 あなたは知っていた。
 将来のプリンセスもまたこの景色を見せられ、魅せられたことを。
 そして、プリンセスの瞳に映っているのがあなたではないことを。
 あなたは右手が疼くのを感じた。
 力に対して力で対抗するのは簡単だった。あなたが右手の力の解放すればこの美しい景色は露と消え、荒涼たる景色へと変わる。
 あなたは想う。
 敵の力の強大さを。
 力でもって力を合わせるのではない自分とは異なる戦い方を。
 この場を掌握することが勝利になるとあなたは考えることができなかった。紛れもない幻影、だが、消し去ることでプリンセスの心までも消し去り、幻滅を促しかねない。
 あなたはおよそすべてを知っていた。
 試練とは、乗り越えることができる者にのみ与えられるということを。
 「おもしろい……」
 あなたはそうつぶやいていた。
 自分でも聞こえるか聞こえないかの小さな声で。
 あなたは力を解放する。
 そして、その場は大きな光に包まれた。

「漂う」(第十七話)

第十七話

 あなたは深く感じていた。狂おしいほどに。
 それは本当に狂気と呼べるものだとあなたはあなた自身でそう認識していた。けれども抑えることができない。呼吸をするかのような自然な行為として。
 あなたは地味な服に身を包んでいた。おしとやかな大和撫子だった。
 閑静な住宅街は昼間と言えど人通りは少ない。
 だからこそ感じる。あなたにまっすぐに向けられた熱い視線を。
 あなたは歩みをゆっくりにする。
 殺した足音が段々と近づいてくるのをあなたは確かに感じた。そして感じた。あなたに触れる手を。
 逆光で相手の顔は見えない。
 あなたは体の力が抜けるのを自覚し、歩みを止めた。
 白昼。
 四方を住宅に囲まれた場で。
 それがあなたをより一層強い狂気へと導いた。
 ゆっくりと、段々と手はあなたの中へと押し進む。
 自然と手はスカートの中へ。
 あなたはすでに濡れていた。
 濡れているところはオアシスへと続く道。手はまさぐり、さらなる潤いを求めてきた。
 オアシスを見つけた手はすぐに露と消えた。
 だがあなたはそれでも狂気の恍惚というオアシスに至っていた。
 射し込む日差しに目を細め、あなたは調書を閉じた。
 香りの高いコーヒーを飲み、うっとりした心地を抑えながらあなたは午睡へと向かった。