「雪の瞳に燃える炎」(第四話)

第四話

 光央は熱しやすい。けれども冷めやすくはない。今でもあわよくばフランチェスカとの関係をと考えてしまっている。それは大学生にもなって未だに異性と付き合ったことがないというコンプレックスが焦らせるものだとも思う。誰でもいいとは言わないまでも、ある程度かわいいと思う子ならばよく知らずとも好きになる。正確には、好きになろうとしてしまう。
 本当の恋愛なんてわからない。
 世間体を気にしただけのステータスとしての彼女なんていらないと思う一方で、やはり童貞を公言できるほどの度量を光央は持ち合わせていなかった。
 「光央」
 そう呼ばれて声の方に振り返ると、大男のファビオが立っていた。そういえば玄関のチャイムが鳴っていた。
 「昨日仕事が落ち着いたら会いに来ようと思ってたんだけど遅くなって来れなかったんだ、すまない」
 大男のファビオは見た目とは裏腹に紳士で優しい。
 二メートルはある長身でゴツゴツした骨格は相変わらず健在だった。体に比べて顔は小さく、大柄なのにシャープな印象を与えている。動きが遅いといった固定観念が通用しなそうな感じだ。
 「じゃあ、街へ繰り出そう」
 光央とマリオはファビオが運転する車で街の中心へ向かった。
 街は昨日よりも賑わいを見せていた。観光客のほか、地元住民も多く出歩いているようだ。車が通れるところが少なくなっていて、遠くに車を止め、中心地までは歩いて行かなければならなかった。
 街の中心に行くと、子どもを抱えた大きなマリア像が設置されていた。ただ奇妙なのは、マリア像の首から下の体はすかすかで、木でできた骨組みの三角形の上に顔と手があるだけだった。
 「お祭りが始まってるのになんであんな中途半端なの?」
 「あれはこれからやるパレードに参加する人たちが一人ずつ花束を持ってきてあそこに捧げるんだ。パレードが終わる頃には完成するから、気長に待ってて」
 街には民族衣装のような独特の服を来た人たちが子どもから大人まで歩いていた。
 「あの服を来た人たちが街を歩いて花束を届ける」
 マリオは慣れているのかなんら珍しいとも思わない口調だった。
 「俺たちも子どもころはあんなふうな格好をして歩かされたよ」
 ファビオは少し照れくさそうに低い声を上から出す。
 色は青、赤、緑、黄色と様々で、腰から下が大きく広がったフレアスカートのドレスは細かな金銀の刺繍が織り込まれ、中世貴族の装いを喚起する。髪飾り、ストール、優雅に着飾った小学生から中学生くらいの女の子が特に多く目に付いた。男の子はというと、執事のような黒ベストで女の子と比べると味気ない。華があるのは決まって女の子なのかもしれない。
 光央がついつい見惚れているところにフランチェスカはやってきた。
 「光央」
 耳に心地よく流れ込んでくるその響きを間違えるわけはなかった。爆竹が鳴ろうが、お祭りの喧騒の只中にいようが、光央はその声を正確に拾った。
 くしゃっと顔をほころばせて笑うフランチェスカに光央は改めてときめいていた。
 「フランチェスカ
 抱き合うと香る甘いフランチェスカの匂い。柔らかく温かい彼女の体温が全身に伝わる。ずっとそのままでいたいと思うころには体は離れている。光央の想いなど露知らず。当然だがフランチェスカは友達として光央との再会を喜んでいるようだった。
 フランチェスカと合流すると光央らはすぐファビオの車に戻り移動を開始した。
 「あれ? もう見ないの?」
 「また四日目、五日目ともっと盛り上がってるときに見に来よう。今日は美味しいパエリアとカフェでまったり」
 マリオは得意のシニカルな笑みでみなを引き連れていく。
 「ふぅー。もうホントあの祭りには息が詰まる」
 街の中心からは離れ、まもなく目的地に着くよとファビオが言うのに応えるようにフランチェスカはたまっていたであろう思いを吐露した。
 「地元の人はみんな愛するものなんじゃないの?」
 光央は街が盛り上がるのを見て素直にそう思っていた。
 「全然。私は嫌い。毎年毎年朝から晩までバンバンバンバン、バンバンバンバンとうるさいったらない。夜なんて眠れやしない。誰もがお祭りの間に仕事を休めると思うなって感じ」
 フランチェスカの家はさっきのマリア像のすぐ近くだそう。連日観光客に加えてさらに盛り上がる地元民の大喧騒にはうんざりしているという。
 光央は自分が同じ状況ならあっさり五日間でノイローゼになる自信があった。フランチェスカの気苦労も十分に理解できた。
 車が止まり外に出ると、潮の香りが強く感じられた。建物で見えなかっただけで、すぐに視界いっぱいに海が広がる。陽射しがあるとはいえ海風は強く、春の格好では少し肌寒い。さすがに海で泳いでいる人の姿は見られなかったが、誰も泳いでいない海はただただどこまでも広く雄大で、太陽に反射してどんな宝石でも叶わない輝きを放っていた。
 そんな海を望める最高のロケーションにログハウスのような丸太で造られたお店があった。そしてマリオはそこに入っていく。
 「メニューはパエリアしかないよ」
 店内は大きめのテーブルがランダムに並び、真っ白なテーブルクロスがすべてにかかっていた。港を思わせる内装で、白を基調とした清潔感のある空間だ。壁にかかる絵はどれも海をモチーフにしたものが多く、汽笛の音やカモメの鳴き声が聞こえてきそうな感じがした。店内には食欲をそそるいい匂いが絶妙に立ち込めている。
 程なくして運ばれてきたのは、大柄な男の人が両手いっぱいに広げて持つパエリア独特の平たく薄い鍋だ。完成した品をお披露目するパフォーマンスで、出来立てなのか鉄板の熱の音が聞こえてくる。その音色に合わせて小麦色にこんがり炒められた具材が余熱で踊るようにぐつぐつと自己主張している。等間隔に円を一周カットレモンが置かれていて、その場を引き締め統率しているようにも見えた。
 一人分のお皿に盛りつけされたものを見ると、海の幸が惜しみなく使われていた。添えられたレモンで味を変えながら飽きることなく、お腹がいっぱいになるのも忘れて食べ続けることができた。
 日本人に限ったことではないのかもしれないが、料理は本場で食べると美味しく感じると思う人は多い。特に日本人はそれが顕著で、旅の先々で、「やっぱ本場は違うね」とよくわかりもせずに舌鼓を打つふりをする。光央にもその気持ちは理解できるが、今食べたパエリアは本場がどうこうでなく、美味いの一言以外に適切な表現が見つからない。今まで、生涯で食べてきた料理で一番美味しかったんじゃないかと思うくらい、満腹でもまだ食べたいとなる一品だった。
 美味しいものを食べると人は幸せになる。テーブルを囲む誰もが自然と饒舌になり、改めて久々の再会の喜びを分かち合った。
 ゆっくりとパエリアを食した後、光央たちはそのお店からさらに海岸線を歩いた。手に残るほのかなレモンの香りが満腹の幸福感をいつまでも感じさせてくれた。

「雪の瞳に燃える炎」(第三話)

第三話

 晴れ男の光央は旅行先でひどい雨に見舞われるということがほとんどなかった。長く滞在していて雨の予報に出くわしても大事なイベントごとでは必ず晴れる。
 今日から五日間、バレンシアの町はお祭りとなる。スペイン三大祭りの一つであるその「火祭り」を見るために光央はイタリアから飛んできた。天気予報に雨のマークは見られず、空にはやはり雲ひとつ見つけることはできない。
 光央はマリオの車に乗ってバレンシアの駅まで来ていた。もう少しゆっくり寝ていたかったのだが、一人でお留守番はさすがに暇を持て余すし、バレンシアに来たばかりで移動手段がわからないため、マリオと同じ時間に出て町の中心まで連れてきてもらった。これからマリオの終業時間を待つことになる。
 「今日からお祭りとは言ってもまだそんなに町は盛り上がらない。ゆっくり観光でもして時間を潰してて」
 マリオの話では「ファヤ」という紙でできた人形が街の至るところに造られているという。そのため、日本では「火祭り」と呼ばれるその祭りの正式名称は、「ファヤ」の複数形で「ファヤス」という。
 光央はそもそも「火祭り」なるものすら知らなかった。検索して、スペインに三大祭りとくくられる大きなお祭りがあり、その一つがこの「火祭り」だと初めて知ったくらいだ。詳細はわからないが街中で何かが燃え上がるらしい。
 「ファヤ」は大小様々だが、小さいものでも人間と同じくらいの大きさはあり、大きいものになると家と同じくらいの巨大さだった。
 普段の人の流れがどの程度なのかわからないので今この辺りに人が多いのか少ないのか光央には判断できなかったが、光央から見た印象では観光客らしき人は多い気がした。
 紙でできたモニュメントみたいなニュアンスを聞いていたため、薄っぺらい簡単な工作くらいに考えていた光央にとって、街を歩くとすぐに目に付いた「ファヤ」という人形のスケールには思わず息を飲むこととなった。
 何の予備知識もなくそれらの人形を見たのならば、それらが紙でできているなどと誰が思うだろうか。ディズニーランドのようなテーマパークで目にしそうなメルヘンチックで精巧な造りのオブジェクトが街のあちこちに置かれている。
 光央は地図を持っていなかったが、時間はあるし最悪迷ったところで会話はできそうだったためひたすら歩いた。おそらく後日マリオとゆっくり「ファヤ」は見て回ることになると思い、極力見ないようにして街の観光に徹することにした。
 市庁舎、教会、広場、イタリアの街並みと似ているようでどこか微妙に違う感じが新鮮だった。歩いているだけでもロールプレイングゲームの主人公になった気分を味わえる。新しい街にて新しいクエストに出会う可能性に胸を踊らせた。
 五歳くらいだろうか、光央の近くにいた小さな女の子がひょいと何かを地面に投げ捨てた。光央からほんの数メートルといった距離に放たれたものに目が行く。次の瞬間、それは大きな音ともに爆発した。
 女の子がきゃっきゃとはしゃいでいる横で光央は心臓が止まるかと思うほどびっくりしていた。別に誰も光央のことなど見ていないだろうが、光央は平静を装い何事もなかったかのように振る舞ってみせる。
 それから先、何度と似たような光景を見ることになり、そして見なくともどこからか爆発音は耳に届いた。どうやら爆竹らしく、多くの人が無作為に投げて楽しんでいた。しばらく歩いてわかったことだが、投げているのは地元のバレンシア人だ。観光客らしき人たちはみな光央と同じように爆竹が鳴るたびに悲鳴をあげている。おそらくその爆竹も祭りの余興の一つなのだろうと光央は理解した。
 光央は広場にあるカフェのテラスで休憩をしつつ街を眺めていた。昼を過ぎた頃から爆竹が鳴る頻度が上がってきたように思う。なんとも無秩序に放たれる爆竹の音は、それぞれが個々のもので一切のハーモニーなど生むことはない。時折、連続的に爆竹がつながるのは偶然にすぎない。それでもその音をきっかけに段々と人々のテンションが上がっていくのはわかる。街の温度が上がっていくのは単純に太陽が強く輝く時間だからというだけではないのかもしれない。
 強い陽射しが眩しくも心地よい。現実から意識が遠のきそうになると爆竹の激しい音にすぐ現実へと戻される。
 けれども不思議なもので、慣れてくると爆竹の音ですら一つの音楽のようにも感じることができた。そんな詩人めいた発想に浸り油断して歩いていると、すぐそばでバンと破裂した。光央は無様にも大きく体を仰け反らせて驚き、恥ずかしい思いをした。そして光央は夜中や早朝にも爆竹が激しく鳴ることを知る。
 マリオの家は街の中心から車で二十分ほど走ったところにある。昨日の時点では静かだったはずと光央は記憶している。だが真夜中にもわりと近くで爆竹が鳴り響き、全然寝付けないでいると目覚ましとばかりにまだ日も昇りきってない頃から爆竹のアラームが豪快に鳴り響いた。
 「マリオ、この爆竹は五日間ずっとこんな感じなの?」
 「段々と、もっともっとエスカレートしてくるよ。これらの個人が投げてるのとは別にショーのような感覚で爆竹が轟くイベントもある」
 「でも夜中や朝方にもやられると眠れないでしょ」
 「ん? そのへんの時間はあんまり聞こえないけど。この辺りなら夜は静かでまったく睡眠に支障は出ない。フランチェスカは街の中心に住んでるからしんどいみたいだけどね」
 光央は驚愕した。マリオにはあの音が聞こえてないという。慣れがそうさせるのか、バレンシア人が特有の進化を遂げたのか。
 「あ、フランチェスカ、彼女もバレンシアなんだっけ?」
 フランチェスカもモデナで知りあったスペイン人の一人で、丸顔、タレ目、アヒル口ナチュラルパーマのかかったセミロングの黒髪を持つ女の子だ。その容姿は光央の心を一瞬で射止めるほどキュートで、光央の好みの女性のタイプそのままだった。声フェチでもある光央にとってフランチェスカの声、また、喋り方、イントネーションなども余計に彼女の可愛さを増幅させ、ほぼ恋に落ちていたと言ってもいいくらいだった。
 「今日は彼女にも会えると思う。彼氏がちょうど出張らしくて暇してるみたい」
 モデナにいた当時、光央は異国にいる妙な高揚感も手伝ってかフランチェスカに真剣にアプローチを試みようかと考えていた。けれどもすぐに彼氏がいることがわかり、告白する前に振られるといった悲劇に見舞われ、軽く一週間ほど本気で落ち込んだ。
 彼氏の存在はもう周知のことなのに改めてマリオの口から出た彼氏という単語にはやはり少しチクリと刺さるものがあった。

「雪の瞳に燃える炎」(第二話)

第二話

 三月のバレンシアは日本と比べるとほんの少し温かい。緯度的にはそこまで変わらないし、気候も似たようなものだが、熱いスペイン人が温度を上げているのか、この日も昼間にコートは必要ないくらいの陽気だった。
 白塗りの、高さはないがやたらと大きい建物に到着し、マリオはそこが自分の家ですぐ隣の建物にルイスとファビオも住んでいることを知らせた。
 日本人の感覚からすると、エントランス、階段、廊下とホテルのような造りで妙にお洒落に見える。違うだろうが、壁も床も大理石だと言われたら信じてしまいそうなくらい綺麗に整った印象を与えていた。
 まず光央が驚いたのはマリオの家の広さだった。日本人のワンルームの話から派生したやり取りでマリオがある程度の広さの家に住んでいることは知っていた。けれどもそれは想像以上の広さだった。一人暮らしなのに部屋は三つあり、それらとは別にリビングが光央のワンルームと同じくらいの広さで質の良さそうなソファやテーブル、大型モニターのテレビと優雅にゆったりと置かれていた。
 「え? マリオ一人で住んでるんだよね? 広すぎない?」
 「この辺じゃこれは狹い部類に入るよ。ルイスの家はもっと広い」
 世界は広い。意味はそういうことではなくとも光央の頭にはそんな言葉が浮かんだ。
 子どもの頃に広い一軒家に住む友達の家でかくれんぼをしたことを思い出した。これだけの広さがあれば十分に楽しめる。
 たいした旅でもなく疲れなどなかったが夜まではマリオとひたすら近況報告を兼ねた世間話に花を咲かせた。いつまでも明るい窓の外に改めて今自分が遠い異国の地にいることを感じた。
 夜になってルイスの家に行くと、まず迎えてくれたのは可愛らしい小さな女の人だった。ルイスの彼女であるらしく、ほんのり小麦色の肌にボリュームのある真っ黒の長い髪、身長は日本人でも小さいほうになるサイズで、小動物のような印象の美人だ。遅れて出てきたルイスは、アイロンのいきとどいたぱりっとした白シャツを見事に着こなす貴公子そのもの、非常に画になる美男美女が大歓迎を表していた。
 マリオの情報通り家はとてつもなく広かった。食事の支度ができるまでルイスが家の中を案内してくれていたのだが、マンションの一室なのに部屋の中で二階建て構造になっていた。単純にマリオの家の倍近くあることになる。上の階のベランダはバーベキューができるレベルの広さで、夏はよくそこで食事を楽しむらしい。
 食事はちょっとしたレストランを思わせる見た目も美しい料理の数々が並んでいた。サラダはミニトマトと同じ大きさのオリーブが彩りよく散りばめられ、パンは焼きたてなのかふんわりと湯気が薄くくすぶっているのがわかる。ハムとチーズはイタリアでもよく目にしたものだが、そこには様々な種類のハムとチーズがところ狭しと並んでいた。他にはスペイン人が得意とする、玉子焼きの中にじゃがいもが入っている家庭料理で、これはマリオがモデナで暮らしてるときにもよく作っていた。
 メインとなるのはパスタとお肉。大きめな真四角の真っ白なプレートの中央に、小ぶりながらその存在感を存分に発揮した薄いお肉が何枚も重なっていた。赤黒いソースが美しい幾何学模様のようにかけられ、ぱっと見ではミルフィーユかと思うくらい完成された一皿だった。
 「普段からこれほどのクオリティの料理を?」
 光央は食べるのがもったいないと感じるアートのような料理にじっと見入っていた。
 「彼女は料理がとても上手い。それでも普段はもっとカジュアルだよ。今日は光央が来るから特に腕を振るったんだ」
 ルイスの自然なウインクは映画俳優がスクリーン上でやるしぐさのようだ。その隣では彼女が照れくさそうに謙遜の態度を示していた。
 白のスパークリングワインをルイスたちがアフリカ旅行で買ったというステンドグラス調のピルスナーグラスに注ぎ、準備が整った。心地よいボリュームのクラシックが流れるアットホームな高級感という矛盾めいた空間の演出に光央はすでに酔いしれていた。
 その夜は、光央を除く全員が次の日に仕事にもかかわらず遅くまで優雅な宴会をアットホームに繰り広げた。ほろ酔い気分でベランダに立って感じる風は冷たく、夜空の星も日本で見るものとは違って見えた。

「雪の瞳に燃える炎」(第一話)

第一話

 「初めて」というのは何事にも緊張を伴う。
 スペインの空港がイタリアで見たそれと似ているようでいて違って見えるのは異なる国民性を反映したことによるものだろうか。海外にだいぶ慣れたつもりでいても、初めての地にはそわそわしてしまう。
 光央は空港のロビーで待ち構えているはずのマリオの姿を探した。出口を出ると、そこには芸能人の出待ちをしているかのように人々がお目当ての人間を探している。マリオと光央がお互いの姿を捉えたのはほぼ同時だった。共に目が合い、「あっ」と声を上げた。
 光央が厚手のコートを着ているのに対して、マリオはシャツにカーディガンという春の格好をしていた。情熱の国スペインはやはり暑いのだろうかと光央は安易な考えを巡らせる。
 マリオとは半年ぶりの再会となる。スペイン人はヨーロッパ人のなかでは小柄な部類に入るんじゃないかと光央は思う。それは光央が知るスペイン人の友人がほとんどあまり大きくないからだ。マリオに関しては日本人と比較しても体格に差はないくらいで、日本人の平均身長よりやや低い光央ともほぼ同じ目線の高さだ。
 だからこそお互い発見がスムーズにいったのかもしれない。マリオはシニカルな笑みで光央を迎える。軽いハグはあるものの、周囲のスペイン人たちがしているような暑苦しさは見られない。
 「久しぶり」
 周りは挨拶だけで映画一本見終わるんじゃないかというほど長く抱き合ったり、キスをしたり、話し込んだりと忙しい。そんな中、光央とマリオは余計な言葉をその場で交わすことはせずスマートにその場を後に車に向かう。
 「情熱の国」なんて形容される通りスペイン人はみな本当に熱い。陽気で明るくよく喋る。仲間を大切にし、喜怒哀楽がはっきりとしていて、特に「好き」という感情を惜しみなく表現する。身振り手振りも多く、じっとしていられない。日本で有名な、大陸の温度を上げると噂されるほどの熱い某テニスプレーヤーのような人が国民の大半を占めると思えばわかりやすいだろう。
 そんな国民性を持つスペイン人にあってもマリオは物静かであまり喋らない。感情表現も穏やかで、怒った姿はとても想像できない。仲間を大切にする優しい面に特化した紳士で、いつでもシニカルな笑みを浮かべている。
 「そんな格好してたら暑いんじゃない?」
 光央はスペインに入る前はイアリアにいた。今回の旅は大学の春休みを利用した二月と三月の二ヶ月間で、スペインに一週間滞在したらまたイタリアに帰ることになっている。
 三月も中旬となるがイタリアは寒かった。先週までは雪も残っていて、イタリア出国時も今のこの格好で寒さをしのいでいた。隣国にわずか二時間ほど横にスライドしたくらいのフライトで、午前から午後に変わっただけで気温がそこまで大きく変化するとは思えなかったが、空港を出るとまるで沖縄にでも来た心地がした。海が近いのかほのかに潮の香りを乗せた温かくも冷たくもない風が優しく光央を歓迎する。
 「あれ? 本当だ、全然寒くない」
 マリオは、何を当たり前のことをとでも言いたそうな顔で空港前に止めてある車に乗る。
 「聞いて、イタリアは寒かったんだ」
 「どこから来たんだっけ?」
 「モデナ」
 マリオはちょっと考えるような顔をしてみせたが、すぐに得意のシニカルな笑みに戻る。
 「ま、モデナに比べたらバレンシアの緯度は下だね。でもこの辺は昼夜の気温差が激しいから、寒がりなら夜はそれくらいの防寒はしてていいかも」
 光央はさっきまでの緊張が嘘のように、マリオの横にいると一気にリラックスすることができた。
 空は青く、海の色そのまま。
 「海が青いから空が青いんだっけ、空が青いから海が青いのかな?」
 「どちらでもない」
 シニカルな笑顔を継続中のマリオがわかりやく解説する。
 「太陽光が散らばるからだよ。大気も水も青い光を強く散らばせるから青く見える」
 光央とマリオはイタリア語で会話をしている。理由は光央がスペイン語を話せないから。元々イタリアの語学学校で出会った二人であるため、共通語はイタリア語だった。
 理科の先生のごとく解説するマリオの言葉にイタリア語にはない単語が混じってるように聞こえたのは、少し専門的なことを話題にしているため正確なイタリア語の語彙がわからなかったためだろう。それでも光央はスペイン語を話されてもなんとなく理解することができた。それくらいスペイン語とイタリア語は似ていた。逆に光央がイタリア語を使っても、スペイン人はやはりなんとなく光央のことを理解してくれた。それは前に会ったスペイン語しか話せないマリオの友達が証明していた。
 初めてマリオと出会ったのは夏休み。光央はイタリアのモデナという町にいた。光央はモデナをフィールドワークの対象としていたため、夏休みの間を利用してモデナを訪れていた。その際に世界にネットワークを張ろうと思い語学学校に通ったのだが、マリオはそのときルームシェアをしたパートナーだった。
 初めて接するスペイン人だったマリオが思い描いていたスペイン人像とかなり違っていたこともあり、陽気で情熱的といったイメージは日本人が勝手に付けた偏見みたいなものと光央は思っていた。
 後にスペインからマリオに会いに来た友達らを目にして、光央は真実を思い知った。物静かなマリオとは打って変わって、友達らのなんと喋ること喋ること。朝から飲み食いを始め、昼、夕、夜、夜中、宴会のように騒いでいる。ルイスという典型的なスペイン人である友達は見た目も軽いが声も軽い。話しているとケタケタという音が聞こえてきそうなくらい軽快に巻き舌の言葉をものすごい速度で紡いでいた。でも不思議なことにその圧倒的な速度でマシンガンのごとくスペイン語を喋られても、光央はルイスの言うことは理解できた。もう一人のファビオは、小柄が多かった友達のなか唯一の例外で二メートル近くある長身の男だ。どちらかといえば物静かなマリオに似ているようだが、仲間内ではやはり喋る。長身から繰り出される特有の低い声のせいかファビオのスペイン語はルイスのそれと比べて聞き取りにくく理解できないことも多かった。それでも光央はマリオの友達らと、イタリア語とスペイン語で見事に意思の疎通に成功していた。
 「マリオ、元気そうだね。ルイスやファビオも元気?」
 「みんな変わりなくやってるよ。今夜はルイスの家で食事をすることになってる。ファビオはあいにくと仕事で来れないけど明日には会えると思う」
 「それは楽しみだ」

嵐の中で

 「なにもこんな天気のなか行くことないのに」
 母の言うことはもっともだ。
 雨脚はどんどん強くなり、風が実体化して目に見えるかと思えるくらい轟々と視界に入る映像を上下左右と振動させている。
 私は家にある一番丈夫な傘を持った。
 「傘なんて壊れてもいいビニール傘にしなさいよ」
 背中に聞こえてくる母の声はしっかり耳に届いていた。
 「いいの。まだ風はあんまりだし、この傘なら大丈夫」
 何を根拠にそんなことを言っているのか自分でもよくわかっていなかったが、私はその愛着のある傘を使いたかった。
 「いってきます」
 ドアを開け、強い雨音と隙間に一気に入り込む風の音に私の声はかき消されたかもしれない。
 傘越しに感じる雨は重たかった。一粒一粒が生きているようで、私に何か伝えようと必死になっている気がした。
 対する風の存在感も強烈だった。
 ときおり吹き抜けていく強い風は見えないクッションでも当てられているかのよう。見えない誰かがいたずらでもしてるのかと思ってしまう。
 まだ三時を過ぎたところだというのに街灯の灯る道は夜と変わらないくらいどんよりと暗い。
 大きな水たまりを避けながら一歩一歩とよたよた歩いていてもじわじわ足元に湿り気を感じてきてしまった。
 道ですれ違う人がいない。
 振り返っても人の気配がない。
 聞こえてくる音も雨と風の音だけ。住宅街を歩いているのにまるで生活感がなかった。本当に私ひとりしか今この世界にはいないのではないか。そんな不安に駆られた。
 「咲希」
 突然聞こえた声に心臓をぎゅっと鷲掴みされた心地がした。
 声の主は翔太だ。
 「ドンキホーテ像に行くの?」
 翔太の声は雨に濡れ妙に潤って聞こえた。
 一週間前の今日、台風が発生した。
 進路からして直撃することが予報されていた。
 その日、私は翔太から告白された。
 「付き合ってほしい」
 私はすぐに返事ができなかった。
 物語でありふれた幼なじみのテンプレートみたいな関係を築き上げてきてしまっていて、お互い妙に意識しているのはバレバレだったのにどっちつかずの煮え切らない距離感をずっと維持してきた。
 その均衡をついに翔太が破った。
 「返事は……もしオッケーなら、来週の今日、台風が直撃したらドンキホーテ像に四時に来て」
 そう言うと翔太はすぐに背中を向け早歩きで行ってしまった。
 台風がこなかったらどうするのか、私はそんなことを考えるくらい冷静だったのかもしれない。でもそれはその場を凌ぐための脳の反射的な逃避行動だったのかもしれない。
 見事に予報通りに台風は直撃した。
 けれどこの辺が私たちの恋愛模様を反映したところなのだろう。約束の場所よりだいぶ手前の、ムードもへったくれもない住宅街のど真ん中でまさかの鉢合わせ。
 「咲希、ドンキホーテ像に行くの?」
 繰り返される翔太からの質問にまた脳がショート寸前になっていた。
 「えっと、ちょっとお使い頼まれて……」
 一層と雨が強まった気がした。
 ざーっという雨の音しか聞こえない。
 翔太が無理して笑みを作って歩き出した。
 「でも、ついでに……ついでにドンキホーテ像でも見に行こうかなって……」
 振り向く翔太。
 思わず視線を落とす。
 翔太が何か言った気がしたが聞こえなかった。
 私はただずぶ濡れになりながらぎゅっと翔太に抱きしめられていた。

「漂う」(第二十五話)

第二十五話

 あなたは表現しようのない気分で青空を見上げていた。
 結果はわかっていた。ただ自分の口から正直な想いを伝えることができてよかったとあなたは心から想う。
 あなたは温かな陽射しが降り注ぐ昼下がりに幼なじみと肩を並べて歩いていた。
 違う。
 これはあなたの理想。
 お互いにどこか気まずい雰囲気が出来てしまった。今まで通りの良好な関係でいられたらとあなたは願う。
 「何を心配してんだよ。俺とお前の仲だろ。どこまでも一緒に行こう」
 すべてが報われる極上の一言が聞こえた。
 違う。
 これはあなたの夢想。
 あなたは想う。
 大学生の女の子から好きと言われてひどく驚いたことを。
 異性からの好意に一切の感情の動きが、胸の高鳴りがなかったという自分に心底改めて驚いた。
 雲間からの光を伝って天使が下りてきた。
 手に持つ弓は想いを成就させるものだろうとあなたは直感的にそう感じた。
 彼ともそうやって。
 違う。
 これはあなたの空想。
 「おう。なんか微妙だな。でもまあ、大丈夫だろ俺らなら」
 久々に会った幼なじみは最初こそどこかぎこちなかったが、すぐにいつも通りに接してくれた。
 が、突然、幼なじみはあなたの手を強く引っ張り寄せた。
 まるで女性を扱うかのように乱暴に優しくあなたを車道側から遠ざけた。
 違う。
 これはあなたの妄想。
 あなたは呼吸が浅くなるのを感じた。
 「瞑想」
 「え?」
 あなたは目まぐるしく廻る思考に意識を奪われていた。
 「自分と向き合うんだよ。呼吸も意識できるし、やってみると案外いいものでさ」
 周囲は闇に包まれた。
 その中に、うっすらと光が灯る。そしてそれは段々と辺りを光で覆い尽くす。
 温かい。
 五感が研ぎ澄まれる。
 違う。
 これはあなたの瞑想。
 あなたは現実を見る。
 何も変わらないいつもの風景。
 ほんの数秒の瞑想体験だったにもかかわらず、呼吸が落ち着き、気分もすっきりしていることにあなたは気づいた。
 あなたは想う。
 人の想いは様々に変わる。
 今この瞬間に感じているものはもう次の瞬間には違った形をしているかのしれないと。
 あなたは前を向く
 人と人との繋がりを感じるこの世界をしっかりと見た。

「漂う」(第二十四話)

第二十四話

 あなたはかぼちゃの馬車に乗っていた。
 向かうのは王子様のお城。
 想いが伝わる保証などどこにもないのに、あなたの心は踊っていた。
 決して恋愛対象ではなかった不思議な男の子に告白された。
 人間の姿は仮の姿であると称すちょっと変わったその男の子は大学の知り合いで普段から仲良くしていた。
 いつにもまして思い詰めた表情からその本気度は明らかだった。
 あなたは正直に自分には好きな人がいることを伝えた。
 けれどもあなたはドキドキしていた。好意を向けられることがこんなにもドキドキすることをあなたは知らなかった。
 あなたは想う。
 あれこれ考えているだけでは何も始まらないと。
 そして、誰かを好きになり、誰かに好かれることがこんなにも素敵なことなのだと。
 あなたはこのドキドキを無駄にしたくなかった。
 勇気を出して告白してくれた男の子のためにも、あなたはあなたの恋ときちんと向き合わねばならなかった。
 北風が頬に気持ちいいとあなたは思った。
 向かい風はあなたを追い返す冷たい風ではなく、あなたを鼓舞する優しい風。
 あなたは遠くを見る。
 すぐ手が届きそうなくらい鮮明にあの人のことを想い描くことができた。
 そして、あなたは現実を見る。
 大好きなあの人に向かって。