嵐の中で

 「なにもこんな天気のなか行くことないのに」
 母の言うことはもっともだ。
 雨脚はどんどん強くなり、風が実体化して目に見えるかと思えるくらい轟々と視界に入る映像を上下左右と振動させている。
 私は家にある一番丈夫な傘を持った。
 「傘なんて壊れてもいいビニール傘にしなさいよ」
 背中に聞こえてくる母の声はしっかり耳に届いていた。
 「いいの。まだ風はあんまりだし、この傘なら大丈夫」
 何を根拠にそんなことを言っているのか自分でもよくわかっていなかったが、私はその愛着のある傘を使いたかった。
 「いってきます」
 ドアを開け、強い雨音と隙間に一気に入り込む風の音に私の声はかき消されたかもしれない。
 傘越しに感じる雨は重たかった。一粒一粒が生きているようで、私に何か伝えようと必死になっている気がした。
 対する風の存在感も強烈だった。
 ときおり吹き抜けていく強い風は見えないクッションでも当てられているかのよう。見えない誰かがいたずらでもしてるのかと思ってしまう。
 まだ三時を過ぎたところだというのに街灯の灯る道は夜と変わらないくらいどんよりと暗い。
 大きな水たまりを避けながら一歩一歩とよたよた歩いていてもじわじわ足元に湿り気を感じてきてしまった。
 道ですれ違う人がいない。
 振り返っても人の気配がない。
 聞こえてくる音も雨と風の音だけ。住宅街を歩いているのにまるで生活感がなかった。本当に私ひとりしか今この世界にはいないのではないか。そんな不安に駆られた。
 「咲希」
 突然聞こえた声に心臓をぎゅっと鷲掴みされた心地がした。
 声の主は翔太だ。
 「ドンキホーテ像に行くの?」
 翔太の声は雨に濡れ妙に潤って聞こえた。
 一週間前の今日、台風が発生した。
 進路からして直撃することが予報されていた。
 その日、私は翔太から告白された。
 「付き合ってほしい」
 私はすぐに返事ができなかった。
 物語でありふれた幼なじみのテンプレートみたいな関係を築き上げてきてしまっていて、お互い妙に意識しているのはバレバレだったのにどっちつかずの煮え切らない距離感をずっと維持してきた。
 その均衡をついに翔太が破った。
 「返事は……もしオッケーなら、来週の今日、台風が直撃したらドンキホーテ像に四時に来て」
 そう言うと翔太はすぐに背中を向け早歩きで行ってしまった。
 台風がこなかったらどうするのか、私はそんなことを考えるくらい冷静だったのかもしれない。でもそれはその場を凌ぐための脳の反射的な逃避行動だったのかもしれない。
 見事に予報通りに台風は直撃した。
 けれどこの辺が私たちの恋愛模様を反映したところなのだろう。約束の場所よりだいぶ手前の、ムードもへったくれもない住宅街のど真ん中でまさかの鉢合わせ。
 「咲希、ドンキホーテ像に行くの?」
 繰り返される翔太からの質問にまた脳がショート寸前になっていた。
 「えっと、ちょっとお使い頼まれて……」
 一層と雨が強まった気がした。
 ざーっという雨の音しか聞こえない。
 翔太が無理して笑みを作って歩き出した。
 「でも、ついでに……ついでにドンキホーテ像でも見に行こうかなって……」
 振り向く翔太。
 思わず視線を落とす。
 翔太が何か言った気がしたが聞こえなかった。
 私はただずぶ濡れになりながらぎゅっと翔太に抱きしめられていた。

「漂う」(第二十五話)

第二十五話

 あなたは表現しようのない気分で青空を見上げていた。
 結果はわかっていた。ただ自分の口から正直な想いを伝えることができてよかったとあなたは心から想う。
 あなたは温かな陽射しが降り注ぐ昼下がりに幼なじみと肩を並べて歩いていた。
 違う。
 これはあなたの理想。
 お互いにどこか気まずい雰囲気が出来てしまった。今まで通りの良好な関係でいられたらとあなたは願う。
 「何を心配してんだよ。俺とお前の仲だろ。どこまでも一緒に行こう」
 すべてが報われる極上の一言が聞こえた。
 違う。
 これはあなたの夢想。
 あなたは想う。
 大学生の女の子から好きと言われてひどく驚いたことを。
 異性からの好意に一切の感情の動きが、胸の高鳴りがなかったという自分に心底改めて驚いた。
 雲間からの光を伝って天使が下りてきた。
 手に持つ弓は想いを成就させるものだろうとあなたは直感的にそう感じた。
 彼ともそうやって。
 違う。
 これはあなたの空想。
 「おう。なんか微妙だな。でもまあ、大丈夫だろ俺らなら」
 久々に会った幼なじみは最初こそどこかぎこちなかったが、すぐにいつも通りに接してくれた。
 が、突然、幼なじみはあなたの手を強く引っ張り寄せた。
 まるで女性を扱うかのように乱暴に優しくあなたを車道側から遠ざけた。
 違う。
 これはあなたの妄想。
 あなたは呼吸が浅くなるのを感じた。
 「瞑想」
 「え?」
 あなたは目まぐるしく廻る思考に意識を奪われていた。
 「自分と向き合うんだよ。呼吸も意識できるし、やってみると案外いいものでさ」
 周囲は闇に包まれた。
 その中に、うっすらと光が灯る。そしてそれは段々と辺りを光で覆い尽くす。
 温かい。
 五感が研ぎ澄まれる。
 違う。
 これはあなたの瞑想。
 あなたは現実を見る。
 何も変わらないいつもの風景。
 ほんの数秒の瞑想体験だったにもかかわらず、呼吸が落ち着き、気分もすっきりしていることにあなたは気づいた。
 あなたは想う。
 人の想いは様々に変わる。
 今この瞬間に感じているものはもう次の瞬間には違った形をしているかのしれないと。
 あなたは前を向く
 人と人との繋がりを感じるこの世界をしっかりと見た。

「漂う」(第二十四話)

第二十四話

 あなたはかぼちゃの馬車に乗っていた。
 向かうのは王子様のお城。
 想いが伝わる保証などどこにもないのに、あなたの心は踊っていた。
 決して恋愛対象ではなかった不思議な男の子に告白された。
 人間の姿は仮の姿であると称すちょっと変わったその男の子は大学の知り合いで普段から仲良くしていた。
 いつにもまして思い詰めた表情からその本気度は明らかだった。
 あなたは正直に自分には好きな人がいることを伝えた。
 けれどもあなたはドキドキしていた。好意を向けられることがこんなにもドキドキすることをあなたは知らなかった。
 あなたは想う。
 あれこれ考えているだけでは何も始まらないと。
 そして、誰かを好きになり、誰かに好かれることがこんなにも素敵なことなのだと。
 あなたはこのドキドキを無駄にしたくなかった。
 勇気を出して告白してくれた男の子のためにも、あなたはあなたの恋ときちんと向き合わねばならなかった。
 北風が頬に気持ちいいとあなたは思った。
 向かい風はあなたを追い返す冷たい風ではなく、あなたを鼓舞する優しい風。
 あなたは遠くを見る。
 すぐ手が届きそうなくらい鮮明にあの人のことを想い描くことができた。
 そして、あなたは現実を見る。
 大好きなあの人に向かって。

「漂う」(第二十三話)

第二十三話

 あなたは心を掻き乱されていた。
 右手に刻まれし刻印に誓った。あなたが愛するのは、かのプリンセスであると。
 あなたは想う。
 あなたに寄り添うかの気高き女性もまたエルフか何か、人間を仮の姿として自身を抑えているのだろうかと。
 あなたは思考がうまくまとまらなかった。
 おかしくなりそうなほど心地よい香りがあなたの鼻を刺激する。
 おかしくなりそうなほど甘美な声があなたの耳を刺激する。
 おかしくなりそうなほど柔らかい感触があなたの肌を刺激する。
 あなたは想う。
 そのまま思考を放棄したならばあなたは奴隷のように意志を失ったかもしれないと。
 「想い人がいる」
 人間という仮の姿では力をうまくコントロールできないなか、あなたはかろうじてそう言葉を有機物であるかのように精製した。
 あなたは確かに見た。
 拒否とも取れるあなたの言葉に対してかの女性が一瞬恍惚な表情を浮かべたのを。
 あなたは狂気を感じた。それと同時にその勇気もまた感じ入った。
 あなたは想う。
 刻は来た。
 混沌の理から解放される今こそ、告げるべき刻であると。

「漂う」(第二十二話)

第二十二話 

 あなたはかつて何度となく経験してきたことを再度経験した。
 容姿やキャリアが相対的に人より秀でているとあなたは素直に自覚し、認めてからというもの、同性異性を問わず告白されることがさらに増えた。
 そしてまた。
 「こうしてご飯をともにしただけで判断してるような軽いものだと思われるかもしれない。でも、その声、その立ち振舞い、そのあらゆるすべてに惹かれました。好きです」
 週に一度のホットヨガでインストラクターをしているときの生徒の男性にご飯に誘われ、告白された。
 あなたはその真摯な、紳士な態度に良い印象を抱いた。
 軽い判断ではないことがうかがえた。心の声に正直になって生み出したものだと感じることができた。
 あなたは想う。
 どうして追われるとこうも気持ちが盛り上がらないのかと。
 一歩引いたところにあなたはいた。
 俯瞰してあなたはあなたと彼を見る。
 あなたはどこまでも追いかける人間だった。
 追いかけて追いかけて、手が届かないからこそ余計に焦らされ焦がれていく人間だった。
 あなたの身体はどこまでも素直だった。
 熱くなる部位はなく、至って冷静だった。
 ただ冷静にその告白を見ることしかできなかった。
 「気持ちを伝えられてよかったです。今日はありがとうございました」
 あなたは想う。
 その潔い去り際に何か熱く感じるものがあると。
 思わず止めようと差し出した手を収め、あなたはあなたが望むものを求めてみようと決めた。

「漂う」(第二十一話)

第二十一話

 あなたは動揺していた。
 おそらく人生の中においてもっとも衝撃を感じたものかもしれないとあなたは深い呼吸とともに自身を落ち着かせ、今一度状況の理解に努めた。
 「ずっと好きだった」
 幼なじみからの一言。
 長い付き合いで、好きとか嫌いとかそういう関係でもない。言葉にしなくとも無二の親友の関係ができていると、そう思っていた。
 けれども幼なじみの本意を友情を言葉に置き換えた程度のものではないことがすぐにわかった。
 真剣そのもの、言うことで関係を壊したくないが言わなければいけないという覚悟のようなものがはっきりと見て取れた。
 今更ながらとあなたは振り返る。
 幼なじみに交際相手が一度もいなかったことを。
 「悪い……」
 あなたはただ一言、そう言うことしかできなかった。なんと答えていいのかわからなかった。
 あなたは想う。
 自分のことをどこまでも理解してくれるのは間違いなく幼なじみという存在であるということを。
 言葉にはしなくとも大切なひとりとしての認識があることを。
 それでも。
 幼なじみが望む意味での想いには応えることができない。
 幼なじみはそうしたことまで理解してくれていた。
 あなたが受け入れることができないということを。
 後日、あなたは正直に告げた。
 好きな人がいることを。
 幼なじみは心から応援してくれた。喜んでくれた。祝福してくれた。
 そしてあなたは、幼なじみの気持ちを心に、想い人に自分の気持ちを伝えた。

「漂う」(第二十話)

第二十話

 あなたは壇上にいた。
 各界の重鎮の目という大小様々なカメラがあなたに向けられていた。
 それはときに優しく、ときに厳しく、可視化した光線のように色を変えながらレンズから発射された。
 皺のないタキシードにさらに張りを出しそうなほどの熱い視線。
 高級感あるネクタイが首を締め付けるのを助長させるような冷たい視線。
 あなたはうんざりするほどに見てきた。
 この場に立つ人間に向けられる人間臭い濃厚な感情の波を。
 あなたは想う。
 この場の誰にも理解されなくてもかまわないと。
 ただひとり、自分という人間をなんとなくでも理解してくれるのなら他に何も望まないと。
 そのひとりはこの場にはいない。
 淀みない空気とは相反する空気の流れが会場内を満たしていく。
 あなたは思惑が渦巻く様子が目視できるかのようだった。
 あなたは再び想う。
 壇上の真正面にあるあの大きな扉が開かれ、自分をここから解放してくれる存在が現れればと。
 あなたはスピーチを終え、大きな扉に向かう。
 自分の足で道を切り開いていくしかないと心に決めて。
 そして大きな扉に手をかけた。