春の雪と夏の真珠(第三十一話)

第三十一話

 季節は流れ、本格的な冬の訪れも近い十一月となり街はイルミネーションで鮮やかに彩られ始めていた。
 そんななか俺は未だに夏珠に対して明確な返事もしないままでいた。俺自身がダメな男という点はまさしくその通りだが、夏珠の方でも俺にちゃんとした返事をさせる雰囲気を作らないようにしていると思えることがあった。
 俺も夏珠も行き着く答えがなんとなくわかっているのかもしれない。それならいっそ今のままでいられたらいいとまで考えているのかもしれない。
 はっきりと答えを出せば変わらないままではいられない。子どもなら昨日喧嘩して今日は仲良し、でもまた明日喧嘩してまた次の日は何もなかったふうに話ができる。でも俺たちはそんなわけにはいかない。それがきっと大人のルールで、年を重ねるごとに不器用になるのは人間の本質なのかもしれない。
 こんなことを考えるなんて俺も恋愛ウィキペディアを脳にインストールしたあの同僚にだいぶ毒されてるのかもとため息が出た。
 「あらあら、ため息は幸せが逃げるよ。これ基本ね」
 噂をすれば、いや頭の中で思っただけなのに歩く恋愛生き字引は俺の目の前に姿を現した。
 「袋小路には変わりないが状況はまた少し変わったって顔をしてるね」
 人のオーラでも見えてるのかと思うほど毎度毎度と鮮やかに俺の繊細な部分を当ててくることにもあまり驚かなくなってきていた。
 「そうなんだよね……。やっぱりこんなところでは話せるようなことじゃなくてさ」
 「俺はいつだって話くらい聞くさ」
 振り返ることなく右手を上げ行ってしまった。今時そんな別れの挨拶があるのか。トレンディードラマかと俺は再びため息を漏らした。
 「じゃあ、話すよ。これで俺と彼女の物語も全部になる。今から話すことが俺と彼女を別れさせた根っこにある問題」
 十一月。
 それが俺と夏珠が引き裂かれた月。
 夏珠と再会してもずっとこの事件について言及すること、思い出すことを避けていたんだと思う。無意識に記憶の奥底に押し込めていた。
 だが十一月を迎えて街にイルミネーションが灯るように、俺の心のざわつきも大きくなっていった。
 この事件を蒸し返すのは俺も夏珠も精神的にリスクがある。それでも改めてこの事件と向き合ったうえでこれからのことを考えなければいけないんだと思う。
 俺は夏珠とこの事件について振り返る前に今一度記憶を整理しておくべきだと思った。実際はそう思ったというのは言い訳で、結局なんでもいいから他人の客観的な意見が聞きたかっただけだろう。
 俺は再度会社の同僚を飲みの席に連れ回し話を聞いてもらうことにした。

 桜木町はすっかりクリスマスに向けて綺麗に化粧を始めていた。夜が近づき暗くなればなるほどその化粧は映え、街並みは美しく輝くようだった。
 「ベタなデートをしよう」
 夏珠にそう言われて俺がプランニングしたのが、桜木町を中心に一日回ることだった。
 スタートはお昼の中華街。
 例年より少し冬の寒気の流れが早く到達したとかなんとか天気予報士が難しいことを言っていたが、十一月にしてはだいぶ寒い気がした。
 この時期はまだここまで真冬の格好をすることはないと例年の記憶が告げていた。お昼の太陽を全身で浴びても体が温まる気配はいっこうになく、手袋、マフラーなどの小物アイテムも大活躍だった。
 夏珠は完全に真冬モードだ。
 白のニット帽に同じく白のモコモコの手袋。膝上の白のワンピースの上にはネイビーの丈の短いダッフルコートを合わせている。マフラーは柔らかい雰囲気の白に赤のラインがワンポイントに入っている。薄手の黒いストッキングが美脚に見せて全体を大人の印象にしている。靴は明るいブラウン調のちょっぴり厚底のもの。
 トータルコーディネートは大人の雰囲気の中にも可愛さは忘れずにみたいな感じだろうか。俺はその格好に改めて可愛いと思ってしまった。
 寒いのなら可愛さアピールなんてしないでズボンでも履けばいいのにと思うも、よく見せたい一心でオシャレしてくれたんだと思うともう出会い頭にぎゅっと抱きしめたくなる衝動に駆られた。
 「なに? なんか付いてる?」
 長いこと見すぎたみたいだ。夏珠に不審がられた。
 「ううん、ごめん。なんか可愛いなとか思っちゃった……」
 言いながらすごく恥ずかしいことに気づいた。夏珠もいきなりそんなこと言われて嬉しいようだが照れのほうが先行しているみたいだった。
 「行こっ」
 夏珠にぐいっと腕を持っていかれた。そんな日常にとにかく俺は幸せを感じていた。
 休日の中華街は人で溢れていた。俺たちははぐれないようにどちらからともなく自然と手をつないだ。手袋をしたままでもいいのに夏珠は俺のことをしっかり掴んでいたいからとわざわざ片方だけ手袋を外していた。
 ディナーは贅沢しようと決めていた。だから昼はいっぱい食べ歩きすることになった。結果使ったお金は決して安上がりではなく一軒のお店でランチをしたほうが安くすんだけれども、あれこれ回って食べるものはどれも美味しく感じられた。
 中華街でお腹はぼちぼちと膨れていた。運動がてらゆっくりと桜木町まで歩き、映画を見た。
 映画はトム・クルーズ主演の近未来アクションで、ちょっと先の未来が見えて事前に犯罪を防止できるシステムが構築された世界の物語だ。映画では主人公が罠にはめられて犯人扱いされるわけだが、このシステムが完璧なら本当に犯罪が防げてクリーンな社会ができるねなんて感想を述べあった。
 映画の後は遊園地だ。ジェットコースターはかなり寒かった。園内をぐるっと回りゲームセンターでぬいぐるみを取ったり、プリクラを取ったりしてどんどん時間が過ぎていった。
 日が沈むのは早かった。すでに外は暗くなり始め、徐々にイルミネーションも目立ってきていた。それを合図に俺と夏珠は観覧車に乗った。八人くらい乗れそうな大きな観覧車に二人だけで乗るのは贅沢な気がした。こんなに広いのに俺も夏珠もぴったりと寄り添って座っていて、座席はすかすかでおかしかった。
 頂上が近づくと桜木町、横浜の夜景が一望できる。ランドマークタワークイーンズスクエア、みなとみらい。クリスマス仕様の街はとても綺麗でロマンティックな雰囲気は十分だった。
 高校生カップルがすることなんて決まっている。観覧車が頂上に達したその瞬間、俺と夏珠はキスをした。何度もキスはしているのに緊張感を伴いドキドキした。降りるまでの間しばしお互い照れ隠しが大変だった。でもその間ずっと手だけは握り合っていた。
 俺も夏珠もそんな雰囲気にもうお腹いっぱいで、全然空腹を感じることができていなかったためもう少し歩くことにした。ランドマークタワーの展望台に上って見た夜景は、観覧車から見た景色とはまた違って見えた。ここにも家族や友達と何回か来たことはあったはずなのに、夏珠と見ているからか見える景色もいつも見るものと随分違って見えた。
 夜景とガラスにほんのり映る夏珠のコラボは見惚れるほどで、当時からカメラ機能の充実したスマホがあったなら俺は間違いなくその時間を永遠のものと切り抜いたことだろうと思う。
 ディナーはだいぶ背伸びをして赤レンガ倉庫のオシャレなところを選んだ。各テーブルの上には小さな火を灯したろうそくがグラスに入って置かれていて、程よい照明の暗さが大人な感じだった。
 テーブル席、ソファ席のほかにベッドという席もあったが、さすがにそこは刺激が強すぎた。店員さんは勧めてくれたが窓際のソファ席にした。
 年齢確認なんてのは暗黙の了解といったところか、俺は背伸びも背伸びでジントニックを頼んだ。夏珠はノンアルコールカクテルだ。
 お酒の免疫はあまりなくすぐに酔っ払った。気分がふわふわしてただただ楽しく感じられた。
 「遥征くん、大丈夫? そんなカッコつけてお酒なんて飲まなくてもいいんだからね」
 「うん、大丈夫。今すごい幸せ。ずっとこのままだったらって」
 俺は本当にいつまでも夏珠と一緒にいることを願っていたと思う。
 「もうすぐ受験だね。大学で勉強したいこととか決まった?」
 「まだ……。夏珠は保育の道に行くんだよね。やりたいことが明確なのはうらやましい」
 「うーん、私もまだよくわかんないよ。でも子どもが好きなのは間違いないからさ、子どもについて勉強したりしたいなって思うの」
 「すごいよ。俺は何が好きかとかもよくわかんないし」
 「大学で勉強しながらゆっくり見つけていくのでもいいんじゃないかと思うけどな。ま、まず最初に何を勉強したらいいのかってのは問題になってくるけどね」
 「だよね。将来か……サラリーマンでもいいんだけどさ、でも何かなんでもいんだけど小さなお店を持ってみたいな」
 初めて夏珠の前で小さいとはいえ夢を語った気がした。小っ恥ずかしくて夏珠にすら言ってなかったと思う。
 「え? なにそれ、初耳だよ。今までそんなこと一度も言ってなかったのに」
 夏珠は思った通りの反応をしてくれた。
 「うん。なんか恥ずかしくてさ。ちっぽけな夢すぎてかっこ悪いじゃんか。しかも漠然としすぎてるし」
 お酒で顔が熱いのか恥ずかしさで熱いのかよくわからなかった。
 「いいじゃんか。お店。うん、いいよ。やろうよ。私も手伝う」
 こうして将来を語り合って人生設計をしていくのは文化祭の準備をしているときみたいでわくわくな気持ちになった。
 準備してるときってなんでこんなに楽しいのだろう。文化祭当日も楽しいには楽しいが、準備をみんなで頑張っているときのほうがなんでか一段と楽しく感じる。
 夏珠とだったらお祭り本番が来ても当然楽しいんだろうな。心からそう思う。いつもより心の中が感傷的なのはやはりお酒のせいかもしれない。
 聞き慣れない洋楽が妙に心地よい。場の雰囲気にも慣れてきた。
 夏珠は終始笑顔だ。リラックスして食事や会話を楽しんでくれているように見えた。
 「そろそろ行こうか?」
 時間も時間なので会計を済ませて外に出た。
 「あれ? なんだか寒くないね」
 不思議と俺も同じ感想だった。電光表示に今の気温が見えて二人して驚いた。
 「えー、七度。昼間よりぐっと冷え込んでいるよ」
 俺は口にこそ出さなかったが、きっと俺も夏珠も心から温まったんだよと思った。
 「私たち心からラブラブで熱々だからかな?」
 表現の程度の差こそあれ夏珠も俺と似たような発想をしていたかと思うと自然と頬が緩む。
 「なに? バカっぽいとか思ったの?」
 「違う違う。俺も似たようなこと思ってたから」
 俺たちは世間のバカップルも引くぐらい盛り上がってたと思う。
 「行こ。見せたいものがある。有名だからもしかしたら知ってるかもしれないけど」
 俺は夏珠の手を取った。手が温かい人間は心が冷たいなんてことが言われたりするが、夏珠のこの温かい手は心から温かいものが流れてくるからこそだと思う。
 赤レンガ倉庫からほんのちょっぴり遠回りで駅を目指した。
 「ねえ、こっちから行くと何かあるの?」
 その口ぶりからして夏珠はここを知らないようだった。
 「うん。綺麗なものが見える」
 「景色?」
 「うん、もうすぐだから」
 木の橋は夜のせいで妙に無機質に見えて寒々しい。今この辺りで温かいのは俺と夏珠だけじゃないかと思ってしまう。
 右手にはクイーンズスクエアランドマークタワーが光っている。その手前では時計の役割も担っている観覧車が緑色の電飾に彩られ一秒一秒を刻んでいた。
 「ほら、見て」
 緑の光に包まれた観覧車が水面に反射してまったく同じ形のものを映していた。水に浮かんだ逆さ富士ならぬ逆さ観覧車がちょうど波風を立てる邪魔もなく完璧な状態で俺たちの目を奪った。
 「すごい……。これって有名なの? 見たことないし知らなかった」
 「そっか。初めてならより感動もあるね。デートの最後を締めるにはいいと思ってさ」
 寒さも忘れてしばらくの間ずっとぴったりと寄り添いながらその光景を眺めていた。
 「本……に綺……」
 微かな声は周りの音にかき消された。
 「夏珠?」
 「うん? 見惚れちゃうね」
 幸せの絶頂にいるということは、もうあとは下がるしかないということ。
 不意に不安な感情がよぎったのは少しずつ体が冷えてきたことによるためだと信じたかった。
 「ごめん。なんかしんみりしちゃったね。帰ろうか」
 手をつなぎぴったりと体をくっつけたまま歩く。駅まではすぐだが、このまま、ずっとこのままこうやって歩いていたいと思った。
 電車はそんなに混雑してなく座って帰れた。夏珠は疲れたのか座るとすぐに眠りに落ち、頭を俺の肩に預けるかたちで可愛い寝息をたてていた。
 夏珠の最寄り駅までは電車を乗り換える必要があったが、少し歩くけど俺の家の最寄り駅から夏珠の家まで送ることにした。少しでも一緒にいたいと思う気持ちもあるし、夜道一人で帰らせるのも忍びない。
 「遥征くん帰るの遅くなっちゃうよ」
 「そんなの気にしなくていいよ。ぎりぎりまで一緒にいたいし」
 駅の周辺は夜でも明るく人もまだまだ歩いている。それでも駅から離れていくとだんだんと暗く、道行く人の数もほとんどなくなっていった。
 大通りを通っていけば安全なのは確かだったが、二人で歩いているし大丈夫だろうと脇道を入り電灯がまばらな狭く暗い道を俺たちは歩いた。
 観覧車を見ているときに感じていた温もりはその暗さと寒さによってすっかりなくなっていた。歩くたびに踏み出す一歩がはっきりとした音となって聞こえてくる。
 夏珠はさらに俺への密着を強めた。怖いのだろう。
 そのときになって大通りを行けばよかったと思った。今からでも大通りに抜けようかと曲がったところで俺と夏珠はチャラチャラした三人の大人に絡まれた。
 「なんだよ。いらついてんときにいちゃいちゃしやがって」
 理不尽な怒りを買ってしまったらしく行く手を塞がれた。
 酔っ払ってるのか一人かなり足取りがおぼつかないでいる。
 夏珠を守ろうと前に出た瞬間に顔面に強い痛みが走った。あまりに不意すぎて殴られたことがわからなかった。俺は大きく後ろに転がり、目がちかちかした。
 夏珠は二人の男に押さえられて大きな声を出したらどうなるかわかんないぞと安い悪者キャラが言うような文句で脅かされていた。
 俺は夏珠が人質みたいな格好となり思うように動けなかった。それをいいことに男は俺を殴る蹴ると暴行を繰り返した。
 楽しいデートが一転して最悪になってしまった。なにもかもが自分のせいだと思うと自分自身に腹がたった。
 住宅街だというのに休日だからか電気が灯っている家が少ない。騒ぎ立てているわけでもなかったため周辺住民で気がつく人はいなかった。
 「もうこの子だけ連れて行こうぜ」
 二人の男が夏珠をむりやり連れて行こうとした。
 そこで俺の中の何かが弾けた。脳内で変なものが分泌してるのか今まで殴られてた痛みなんか吹っ飛んでいた。
 俺は近くの家の玄関に立てかけてあった金属バットを取り、目の前の男の頭に思い切り振り込んだ。
 鈍い音と夏珠の悲鳴が聞こえた気がしたが、俺は構わずそのまま残りの男たちにも殴りかかった。一人はすぐに仲間を置いて逃げてしまった。もう一人は怒って何か言っていたようだが俺の耳には入らなかった。そいつは倒れて動かない男を心配しながら俺に向かってきたので、俺はもう一度バットを振り抜いた。男の悲鳴が今度ははっきり聞こえた。
 「遥征くん」
 夏珠に掴まれてようやく我に返った。目の前には男二人がうずくまっていて、一人はぴくりとも動かなかった。
 「大丈夫。遥征くんは悪くないよ」
 自分がした事の重大さが理解できた。
 倒れている男は生きているのだろうか。もし死んでいたら。
 俺は夏珠の手を掴んで走った。今すぐその場から逃げたかった。夏珠を守りたいという気持ちよりも恐らく自分自身がただ怖いという感情に負けていたんだと思う。
 どこまでも真っ暗闇な気がした。走っても走っても見えてくるのは見慣れない景色。方向感覚もままならなず、足元すらおぼつかないくらいふらふらだった。
 途中から夏珠のほうが前に出ていたような気がする。俺のほうが夏珠に支えられ引っ張られていたような。
 疲れと痛みと恐怖と……。
 頭がめちゃくちゃで何も考えることができない。
 強い光が俺の目を覆った。真っ白で何も見えなくなり、何もわからなくなった。
 手には夏珠の優しい柔らかい手の感触があるだけで、後のことはもう何も理解できなかった。